愛という言葉は明治維新後の欧米の文学作品の翻訳に頻繁に用いられるようになったのです。勿論、江戸時代以前にも愛という言葉は存在していましたが、頻繁には用いられませんでした。
ですから愛とは翻訳文学に現れた中国語から来た人造語なのです。昔は男女がお互いに、いとしいと思い、好きになり、恋焦がれると表現していました。しかし明治以後は恋愛と称するようになったのです。そして男女が愛し合えば幸せな結婚生活が続くと言うようになったのです。
ですから愛という人造語の狭い意味は男女間の「恋いこがれる思い」を意味します。
ところがキリスト教の聖書を翻訳するときこの人造語の愛という語を使ってしまったのです。そしてキリスト教は愛の宗教だと言い出したのです。
冗談ではありません。そんな誤訳をしたので、日本人が非常に違和感を持ってキリスト教を見るようになったのです。
私は新約聖書の中に「愛」という言葉が出て来る度に、それを「大切にする」と言う言葉に置き換えて読んでいました。そうすると前後の文章が自然につながり意味が明快に分かるのです。例えば「隣人を愛せよ」という言葉は「隣人を大切にせよ!隣人を尊敬せよ」と読むのです。その事は12月に掲載した記事、キリスト教と仏教の楽しい交流と融和・・・対立より愛を に書いてあります。
ところで、昨日、山浦さんの聖書のケセン語訳の本を読んでいたら私の勝手な訳し方と全く同じことが書いてあったのです。昨日の記事は、明治維新後の翻訳文化の根本的な間違い・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳ーを絶賛する! です。
山浦さんによると、愛は古代ギリシャ語のアガパオーの訳です。その言葉を直訳すると「大切にする」です。このことは山浦玄嗣著「イエスの言葉」の115ページに明快に書いてあるのです。
この「大切にする」をケセン語に訳せれば「大事にする」となるのです。
聖書のなかで日本人が一番不思議に思う言葉は、「汝の敵を愛せよ」という言葉です。
これを山浦さんはケセン語で、「かだぎ(敵)だってどごまでも でアじ(大事)にしつづげろ(続げろ)」と翻訳しているのです。
敵を憎いと思うのは自然な感情です。イエス様はそのことを禁じているのではありません。しかし憎くても、あいつも人間だと大切に思いなさいと言っているのです。
上杉謙信が武田信玄へ塩を送った行為が「敵を大切に思った」行為なのです。上杉謙信は武田信玄を憎んでいたのは当然です。厭な奴こそ大切にする人は尊敬に値いするのです。
山浦さんは正式に公認された日本語の聖書の権威を認めていないようです。そんな俗世間の権威などイエス様や神様の偉さの前にはチリのようなものです。
今日は、山浦さんの本を読みながらフランス文学者の村松剛さんが書いた「教養としてのキリスト教」(講談社現代新書、初版1965年)も読んでいました。博学です。ものすごいインテリです。キリスト教の歴史から、ヨーロッパ文化に与えた影響まで体系的によく整理して書いてあります。優れた本です。
とても面白い事に気がつきました。村松さんは「あくまでも教養としてのキリスト教」を書いたのです。山浦さんは「あくまでも自分の、そしてキセン人の信仰の対称としてのキリスト教」を書いたのです。人それぞれどちらが好きでも結構です。ただこの違いの分かる人になって貰いたいと祈っています。そうすれば日本人のキリスト教へ対する考えが変わってくると、私は信じています。
皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。(終り)
昨夜から再び雪が降りだしました。雪が降るとはしゃぐ家内が庭に飛び出して写真を撮ります。その様子をみると不思議な人と結婚したと思います。そして結婚以来51年のいろいろを思い返します。ついでにもう少し深く結婚とは何か考えてみました。
少し理屈っぽいことを書くつもりなので、その前に庭の雪の写真をお楽しみ下さい。
・上は夜の雪の風景で、下は朝日に輝く軒先のつららです。
結婚とは何でしょうかと問えば、あなたは明快に答えられますか?
人さまざま。結婚生活の長さ。離婚の経験の有無。子供や孫の有無。答えは人によって様々です。全ての人が納得する答えが無いのが自然です。
しかし「結婚とは何か?」という疑問を私は時々考えます。考えると妻への感謝の気持ちが湧いてきます。そして妻との性格の違いや育ちの違いの大きさにあらためて驚きます。
妻は楽天的で優しい性格で家庭内のこまごましたことをそつなく解決してしまいます。料理も上手です。スケートや乗馬が好きで60歳になるまでしていました。野球や相撲の番組を熱心に見ています。急に大声を上げて応援するのでビックリしてしまいます。
私は反対に運動音痴でスポーツは一切興味がありません。しかし25年間、ヨットの趣味を続けました。でもヨットの趣味は風や波と遊ぶ自然志向の趣味で、スポーツとは考えませんでした。
妻は掃除はよくしますが整理整頓が出来ません。私は整理整頓が得意です。
本はよく読みますが源氏物語のようなあいまいな表現の物語や小説、詩歌が好きです。はっきり言えば論理的に理解するのでなく感情で理解します。国際政治や経済問題には関心がありません。
私は間接表現の小説は大嫌いです。比較文化人類学や国際関係に関する本が好きです。
妻は子供や孫を可愛がりますが、少し度が過ぎるように見えます。
育った家庭や環境が私とはあまりにも違います。ですから外国人と結婚したような気がします。
結論を言えば、「私は結婚生活に成功しました」。その最大の原因は自分とあまりにも違う性格の人と一緒になったからです。あまりにも育ちの違う人と一緒になったからです。同じ日本人同士ですが、ときどき外国人と結婚したような感じがします。
しかし幸せな結婚の条件は上に書いたことではありません。それが証拠に性格の相違や相性の悪さで離婚する人が多いのです。
万人に共通な幸せな結婚の秘訣や条件は存在しないと考えた方が良いと思っています。人間の浅知恵では分からないというのが本当です。
たった一つ絶対の真理があります。それは相手に対する感謝の気持ちを持ち続ける事です。それさえあれば四六時中、「愛しているよ」などと歯の浮くような台詞を言う必要なんてありません。でも時々は言いましょう。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
私はアメリカへ留学してから外国語は日本語へ翻訳出来ないと信じています。一つの外国語にピッタリ当てはまる一つの日本語が存在しない場合があまりにも多いことに気づいたからです。
その上に翻訳文そのものが日本語として理解困難な場合が多いのです。
たとえ一対一にぴったり対応する言葉があっても、訳者が必要以上に難しい漢語や学術用語を使い過ぎるから翻訳文が分かりにくなるのです。
分かりにくい言葉を使うと学術論文の権威が上がるという唾棄すべき風潮が存在していたのです。欧米からの翻訳は「解体新書」のような学術文から始まったので例外ではありません。
したがって欧米語からの翻訳文にはやたら難しい漢語や抽象的な表現が多く、その意味を理解することは大変なのです。
その一例がキリスト教の聖書なのです。私はカトリック信者ですが、正直に言えば聖書にはわけの分からない個所があまりにも多いのです。ですから私は聖書を理解していません。文語体から口語体になっても同じことです。
この私の頭をガンと金属製のバットで殴ってくれたのが、山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳(文藝出版社、初版2011年12月20)という本なのです。本好きの家内が書評欄で見つけ取り寄せて読み、感動して私にも読むように薦めました。読み始めてみると止められずグングン惹き込まれていきます。
まず、山浦玄嗣さんは本物のクリスチャンだと感動します。しかしこの本はキリスト教に無関心な人々が読んでも衝撃的な面白さを感じるはずです。
宗教と関係なく日本人の翻訳文化の陥穽を明快に指摘しているのです。外国のことは何でも知っている、理解していると信じ切っている人々へ重大な問題を提起しています。そしてこの本はこの問題を乗り越える方法も教えているのです。
この記事の表題は、「明治維新後の翻訳文化の根本的な間違い・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳ーを絶賛する!」としました。その理由はキリスト教に関心の無い方々に是非読んで頂きたかったからです。
内容を説明します。聖書に「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文があります。意味不明で有名な箇所です。私も気分的には分かったような感じですが、こんなあいまいな文章があちこちにある聖書なので困っていました。そこを山浦さんは以下のようにケセン語で訳しています:「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ア幸せだ。神さまの懐に抱(だ)がさんのアその人達だ。」
このような訳文なら私にもストンと分かります。聖書の書かれた古ギリシャ語を正確に翻訳すると、心貧しい人は・・・頼りなぐ、望みなぐ、心細い人・・・となるのです。
山浦さんは原語の「プネウマ」にぴったり対応する日本語が存在しないことに気がつき、「頼りなぐ、望みなぐ、心細い」という3つの言葉で説明しています。これこそが正しい翻訳の姿勢なのです。
日本にある聖書は古ギリシャ語から英語やフランス語へ翻訳された二次資料を翻訳したから、わけがわからなくなった場所があちこちに出来てしまったという指摘に感心し、納得します。
こういう説明が沢山書いてあります。それを見ると山浦さんも私のような凡俗な信者も理解出来ないところは同じ所なのだと安心します。
ケセン語とは岩手県の大船渡市、高田市、宮城県の気仙沼市のある地方で昔から用いられていた方言です。アイヌ語の影響を受けた独特な東北弁です。
山浦さんの偉い所はまず25年間かけてこの気仙地方の方言のケセン語を集大成してキセン語辞典を完成したのです。そしてその後で聖書の原文の古ギリシャ語を勉強して、その原文の意味をケセン語に翻訳して完成したのです。
さて山浦さんのことをご紹介します。1940年生まれのお医者さんです。東北大学の医学部を優秀な成績で卒業しながら大船渡市の一介の開業医になります。
ケセン語を体系的に整理し辞典を作ったり、古ギリシャ語を独学でマスターしました。聖書の研究も普通の神学者を超えています。要するにピカピカの秀才なのです。このようにご紹介すると冷たい学問肌の医者のように思われます。
しかし彼は本当に温かい人柄なのです。愛情あふれる人なのです。この本を読むと彼のやさしさが溢れ、流れ出てくるのです。読みやすい文章です。
彼の病院は大船渡市にありました。3月11日の大津波は病院の一階を泥海にし、残ったものはガレキの山でした。幸い2階は無事だったので救援に来たボランティアの寝泊まりする場所に提供したのです。その山浦さんの文章を以下に引用させて頂きます。
「あの恐ろしい大津波の後、変わり果てた瓦礫の野に立ち、外界との連絡も全くとだええて、涙を流すことさえも忘れてて呆然と立ちすくんでいたとき、私は本当に「頼りなく望みなく心細い人」だったと思います。そんな私がはじめて涙を流したのは、まっさきに駆けつけて、遺体の捜索に、瓦礫の撤去に泥だらけになって黙々と働いている自衛隊員の姿を見たときでした。あの感謝の感動を私は忘れることが出来ません。そして全国から、いえ世界中から、たくさんの助っ人が続々と大船渡にやって来ました。カナダやアメリカから駆けつけて、せっせと泥さらいをしている青年達の姿に、何度泣かされたことか。それはすばらしい涙でした。嬉しい幸せの涙でした。こんなにたくさんの人々がわたしたちのことを心配して、わたしたちのために駆けつけて、わたしたちのことを大事にして、黙々と働いてくださっている。こんなに人さまから大事にされたことが、東北人にはあったのであろうかとさえ思いました。・・・」。そして大船渡市の人々が、言葉の通じない外国からのボランティアの人々へ飲みものや食べ物を手渡す美しい情景が書いてあるのです。
私もこの引用文を打ち込みながら涙が流れています。山浦さんのやさしさに打たれているのです。この本に関することは続編でも書き続けるつもりです。
今回はこの辺で失礼いたします。お読み頂きまして本当に有難う御座いました。(続く)
アメリカが主になってNATO加盟国がイランの核兵器開発に対抗して経済制裁を強化しています。日本のイランからの原油輸入も大幅に削減するようにアメリカ政府が要求しています。
これに対してイランはペルシャ湾口のホルムズ海峡封鎖を宣言し、その可能性が出て来ました。アメリカ政府がイランが海峡封鎖に着手したら一挙にイラン海軍を攻撃し封鎖を解くと宣言しています。それと同時にイスラエル空軍はイラン国内の核兵器開発工場を爆撃するでしょう。イラン人は狂気になるのです。
いよいよ、アメリカは宿敵イランを軍事的に占領する口実が出来たのです。アメリカ軍は対岸のアラブ首長国連合に軍事基地を有し、更に隣のアフガニスタンにも軍事基地が展開しています。ペルシャ湾の海上戦が勃発すればアフガニスタンから空軍がテヘランを爆撃するでしょう。その上、ペルシャ湾近辺にはアメリカ空母が2隻も展開しているのです。
客観的に考えればイランが負けることが明白な戦争を始める訳がありません。
しかし真珠湾攻撃をして第二次大戦を始めた当時の日本の海軍は日本が負けると知っていたのです。知っていても真珠湾攻撃に同意し、実行に踏み切ったのです。
イランの恐さはその政治がイスラム原理主義にもとづいて行われていることです。欧米の合理的な考えが通用しないのです。
イランは戦争を望んでいないと日本人は楽観視しています。戦争回避の外交努力をしているという報道がありません。たとえホルムズ海峡が封鎖されても1ケ月くらいでアメリカ軍がイラン海軍を撃破してくれると思って原油の備蓄だけを頼りにしている様子です。
日本政府はイランがホルムズ海峡を封鎖しないような外交努力をもっと積極的に展開すべきと思います。少なくとも私は日本の態度はあまりにも日和見主義的で情けないと感じている今日、この頃です。
もう少し危機感を持つようにとの思いで、下にイラン軍の軍備の写真を示します。出典は、イランの軍事力:写真特集http://www.jiji.com/jc/d4?p=iri104&d=d4_mili です。
皆様はいかがなご意見でしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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(写真はハノイのあるホテル。第二次大戦まではフランスの植民地だったベトナムにはフランス風の建物が残っている。写真の出典:http://dsurpass.blog123.fc2.com/blog-entry-143.html )
第二次大戦が始まる前、ベトナムはフランスの植民地でした。「仏領インドシナ」と呼んでいました。ドイツがフランスを一挙に占領したので、その軍事同盟国の日本は仏領インドシナを軍事的に占領しました。真珠湾攻撃の前のことです。日本がアメリカと戦争を始める前に仏領インドシナは占領してしまっていたのです。
第二次大戦後、日本兵の多くはベトナムの独立戦争に参加し、グエン・ザップ将軍の兵隊として、フランス軍を破ぶることに貢献したのです。その日本兵に私は直接お会いして体験談を詳しく聞いたことがありました。
そして1966年から10年間に渡って激しいベトナム戦争が続いたのです。
ソ連と中国の支援を受けた北ベトナムとアメリカ軍や韓国軍が血みどろの地上戦を繰り広げたのです。アメリカの戦死者は5万人以上でした。
このベトナム戦争は日本人の考え方に大きな影響を与えました。事実上の敗戦でサイゴンを撤収したアメリカはその敗北の故に人々の考え方が大きく変化するのです。
キング牧師の公民権運動とベトナム戦争での黒人兵の大活躍とが結びついて、黒人差別が急速に消えて行ったのです。
多くのベトナム復員兵がアメリカの社会生活に適用出来ず森の中に独り住みます。あの豊かな白人のみによる古き良き時代のアメリカ社会が瓦壊してしまったのです。
日本人にとってベトナム戦争は複雑な思いで考えざるを得ません。日本を徹底的に空襲したアメリカが負けたのです。日本の「かたき」を北ベトナムがとってくれたのです。公には言えませんでしたが多くの日本人は溜飲が下がったのも事実です。
しかしその一方で、戦後、自由と民主社会を作ってくれて、恐ろしい冷戦中のソ連から日本を守ってくれたのはアメリカです。日本人はアメリカへ深く感謝しています。心底から感謝しています。
事情をもっと複雑にしたのはベトナム全土を占領し、南北を統一したのは共産党独裁政権だったのです。
権力を握った共産党はやがて中国系ベトナム人を弾圧しはじめたのです。あらゆる宗教関係者を弾圧したのです。それは過酷な弾圧でした。
その結果、弾圧を受けた人々がボートピープルとなって南の海上に逃げたのです。アメリカや西ドイツが救助船を出してボートピープルを拾ったのです。この時、日本は救助船を派遣しませんでした。ボートピープルに強く同情していた私は、日本政府の非人道的な態度にひどく悩みました。日本政府を軽蔑しました。
このようにベトナムと日本の間にはいろいろな事があったのです。
私のベトナムへ対する感情は複雑で、矛盾しています。その矛盾した感情を幾つかの記事にして、このブログに掲載しました。下の3編がその例です。
外国体験のいろいろ(4)ホンダバイクの奔流―サイゴン
外国体験のいろいろ(5) 温顔の将校ホーチーミン
このようなベトナムからボート難民として死線を越えてきた神学生が日本のカトリックの白柳枢機卿の支援で神父様になったのです。
現在のカトリック小金井教会のヨセフ・ディン主任司祭さまなのです。
2010年11月7日に正式に小金井教会の主任司祭になられた時、私は以下のような記事を書きました。
201年11月7日のカトリック小金井教会のミサは、岡田大司教様の司式でディン新主任司祭様の着任を祝いながら行われました。
山本量太郎主任司祭さまがほぼ10年の任務の後、しばらく後任の主任司祭様が決まらなかったので、一層嬉しいミサになりました。
ゴ・クアン・ディン神父さまはベトナム戦争による難民として日本へ来られたそうです。白柳大司教様の支援とご指導で、日本でカトリックの神父様になった方です。神父様になってもう20年近くなり、日本語もとてもお上手です。そのような方が小金井の教会に着任され信者一同嬉しくて、大歓迎の様子でした。上にその写真を示しました。
話はいきなり飛びます。(このブログではしばしば話が飛びますのでお許し下さい)
1976年にベトナム戦争が終わってから、多くの難民が船にに乗って海に逃れました。アメリカと西ドイツなどの欧米の民間団体がベトナム沖に船をだして難民を助けました。
その頃、オハイオの大学のR教授と共同研究をしていて、彼の家に泊ったことがあります。R教授は日本人がベトナム難民を沖で助ける船を出していないことを激しく非難するのです。日本人は人道的でないと言います。ドイツ出身の奥様も西ドイツでは客船を出していますと非難に加わります。R教授夫妻はベトナム難民を数人自宅に引き取り、就職が決まるまで生活の支援をしたそうです。
私は日本人として恥ずかしくなりました。そして人道的でないという罪悪感を持ったのです。それ以来、「日本人はヒョットして人道的でないのではないか?」という罪悪感を持っていたのです。
今日はその私の罪悪感が少し消えました。嬉しいのです。20年以上前に日本の難民キャンプからディン青年を引き取り、支援した故白柳大司教様に感謝しています。ディン青年は難民になる前にベトナムで神学生だったそうです。その経歴を生かすようにした日本のお役人の関係者も偉かったと思います。
とても個人的な事を書いてしまいました。日本人を誇りに思える日でしたのでお許し下さい。そしてディン神父さまの輝かしいご活躍をお祈り申し上げます。
====記事の終り=======
この記事以来、ヨセフ・ディン神父さまは小金井教会の信者の世話を熱心にして来ました。お葬式や結婚式や七五三や成人式のようなことも丁寧にしてくれています。
神父は一度故郷を出ると古里へは帰りません。いつもイエス様と一緒ですから寂しくないのです。その信仰の強さが我々信者の心のよりどころなのです。しかし本当は郷里のベトナムの昔の思い出の話を私は聞きたいのです。
今日もヨセフ・ディン神父様のミサにあずかって来ました。私のお葬式もディン神父様へお願いしたいと思っています。
今日は日曜日なので久しぶりにキリスト教関係の記事を書きました。(終り)
さるびあ丸は排水量約5000トン、1000馬力エンジン2基の貨客船です。
このさるびあ丸には右舷に2つ、左舷に2つ、合計4つのプライベートデッキ付きの特等客室があります。
上の写真は特等2人部屋の様子です。写真には写っていませんが左にもう一つのベットとその上には前部の窓が付いています。奥に水洗トイレとシャワー室があります。右の写真はプライベートデッキに出て、出入り口のドアの写真を撮ったものです。
さるびあ丸は豪華客船では有りません。特等船室といっても質素に出来ています。しかし部屋を海側へ出ると個人用のデッキがあるという設計には夢があります。このデッキを見て、船旅が途端に楽しくなります。
ビール缶が空になるころに横浜のみなと未来の大観覧車の電飾が見えてきます。出港後約1時間です。飲んでいると観音埼の灯台の強烈な点滅が見えてきます。出港後約2時間後です。下の3枚の写真はウイスキーの小瓶のグラスの写真とくるくる回る夜景の写真2枚です。
観音埼の灯台を過ぎても浦賀、久里浜、三浦三崎の灯が遠くにかすんで見えます。
屋外に居ても寒くありません。幸い20ノットで走る船と同じ方向へ20ノットの風が吹いているようです。船室へ入ってベットで眠りました。明朝は八丈島へ着くのです。
・
朝、明るくなったのですぐに起床しました。船のデッキへ出ると南方向に上の大きな写真のように左に東山(三原山)、右に八丈富士が連なる八丈島が横たわっています。その右(西方向)の海上の八丈小島が見えます。船は北から近づいています。右が西、左が東です。島には北側に底土港と南側には八重根港の二つがあり風向きによって着岸する港を選んでいます。今日は北側の底土港に着岸します。
今回のイタリア豪華客船の座礁、横転事故で、約4200人もの乗客と乗員が救命ボートで助け出されました。幸いにも港が近かった上、完全に横転するまでにかなり時間があり救命ボートにほぼ全員が乗り移れたのです。しかし11人の死者と21人の行方不明者が出てしまいました。
「救命ボート」を検索すると大小さまざまな種類のボートが写真付きで紹介してあります。そこで大型客船の両側の舷側に吊り下げてある救命ボートの写真を下に示します。
上は日本の豪華客船、「飛鳥」の写真です。そして下は北欧の豪華客船の写真です。
救命ボートの操作は船員がします。しかしその船員が操作方法を知らない場合もあります。今回もあるボートではそんな事態があり、乗客が操作したという報告もありました。
乗客は自分の部屋番号によって乗る救命ボートが決まっています。避難訓練が必ずあり、部屋の救命胴衣を身につけて自分の乗るボートまで迅速に駆けつける訓練をします。そうすると担当の船員が、ボートへの乗り方や海面への降ろし方を説明します。上の写真のように完全密閉式の覆いがついていて乗船口が小さいのです。はたして混乱状態で無事乗り込めるのかが心配になります。乗り込んだ後は船員が船の上から遠隔操作でクレーンのワイヤを伸ばして海面におろします。エンジンを始動させてからフックを外します。その後は急いで本船から離れます。
救命ボートには食料、水、蒸留機、通信機、発煙信号機、GPSなどが積んであり、1週間位の漂流には耐えられます。
上の写真の救命ボートの定員は40名から50名のように見えますが、すし詰めにすると100人近く乗れるそうです。
今回の座礁事故は港が近かったので救命ボートが船と何度か往復して乗客を救ったと報道されています。それが幸運でした。
尚、今回の事故では船が傾いたために、左舷の救命ボートが海へ降ろせず、使うことが出来ませんでした。しかし豪華客船の救命ボートはそのような事態に備えて片方の舷側に吊り下げた救命ボートだけで乗客・乗員の総数を収容出来るようになっているのです。それが国際的な原則です。
荒れる海の上で、傾いた暗い船上で救命ボートに定員通り乗せることは至難のことです。定員まで乗船する前に見切り発車してしまうのは仕方のないことです。
そんな事をいろいろ想像してみると今回の船員による救命ボートの操作は見事だったと思います。一部の船員が操作方法を知らなかったとしても総括的にはよく働いたと感心しています。
しかし30人以上の犠牲者が出たことは残念です。
犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。(終り)
11万トン、乗客・乗員4230人の豪華客船が座礁し、横転し、11人が死亡し、21人が行方不明になりました。13日の夜9時頃大きな岩にぶつかり、エンジンルームへ浸水し、左舷に見える岸辺に向けて少し航行しましたが、再び座礁し、右舷を下にして横転しました。幸い乗客の大部分は船員が懸命に操縦する救命ボートで近くの港へ運ばれ助かったのです。
乗客や船員がすべて船を離れてから下船すべきイタリア人船長が先に降りてしまい、救助活動の指揮を放棄していたのです。無責任極まりない船長の行動にマスコミは厳しい非難をしています。
さてその後いろいろな写真が発表されて座礁後の経過が少し分かって来ました。以下に順序良く考えてみたいと思います。
まず下の写真は初めの岩礁との衝突で左舷側の後方の船体が大きな岩を抱え込んでしまった様子を示しています。事故後、12時間以上経過した次の日の写真ですが、まず何が起きたか理解するために非常に重要な写真です。なお以下に示す写真の出典は、http://donicchi.jp.msn.com/special/2012/Jan/article.aspx とhttp://matome.naver.jp/odai/2132698380940755001 です。
このように完全に横転するまでには何時間もかかるのが普通です。下の写真は座礁後、まだ少ししか傾いていない夜間の船の様子です。
ここで注目すべきは右舷側に吊り下げてある5隻の救命ボートです。大きなボートで、すしずめにすれば100人近く乗れます。水密の屋根が完全に覆っていて、エンジンがついています。船員がクレーンを操作して、デッキと同じ高さにして、乗客を収容し、海面に降ろします。エンジンをかけて近くの港へ直行しました。
まだ船が傾いていない時間です。乗客が救命ボートが降りてくるデッキに集まっています。船がまだ水平なので緊張はしていますがパニックにはなっていません。
どの救命ボートに乗るかは客室番号によって決まっています。豪華客船ではお客も全員、自分の乗るべき救命ボートのあるデッキへ素早く集合する非難訓練を受けます。自室の救命胴衣を着て集まる訓練を受けます。
しかし時間の経過とともに傾きが増して、まだ暗いうちに完全に横転してしまいました。ここで注意すべきは左舷側に吊り下がっていた救命ボートが海面まで降り切れずに船体の上にひっかって役に立っていない状態です。この状態は下の写真でもっと鮮明に写っています。
左舷側の上に4隻の黄色の救命ボートが引っかかっている状態が良く見えます。
私が何を主張したいか?豪華客船の救命ボートは乗客の総数を収容するに十分な数を積んでいます。これはタイタニック号の大事故以後に決められた大原則です。しかし船が急速に傾いてしまえば片側の救命ボートを海面に降ろせなくなくなってしまうのです。ですからこそ船長の迅速な総員退避の命令が一番重要になるのです。その船長が総員退避の指揮をとらずに自分だけ迅速に逃げてしまったのです。
今回の事故では右舷側に積んでいた半分の救命ボートだけで4200人の乗客・乗員を助けたのです。幸い港が近かったので救命ボートが何度も往復出来たのです。下に活躍した救命ボートの写真を示します。
その救命ボートを懸命に操縦したのが船員だったのです。船長さんはそれを眺めていたのです。陸上の救助隊長が船長に船に戻って避難作業の指揮をとれと言ったそうです。しかし船長は戻りませんでした。
船には事故がつきものです。不幸な悲劇が起きます。水の上に出る以上は覚悟すべきです。しかし今回の事故は後味が良くありません。(続く)
大島へは何度か船で行きましたが、いつも岡田港か元町港に着き、そこから下の写真のような三原山に登るバスに乗りました。いわゆる標準観光ルートです。
しかし停年後に別の大島を発見する旅に出たのです。
少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていました。
島の娘が波浮港を出て行く船の艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は二度と帰らない、、、。
そんな悲しい歌なので忘れられません。2006年に仕事を一切止めて、あちこちへ旅をすることにしました。
大島の波浮の港へ独り旅をして見よう、と思い立ちます。長い長い間、歌だけで知っていた波浮の港へ行く事にしたのです。
まだ寒い3月5日の朝、竹橋桟橋から船に乗ると、高速船なので昼前に大島に着きます。
観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談します。対応してくれた若い女が。「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。
少年の頃の感傷で行きますとも言えず赤面してしまいました。それでも国民宿舎のような宿をとってくれました。バスで行き、宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。
港へ降りて行って地魚の寿司を食べようと思うがタクシーがありません。宿の人が電話をすると寿司屋の人が迎えに来てくれるよと言います。60歳くらいの元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。
気さくでいろいろ話してくれるのですが乱暴な運転なので怖い思いをしました。曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけ営業している寿司店に着きます。
地魚の島寿司を頼みます。ご存知ですか?「島寿司」を?あれはいけません。
活きの良い地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。
甘い魚の寿司です。泣きたくなりましたが、ビールの酔いのお陰で元気になり、店の中を観察することにしました。2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。
客の一組が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。寿司屋の一家は明るく、地元の人々に好かれているようです。
見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。
現在は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。
そして島では火山灰の土地で、米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。
気分を引き立てるため地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。味が貧乏臭く、普通には食べるものではない代物です。救荒食とはこんなものかも知れないと考え込んでしまいました。少年の頃聞いた歌で、島の娘の悲しい歌が実感として体で感じられるのです。店の主人は、娘達が出稼ぎに行ってしまい、島へは二度と帰って来なかったと言います。
主人へ亀の爪は不味いとも言えず、「結構おつな味ですね」と言います。ニコリとして、主人が、「そうでしょう!昔は毎日のように食べたものです」と答えます。
酔い醒ましに、暗い港通を散歩すると、店も居酒屋もすっかり寂れ、閉まったままです。真っ暗な通りには淋しげな波音だけが響いています。
通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。
まだ3月の始めで、寒い夜風が吹く抜けて行きます。昔は賑わっていた港が寂れ果てている光景は哀愁が漂い悲しいものです。
もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。(続く)
(上の大島紀行記は2010年11月8日に掲載したものです。)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。
後藤和弘(藤山杜人)
上の三原山の写真と下の波浮の港の写真の出典は;http://www.town.oshima.tokyo.jp/highlight/habu-harbor.html です。
(写真の出典:http://runo345.btblog.jp/)
下にある神津島への旅の記事は2009年11月27日に掲載したものです。
この記事をご理解して頂くためには江戸幕府の250年間にわたる恐怖のキリシタン弾圧の歴史を考える必要があるのです。
キリシタンとして捕まった朝鮮出身のジュリアは、むごい拷問にあっても絶対に棄教しなかったのです。ジュリアは秀吉の朝鮮遠征のとき日本の武将によって連れて来られたのです。その事情のためか磔の刑を免れて神津島への遠島の刑を言い渡されます。
神津島でジュリアは罪人にも拘わらず人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
江戸時代はキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事は絶対に秘密にしなければいけません。幕府の役人の拷問を想像して恐れました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。明治維新までの250年間の絶対的な秘密だったのです。
時代は明治、大正、昭和と流れて行きましたが、この秘密は何故か島民の影になっているのです。そのような悲しい心情を感じさせる孤島への旅でした。この背景を知った上で以下の記事をお読み頂ければ嬉しく思います。
=====2009年11月27日掲載の神津島への旅日記=========
2006年に満70歳になったので仕事を一切止めた。前々から行きたいと思っていたロマンチックな土地を訪ねる旅をはじめた。まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行った。東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」
「それは誰ですか?」
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」
「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」
「おたあ、を島の人々が始めは、助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」
「それで?」
「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」
「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」
「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」
「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」
「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子である。
現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいった。
帰宅して調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かる。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首される。
家康の側室の侍女となったが家康の言いなりにならない。桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になった。慶長17年、1612年のことである。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もある。
毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」がある。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアあたあの慰霊祭も同時に行っている。
尚、ジュリアの最後には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではない。
写真4枚は上列左がジュリアの姿、その右が神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)。下列左は韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、その右の写真は荒れる太平洋の波の様子です。なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。(続く)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。下は2010年のジュリア祭りの案内です。
今年も5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されます。パック旅行がJTB(電話:03-5909-8242、担当:阿部、村田、相田)によって企画されています。詳しくはJTBへお問い合わせ下さい。
自宅の近所で広々した野原は武蔵国分寺跡だけになってしまいました。
昔は広い麦畑や野菜畑が一面にある農地があちこちに有ったのですが、50年ほどの間にすっかり無くなり、宅地になってしまいました。現在は、広々した農地は埼玉県へ行かないとありません。
国分寺跡の野原には毎週のように行って、散歩してきます。歩きながら1260年前に国分寺造営を決めた聖武天皇とその側近たちへ感謝しています。その決断のお陰でこの広い野原が残ったのです。
昨日も家内と一緒に散歩を楽しみました。そして現在でも発掘を続けてる人と立ち話をしました。楽しそうに割れた瓦や土器を沢山掘り出していました。
出土した遺物の展示場にも寄ってきました。
昨日撮った下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
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