以前に私は松前に2度も独り旅をしました。この町の歴史に興味があったのです。古い歴史のある町ですが何故か淋し気な雰囲気の漂う街並みでした。私が撮って来た写真をご覧ください。
1番目の写真は松前城の門と隅櫓です。松前城は火災にあい現在残っているのは門と隅櫓だけです。私はこの門をくぐり中に入りました。中は大きな館の跡の広場があるだけでした。右奥には松前藩の代々の藩主の立派な墓が並んでいました。
2番目の写真は地域活性化された現在の松前の大道路です。観光客が少ない淋しい町でした。多くの観光客は函館から洞爺湖、昭和新山などを経て札幌に行ってしまうのです。
3番目の写真も現在の松前の大道路です。私は松前に2度行きました。2度目に行ったときこの商店街の右奥の山の住宅街を散歩しました。すると犬を連てた奥さんに会いました。彼女が言うのです、「犬を連れないで独りで散歩しているとヒグマが出てきますよ」。松前のある場所はそんな草深い地なのです。
さて松前は北海道の西南の端の部分です。此処だけへは14世紀ころから和人が移住し、後に豊臣秀吉の認可で松前藩が成立します。松前以外の残りの北海道はアイヌ民族が栄えていました。
従って松前の和人はアイヌ人と戦いや和睦をしながら彼等と物々交換の交易をし鮭や昆布を手に入れていました。松前の和人はアイヌ民族と交流しながら生活をしていたのです。
そこで今日は興味深い松前の歴史の断片をご紹介したいと思います。
参考にした文献は松前町の教育委員会が作った「松前歴史物語」(http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/category/120.html ) です。読みやすくするために箇条書きにしました。
(1)古代の松前
北海道に人々が住むようになったのは、今から2~3万年くらい前と考えられていますが、松前町からはこの時代の遺跡はまだ発見されていません。
松前町に人々が定着したのは、今から7~8000年前頃と言われています。北海道の中でも比較的温暖なこと、動植物・魚類が豊富であったと考えられることから、縄文時代以降擦文文化の時代(奈良・平安時代)までの多くの遺跡・貝塚が発見されています。松前町郷土資料館内にはこの頃の竪穴住居の復元模型があります。
(2)中世の松前
松前地方の名が歴史上最初に現れるのは、『続日本紀』の養老四年(720年)の記事に「渡島津軽津(わたりしまつがるつ)」の記述があります。渡島は蝦夷地を指し、津軽津は津軽地方への渡し口である松前付近の地です。
昔は北海道にアイヌ民族だけが住んでいました。しかし14世紀頃から本州の日本人が移住し始めたようです。
松前の様子が歴史上初めて現れるのは、14世紀の『諏訪大明神画詞』のなかの「万堂宇満伊犬(まとうまいぬ)」という地名です。同書によると東北の大海の中央に蝦夷島があり、日の本(ひのもと)・唐子(からこ)・渡党(わたりとう)の三類が居住していたと言われています。
松前町内の地名は、アイヌ語を漢字で表したものが多く、「松前」という語源もアイヌ語にあると考えられています。
(3)義経の渡航伝説
『福山旧事記(ふくやまくじき)』には、文治五年(1189年)源頼朝の奥州攻めに敗れた平泉藤原氏の残党の多くが、蝦夷地に逃れてきたと書かれています。
蝦夷地には義経・弁慶や藤原氏残党にまつわる多くの伝説が残されていますが、これらの人によって流布されたと考えられます。
さらに、鎌倉時代には蝦夷地を流刑地と定め、多くの罪人が流刑されたとあり、この頃から和人の定着者が増えていったものと考えられます。
(4)蝦夷管領、安藤(東)氏と松前
津軽地方では、14世紀ころより安藤氏がこの地方を平定して、北条家(鎌倉幕府)の蝦夷管領としてその領地を広げていました。蝦夷管領の安藤氏は、蝦夷地の支配も任されており、和人居住地の管理と懲役を行うため、大館(字神明)を役所としていたと推定されます。
(5)コシャマインの蜂起
『新羅之記録』によれば、康正二年(1456年)から翌年にかけて、道南地方に居住する和人と、先住のアイヌとの間に大きな戦争が起きました。
この戦いの発端は、箱館(函館)近くで、和人の鍛冶屋がアイヌの人を刺殺したことがきっかけとなっています。しかし、その背景を考えるとアイヌの人たちが居住する平和な島に、侵入定着した和人が増加し、経済的優位を誇って館を構え、武力を持ち横暴を強めることに対して、アイヌの反発が蜂起の原因であると推測されます。
この当時道南地方には和人の12の館(たて)がありましたが、東部の大族長コシャマインを中心とするアイヌの人たちが団結し、これらの館を攻撃しました。各館は次々と落とされ、茂別館(上磯町茂辺地)と花沢館(上ノ国町勝山)のみが残り、和人たちは次々とこの二つの館に逃れました。
(6)松前家の祖、武田信広が後に蛎崎氏と名乗る
コシャマインの蜂起のとき、花沢館にいた武田信広(松前家の祖)がわずかな兵を率いて進撃し、上磯町七重浜付近でコシャマイン父子を倒しました。これによりアイヌは敗れ、松前氏の蝦夷地での発展の基礎が築かれました。
コシャマインとの戦いで武名を上げた信広は、花沢館主の蛎崎季繁の養女(茂別館主 下国家政の娘)と結婚し蛎崎姓を名乗りました。
信広は明応三年(1494年)六四歳で上ノ国に没し、夷王山(いおうざん)に葬られ、松前氏の始祖となりました。
(7)蛎崎氏の台頭とアイヌとの和睦
蛎崎氏にとって最大の悩みはアイヌへの対応でした。アイヌと偽って和睦したり、だまし討ちにしたり、アイヌの人たちの不信を増大させていました。
しかしその後の四世の季広は東西にアイヌの代表を定め、商人から徴収した税を両族長に分け与えました。そして対等の礼を尽くしたのでアイヌとの不信もとけ、しだいに道南和人地は平静になっていきました。
(8)豊臣秀吉の認可で松前藩の成立
蛎崎氏の五世、慶広は策謀家で決断力に富み、外交にたけ、戦国武将としての力も備えていました。文禄二年(1593年)に時の関白豊臣秀吉に肥前名護屋で面会し、蝦夷地支配の朱印状を与えられ、蛎崎氏は蝦夷地の領主として独立しました。
謁見の際に秀吉から拝領したといわれる桐章は松前神社の社宝となっています。
(9)徳川家康からの安堵状で松前藩の確定
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に徳川幕府を開きました。慶長九年(1604年)一月に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得て、北海道南端に日本最北の藩の松前藩が成立しました。しかしながら、領内に米の生産がなく、明確な大名格付けはされていなく、幕府の『武鑑』のなかでは、大名の最末席に位置づけされ、一万石以上家に準ずる待遇を受けていました
(10)北のシルクロード
アイヌの人たちが交易で得ためずらしい品物には、黒竜江(アムール川)付近から伝わった中国の衣服や絹織物などがありました。この美しい絹織物は「蝦夷錦」または「山丹錦」といわれ、赤や青地の布に竜や竜頭、牡丹などの紋様が織り込まれています。
蝦夷錦は松前藩の独占交易品として、幕府などへの進物品に使われました。五世藩主慶広が、豊臣秀吉に謁見するため肥前名護屋を訪れたとき、徳川家康の望みに応じ着ていた蝦夷錦の胴服を家康に献上したという話が残っています。
遠く中国の江南地方で生産された絹織物は、様々な民族の手を通して松前へと渡ってきたのです。
(11)蝦夷地のキリシタンと殉教
豊臣秀吉が天下を治めた天正一三年(1585年)頃には、全国のキリシタン宗徒は70万人に達していたと言われています。慶長一八年(1613年)キリシタン宗教の禁教令が発せられ、翌年から京都を中心に宗徒の迫害が行われます。棄教に応じない者は津軽へ流刑され、そのうち津軽藩でもキリシタン弾圧が厳しくなりました。東北地方の大飢饉のため元和三年(1617年)には、3~5万人の砂金掘りが蝦夷地へ渡ったと言われていますが、ほとんどの宗徒が砂金掘りの労働者となって蝦夷地の金山に潜み住むことになりました。
松前藩の七世の藩主公広(きんひろ)も幕府の命により寛永一六年(1639年)、ついに金山のキリシタン宗徒を大量処刑しました。大沢金山では50人、石崎では6人、千軒金山では50人をこの年に処刑しました。
現在では、千軒金山番所跡と思われるところに慰霊碑があり、殉教者へのせめてもの祈りとなっています。大千軒岳登山コースにキリシタン殉教碑もあります。毎年7月最終の日曜日には巡礼ミサが行われています。
(12)近江商人と北前船交易による松前藩の繁栄
1600年頃、近江(滋賀県)商人がたくさん松前に来て、出店を開き繁盛しました。松前の産物(にしん・こんぶ・干しあわび)を京都や大坂などの市場で売りさばき、帰りには呉服物・米・味噌・醤油・漁具など百貨を松前に運んで商いしました。
近江商人は団結して両浜組という組織を作り、藩と直接交渉ができました。藩の重臣と密接な関係を結び、藩に必要な物資を調達するだけではなく、重臣の私生活面での経済的な面倒まで見ていました。必然的に近江商人と藩権力とのただならぬ関係を招き、移出入品税に関する一部免除などの特権を得、実に大きな力を発揮するのです。
(13)ロシアの脅威で松前藩の衰微
ロシアの南下に対する関心が世情で盛り上がり、寛政四年(1792年)にはロシア使節ラックスマンが根室に来たりしました。松前藩だけの力では蝦夷地の防衛は至難であると考えた江戸幕府は、段階的に松前藩から領地を召し上げ、津軽藩・南部藩・仙台藩などに出兵を求め、警備と開拓を図り領土の保全を図ろうとしたのです。
江戸幕府は文化四年(1807年)蝦夷地、唐太(からふと)とその属島を全てを日本の領土にしました。そして松前藩は九千石の小藩に降格させ福島県伊達市に移封させられました。家臣の半数を浪人させて、苦痛の生活を強いられました。
(14)ゴローウニン事件で苦労する江戸幕府
幕府が北方警備を強化している中、文化八年(1811年)千島列島などの測量を命ぜられたロシア軍艦ディアナ号が国後島沖にやって来ました。
国後に上陸したゴローウニンら八人はたちまち捕らえられ、船に残った副艦長リコルドは南部藩と砲撃戦を行いましたが、オホーツクへ引き返しました。
ゴローウニンらは松前に連行され、取り調べを受け、捕虜として抑留されたのです。翌年には脱走を試みますが、失敗に終わり再びとらわれの身になっています。
文化九年九月リコルド副艦長の指揮するディアナ号は箱館に入港し、ついにゴローウニンらは高田屋嘉兵衛と交換、釈放されました。
この後しばらくの間、北方は平穏になりました。
(15)箱館戦争と松前藩と旧幕府軍の戦いと松前城の落城
幕府海軍副総裁の榎本武揚率いる軍艦開陽以下七隻が仙台湾に停泊し、会津から逃れてきた諸隊と土方歳三とが」合流しました。
明治元年(1868)十月、旧幕府軍は箱館を攻め、五稜郭を占領、松前攻撃に移ります。海から十一月一日に軍艦蟠龍が松前湾から松前城を砲撃しています。陸からは土方歳三率いる陸戦隊七百名が知内、福島と占領し、十一月五日松前に入り激戦の末松前城東方を占領しました。
土方歳三率いる陸戦隊は松前城の門を開き突撃し白兵戦となりました。
焼失前の松前城天守閣には多くの刀傷が残っており、激戦の様子がうかがえました。兵力の差でついに松前城は落城し、敗れた藩兵は市街・寺町の各所に火を放ち、夕方には藩主のいる館城へと敗走しました。
この攻防戦の戦火によって城下町の三分の二までが焼失し、これを契機に松前の町は退潮の一途をたどることになります。
以上が松前の興味深い歴史の断片です。日本の地方地方にはいろいろな歴史がありますが松前ほど興味深い歴史はありません。それは蝦夷地という辺境の土地にあったからです。アイヌ民族と抗争と和睦が繰り返されました。そして幕末にロシアが南下して来ると江戸幕府は無慈悲にも松前藩を取り潰したのです。
この松前町は北海道の西南端にあります。静かな小さな町です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)