後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

餓えた子供を救う具体的な方法(2)何故ODAは外国の貧困層を救わないのか?

2009年03月12日 | うんちく・小ネタ

日本政府は2007年に7800億円のOfficial Development Assistance (ODA)を開発途上国の為に提供した。それが相手国の貧困層の救済に使われていないという。貧困層を救うのは現地へ人を派遣している人道的なボランティア団体と考えられている。

ODAを使って、中国の河北省、保定市に「技術移転センター」を作る努力を2年間した経験がある。結果は失敗に終わった。1995年頃の個人的な狭い体験なので、ODAの全体像の批判にはならないが、この体験で得た感じ方も交えて簡単に記す。その折会った人々は、北京にある日本大使館の一等書記官、東京の大商社のODA担当者、渋谷にあったJICA本部の中国担当者、ある重工大手会社の顧問をしていた有名な元在中国大使などであった。これらの方々は中国奥地の貧しい農民の救済へ関心が無かった。日本のODAはそのような目的では運用されていないのです。その理由を思いつくままに以下に記します。

(1)ODAの予算は外務省にあるだけでなく、19省庁に分散してあり、省庁は自分の組織の権益拡大に役に立つように使用する。自分の権限だけ拡大しようとする日本の官僚制の縮図がODA運用に出てくる。

(2)日本のODAの総額は世界でもトップクラスながら、多くの割合が相手国の土木建設を日本の大手ゼネコンが請け負うという条件で支払われている(タイド援助)。日本の大手ゼネコンの利潤の為に使われているので、相手国の貧困層の救済にならない。

(3)海外の大型土木工事はODA専門のある大きなコンサルティングが相手国首脳と相談しながら決める。それをゼネコンや日本政府の19の省庁へ繋ぎ、調整をするのは日本の大手商社である。

(4)JICA職員の良心的、献身的働きを抜きにすれば、ODAに関与する人々は自分の権益拡大と利潤追及を目的としているので、相手国の貧困層は視野に入らない。

(5)政治家はODAで利潤を得た会社からの政治献金を期待してる。

以上は大雑把過ぎますが、当たらずといえども遠からずと思います。読者の方々のご意見を頂ければ幸いです。(続く)


春、趣味の散歩のいろいろ(3)「お鷹の道」ー尾張徳川家の鷹狩場へご案内します

2009年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム

1760年頃、武蔵のくに、国分寺村が尾張徳川家の鷹狩場に指定されました。鷹狩りのときの通路が「お鷹の道」として再現、整備されています。現在の国分寺の裏山の裾に湧き出る泉の水を集めた清流が道沿いに流れています。小魚やホタルの幼虫が住んでいます。周辺は江戸時代を彷彿させる風景が広がっています。

歩いて行く道順に、12枚の写真をお送りします。江戸時代の様子をご想像しながら、散策する気分になって、お楽しみ下さい。昨日の午後、独り散策しながら撮った写真です。人々は、生まれて、死んで、を繰り返します。しかし亭亭と聳えるケヤキの大木や泉の水の流れは変わりません。

新宿駅からJR中央線に乗って35分、西国分寺駅下車、南方向へ1Kmくらい歩いたところにあります。国分寺駅下車でも同じくらいの距離ですが、道が複雑で分かり難いです。(http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/ka/25kei/kankou/001.htm にある地図を印刷して是非お持ち下さい)。

今日も皆さまのご健康と平和をお祈りいたします。   藤山杜人

O_033 O_049

O_024

O_025_2 O_030 O_034 O_036 O_043 O_045 O_053 O_058 O_062


餓えた子供を救う具体的な方法(1)信頼できる団体へ近づこう

2009年03月11日 | うんちく・小ネタ

コンビニやスーパーで毎日廃棄処分される食品が勿体ない。きっと多くの人々もそのように考えていると思います。

そこで「餓えている子供達を救うための具体的な方法」を考えてみたいと思います。

日本政府が飢餓状態を完全には解決していない発展途上国へ毎年多額のODAを贈っています。このODAの金額は2007年度には7800億円です。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスに次いで第五位の金額です。この様な大きなお金が、何故飢餓の解決にならないのでしょう?

ODAでは相手国の鉄道、道路、橋などの建設に使われ、日本のゼネコンが請負い、お金は日本へ持ち帰られます。ゼネコンは日本の政治家へ献金します。その上相手国の権力者の懐に入ります。ですからODAは政治権力者の為になるお金です。絶対に餓えた子供達のところへ行かないお金です。

そこで飢餓線上にある人々を救う具体的な方法を考えてみましょう。

子供達を直接救う活動を現地でしているボランティア団体へ少し現金を上げるのが一番具体的な方法です。貴方が、1000円のお金をある団体へ上げた場合を考えてみます。例えば、その内の500円をボランティア団体が取って、働いている人々の給料にしたとします。貴方が上げた1000円の残りの500円を食料に変え、ジンバブエやフィリッピンや南米のボリビアへ送る事務手続きをする人の給料です。現地で食糧を受け取って、田舎の餓えた子供達へ持っていく現地従業員の給料も必要です。ですから貴方が上げた1000円の内、本当に現地の子供達の口に入る金額はボランティア団体のコスト管理体制の良し悪しによって大きく変わります。

勿論、御自分でアフリカまで行って、少しでも食糧を子供達へ手渡すのが一番確実な方法です。貴方の愛情も直接贈ることが出来るとても良い方法です。しかし、その方法を止めて、旅費をボランティア団体へ寄附したほうが多くの食糧を送れるという考えもあるのです。

そこで信頼できるボランティア団体を探すのが良いと思います。

私が以前その本部を訪問して、感銘を受けた団体をご紹介します。「日本国際ボランティアセンター」です。本部はJR御徒町から歩いて行きました。詳しくは、

http://www.ngo-jvc.net/jp/aboutjvc/supporter.html をご覧下さい。

このHPの中で、特に財務諸表にご注意頂きたいと思います。

もう一つご紹介したい団体は、カリタス ジャパンです。詳しい情報は、http://www.caritas.jp

に御座います。カトリック中央協議会が運営する国際的なボランティア団体です。全世界の現地へ人を派遣して、餓えた子供たちを直接支援しています。

この2つの団体の年間収入はほぼ同じで3億円程度です。日本のODAの7800億円に比べると微々たる金額です。しかし餓えた人々へ直接的な支援をしています。野球に例えれば、ODAは大きな空振りで、ボランティア活動は確実に打点につながったバントのようなものです。

具体的な手順を書いて終わりにします。

(1)インターネットで色々なボランティア団体をしらべ、自分の好みに合った信頼できる団体を決めます。特に財務表や年度決算書を公開しているか否かを見ましょう。

(2)インターネット送金か封筒にそのまま入れて1000円位の寄附をしてみます。お礼状か領収書は来たら「信頼できる団体」です。

(3)信頼出来るようなら子供にも貯金を勧め、100円、200円でも送るようにします。食料の缶詰めや瓶詰めを添えるのも楽しいのですが、現金が良いのです。

(4)以前のブログ記事で神社やお寺に行ったら、5円でも30円でも必ずお賽銭を入れることの重要性を指摘しました。海外の子供たちを助けるのは、お賽銭の延長なのです。

たたし神社のお賽銭より多くしたほうが良いような気もします。ボランティア団体の現地の職員の給料も含めるのですから。(続く)


春、趣味の散歩のいろいろ(2)丸池、ほたる池、しょうぶ池ー野川公園

2009年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

都会地でもその気になって探すといろいろ自然豊かな所があります。これから東京近郊の、「隠れた見どころ」のある散歩道をご紹介いたします。何回、連載が続くかは散歩同様、気の向くままですので途中で止まってもお許し下さい。今回は都立野川公園で検索すると所在地や交通アクセス案内のある公園をご紹介いたします。下の写真は上から順に、小白鷺のいる野川、丸池、ほたる池、しょうぶ池の写真です。6月になるとホタルが楽しめます。昨日の夕方、家内が撮った写真です。暖かい風が吹いていましたが、夜のとばりが忍び寄ってくる感じがしました。うすい緑が見える柳の並木もまもなく豊な緑になりそうです。春は確実に近づいて来ています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。    藤山杜人

030 035 037 040


春、趣味の散歩のいろいろ(1)三つの散歩コース

2009年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

歩くのはあまり好きでないが、つい春の陽に誘われて毎日のように散歩に出る。住宅街なので見るのは主に家家が多い。古い家、新しい家のたたずまいに時代を感じながら、庭の花々から住んでいる人の好みなどを想像しながら歩く。

しかし散歩道は3種類に分けている。3つの散歩道はそれぞれ目的が違い、その日の気分で選んでいる。古くて大きな家々の間をゆっくり歩きながら広い畑へ出る道。野菜スタンドもある。その次は裏の神社を通り、鬱蒼とした植木の間の暗い細い道。そして3番目は勤め人が歩いて駅へ行く道。小さな商店街へつながっているので店店を見物してから帰る。昼に行くときは家内と蕎麦などの食事をする。ある時は急に足を鍛えようと思い立って、国分寺まで1時間も歩いたりする。(そんなことで足は丈夫にならない。老化するばかりだが)

車で1、2時間走ってから、歩きまわる散歩道もいくつかある。神代植物園と深大寺、平林寺裏の雑木林、奥多摩の御岳橋の下から川沿いに上流方向へ続く遊歩道、小金井公園・野川公園・武蔵野公園などの公園、国分寺跡とそれに続くお鷹の道などなど。

散歩をしながら、若く日々が輝いていたころ、家族と一緒に行った旅の追憶などを楽しむ。でもそんな日々は返ってこない。追憶は悲しい思いで終わのであまりしない。むしろこれから遊ぶ趣味の計画をあれやこれやと考える。このほうが明るい気分になる。春になったらヨットに泊まろう。夕食の料理はあれを作ろう。思い切ってシャンパンも買いたい。山林の小屋の庭に泉を掘って、美味い水を汲んで見よう。などと他愛のないことを考えながら歩く。

歩きながら、昔の南ドイツでの散歩をよく思い出す。黒い針葉樹の森の中の雪道を、白い息をはきながらドイツ人が歩いている。真面目な顔をして歩いている。男性はネクタイに黒いコート、女性は裾の長いスカート。正装してゆっくり歩く。これをシュパツェーレンと称し、ドイツ人が「良い趣味」として誇りにしているのだ。ドイツの文化の一部として大切にしている。私も家族と一緒に厳寒の黒い森(シュバルツ バルト)をよく歩いた。そのことを職場のドイツ人に話すと、喜んでくれる。「貴方もドイツ人と同じ趣味なのですね」、と。シュパツエーレンとは特別な響きを持った言葉なのだ。

最後にとって置きの散歩道をご紹介したい。ヨットの係留地の回りの岩壁を巡る散歩道。

住宅地やマンションに囲まれた水辺なので近所の人々が良く散歩している。気取って言えば水ぬるむ水辺を逍遥しているのだ。係留岩壁は出入り自由。格好の散歩道になっている。その岩壁は土浦駅東口のそばなので通勤の人々も歩いている。なにかホッとしたような気分で歩いている。そんな散歩道も好きなので、私も散歩をする。風が強すぎてヨットを出せない日は必ず散歩をする。そんな散歩道の風景写真を4枚掲載します。

さて皆様はどのような散歩道を歩いていらっしゃるのでしょうか?

今日も皆さまのご健康と平和をお祈り致します。      藤山杜人

3_036 3_042 3_024 3_047


教養としてのキリスト教(5)具体的にはどんなことを信じるのですか?

2009年03月09日 | うんちく・小ネタ

宗教があるために世界で戦争が絶えません。鰯の頭も信心からとも言います。だから宗教なんか無いほうが良いのです。そう言う人々が多いのも事実です。そういう方々も尊敬しています。ところが一方で、この「教養としてのキリスト教」(1)、(2)、(3)、(4)へ好意的なコメントを下さる方々もいらっしゃいます。宗教を信じたり、重要と考えたりするのは全くの個人の自由です。私はカトリックですが、イスラム教でも仏教でも宗教を信じている人々に親近感があります。

今回は、カトリックの信者は、具体的に何をどのように信じているのか?と、いう問題を分かりやすく書いてみたいと思います。知識としてご紹介しているだけで、信じて下さいというお願いをしているわけでは有りません。そのような気持ちは毛頭ありません。

信仰の宣言の言葉です:

天地の創造主、全能の、神である父を信じます。

父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、

死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じます。

聖霊を信じ、聖いなる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、

永遠の命を信じます。(終わり)

上の信仰宣言は洗礼の時も、日曜日毎のカトリックのミサの時にも、必ず声を出して唱える文章です。科学的には信じられない部分も多いのですが、具体的に、そして平易に説明すると以下のようになります。

全宇宙を創った、全知、全能の一人の神様の存在を信じています。

この神様のただ一人の子供であるキリストは、処女であったマリアから生まれました。

「苦しみを受けて葬られ」という句は次の一連の事件を圧縮して表現したものです。

成人したキリストは、後に新約聖書になったような新しい内容の信仰を人々に勧めました。その結果、反対派の律法学者の一群によって捕えられ、ローマ総督のピラトの裁判にかけられました。そして磔の刑を受けて、屍は横穴に葬られました。この流れが、「苦しみを受けて葬られ」という句の意味です。

ところが死んだ筈のイエスが3日後に、起き上がり歩いて立ち去りました。そして弟子たちの前に現れた後に、天に上がって、神様の右の座に座っています。そのようなイエス様の存在を信じています。

神聖な霊、ローマ法王傘下の全ての教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、自分の死後に体が復活し生き返ることを信じています。従って自分の命も永遠の命なのだと信じています。

(終わり)

荒唐無稽だ。バカバカしいと無視するより、これを信じようとしている人が世界中に何億人といる事実を考慮に入れるほうが、人間を理解する上で重要なことではないでしょうか?

最後に簡単なコメントを追加します。

最初の一行は、イスラム教もユダヤ教も同じです。キリストの誕生のくだりからキリスト教独自の内容になります。カトリックでは肉体の復活を非常に重要視しますが、プロテスタント諸派は重要視しない宗派が多いです。プロテスタント諸派は科学的に不合理な部分はなるべく重要視しない傾向があります。しかし科学的合理性と宗教の信仰はまったく別世界のものです。それを一緒にしようとすれば矛盾も起きますし、宗教的な深遠さも無くなります。

仏教の教えも科学的合理性が無いからこそ魅力的な宗教なのだと思います。密教や修験道の奥深さもその神秘性によっているのではないかと思います。(続く)


春を告げる くぎ煮

2009年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム

ああ、本当に春がくるのだなあ。と、深くうなずくことに「くぎ煮」の到来があります。関東地方で梅の咲くころはまだ寒くて、本当に春がくるのか心もとないのです。梅が散って、庭の水盤が凍らなくなり、金魚が動きだします。その頃、毎年、神戸の友人から「くぎ煮」が届きます。

友人の母親が瀬戸内海の明石沖でとれ始めた、まだ小さい「いかなご」を丁寧に煮上げたものです。ショウガと煮たものとサンショと煮たものと2種類届きます。ショウユとサトウが多すぎず、しっとりとした上品な味です。作っている方も品の良い方なのだろうとしのばせる味です。

今年のくぎ煮の写真を示します。サンショ味とショウガ味です。

2_002

この友人は鈴木裕さんといいます。知り合ったいきさつや、お仕事の内容は昨年1月31日のこのブログの記事でご紹介しました。導入部の一部を以下に再掲載して置きます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りしています。    藤山杜人

===========鈴木裕さんの紹介記事==============

ブログとベンチャー企業の隆盛(4)ブログの有効的役割

今回はブログを上手に使うとベンチャー企業が成功しますという一例をご紹介します。神戸に住み技術士事務所を開業している鈴木裕氏です。

日産自動車から数年前にスピンアウトして事務所を開設したベンチャー起業家です。ものづくり産業とサービス産業の経営者へマーケティング戦略と技術問題解決の助言をする事務所です。

筆者がある役所に依頼されベンチャー起業促進の手伝いをしていたころ彼と一夕お酒を共にしました。数年前の名古屋の夜の街でした。

「何故ニッサンを辞めて独立するのですか?」「自分らしい人生を送りたいためです」「自分らしい人生とは?」「国際自動車競技ライセンスを持った日本で唯一の技術士です。その趣味を広げ多くの人へラリーの面白さを広げたいのです」

実に明朗闊達で、情熱にあふれる黒い目が印象的でした。

筆者とは親子ほど歳が違うがすぐに友人になりました。それ以来折りにふれて付き合いを重ねてきました。最近ブログを始めたので、彼に「ブログとベンチャー企業の隆盛」について記事執筆を依頼したところ、すぐに原稿がきました。鈴木氏へ感謝しつつ、下記に、原稿をそのまま掲載します。なお彼のブログのURLは;http://blog.suzukiyutaka.com です。

(以下省略)


教養としてのキリスト教(4)残酷な旧約、優しい新約

2009年03月08日 | インポート

教養としてのキリスト教(4)残酷な旧約、優しい新約

旧約聖書には残酷な場面が多いです。創世記のなかで神は残酷な命令をアブラハムへ与えます。

―――神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」―――アブラハムが神に従う決心をして、山に登り、刃物を持って息子を殺そうとします。しかし天使に止められ、神はアブラハムの信仰心に満足する。

このように旧約聖書の神は怖い神です。それに対してキリストの教えを書いた新約聖書の神は全ての人々を愛しています。残酷な命令をしません。人々も神を愛しなさい。人々もお互いに愛し合いなさいと教えています。「汝の敵を愛せ。」とも教えています。

キリスト教では旧約聖書と新約聖書の両方を大切にし、日曜日のミサや礼拝では両方のある部分を朗読します。その部分はお互いに関連した部分です。旧役が問題提起をして新約が解答するような場合もあります。旧と新が呼応するようになっている場合がおおいのです。日本では新約聖書のみを、少し重要視しがちな傾向があるようです。

さて、それはそれとして仏教のお釈迦様は残酷でしょうか?すべての人間に優しいでしょうか?どちらかと言えば後者と思います。でもその優しさは愛ではありません。

慈悲の心で全ての人間へ接して下さいます。人間の愚かさを悲しみながら、慈しんでくださるのです。しかしお釈迦さまは厳しさもお持ちと考えたほうが良いと思っています。以上は、神学者でもなくインド哲学も勉強したこともない私の言うことです。間違っているかも知れません。しかし私個人はこの様に考えてカトリックのミサへ出席しています。今日は日曜日。今日のミサで朗読された「創世記」のアブラハムへの残酷な命令の部分を用いて、旧約聖書と新約聖書の違いをご説明して見ました。(続く)


広々した湖岸に遊ぶ白鳥達 

2009年03月08日 | 写真

3_057 3_059 3_074 3_075 3_076

3_077_2 3_079 3_081

撮影場所:茨城県霞が浦西岸、国民宿舎「水郷」の西の湖岸、

撮影日時:3月7日午後2時頃、  撮影者:Mrs.藤山 (終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。         藤山杜人


趣味が隠れた才能を表す、そして不思議な縁

2009年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム

趣味で描いている絵や文章を見て、「あ、これは隠れた才能が表に出てきたのだ!」と感ずることがしばしばあります。「めいこ」さんが「80歳の生活」というブログで発表している文章と特殊な絵です。書いている主題は日常の家庭生活と昔の思い出だけです。社会時評も文化論のようなものは一切ありません。文章を読むと、これこそが大人の読む童話だと感動します。ほのぼのとした、メルヘンチックな文章で身の回りのことや想い出を飾り気なしで書いています。この方には人間の善意しか見えないのだ。そうか人間はこんなに素晴らしいものなのだ。いくら年をとってもこの素晴らしさは老化しない。いきいきと輝いた日々を送っている。肉体は老化するが精神は老化しない。自分もそのように生きよう。見る度に元気の出る文章です。それに挿絵のようについた絵が暖かい雰囲気を出しています。決して切り紙を貼った絵ではありませんが、山下清さんの絵に一脈通じるような才能です。上手に見せようとしていません。でもデッサンがきちんとしていて、色彩が明るく、優しいのです。

めいこさんのブログは昨年もご紹介しました。しかし、またご紹介したくなり転載のお許しを頂きました。ついでにご自分の父の思い出の一文を読み、不思議な縁で自分と繋がっていることが分かりました。お父上はビタミンの研究で有名な鈴木梅太郎氏のお弟子さんでした。その後輩が家内の父です。めいこ様のお父上より後の弟子だったようです。敗戦後、食品会社に勤めた経緯も似ていますし、お人柄も何か似ています。義父の引退後は、よく一緒にドライブなどをして遊びまわりました。たまに鈴木梅太郎氏ことを話してくれたことを思い出しました。ま、それだけの話ですが、ブログで分かった不思議なご縁です。以下に最近のめいこ様の一文と絵をご紹介します。戦前の昭和初期の日本にもこんな平和な楽しい家庭生活があったのです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。      藤山杜人

========「めいこ」さんの2009年1月の絵と文章============

Osanaikoro1

「幼い頃」
 物心のついた頃、私は池袋の西口の家にいた。道路の反対側には鉄道教習所の広いグランドがあり、父母と姉そして新潟から来て家事を手伝っている女中さん「きみや」がいた。
私はきみやに負ぶわれてねんねこの中でぬくぬくとしていた感触は今でも覚えている気がする。私がねんねこから半分顔をだしている白黒の小さい写真があったせいかもしれない。小学三年生の頃田舎に行くと、このきみやが自分の子どもを連れて会いにきたが、何だか懐かしくて涙が出て困った。
 この家には新潟県の親類の大学生が二人下宿していた。一人はなんの愛想もなかったが、もう一人の滝沢という学生は私が部屋に顔を出すと部屋の中に招きいれ、女の子や花の絵を描いて遊んでくれた。肩に乗せて外を散歩したり、たまには屋台の風車を買って持たせてくれたりして可愛がってくれた。ある日其のつもりでその部屋に顔をだすと、何だか様子が変な気がしたが、それから暫くして彼は田舎に帰っていった。後で聞くと鬱病のようなものにかかったらしい。
秋になると鉄道教習所のグランドでは、大運動会があった。その前になると練習も盛んで「教習所の運動会は・・・ドンガラガッカドン,ドンガラガッカドン、ドンガラガッカドンドン」という、歌と太鼓の混じった景気のいい応援歌が毎日のように聞こえてくる。これはすぐに覚えて、今でも何かの拍子に其の節まわしが私の中に出てくる。
小学校に上がる一年前、目白駅に近い家に引っ越した。私は目白駅そばにある川村女学院附属の幼稚園に入った。袴姿の保母さんが数人いたので、顔の可愛い人にあこがれたが、そうでない人の方が親切だった。この幼稚園では、心に残っていることとして二つが浮かでくる。
幼稚園は、校長の母親であるお祖母さん先生が園長をしていた。ある時園の入口にある飾り棚に、藤の大きな盆栽が置いてあった。藤の紫の花がびっしりと垂れ下がり、丁度満開となっている。とても綺麗で立派だと思って、眺めていると、鉢を見つけた男の子の一人が先ず一つの房をもぎ取った。其れを見た男の子が次々と手を伸ばし、房をもいだ。忽ち藤は丸裸になってしまった。花は下に散らばっている。
これはとても悪いことなのではないか、と幹だけになった藤の盆栽を見て心配していると、其処に園長さんが来られた。何を言われるかと眺めていると「あらまあ」とあきれた顔で苦笑いをされただけだった。家に帰って早速母に報告した。
もう一つ、ある時講堂で其の頃名前の通ったピアニストが二人来て音楽会があった。女学校の生徒や父兄も集まる。幼稚園には男女二人の花束贈呈の役が回ってきた。母が役員をしていたせいか、女は私が選ばれ、オレンジ色の新しい洋服を買って貰った。当日、本番前に舞台で練習をした。
当日、女性のピアノ演奏が終わり、舞台袖で待機していた私は保母さんに背中を押されて舞台に出て行った。舞台の中央まで行ったのに、ピアニストは全然気がつかず、何か用事をしていて、どうしてもピアノから立ち上がらない。仕方なく舞台中央で立ち止まって彼女を眺めていた。
注意され、やっと気がついたピアニストが慌てて、こちらに走って来たので、花束を渡した。舞台袖に戻った時、「良く泣かなかったね」とか「偉かったね」と褒められたが、どうして泣くのか、偉いのか、どう考えても言われた意味が解からなかった。
 この家には田舎のお祖父さんが訪ねてきた。お祖父さんが自分の持ってきた山芋で料理をするのを家族全員、周りを囲んで見ていた情景が浮かぶ。
日本を訪れたドイツのツエッペリン飛行船が右から左にゆっくり空を横切るのを家族で道路に出て眺めた。(終わり)

原文と絵は、http://hyoutannjima.hp.infoseek.co.jp/ に御座います。


フォトアルバム「山林の中の小屋」へ写真を追加しました

2009年03月06日 | 写真

3_037

3月5日朝10時過ぎに山林の中の小屋に着きました。午前中は薪ストーブを焚いて、窓の外をボンヤリ眺めながらオペラ音楽を聴いて過ごしました。午後には飲み水用の水汲場を小川の支流に作りました。向かいの丘の下から湧き出る泉の水なので美味でした。家に持ち帰り夜にも飲みました。やわらかい、甘いような味の水です。新しい水汲場の写真も含めて5枚の写真をフォトアルバムへ追加しました。(終わり)


また雨の日々、元気の出る写真をお送りします

2009年03月06日 | 写真

3_015

昨日は雨続きの日々の合間の晴天でした。カメラを持って中央高速を走りぬけ、甲府盆地の東、西のあちこちから雪山の写真を撮ってきました。盆地の東側の勝沼、一宮、御坂、境川などからは、高さ3000メートル級の南アルプス主峰連山が雄大に広がっているのが見えます。

写真の左から、農鳥岳、間の岳、北岳です。アプローチが長く、夏でも簡単には登れません。3_019

甲府盆地からよく見える南アルプスは鳳凰三山の薬師岳、観音岳、地蔵岳です。この写真は韮崎市の山際から撮ったもので左が観音岳、右が地蔵岳で薬師岳は入っていません。

3_020

いつも甲斐駒岳を撮るときはすぐ麓の武川や横手から撮影しますが、昨日は韮崎の岡の上から遠景を撮って見ました。

3_024

甲府盆地の南半分からよく見える八ヶ岳も山梨県が誇りにしている山です。複雑な形をした火山で長い裾を引いています。麓には清里、甲斐大泉、小淵沢などの避暑地がひろがり、欧米の宣教師が開いたハイカラな避暑地です。

如何でしたでしょうか? 雪を頂いた山山の風景写真を見て、元気が出たと信じています。

今日も、皆さまのご健康と平和をお祈り致します。       藤山杜人


教養としてのキリスト教(3)神父様、牧師様、住職様の比較

2009年03月05日 | うんちく・小ネタ

014 

どの宗教にも宗派があり、その宗派の布教や維持、発展のため職業的に働いている人々が居ます。三つだけ例を上げるとカトリックの神父様、プロテスタントの牧師様、そして仏教のお寺の住職様です。この3者の生活を比較するとキリスト教の実際的な知識が理解出来ます。一般的に何でも比較することによって理解が容易になり、深くなるものです。従って、「日本のカトリック、プロテスタントなどのキリスト教」と「日本の仏教」の違いも深く理解できると思います。

(1)結婚するか、しないか?

カトリックでは神父も修道士もシスターも一生絶対に結婚しません。する場合は職を辞します。一方プロテスタント系諸派は正式に結婚し健全な家庭を作るのが普通です。そのような宗派が大部分です。

仏教のお寺の住職は法的には結婚していますが、妻という呼び名でなく大黒さんというような別名で呼び、表向きは結婚していないことになっています。住職が死ねば、お寺の代々の住職専用の墓地に建てた特別な形の墓へ入ります。大黒さんは一緒には埋葬されないで、実家の一家代々の墓へ入るのが普通です。

(2)任期と世襲制度の有無は?

カトリックの神父がある教会の主任司祭に任命された場合、任期は決まっていません。しかし大体、6、7年で交替し、他の教会へ転勤になります。教会と付随する財産は主任司祭のものでなくバチカン国の支配下にあります。転勤の命令もバチカンから出るという建前です。これに対して多くのプロテスタント諸派の教会は信者団体が管理運営します。従って牧師の任免も信者団体が行う場合が多いです。一方、お寺の住職は世襲制で、お寺や付属する墓地や財産は住職の自由になる場合が多いです。

(3)神父、牧師、住職の役割の違いは?

カトリックの教会では毎日、早朝か夕方にミサ(礼拝)があり、主任司祭はその司会と説教をします。その他、聖書講座を主宰したり日曜学校の運営をしたり日常は激務です。しかし主任司祭にとって一番重要なことは一般信者より圧倒的に信仰が強いことです。信者はそこに注目しています。

プロテスタントの牧師も激務ですが、礼拝式は日曜日だけの諸派が多いです。

牧師と一般信者の間には上下関係はありません。

住職の一番重要な役目は檀家のお葬式を引き受けて司式することです。戒名を与えて遺族の悲しみを和らげるために読経をし、説教をします。しかし檀家の人々をお寺へ招いて、日曜日毎に一緒にお釈迦さまを礼拝し、祈ることはしません。むしろ檀家の先祖代々の御墓の維持管理を丁寧に行います。

以上の比較をみると三者それぞれ長所短所があります。どのような視点から長所短所を判断するかよって結論は変わります。いずれ、その問題を考えたいと思います。

(続く)


悲しい自分の狭量さ、狭い視野 

2009年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム

029

私がいかに狭量で、狭い視野でしかものごとを見ていないかという恥ずかしい話をします。

上の写真はモーターボートですね。自分が嫌いなものです。ヨットとまったく違い、騒々しい音を立てるものです。なるべくなら見たくありません。この気持は狭量としか言いようがありません。

では何故写真を撮ったのでしょう?自分が嫌いでも好きな人が多いので、ブログに掲載するために写したのです。つまり自分の狭量さを直そうとしたのです。でも好きになれません。

東京都の夢の島マリーナへは何度も行きました。家から一番近い「ヨットの見える所」だからです。ところが、先日マリーナの反対側をはじめて見ました。愕然としました。反対側には巨大なユーカリの木が亭亭と茂る広大な林があるではありませんか!以前一本のユーカリの大木の写真をブログへ出して得意に思っていた自分が恥ずかしくなりました。ヨットしか見ない、見たくないという狭量さで、文字通り視野がひどく狭かったのです。

044 041

そこで、マリーナの裏の石段を登って、広い「都立夢の島公園」を散策してみました。

まず驚くことは大きな温室があり熱帯植物が繁茂しているのです。この様な温室は新宿御苑、神代植物園、八丈島植物公園などで見ましたが、夢の島のものが圧倒的に大きいようです。

048

更に歩いて行くと贅沢に出来た屋内競技場がいくつもあります。芝生の広場もあります。レストランや売店、そして広い駐車場も完備しています。自分の視野が狭かったが故にこれらの素晴らしい公園を知らなかったのです。訪問したのは平日の午前中だったので人影の少ない静かな公園でした。南側にある東京湾から新鮮な空気が吹き込んでいました。

人間は自分の好きなものにしか関心がない!ああ、これが争いの種なのだと考えながら車でレインボーブリッジを渡って帰ってきました。帰宅後、地図で調べ改めて驚きました。

マリーナの位置を公園の東側と思い込んでいたのです。実際はJR湾岸線の新木場駅の北側に夢の島があり、島の北側にマリーナ、そのすぐ南側に熱帯植物館、その西に芝生の広場があります。東京スポーツ文化館という大きな屋内スポーツ館は公園の東側にあります。駐車場への道は明治通りに面していて、湾岸自動車道と明治通りの交差点近くにあります。

東京湾は新木場駅を越えた南側にひろがっています。荒川の河口が公園の東にあり、マリーナを出た船はまず荒川に出て、南へ下り、東京湾へ出ます。

鳥瞰図はやはり重要だと今更ながら感じ入りました。ブログへ色々な記事を書いて来ました。なるべく広い視野で書こう。寛大な気持ちで書こう。と、努力して来ました。でもその努力もまだまだと深く感じました。今後も一層努力しなければならない。そんな事を考えさせる「夢の島公園」の散策でした。(終わり)


「失意のニクソン氏、そして極秘の周恩来氏の追悼会のこと」

2009年03月04日 | 日記・エッセイ・コラム

1990年頃、成田空港で到着便の出口で出て来る知人を待っていた。そこへアメリカの元大統領ニクソン氏がトボトボと独りで歩いて出て来た。言葉を交わしたわけではない。会ったというより見たというのが正確な言い方だ。護衛の者も新聞記者も居ない。死人のような青ざめた顔で、危なげに歩いている。あまりにも暗い雰囲気なので他の乗客は近づかない。ニクソンの前後には寒々とした空間だけが一緒に歩いている。私は、「失脚しても貴方は良いこともいっぱいしましたよ」と考えて見つめていた。気配を感じたのか顔を回して私を不思議そうに見て通り過ぎていった。私の好意的な表情で少しだけ彼の顔が和らいだ。一瞬の出来事だが忘れられない一シーンであった。
周恩来とニクソンが米中国交回復の道を作ったのはベトナム戦争の終わりであった。

中国政府は恩義を忘れない。周恩来の死後も、ニクソン氏を中国へ賓客として招待してきたと、その日の夕刊に出ていた。この記事を読んで、一層中国人が好きになった。

私が中国人を好きになったのは次の体験による。

中国の首相、周恩来が死んだ後、数年間、中央政府は公式行事以外の一切の私的な追悼会や集会を禁止した。たまたま北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言います。1981年、はじめて中国へ集中講義に行った折のことです。

 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大学の地下室でした。明るい照明が付いた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られている。数人の出席者が追悼の詩のようなものを朗読している。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。

外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。中国人の人情の厚さに感動しました。失脚した元大統領のニクソン氏の胸に、何時までも変わらない中国人の気持ちが力強く響き続けたに違いありません。

周恩来氏の死んだのは1976年、ニクソン氏が死んだのは1994年。
共産主義者の周恩来とクエーカー教徒のニクソンが、恩讐の彼方のあの世で、酒を飲みながらどんな話をしているのだろう。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。      藤山杜人