後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

離れ島への憧れ(1)私の初島への旅

2012年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

若い時から何故か「離れ島」という言葉を見ると胸に熱いものが湧いてきます。離れ島は私の憧れのまとです。

そこは人々が自給自足で楽園を作っている小さな宇宙なのです。

魚や貝を食べ、島の傾斜地に野菜をつくります。少ししか育たない米は貴重です。麦粉やサツマイモが主食です。食生活は貧しくとも四季折々の海の眺めが楽園を囲んでいるのです。

そこには文明に汚されていない本物の人間の生活があるのです。

離れ島を遠くから眺めている人の勝手な想いです。勝手に想像しているだけです。そこに一生住んで居る人々の思いは別と分かっているつもりです。しかし離れ島は私の憧れのまとです。今回の連載記事ではそのような想いを抱きながら旅した離れ島の物語を数回お送りする予定です。

熱海沖の初島、伊豆七島の神津島、八丈島、大島などへの旅の思い出を書いて見たいと思います。

さて初島ですが、そこへは熱海港から連絡船で40分で行けます。下の写真のように相模湾のなかにポッカリ浮かんでいる小さな可愛い孤島です。

昨年の2月に家内と旅した時撮った写真です。

・上の初島へ向けて船が真っ直ぐ走ります。後ろを見ると下のように熱海の町が白く輝いています。

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40分後に下のような初島の港に着きます。はるか向こうに熱海の町が小さく見えています。031


江戸幕府へ感謝しつつ生活している私の独り言

2012年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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江戸幕府は1600年代の前半に、多摩川の水を羽村の堰で取り入れて、四谷の給水堰まで一直線に、玉川上水を掘りました。40kmほどの長さです。

現在その玉川上水に隣接して五日市街道が出来ています。

その街道の武蔵境から小金井、小平、立川の部分の20km以上は、玉川上水の両側に繁った大きな樹木に覆われています。東京中を見回してもこれほど豊かな樹木に覆われた自動車道路はありません。

その樹木は春夏秋冬、季節毎の美しいたたずまいを見せてくれます。車で通る人々の心をなごませてくれます。新鮮な空気が気分を振るい立ててくれます。

現在、上水の流れは水道水には使っていませんが、両側の樹木が長い、長い雑木林になって人々へ深い楽しみを与えているのです。

この街道は私の生活道路なので毎日のように使います。

私はこの街道を通るたびに江戸幕府へ感謝します。上水を掘った玉川兄弟へ感謝します。財政的な支援をした松平伊豆守などへ感謝しています。江戸幕府へ毎日感謝して生活をしています。感謝の言葉を家内へ言うと、家内も一緒に感謝します。

このように考えてみると感謝の相手が時代を越えて多くの人々がいることに気がつきます。そんな気持ちで生活をしていると何故か心豊かになり幸福感に包まれます。上下の写真は先程、小金井市の五日市街道で撮ったものです。

つまらない独り言でした。失礼します。

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差別用語禁止、捕鯨禁止、地球温暖化防止は民族文化の壊滅をもたらす

2012年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

南氷洋の日本の捕鯨船の写真です。

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(写真の出典は、和田義明氏、「和田フォトギャラリー」:http://wadaphoto.jp/index.htm です。撮影者は松本浩文さん:http://wadaphoto.jp/kikou/hogei3.htm です。)

日本の将来のあり方が分からなくなりました。どのような国家になれば良いのか誰も分かりません。それは国家の崩壊へつながります。

明治、昭和の富国強兵から続いた経済の高度成長が1990年前後に止まって以来、日本は混迷の時代に突入したのです。それに決定的な追い打ちをかけたのが2011年3月11日の大地震、大津波と原発事故でした。

人々は日本の将来に暗雲が漂っていると思うようになりました。

しかし考えようによっては、暗雲は空に輝く白い雲になります。日本人が明治時代に見た坂の上の白い雲のように輝くのです。

貧富の差を少なくし、差別の無い平和な国にすれば良いのです。そこでは人々が助け合い、多くの人が幸せになります。幸福度の指数を世界一にするのです。

GDPの世界ランキングが上位である必要がありません。他国の人々の幸福も考え国際関係も円満にして、地球上の全ての民族が幸せに暮らせるようになれば良いのです。その模範となる国になることが日本の将来の目標なのです。

それを考える時、差別用語禁止、捕鯨禁止、地球温暖化防止などの問題を避けて通ることが出来ません。

これらの社会運動は大局的に考えれば善いことです。

しかし一部のアメリカ人の思いあがりと他国への強制の行き過ぎがあります。

一部のアメリカ人は全人類のために地球を住み良い惑星として保全する使命感に酔ってしまったのです。目的が善なら他国へ強制すべきという思いあがりと傲慢さがあるのです。

それは民族がそれぞれゆっくり考えて自分達で決めるべきなのです。

差別用語の禁止を他国へ強要すると民族文化の破壊になります。階級差別が文化の基盤になっているインドの民族文化はどうなるのでしょうか?男女差別の厳しいイスラム諸国の文化はアメリカのお陰で変質すると思います。

捕鯨禁止も一部のアメリカ人の思いあがりです。絶滅危惧種の動物の命は自分が守ってやるという思いあがりがあるのです。地球上の動植物の多様性を守るのがアメリカ人の使命だと狂信しているのです。

地球温暖化防止にも同じような現象が観察されます。

しかしだからと言って、日本人が差別用語禁止、捕鯨禁止、地球温暖化防止などを無視し、避けて通っては日本人が不幸になります。

すべての民族が受け入れることが出来る余裕のある実行案を創造するのが日本の国家目標にすべきなのです。民族毎にその固有の文化を尊重して、きめ細かな実行案を創造するのが日本の役割なのです。

炭酸ガス削減の京都議定書のように一律的な考え方は民族文化を尊重したことになりません。先進国が昔からの工業化で多量の炭酸ガスを出しておきながら現在発展している国々に炭酸ガスを出すなと言う権利はありません。先進国の傲慢が京都議定書の欠陥と思います。

地球は一つ。皆なが住み良い惑星にしようという主張は間違いがありません。しかしその実行にあたってはいろいろな民族の文化を尊重してゆっくりと進めるべきと信じています。その舵取り役の国家に日本がなれれば日本の将来にも明るい希望がもてるのです。日本の坂の上の雲が再び白く、美しく輝きだすのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


冬の井の頭公園の風景をお楽しみ下さい

2012年01月17日 | 写真

朝食後、ブラリと井の頭公園に行ってみました。家内が小学3年から6年まで公園の南隣に住んでいましたが、昔の家はすっかり無くなり今風の洒落た住宅が3軒建っていました。

公園の中は午前中なので人影が無く、静かに水鳥が水面を泳いでいました。渋谷駅から「井の頭線」で25分位なので、何時もは若いカップルが沢山歩いています。

冬の井の頭公園の風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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差別用語の禁止と人種差別の消滅・・・私の劣等感の消滅

2012年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

いきなり個人的な感情を書いて済みませんが、私は白人に対して長い間人種的劣等感を持っていました。戦前、戦後の育ちの日本人は同じような劣等感を持っていました。その反発で中国人や韓国人を差別していたのです。

しかし、この私の人種的な劣等感がいつの間にか無くなってしまいました。無くなってしまったと書けばウソになります。少なくとも昔のように頻繁に口惜しい思いをしなくなったと言えば真実に近い表現ですが。

何時頃からこの劣等感が無くなったのでしょうか?次第に変化してきた感情なので何時と断定は出来ませんが、強いて言えばベトナム戦争の頃から急速に無くなったようです。

その頃、アメリカへ仕事で行きました。暇が出来たのでアメリカ原住民の民族博物館へ行きました。入場券の売り場で強烈な体験をします。私がここはインディアン文化の博物館ですかと聞きました。若い女の子が入場券を握って渡してくれません。インディアンという言葉を使う人は入場禁止ですと言うのです。インディアンと言わないでアメリカ原住民と言って下さい。でもインディアンはインディアンでしょう。下らんこと言わないでチケットをくれと私がいいますと、彼女は優しい口調で長話を始めたのです。客が他に居ないので静かな雰囲気でした。

現在、アメリカでは全ての差別用語が禁止になっているのです。ビッコは足の不自由な人。セムシは背中の不自由な人。メクラは目の不自由な人。ニグロはブラック・ピィープルと言いなさいと教えます。(当時、不自由な人をハンディキャップのある人と言いました。現在はそれも使いません。)

それから差別した、あるいはされた暗い昔の事を思い出させる言葉も使ってはいけません。現在のアメリカ人は外国を蔑んだ呼び方は一切使いません。あなたは旅行中の日本人のようだから少しゆっくり説明したのです。とニッコリしています。

彼女の説教の仕方が優しさに溢れ、私を差別していなかったのです。その故か、その体験が強烈な印象になって残りました。後から差別用語の禁止で社会がどのように変わるか何度も考えるようになったのです。

当時のアメリカの差別用語禁止の社会運動と同じ頃に、黒人差別撤廃運動が燃えさかっていたのです。そしてアメリカの白人が生まれつき色のついた肌を持っている人種を差別しなくなったのです。少なくとも表面的にはしないのです。その頃から私自身の白人へ対する劣等感が急速に消えて行ったようです。

帰国して日本人が差別用語にあまりにも鈍感なことでショックを受けたり、悲しくなったりしたものです。この際、ハッキリ書きます。満州や支那や朝鮮という言葉は禁句なのです。それを使えば当時日本人に差別されて酷い目にあった人々が暗い悲しみを思い出すからいけないのです。ですから、新聞では差別用語を絶対に使いません。

差別した人は簡単にその事実を忘れますが、された人々は絶対に忘れません。しかし差別した日本人が差別用語を使わない事で、中国人や韓国人がほんの少し心が休まるのです。この「ほんの少し」が愛の第一歩なのです。

差別用語が無くなったからこの世で差別が無くなったわけではありません。しかし差別用語の禁止は多くの差別されて来た人々へ幸せを送ったのです。

差別用語の問題は複雑な問題なので続編を書いてみたいと思います。

少しこみ入った話題でしたので頭を休めるために、やがて咲く藤の花の写真と、やがてやって来る新緑の玉川上水の散歩道の写真をお送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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辻井喬著「司馬遼太郎覚書」とWikipedeaの「司馬遼太郎」について

2012年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

司馬遼太郎氏は第二次大戦後の日本人の考え方に大きな影響を与えた巨大な人物であります。とくに日本人の歴史認識への影響も大きなものでした。

最近、詩人の辻井喬さんが書いた「司馬遼太郎覚書」という本を読んでいます。詩人としての立場から司馬遼太郎氏の作品をいろいろ評価しています。

しかし巷間には「司馬史観」という言葉が歩き回っています。司馬遼太郎氏自身は一度も史観という言葉を使ったことが無いと辻井喬さんは書いています。

世の中の人々は司馬遼太郎氏を歴史家の親戚でもあるように、「司馬史観」という言葉を好んで使います。

それではどのよう歴史観なのでしょうか?

Wikipedeaの「司馬遼太郎」について検索して、読んでみました。

一般的に、Wikipedeaの記述は学問的な厳密性に欠けることが多く、私自身はあまり重要視していません。しかしながら「司馬遼太郎」の作品に関するいろいろな異なる立場からの批判や評価が詳細に、しかも公平に紹介してあるのです。

司馬遼太郎氏は天才です。私は尊敬しています。しかし人間としての限界が無いと言ったら贔屓の引き倒しになります。

よく出来たWikipedeaの記述ですので下にURLと冒頭部分のみ掲載致します。

是非ご一読下さい。必ずやご参考になると信じています。

司馬 ?太郎(しば りょうたろう、1923大正12年)8月7 - 1996平成8年)2月12)は、日本小説家ノンフィクション作家評論家。本名、福田定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷?(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。

産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E


人生の幸不幸は思い出による(1)記憶を変えて幸せになる!

2012年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

あなたの人生は幸せだったですか?老境に入ると誰ものが考えることです。

長い生涯には悲しかった思い出や、口惜しかった思い出がいっぱい詰まっています。忘れたい悪い思い出もあります。寝ざめの悪い経験もしました。人を裏切ったこともあります。引退して暫くはそんな事を思い出して暗い気持ちに落ち込みました。

しかし2、3年してある原則を発見したのです。それまで悪い思い出と考えていたことを良い思い出に変換すると自分の人生が幸せになるという原則です。

悪い思い出とは自分でそのように思いこんで居ただけです。視点を変えて考え直すと良い思い出に変わってしまうのです。

それ以来、私は過去の全ての悪い思い出を良い思い出に変えてしまったのです。老境にいたるとそれが簡単に出来るようになるのです。

ですから私の人生は幸せだったと確信しています。大きな声で幸せだったと言えます。

昨日、偶然見つけた文章があります。「人の生涯とは、人が何を生きたかよりも、何を記憶しているか、どのように記憶して語るかである」という文章です。

2009年に「終の住処」で芥川賞を受賞した磯崎憲一郎さんが書いた新聞記事のなかで見つけた文章です。「どのように記憶し、どのように語るか?」。それがその人の人生になるのです。(ガルシア・マルケスの言葉)

そうしてもう一つの原則は良い思い出でや楽しかった思い出を、もう一度再現しようとしてはいけないという原則です。絶対に再現しようと思ってはいけません。

過ぎ去った時は絶対に戻って来ないのです。楽しかった幼児の頃は絶対に戻って来ないのです。心の中の宝として現在の幸せの糧にだけすべきなのです。

実例を一つ下に示します。幼児の頃のことではなく1年半前の思い出です。

昨年急死した大学時代からの友人と楽しんだ最後のヨットの写真です。

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・2010年の10月のある日、昔からの友人と新しい友人と3人で一緒に見た霞ヶ浦の夕暮れの水の輝きです。

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・右側が急に病気になって昨年9月に亡くなったHN君です。大学時代から55年間も、ご厚情を頂いたHN君でした。一緒に猪苗代湖で何度もセイリングもしました。

左が小生です。

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・左がHN君で、右がこの写真を昨日、送ってくれたヨット仲間のTHさんです。

さて上の写真をどの様に記臆すれば良いのでしょうか?

私は悲しい写真というよりも一生、ヨットを愛したHN君と最後のセイリングが出来た最高に楽しい写真と記憶します。そうしてそのように書くことが重要なのです。

もう一つは新しい友人のTHさんが突然、昨日、電話をくれて、あのセイリングは楽しかったので写真を送ると言ってきたことです。彼も楽しい思い出として大切にしていたのです。

上の写真のセイリングの後、彼のキャンピングカーのテーブルで3人でワインを一緒に飲みました。それから駅前の居酒屋で飲みながら夕食を食べたのです。

この楽しかった体験を私は2度と再現しようとしません。それは不可能というよりもそれに執着すると不幸になるのです。

執着しないで今は亡きHN君の冥福を祈ります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


大戦争と人種差別の時代の20世紀も遠くなる・・・バーダマン著「アメリカ黒人の歴史」

2012年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

J.M.バーダマン著「アメリカ黒人の歴史」NHK出版という本は新しい視点に立ったアメリカの歴史書です。

従来、アメリカの歴史書でまったく無視されていたアフリカ系黒人のアメリカ社会への貢献やその文化史的検討が総合的に公平な立場で書かれた画期的な出版です。

15世紀にアフリカへ渡ったポルトガル人がヨーロッパでアフリカ人奴隷の貿易を始めたのは1441年といいます。

そして1565年にはオランダ船に乗ったアフリカ人奴隷がフロリダに到着するのです。1644年にはアメリカから黒人奴隷の輸入のための船がアフリカへ派遣されます。それ以来、アフリカで奴隷狩りにあった黒人達が陸続として南部の農園地地帯に輸入され、その地の農業の発展に大きく寄与しました。

南北戦争後は数多くの奴隷が南部から北部へ移動して工場労働者としてアメリカ工業の発展に大きく寄与したのです。

しかし、黒人への差別と理不尽な取り扱いは20世紀の末まで続いたのです。あまりにもむごい仕打ちです。凄まじい人種差別を経験したことのない日本人が見たら、胸の潰れるような差別と圧迫だったのです。

アメリカは進歩的なキリスト教国です。プロテスタント宗派のキリスト教国です。しかし黒人への差別と非人間的な取り扱いが1565年から2000年近くまで、実に400年以上も続いたのです。

宗教の無力さを思うと残念で仕方がありません。

バーダマン著「アメリカ黒人の歴史」NHK出版をご推薦いたします。

お読み頂いて、人類の残酷さや愚かさを絶対に忘れないようにして頂きたいと思います。ヒョッとしたら日本人も同じようなことをしていたかも知れないのです。

以下に私自身がアメリカで実体験した黒人差別の記述を掲載します。2008年2月6日に掲載した記事の抜粋です。

====私が実地で体験したアメリカ黒人差別の凄まじい実態======

◎50年前のアメリカの黒人差別の実状

1960年から二年間、オハイオ州の州都コロンバス市に住んだ。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言う。それ以来、白人席の末席に座る。

コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていた。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人はよほどのことがない限り立ち入らない。

オハイオ州立大学には黒人学生がいたが、その数は圧倒的に少ない。教授は皆白人である。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人はいなかった。差別に心が痛み暗い気持ちになる。

しかし、黒人をこの芝居の黒子と思えば黒人が見えなくなる。

慣れてしまうと実にそれほどは胸が痛まない。

アパート代の安い黒人街の物件を見に行った。案内の黒人女性は柔和で親切である。アパートも当時の日本の住宅事情に比較すると上等だ。

引っ越そうとして大学の白人学生に相談した。ものすごい勢いで反対される。黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て食べ物をねだる。勉強なんかできないと言う。反対の理由はそれだけでないようだ。黒人差別の秩序が壊れるのも反対理由である。

アメリカは自由と平等の国というが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあった。

@黒人差別克服への努力、そしていろいろな試みの挫折

その後、ベトナム戦争があった。黒人兵は危険な最前線に出て活躍したという。国内では黒人差別撤廃の公民権運動が盛り上がる。

リーダーは、後に白人に暗殺されたキング牧師。師の亡くなった日を哀悼の休日とする州が数多いが、オハイオ州も全官公庁・学校が休みになる。

1990年前後にもコロンバス市に二年間住んだ。バスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座っている。オハイオ州立大学も黒人学生が随分と増えていた。周辺レストランの客席に区別はなく、混じって座っている。

同僚のR教授とビールを飲みながら、「30年経って住んでみると、黒人差別がなくなっているので驚いた」と言うと、R教授は「先祖の犯した罪は子孫が償う。公共の場所での差別はなくなった。しかし、居住地は相変わらず南と北に分離されている。黒人学校と白人学校は依然存在している」。

R教授は悩ましそうにしている。「表面的な差別は撤廃できるが、心の中の差別は簡単になくならない」と続ける。「でも、先日、白人と黒人の若者が一緒に楽しそうにバーベキューをして騒いでいたが…」「そのような慈善活動をする若者グループが多くあり、混合ダンスパーテイなども実行する。しかし、帰る家は別々の住宅街にある」。

コロンバス市では、黒人小学校と白人小学校の児童分布を平等にするため、毎日、バスを黒人街へ迎えに行かせ、白人小学校へ送り込む。白人住宅地域へもバスを送り、その逆を行う。こうしたバス送迎を徹底し、白人と黒人の児童が完全に交じり合った教育を三年間続けた。

しかし、黒人学校は特有の教え方と遊び方がある。それは白人学校の教育や友達同士の付き合い方と異なる。大人の偽善的な試みの犠牲になるのは両方の生徒である。この試みは両方の反対に遭い挫折した。

Ar1295923947581571_2  @黒人差別撤廃への白人による社会運動の成功

1990年以後にもアメリカ各地を旅行した。

色々聞くと、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならない。

テレビ・マスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返す。白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住んでいる。

黒人市長があちこちで現れる。

そして2000年代になって黒人女性のライス国務長官が活躍する。

4年前には大統領として黒人のオバマ氏が就任したのです。

公民権運動のさなか銃弾にたおれたキング牧師は喜んでいるに違いありません。

それにしても400年にわたる黒人の徹底的な差別の歴史はアメリカ合衆国の暗黒面です。宗教の無力さを思うと粛然たる気持ちになります。

人類の文明は進歩しますが人間性の進歩があまりにも遅いのです。いつまでも、いつまでも黒人の奴隷狩りと奴隷制度の事実を忘れないで、完全に人種差別の無い世界が来ることをお祈りいたします。(終わり)


野田・岡田両氏のお陰で日本が安全な国になる・・・本を数冊買う気持ちになる

2012年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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野田さんの総理就任以来、日本の政治が落ち着いてきました。国民に対して高速道路をすべて無料にするというような甘い事を云わずに、消費税の増加政策を決定したのです。国家財政が毎年赤字を続ければギリシャやイタリーのように日本の財政も破たんするのが当然です。借金で国の財政を支えている状態は、家計が赤字になったのでサラ金からお金を借りてしのぐと同じ位危険な事と私は思っていました。

サラ金ほど利子は高額ではありませんが、国家財政が危機になれば国民の生活が破綻するのです。その損害の大きさは計り知れないのです。

野田さんも岡田さんも前々からこの危険性を信じ、消費税の増額と公務員や国会議員の削減を主張していたのです。この2人が総理大臣と副総理大臣になって国家財政の健全化を推進するのですから安心なのです。

その上、中国ではこの秋に国家主席や首相が交代し、習さんが主席になると言われています。彼は実務家で、極端な覇権主義が経済成長にとって邪魔になることを知っているようです。北朝鮮も共産党独裁を狂信してきた金日成の子供が亡くなり孫の代になりました。共産党独裁は変わりませんが中国の鄧小平のよう経済の開放政策を少しずつ取り入れる方向になる事は間違いありません。

台湾の総統選挙でも馬英九さんが当選しました。中国大陸と経済交流の推進政策を実施し、台湾のGDPの成長率を10%にして来た政治家です。

韓国との関係も相変わらず良いものです。

ベトナムと日本の関係も民主党が政権を取ってから一段と良好になりました。

普天間基地移転の延期にアメリカ側が感情的な怒りを鎮めました。

そんなこんなで今年の日本の政治情勢と国際環境が良い方向に大きく変化しました。私はそう信じています。

この事は昨年の東日本大震災の復興にとっては大変重要なことです。今年こそは震災の復興に努力する年にすべきと思います。

日本にもやっと安全な国になる方向なので、久しぶりに本を数冊買って、ゆっくり読んでみようという気分になりました。

今日の読売新聞の書評欄に買いたくなった本が5冊ありました。

辻井喬「司馬遼太郎覚書」かもがわ出版。アイザックソン著「スティーブ・ジョブズ」講談社。バーグマン著「アメリカ黒人の歴史」NHK出版。山田太一著「読んでいない絵本」小学館。中村生雄「肉食妻帯考」青土。などです。

書評が魅力的な紹介をしていますが、私の感性と合わない本かも知れません。大きな本屋さんへ行ってパラパラ内容を見てから買うつもりです。ついでに他の本も見てきたいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


ビジネスマンが牧師になって教会を建てました

2012年01月14日 | インポート

Photo (写真は丸山和則牧師)

2009年の12月19日に、 勢いの良いビジネスマンが牧師になってしまったーこの不思議さ! という記事を掲載しました。この記事の抜粋を以下に示します。

=====2009年12月19日の記事の抜粋========

昨日お会いしました日本キリスト教団の小金井教会の牧師さんの丸山和則さんは、以前、大会社のエリートでアメリカへMBAを取るため派遣され、イリノイ州のある大学へ留学したのです。優秀な彼は短期間でめでたくMBAを取得し日本の会社に戻ります。

イリノイへは奥さんと3人の子供さんを同行します。子供さんの幼稚園の縁で奥さんが教会へ通い出していました。奥さんはその教会で洗礼をうけます。

色々な経緯はありましたが、丸山さんは再び同じ大学へ留学し1997年に洗礼を受けました。奥さんが1993年に洗礼をうけた同じ教会でした。そして帰国後に行っていた西荻窪教会の牧師さんに、「伝道者になってみませんか?」と言われるのです。

大会社で出世コースのエスカレーターに乗っている丸山さんがその栄達の道を捨てたのはイエス様の声が聞こえたからと思います。色々迷っていた時期に、牧師になっていた昔からの友人がガンになり天に帰ってしまうのです。偶然、帰国していた丸山さんは昔の友人のお葬式へ行きます。友人が病床のなかで、「伝道の為に生かしてほしい」と神に祈っていたという話を遺族から聞きます。その葬儀の間に友人のためにも洗礼を受ける決心をしたのです。そして自然に、死んだ友人の後を追うように牧師になったのです。

牧師になるためには日本キリスト教団の決めた神学校で勉強し、教団から牧師の資格を頂かなければなりません。たとえ牧師になっても月給は五分の一になってしまいます。子供2人の教育費が心配です。しかしその時、奥さんの言葉で決心したそうです。「何とかなるわよ、”主の山に備えあり”よ」と」という言葉です。そして奥さんはパートで働くのです。

丸山さんの話は理路整然で明快。説得力があります。大会社でも取締役になれるような明晰な頭脳の持ち主です。そのまま会社に残っても良い人生です。しかし牧師になっている人生も良い人生です。どちらでも良いのです。話を聞いていると生き方の転換には無理が感じられません。自然に流れている感じです。丸山さんも奥さんも育ちの良い素直な人のようです。

中年まで会社で働いていて、牧師へ転職されようとお考えになるのも良いことかも知れません。日本キリスト教団は日本一大きなプロテスタントの教会組織です。全国に1700もの教会を有していますが、その500ケ所の教会には常勤の牧師さんが居ないそうです。しかし無理な転職はいけません。まずイエスさまの声を聞いてからにしましょう。この稿では省略しましたが丸山さんの心境の変化の詳細は、日本キリスト教団発行の「信者の友」の2008年12月号pp54-55に掲載してあります。最後に ご多忙のなかインタビューをお受け下さいました、日本キリスト教団小金井教会の丸山和則牧師様へ深甚の感謝の意を表します。====抜粋の終り=========

この後、私は2,3度、丸山牧師にお会いしました。別に長話しをしませんでしたが、新しく鉄筋コンクリートの教会堂を建てる計画を知りました。

プロテスタントの宗派は教会の牧師さんの給料は勿論、全ての運営費、そして教会堂の建設費までその教会の信者の寄付だけで賄うのが原理原則です。

何億円もかかる鉄筋の教会堂を建てるなど不可能と私は思っていました。

昨年暮れのクリスマスの折に丸山牧師様からクリスマスカードを頂きました。

そこで今日、久しぶりに丸山牧師様の教会を見に行きました。

驚きました。教会堂が半分出来あがっていたのです。感動しました。

丸山牧師様の信仰の強さがこの建物を作り上げているのです。イエス様のお力を信じると何億円もかかる教会がいともたやすく出来あがるのです。

私はカトリックなので宗派は違いますが、丸山牧師の信仰の強さで勇気を頂きました。丸山牧師様の建設事業が完成するようにとお祈りしながら写真を撮って来ました。

下のように右手に幼稚園があり、その左に接して大きな教会堂が建設中でした。

数少ない信者からの寄付だけで作り上げた教会です。理想的な宗教のありかたの一例と思いましたので皆様へもご紹介する次第です。お読み頂き有難う御座いました。(終り)

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(5)星空のかなたに住みたまう全知全能の神・・・全ての宗教には優劣が無い

2012年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

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世界中には実に様々な宗教があります。そして宗教に熱心な人々や無関心の人々がいろいろな国々に住んでいます。その上、いろいろな国家の社会がまたいろいろです。共産党独裁の社会体制も自由民主主義の社会も古来のイスラム・アラブ社会がそのまま残っている国々もあります。

私は若い頃から民族文化には絶対に優劣は無いと信じています。

従って、どんな宗教にも優劣がありません。

しかし国家の軍事力の大小は明白にあります。国家の経済力にも大小があります。GDPの世界の順位はアメリカ、中国、日本、、、という具合に明快な序列が存在しています。

しかし国家の文化には優劣はありません。アメリカ人は自由民主主義社会が一番優れていると確信し、そのような社会制度を他国へ押しつけようとしています。

どのような社会が良いかはその国の国民によって決めるべきです。民族自決の原理も尊重したほうが良いと私は思っています。

それと同じように宗教は個人の問題として個人の選択に任せるべきです。経済力や軍事力を利用して特定の宗教を他国の人々へ強要してはいけません。

幸い現在の日本には宗教の自由があります。有難いことです。

どんな宗教にも優劣はありませんが、私はいろいろな行きがかりがあってカトリックというキリスト教の一派の信者になりました。本物の信者ではありませんが、生涯の最後の日までカトリックでいたいと思っています。それは私の節操の問題で、カトリックが一番優れた宗教だと思ったためではありません。自分がいかにいい加減で、節操のない男か自分でよく知っているのです。せめて一つぐらいは節操を守ってみようと思います。

お世話になった塚本金明神父様、ムニ神父様、山本量太郎神父様のことを何時も思い出しています。そしてその向こう側にイエス様が見えます。そしてその向こうの星空のかなたに住みたまう全知全能の神が見えるのです。

私は愚かなので道案内が必要なのです。道案内の組織としてローマ法王傘下のカトリックの教会組織も心強い助けになります。

信者とは常に神を信じているわけではありません。疑って、信じて、また迷っているのです。

そのような真実の心のあり方を書いて、この「星空のかなたに住みたまう全知全能の神」と題する連載記事の終りとさせて頂きます。

いろいろと矛盾したことを書いて各方面の方々にご迷惑をおかけしました。最後に心からのお詫びを申し上げます。お許し下さい。有難う御座いました。(終り)


新種のサクラソウの花を作っている園芸店をご紹介します

2012年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

真冬にみずみずしい花が欲しくなることがあります。車であちこちを回り、大きなガラス張りの温室がある花屋さんを見つけて飛び込みます。

東久留米市の滝山にある石塚園芸はそのような花屋さんです。何度も行って花を買っています。

何時行ってもお店には人が居ません。この花屋さんは花の栽培に熱心ですが、売って儲けることにはあまり関心がありません。店に入ると暖房がしてあり、熱いお茶の出る機械が置いてあり、ご自由にお茶をお飲み下さいと書いてあります。

お茶でも飲んでいると、そのうち店の主人が現れるという寸法です。

温かい温室の中のシクラメンやシンビジュームや胡蝶ランや西洋サクラソウの花々を見て回り、店に帰ってくると60歳前後のご主人が居て、家内の買ったエリカの鉢を包んでいます。仕事が終わってから話しかけました。

「あまり見たことのない色合いの西洋サクラソウが沢山栽培されていますね」と私が言います。すると主人がかすかに微笑んで訥々と話し出しました。

新種のサクラソウを32種作ったそうです。35年間サクラソウの栽培をしています。新しい種類のサクラソウが出来ると農林水産省へ新種の登録をするそうです。そこの専門官が新種と認めたサクラソウが32種あり、それぞれ名前がついています。それがここにある種の袋です。サクラソウは種を買って、自分で育てると楽しいです。なかでも水色の花は珍しく、オランダで4月5日から開かれる「花博」に招待出展されます。その水色のサクラソウは世界初で「湖畔の夢」といいます。(写真は一番下に示します。出典は、http://www.faj.co.jp/blog/?p=40です。)

それだけ言うとまた何処かへ消えてしまいました。サクラソウの種の袋を売りつけようとしません。写真を撮っても良いですかと聞くとご自由にと言っていなくなりました。

とにかく愛想が無い店ですが、楽しい花園です。

似たような温室でシクラメンの新種を作っている花屋さんを先月にご紹介しました。合わせてご覧になると花の栽培に情熱を傾けている男の共通な雰囲気がお分かりになります。あなたへ シクラメンの花を沢山お送りいたします・・・写真だけですが をクリックすると出てきます。

下に昨日撮ったサクラソウの写真をお送りいたします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

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この石塚園芸はサクラソウだけでなくシクラメンやシンビュームやいろいろな蘭も栽培している楽しい花屋さんです。下にシクラメンの写真を示します。

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先日のお釈迦様のことを書いた記事に関する謝罪と釈明

2012年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、(4)星空のかなたに住みたまう全知全能の神とお釈迦様 という記事を掲載しました。

記事の中の言葉が不適切で、「悟りを開く為には神や宗教は不要」と教えてくれたお釈迦様を神の化身のような書き方をしてしまいました。

勿論、お釈迦様は神ではありません。人間はお釈迦様の教えた通りにすれば神様が存在しなくても悟りを開けるのです。成仏出来るのです。

私が書いたことは真面目な仏教徒にとっては荒唐無稽で、余計な考え方です。

この記事へ対して、「通りすがり」という方から批判的なコメントを頂きました。

多くの真面目な佛教信者の方々も違和感をお持ちになったと思います。

その事に対して心から謝罪申し上げます。

この記事に書いたことは私の単なる夢想的な仮定であります。

ただ何故こんな仮想的な考え方を書いたのかを以下に説明し、釈明させて頂きたいと思います。

この世界にある宗教はみな違います。それは厳然たる事実でしょう。しかしこの違いだけを強調しすぎると対立や宗教戦争になりがちです。

悲しいことですが、宗教戦争は人類の愚かさで起きます。悲劇です。

この悲劇を防ぐには、違う宗教を尊敬することです。そして尊敬するためには共通の内容や、共通の神を仮想すれば助けになると考えられます。少なくとも私はそう考えたのです。

その一つの例が、「星空のかなたに住みたまう全知全能の神」なのです。

民族固有の神や宗教を持つのは自然なことですが、他民族の宗教や神を尊敬することが世界平和にとって重要なことではないでしょうか?

私が強調したい事は他民族の宗教を尊敬すべきという考えです。

お釈迦様が神であると主張する気は毛頭ありません。しかし仮想することで戦争が避けられるのならそれも良いと思っています。お釈迦様は必ずお許しになられます。

自分の信ずる宗教だけが絶対に正しく、他は全て間違っているという考えは徹底的に捨てることが一番大切です。少なくとも私はそのように信じています。

これが私の本意です。この釈明の意味をご理解頂ければ嬉しく思います。

尚、先日掲載した記事の文章もこの釈明に沿うように訂正しました。

私の愚かさをお許し下さい。(終り)


待ち遠しい春の花々・・・梅、菜の花、木蓮、桜、連翹、雪柳、そして日本桜草

2012年01月13日 | 写真

最近は大きな寒波が日本列島を覆い、全国的に冷え込んでいます。

水盤にも氷がはり、冬枯れの庭には草花が何もありません。さびしい庭の風景です。

早く春になり、いろいろな花々が咲くのが待ち遠しいです。

待ちこがれるので、昨年、このブログに掲載した花々の写真を眺めています。

春が来たようで心が温かくなって来ました。

下に写真をお送りします。皆様の心にも春が来るように祈っています。

特に寒冷の被災地で苦しい毎日を送っておられる方々の心に少しでも春が来るように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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・都立神代植物公園にて

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・東京都港区、浜離宮にて

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・東京都小金井市の近所の庭先にて、

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・福島市郊外、花見山公園にて、

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・同じく福島市郊外、花見山公園にて、

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・都立野川公園にて、

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・埼玉県さいたま市日本サクラソウ原生地にて、


老人になると広い公園が有難くなる・・・日野市に仲田の森公園が新しく出来る

2012年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

老人にとっては公園ほど有難いものはありません。特に平日の公園は人影も少なく静かです。

ゆっくり、ゆっくり散歩しながら冬の木々の梢を見て楽しみます。

樹木は蒼穹に美しいシルエットを描き、冷たい風に揺れています。

私の趣味として、このような公園へ行って、ゆっくり散策する楽しみがあります。

車で半径30km位以内の数多くの公園は全て行きました。

東京の西の郊外には都立小金井公園、武蔵野公園、野川公園、小宮公園、国立の昭和記念公園、村山貯水池公園をはじめ、府中市、国分寺市、立川市、日野市、八王子市などの市が作って管理している公園が多数あります。

今日は日野市の運動公園へ行きました。その隣には昔の蚕糸試験場の跡地があります。戦後65年、閉鎖されて来たため雑木林が大木の森になっています。最近では「仲田の森」と呼ばれて保存されています。

その周りには遊歩道があり、今日もその写真を撮ってきました。

写真を撮っていたら日野市の教育委員会の柳本太郎氏が話しかけて来ました。そして「仲田の森」が間もなく公園として整備され、一般へ開放されることを教えてくれました。その上、柳本太郎氏は昔の蚕糸試験場の古い建物を保存し、地域の活性化のセンターにする運動をしているそうです。

とても感じの良い柳本太郎氏のお話を聞き、ほのぼのとした気分で散策してきました。

下に今年中には公園として公開される「仲田の森」の風景をお送りいたします。

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蚕糸試験場の周りは水田でした。現在は住宅地になってしまいましたが、水田のための水路に美しい水が流れています。この写真のあたりが蚕糸試験場の正門で左の奥に建物群がありました。

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蚕糸試験場の跡には雑木が茂っています。

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蚕糸試験場は普通は閉鎖されていますが、今日は幸運にも近所の幼児の遊び場として使用されていました。

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蚕糸試験場から2、3分歩くと多摩川の堤防に出ます。左手にはJR中央線の日野駅に入る鉄橋があり、その向こうには奥多摩の山並みが見えます。

私事で恐縮ですが、家内の祖父母の家が当時の日野町の中宿にあったので、結婚の前後にはこの堤防へ家内と一緒によく散歩に行ったものです。中宿の家内の祖父母の家からこの写真の多摩川までは一面の水田でした。

現在は水田が完全に消えて、道路が碁板の目のように走る住宅地になってしまいました。もう50年も前の事を思い出しながら多摩川の堤防の上も散歩して来ました。(終り)