1981年2月ヨハネ・パウロII世、ローマ法王は日本の殉教者をとむらうために長崎まで来て、浦上天主堂でミサをした。写真はその時の浦上天主堂でのパウロII世である。本人はこれを巡礼の旅とも言っていた。
その次の年、私は中国の瀋陽市の天主堂で現地の人々のミサへ出席した。外側は煉瓦作りの立派な教会だが、内側には大きな落書きや、破壊の跡がなまなましく残っている。椅子も撤去されていて床板があちこちで剥がれている。満員の中国人信者がその床に膝まづいていて祈っている。毛沢東政府の文化大革命の間、徹底的に弾圧、破壊されたのだ。勿論キリスト教だけではないが。
1982年当時は信者は皆人民服を着ている。ミサの後、背広姿の小生を取り囲んで、何処から来た?何しに来た?と少し話合いをした。連れて行ってくれた東北工学院の金応培教授の通訳で。(写真の出典:http://www1.odn.ne.jp/uracathe/kyoukou.htm)
「ヨハネ・パウロII世が巡礼の旅と称して日本へ来たことを知っていますか?」と聞いて見た。全員が大声で、知っている!と答える。「中国の天主教(カトリック)が何故ローマ法王傘下の組織にならないのですか?」、皆んなの顔が氷のようになり誰も声を出さない。帰路、金応培教授の説明を聞く。全員、即刻、ローマ法王傘下に戻りたいのだが中国政府が厳しい条件を要求しているという。「台湾のカトリック教会を破門にすれば中国全土の天主教をローマへ返す政策」をとっているのだ。ローマ法王は理由もなしに台湾を絶対に破門はしない。それから30年近く経ったが現在でも中国の天主教はローマ法王とは関係なく中国内で布教に努めている。あくまでも北京の中央政府に従順に、その全ての政策に協力しながら。
中国人のキリスト教へ対する態度は明や清の時代から変わっていない。政権にとって利用出来るなら布教を許可するという原則が脈々と続いている。16世紀にイエズス会の有名な神父のマッテオ・リッチ師は明王朝の高位高官の地位についた。リッチ師は利瑪竇(りまとう)という中国名を使用し、中国服を着て中国人に同化し、中国文化を尊敬し明王朝へ仕えた。
マッテオ・リッチ師は頭脳明晰で徳の高い人格者であった。ローマへ送った数多くの書簡は日本の平凡社の東洋文庫から出版されている。私の尊敬している人々のうちの一人です。小生がカトリックの洗礼を受けたのはマッテオ・リッチ師に少し手を引かれたためのような気がしています。
今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。 藤山杜人