後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

小さな幸せが大きな幸福へ(2)入場料を安くして頂く小さな幸せ

2014年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、久しぶりに家内と2人で映画を見に行きました。見た映画は下の写真のポスターにある「大統領の執事の涙」というアメリカ映画でした。

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この映画の 内容は昨日の記事、「大統領の執事の涙」というアメリカ映画を見て来ました にご紹介してあります。

さて昨日体験した「小さな幸せ」とは入場料を安くして頂いたことです。

通常なら一人1800円なのに1000円にして頂いたのです。2人で3600円のところを2000円にして頂いたのです。世に言うシルバー料金なのです。

その上、この映画館では1000円の入場料を払うと3時間の駐車料1200円を無料にしてくれるのです。

ここから私の言いたいことを書きます。

この割引はシルバー料金制度だから当然だと考えないで下さい。誰かが差額を払ってくれたと考えると幸せな気分になるのです。

切符を売ってくれる人が親切に安くしてくれたのです。映画会社で働いている人々が自分たちの収入を少し犠牲にして安くしてくれたのです。このように考えると、その人々への感謝の気持ちが湧いてきます。

このような高齢者へ親切な料金の割引は都立の植物園や公園の入場料金にもあります。まじめに働いて都民税を払ってくれている人々へ感謝です。

JRの列車に乗る前にジパング倶楽部に入会すると30%も割り引いてくれるのです。JRで働いている人々が自分達の収入がを少し減っても我慢して高齢者へやさしくしてくれているのです。JRで働いている人々に感謝します。

そしてきわめつきは後期高齢者の医療費の割り引き率が90%という事実です。

昨年、前立腺ガンが局部的に再発したので2ケ月間くらい大きな病院に通って放射線照射の治療を受けました。その費用は大体150万円くらいでした。しかしその10%、すなはち15万円だけを支払って下さいと親切に言われました。

本当に申し訳ありません。とても幸福な気持ちが今まで続いています。

料金の残りの135万円は一体誰が払ってくれたのでしょうか。毎日通勤電車に乗って働いている現役の人々が支払ってくれたのです。感謝の気持で自然に頭が下がります。

結論です。シルバー料金を単に「制度」と考えないで安くなっただけのお金を誰が払ってくれているのかと想像することが重要なのです。するとその人々への感謝の気持ちが湧いてくるのです。感謝している間は人間は絶対に幸福なのです。感謝している時間を長くすれば毎日が幸福になるはずです。

しかし悲しいかな必ずしもそうもいきません。人間は四六時中幸福を感じていられるものではありません。でも考え方を少し変えると、幸福に感じられる時間が少し長くなるものです。

他人へ感謝です。感謝すればするほど貴方が幸せになるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「大統領の執事の涙」というアメリカ映画を見て来ました

2014年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカ合衆国には黒人を差別して、白人の奴隷のように扱うという伝統的な文化がありました。

しかしケネディ大統領のころから、黒人を社会的には同じ扱いをする公民権法を議会を通し、それを施行しようとする政治運動が燃え上がりました。

世に言う、「公民権運動」です。この映画の主題はこの公民権運動なのです。

この映画は歴代の大統領の執事として仕えた男の一生を描いた映画です。

その男の私的な家庭生活を丁寧に描きながら、歴代の大統領が黒人差別にどのような態度と政策を取ったかを明快に示したドキュメンタリー映画なのです。

アメリカにおける黒人差別の実態が真に迫って写してあります。それは日本人にとってはショッキングな映像です。

そして、黒人の公民権を認めようとしたケネディ大統領が暗殺されたのです。

公民権運動を推進したキング牧師も暗殺されたのです。

これらの痛ましい暗殺の代償として、黒人差別が無くなり、ついには黒人のオバマさんが大統として選出されたのです。

アメリカ社会の暗部を暴き、悲しみと暗殺の悲劇のすえに黒人と白人が平等になった事情を赤裸々に描いています。

恥ずかしい歴史を正面から見つめ、アメリカの輝く未来を暗示した映画です。勇気ある製作態度です。

日本では「大統領の執事の涙」という名前ですが、涙なんて関係ありません。

原題は単に「執事(The Butler)」です。かなり下品な言葉や衝撃的な場面が沢山出て来ますので気の弱い方は覚悟してご覧下さい。

人種差別というものに興味のある方には必見の映画です。

私自身はケネディが大統領に就任した頃留学していました。バスやレストランや映画館で白人席と黒人席が分かれていたのに胸を痛めていました。

その個人的な体験から、この映画で描かれた人種差別解消の歴史的経緯に感動しました。

それにしても日本人は明治維新以後の自国の歴史の暗部に正面から対峙しているでしょうか。こんなに客観的に対峙しているでしょうか。反省しながら見ていました。

下に暗殺直前のケネディ大統領夫妻の写真とキング牧師夫妻とオバマ大統領の写真を示します。この映画では似た俳優が演じていますが、重要な登場人物なのです。

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小さな幸せが大きな幸福へ(1)病院の受付での小さな幸せ

2014年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

お金を沢山手に入れようとか、人より偉くなろうと努力することは良いことです。その努力のおかげで社会全体が豊かになり活き活きとなります。

しかしその努力に夢中になっていると、とかく小さな幸せを見落します。大きな幸福だけを一挙に手に入れようとします。

しかし小さな幸を大切にして、それを積み重ねて行くとごく自然に大きな幸福がやって来るのです。

私はこの原理を老境になってはじめて判りました。はじめて体得しました。

しかし世の中を見まわしてみると、若い人々でもこの原理を知っていて、毎日の小さな幸せを大切にしている人が多いのです。現在の若い人々へ何故か頭が下がります。

そこで今日から「小さな幸せが大きな幸福へ」という題目で連載記事を書き始めようと考えました。

私の小さな幸せの具体的な実例を書いてみたいと思います。書くことで大切にしたいのです。そしてそれが大きな幸福へ繋がることを書いてみたいのです。

昨日、小金井市にある「千賀皮膚科クリニック」(http://www.senga-derma.com/という病院に行きました。

5年ほど前に大きな病院で前立腺ガンの全切除手術を受けました、その後、3ケ月毎にこの千賀皮膚科クリニックへ行って血液のPSA検査を受けています。

昨日の検査の結果では、ガンは再発していないようです。

既に10年間くらい3ケ月ごとにこの病院に行っていますが、行くたびに受付けの女性たちの親切な対応に感激するのです。皮膚科といっても泌尿器も守備範囲なので高齢者も赤ちゃん連れの母さんも子供もやってきます。患者の年齢層が幅広いのです。

人気があるらしくいつも20分くらい待ちます。

待っている間、受付の仕事ぶりを見ています。すると受付の女性が高齢者へも子供へも実に親切に対応しているのです。

優しい言葉をかけながら保険証や診察カードを受け取り、素早く過去の受診記録の書類を探しだし、奥の看護師さんへ引き継ぐのです。

来る患者はいろいろで雑多ですが、分け隔てなく平等に温かく迎え入れるのです。

私は待っている20分位の間につくずく幸せを感じています。こういうのを小さな幸せと言うのです。それを大事に家に持ち帰ります。そして家内へ報告します。私の家の中もしあわせが膨らみます。

ところでこの千賀皮膚科クリニックの千賀先生も立派な方です。患者に対して丁寧に説明し、心を籠めて対応してくれます。受付の女性や看護師をこのように教育しながら、診察と治療をするのです。評判が良いのでいつも患者が待合室にいます。下に千賀先生の写真と受付の台の写真を示します。

このような小さな幸せを毎日体験しています。その実例を書いて行こうと思っています。

毎日、毎日体験する小さな幸せのおかげで大きな幸福感を感じられるのです。

そうして老境の日々が流れていきます。

間もなく暖かい春がやって来て、桜も咲くでしょう。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

====参考資料===================

私・千賀康弘(せんがやすひろ)は千賀皮膚科クリニック開院前はNTT東日本関東病院・皮膚科(旧・関東逓信病院)に勤務し、毎日外来・病棟の皮膚科診療にあたっていました。開院後もクリニックの休診日である水曜日にNTT東日本関東病院の午前・午後の皮膚科外来を担当しております。また、泌尿器科に関しても大学病院(日本医科大学付属病院)にて講師として診療をしていた実績があります。これらの臨床経験・臨床知識をいかし、ていねいでやさしい説明・診療を心がけ、地域の皆様方のお役に立てるよう努力をしております。

 皮膚科・泌尿器科疾患でお悩みの方は是非一度ご来院いただき、ご相談ください。

 院長紹介: 千賀康弘(せんがやすひろ) 1961年生まれ

学歴: 開成高校卒業、 日本医科大学卒業、 医学博士(1997年取得)

主な勤務病院・職歴: 日本医科大学付属病院、NTT東日本関東病院(旧・関東逓信病院)

 国立東静病院、北村山公立病院、日本医科大学多摩永山病院

 所属学会: 日本皮膚科学会、 日本泌尿器科学会


塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまの墓参り

2014年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は寒い冬の曇り日でした。

何故か今は亡き 塚本金明神父さまとゼフ・ムニ神父さまのお墓詣りをしたくなり、府中市にあるカトリック墓地へ家内と一緒に行きました。

私ども夫婦は1971年に塚本神父様から洗礼を受けたのです。

1954年から1976年までカトリック立川教会の初代主任司祭をされた方です。

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の訪日に合わせて東京で開催された「大バチカン展」の責任者でした。

ムニ神父さまは1975年から1993年までカトリック小金井教会の初代主任司祭をされた方で、私どもは1975年から1988年までの13年間大変お世話になった神父さまでした。

下に今日、府中のカトリック墓地で撮った写真をお送り致します。

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上はカトリック東京大司教区の神父様たちのお墓です。数十名の神父様たちの名前が刻んであります。塚本金明神父(1919年生まれ、1991年帰天)と刻んであります。

下はヨゼフ・ムニ神父さまのお墓です。1924年生まれ、1988年帰天です。

ムニ神父様はアメリカのある修道会に所属していたのですが日本では終生日本の司教区の主任司祭として四日市や東京で働いていたのです。

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下にこの墓地の風景写真もお送り致します。

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なお塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまについて検索して出て来た情報を 少し添付しておきます。

(1) 塚本金明神父さまについて:

カトリック教会で働いている神父(1)塚本金明神父の思い出

http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20101003)から抜粋しました。・・・・1971年の12月に洗礼を受けた神父様は塚本金明さんという方でした。カトリック立川教会の主任司祭でした。愛想が無いので余計な雑談をしませんでした。見かけは小柄なイタリア人の神父のようでした。洗礼を受けるまではイタリア人と思い込んでいました。その神父さんがある時、説教で、自分の子供の頃はカトリックの信者だったので、近所のお稲荷さんのキツネをひっくり返して遊び回っていたと話していました。そいうバカなことをして遊び回っていたと言うのです。トンデモナイことですね。大人になってから恥ずかしい思いをしました。そんな話を聞いているとイエス様が降りてきて金明少年の罪を許している様子が見えてくるから不思議です。この説教を聞いて洗礼を受ける決心をしました。偉そうな事や難しい神学の話をする神父は本物でないと考えていた私にとっては感動的な神父でした。家内と一緒に洗礼を受けてから時々雑談をするようになりました。・・・以下省略・・・・

KOJI SHIWAのブログより抜粋(http://shiwakoji.wordpress.com/2012/12/page/3/

・・・・

高校3年生、1980年12月9日、火曜日の話だ。

向かった場所は、市川(千葉県)にあるカトリック教会。コンビニで買った「週刊プレイボーイ」に、小さな記事ではあったが、大バチカン展の仕掛け人として、一人の神父の話が載っていた。塚本金明(つかもと・きんめい)という、老境に入ったその聖職者と、私はどうしても会いたくなった。その記事を見た瞬間、なぜかグラビアのネエちゃんはどうでも良くなってしまったのだ。

午後の早めの時間、初めて訪れるカトリック市川教会にたどり着き、庭をうろうろしていると、司祭館からローマンカラーの黒いキャソックを着た小柄な老人が飛び出るように現れて、「こっち、こっち!」と手招きをした。銀灰色のラウンド髭も品のいい、塚本神父様だった。

司祭館に通されると、お茶とお菓子でもてなしてくださった。この時、史上初のローマ教皇来日が決まりかけていた時期だったし、それにあわせるように年明けに大バチカン展を開催するなど、日本のカトリックは盛り上がっていた。なにせ「週刊プレイボーイ」が取り上げるぐらいなのだから。塚本神父様は、若い頃ローマの教区にいたので、バチカン展の日本側の実行委員に選ばれたらしい。週プレの記事も、この方がいなければバチカン展が実現することはなかったというトーンで書かれていた。

私は母方がカトリックの家系だったこともあり、バチカン展の話を聞く際、予習しておいたカトリックのそれらしい話をいろいろと持ち出したのだが、神父様はそんなにわか知識をいなすように、神様のことを「キリスト教の神様というのは、要するに天のオヤジなんですよ。天にオヤジがいると思っているおめでたい信仰なんです」と笑って説明する。実際はかなりインテリな方なのだが、話は一切難しくない。あまりに軽妙で、時間を忘れていろいろなお話を聞いた。「人は死んだらどうなるんですかね?」…そんな質問にも、実に軽く答えてくださるのだった。「死んだらどうなるかなんてことは、誰にもわからないですよ。だけど、天にオヤジがいるんだと思えば、とても安心でしょ」

日が傾き始めた頃、またお会いいただく約束をして、教会を後にした。 名残惜しかったが、私にはそのあと会う人がいたのだ。・・・以下省略・・・・

(2)ヨゼフ・ムニ神父さまについて:

遠い外国に眠る人々の墓http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/d/20080424

・・・・ヨゼフ・ムニの粗末な木の十字架の墓はお世話になった日本人が作ったに違いない。毎日誰かが花を供えに来るようだ。彼の故郷はアメリカのボストンと聞く。家族は来ない。

一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り、花を供える。・・・以下省略・・・・

そしてこの記事に以下のコメントを頂いたのです:

ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、朝のミサでの従者をする為、自転車でよく教会に通いました、小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、今でも大切に保管をしています。
もう私も60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントとあの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。
今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。投稿 中根 | 2012/04/11 12:59

その他、ムニ神父様を偲んで:
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・・・四日市におられる間、ムニ神父様のご活躍はすばらしいものでありましたが、
いろんな試練もありました。そのひとつは、昭和34年9月27日に当地を襲った伊勢湾
台風でありました。
 わたしは翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は
浸水がひどかったので、一号線にオートバイをおいて、教会まで歩いて来ました。
 司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命に
やっておられました。その日、神父様は昼、海星に来て、わたしどもと一緒に食事をし、
しばらく休みました。
 鉄筋コンクリートの海星学校の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいが
ありましたので、よろしければ夜もここで泊まられたら如何ですか、と誘いましたが、
神父様は教会から離れないで、何とかすれば間に合うだろうと言われ、帰りました。
 その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送って
いただいた布団、毛布、食物などを一生懸命に配ったことがありました。
 それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が
全焼いたしました。神父様はまた、ゼロから遣り直さなければならなかった時、
神さまのみ摂理に対して、揺ぎない信仰をもって、見事にいまの御聖堂を完成さ
せたのであります(勿論、信者の方の尽力はいうまでもありませんが)。
 四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。
・・・以下省略・・・

こんなことを書くと非難される・・・時代の変化は恐ろしいものです

2014年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

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マッカーサーの日本改革は良かった。中国や韓国を軍事的に支配をしようとしたのだから反省したほうが人間として立派だ。

最近、このようなことをブログに書くと非難されます。時代の変化に驚いています。戦後時代の終焉です。

そんなことを書こうとしています。読みたくない方々は上の今年の小金井公園梅林の花の写真をご覧になって以下は読むのを止めて下さい。そうして心穏やかな一日をお過ごしください。

私はこのブログにかなり楽観的な筆致で日本のことを書いています。なるべく多くの方々に幸せな気分になって頂くように書いています。

最近の2つの記事の題目がその傾向を示しています。

この日本に住む幸せ(5)いろいろな差別が消え、完全に平等な社会

 戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装(4)憲法改正を支持する世論調査結果と日本の曲がり角

 前者は社会からいろいろな差別が消えて日本は幸福な国になったという趣旨の文章です。

 後者はマッカーサーの改革で出来た戦後体制から抜け出して、憲法改正をし再軍備をしようとしている最近の社会情勢を描きました。

 前者は楽観的過ぎたようです。

後者の社会情勢の変化を大多数の人が望んでいるなら、それも仕方のないことです。

しかし憲法改正の前に日中友好と日韓友好を確立すべきと信じています。そのことを強く主張しようとするのが今日の記事です。

さて前者の楽観的な「いろいろな差別が消え、完全に平等な社会」という文章にHerr Tad さんという方から以下のご意見を頂きました。

======Herr Tad さんのご意見===============

確かに 大部分の日本人にとっては ”平等に生きる” 権利を受けていますね。

しかし歴史的には偏見にもとづく多くの差別があり、現在でもなお残っています。

とりわけ、生まれによる差別は、平等権に反し、個人の尊重の原理をおかすものなので、一日も早くなくさなければなりませんね。

(1)差別からの解放:
 差別は、被差別の出身者に対する差別のことで、同和問題ともいえます。 就職、教育、結婚などで差別は続いているようです。
 1965年の同和対策審議会の答甲は、差別をなくすことが国の責務であり、 国民の課題であると宣言しました。
 そして、対象地域の人たちの生活の改善が推進されてきました。
 1997年からは、同和対策事業をさらに進め、人権擁護の総合的な施策が行われています。 人権教育を通じて、差別のない社会が求められています。
(2)アイヌ民族への差別撤廃をめざして:
 アイヌ民族は古くは北海道、サハリン、千島列島を中心に、独自の言葉と文化を持って生活してきました。
 明治政府は、北海道開拓にあたって、アイヌの人たちの土地をうばい、「日本人」化(同化)を強制して、アイヌへの差別が強められ、民族としての誇りがふみにじられたのです。
現在、アイヌの人たちは、自分たちの文化の継承、民族としての教育などをめざしています。
 1997年に制定されたアイヌ文化振興法では、アイヌ文化を振興し、アイヌの伝統を尊重することが求められています。
 2008年に国会は、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を行いました。
(3)在日韓国・朝鮮人への差別撤廃をめざして:
 2009年現在、日本には58万人の在日韓国・朝鮮人たちがくらしています。
 この中には、1910年の日本の韓国併合による植民地統治の時代に、日本への移動を余儀なくされた人たちや、意思に反して日本に連れてこられて働かされた人たちとその子孫も多くいます。
 これらの人たちは、民族の誇りを守り、さまざまな分野で活躍しています。
 しかし、就職や結婚などでの差別がなくなっていません。
 また、日本国籍を持たないため、選挙権や公務員になることなども制限されています。日本で生まれ生活していることやその歴史的事情に配慮して、人権保障を推進していくことが求められています。(Herr Tad さんからは掲載しても良いとご承諾を頂きました)

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さて(4)憲法改正を支持する世論調査結果と日本の曲がり角という文章に付け加えたいことがあるのです。
憲法を変えて戦争放棄を明記した9条を削除するのも時代の変化です。それも良いのかも知れません。
しかし日本人が韓国人や中国人を欧米人から差別し、蔑視しているとしたら、それは変えるべきだと思います。
まず在日韓国・朝鮮人への差別を撤廃し、安倍総理の中国と韓国との喧嘩外交を即刻止めるべきです。
このように書くと「やれ!やれー!奴らが悪いのだからやっつけろ!」と叫ぶ人が居ます。
私は国際関係の原理原則を言っているのです。
戦争を抑止するためには強力な武力も有効です。しかし全ての国々と友好関係を確立していれば核武装までは必要ないのです。
武力強化と国際友好は平和維持のための車の両輪なのです。これこそがこの世に平和をもたらす原理原則なのです。
安倍総理の喧嘩外交はこの原理原則を破った感情的外交なのです。
困ったお人です。これも時代の曲がり角なのでしょうか。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


開通はしたが通行要注意の中央高速自動車道路の現状

2014年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

中央高速自動車道路は八王子から諏訪まで昨日開通したというニュースが出ていました。山梨県の甲斐駒岳の山麓にある小屋へ長い間行っていないので、中央高速の道路状況を確かめに行ってきました。相模湖まで往復してきました。

正常な状態では2車線の広い道路ですが、開通している部分でも、所々除雪が完全でなく一車線の部分があります。急に一車線になるところもあり、怖い感じです。

そして大月から河口湖方面へ行く高速道路は完全に閉鎖されています。

その上、インターチェンジの除雪が遅れていて、完全に出入り可能なインターチェンジの数がまだ充分でありません。

流入も流出も両方が可能なインタ-チェンジは八王子、相模湖、大月、一宮御坂、甲府南、甲府昭和、双葉スマートIC、韮崎、諏訪南、諏訪です。

あとの相模湖東、長坂、小淵沢のインターチェンジは現在閉鎖中です。

上野原、勝沼、須玉は流入は出来ますが、現在は流出出来ません。

相模湖近辺の国道20号線(甲州街道)は除雪はされていますが路面に固まった雪があちこちに残っています。通行は可能ですが徐行しないと危険です。

不要不急の用事の無い方は行くのをやめた方が安全です。

下に先程撮ってきた中央高速道路の状況を示す写真をお送りします。

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上は高尾山の北側の大垂水トンネルへ登っていく坂です。追い越し車線は完全に除雪されていますが、走行車線は除雪が完全でないので車が急に追い越し車線に入ってきます。左の車線の除雪状況を見ながら走る必要があります。

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上は大垂水トンネルを相模湖側へ抜けたところです。左の走行車線が半分雪道になっていて、追い越し車線しか使えない状況でした。

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相模湖インターを出ると雪の山でした。珍しい光景なのでもう一枚下のような写真を撮りました。

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今回の関東地方と甲信越地方の大雪は50年ぶりとか言われていますが、まさしくそのような感じでした。たまにしか降らない雪なので除雪車も無く、除雪には随分と日数がかかっています。

そんなことがよく判る相模湖への小さな旅でした。(終わり)


この日本に住む幸せ(5)いろいろな差別が消え、完全に平等な社会

2014年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム

長い年月を生きてきたおかげでしみじみと幸せを実感出来るのです。いたずらに馬齢を重ねていますが、その馬齢の中にこそ本当の幸福があるのです。馬を馬鹿にすべきでなないのです。

少や若い頃の不幸と悲しみに満ち溢れていた時代を生きてきたから、この幸福が実感出来るのです。比較すると現在の日本が理想の社会のように思えます。

このブログでは、最近、「この日本に住む幸せ」と題する連載記事を掲載しています。

その題目を下に示しますが、それらをご覧になれば、ご自分が如何に幸せか再確認出来ると思います。

この日本に住む幸せ(1)何処に行っても清潔な国

この日本に住む幸せ(2)人々が親切で何処へ行っても安全な国

この日本に住む幸せ(3)世界一豊かな食生活が楽しめる国

この日本に住む幸せ(4)69年間、平和が続いた国に住む幸せ

今日は第五回として、「いろいろな差別が消え、完全に平等な社会」について書きたいと思います。

差別が消え、個人が平等になったのは一朝一夕でなったのではありません。

敗戦でマッカーサーが乗り込んできて、「日本を民主化し、アメリカのように自由で平等な社会にする」と言って、大きな改革を命じました。

日本政府は唯々諾々と命令に従い民主化のための種々の制度改革をしました。そして学校では民主化教育をします。個人の自由と平等の重要性を強く教えました。私も先生方が何度も自由と平等が大切だと言っていたことを忘れていません。

しかしそれが本当に分かり身に着くのに「戦後69年」もかかったと言えば嘘になるでしょうか。

江戸時代から続く封建制度が身に沁みていた人々は、生まれた家の格式や自分の身分を無意識のうちに考えていたのです。

その上、明治維新以後の軍隊の強化で軍隊内の階級制度が世の中全体に深い影響を与えていたのです。

放浪画家の山下清さんは戦後ずいぶんたってからも全ての人を、「兵隊の位でいうとどの位の人」と言っていたそうです。

そして民間会社の中でも重役は将官、部長は佐官、課長は尉官、平社員は兵隊のような処遇を受けていたのです。要するに社会のいろいろな組織の中では役職や階級による差別が当然として受け入れらていたのです。

組織の中で働いていた人々は上役の理不尽な職務命令で、時々、悲しい思いをしたのです。

このような精神的風土の社会では学歴差別、職業差別、男女差別、そして身体障害者への差別は当然のようにあったのです。

私自身も間違いなくいろいろな差別をしていました。恥ずかしい限りですがそんな時代だったのです。

このいろいろな差別が消えたのは経済の高度成長とそれに続くバブルの崩壊の時代と考えられます。

それまでは大会社が多くの子会社を隷属し、独裁的に振舞っていたのです。その経済界の差別体制が一挙に崩壊したのです。子会社は親会社から独立し自由になったのです。もう子会社だからといって差別されなくなったのです。

そしてその頃、アメリカから「差別用語廃絶の思想」が日本へ上陸して来たのです。

この頃から日本の社会からいろいろな差別が急速に消えて行ったのです。

人々は差別が消えると幸せな気分になることに気がついたのです。

差別されない社会。差別しない自分。これこそが本当の幸福ではないでしょうか?

下の写真は先月、甲府市にあるホテルの窓から暮れゆく富士山を撮った写真です。そして富士山の前にひろがる甲府の街の灯を見て、人々の平等な暮らしぶりに独りで感動していました。

それにしても格差のあるのはどう考えれば良いのでしょうか。

「人間は神の前では完全に平等です」という言葉を考えていました。そしてやがて夜のとばりが富士山を隠してしまいました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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早く こんな春が来ないかな!

2014年02月18日 | 写真

今日の小金井市は朝から晴れ上がり、明るい陽射しが暖かそうです。しかし気温は4度までしか上がらず、北風がビュービューと音高く吹き荒れています。

光だけを見ていると春が来たようです。光の春という言葉通りの一日でした。

明日は雨水(ウスイ)です。春は少しずつ近づいています。

菜の花や桜が咲き乱れる暖かい春の景色を探して楽しんでいました。

菜の花の写真を検索すると全国の菜の花の名所の写真が沢山あります。

その中から北信濃の飯山市の「いいやま菜の花まつり」の写真を2枚お送りいたします。季節は4月下旬で毎年行われているようです。

詳しくは、http://www.yu-raku.ne.jp/event_info.php?ev_id=240# をご覧下さい。

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菜の花畑の下には千曲川が流れ、その向こうには北信五岳が残雪に輝いています。

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そして全国の菜の花の写真は以下にあります。

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%8F%9C%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=3A4DU4CkKYeakQW8-4DIAQ&sqi=2&ved=0CCUQsAQ&biw=1024&bih=556

このURLから数例だけの写真を下にしめします。

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戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装(4)憲法改正を支持する世論調査結果と日本

2014年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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はじめから写真の話で恐縮です。

上の写真は複雑に揺れ動く私の心の中の様子を投影したような風景です。平和憲法が風前の灯なのです。数年以内には消えてしまいそうです。

下に示したような世論調査によると国民の半数以上の人々が憲法の改正を支持しています。

そして若い年代層のほうが9条の削除を願っているようです。先の都知事選で、それを主張した田母神さんを支持した人が若い年代層なのです。

高年齢層はいずれ旅立ってしまいます。ますます改憲支持者が増大します。

平和憲法は戦後日本の精神的な支柱でした。それが削除されるのは時間の問題になったのです。たぶん数年以内には憲法は改正されるでしょう。

日本は本当に曲がり角に立っているのです。

日本人は戦争の可能性を恐れなくなってきたのです。安倍総理の喧嘩外交を恥ずかしく思いません。

戦争の悲惨さや、平和の有難さを実体験した高齢者がこの世から消えて行ったのです。

私は一人の老人として、この状態を静かに受け入れ、日本民族の永遠の幸せを祈るだけです。

昨日、趣味人倶楽部の会員で奈良県にご在住のリタさんという方から以下のようなコメントを頂きました。

戦後日本社会を支えた良心的な日本人です。世界に誇れる日本民族の崇高な考え方です。ご一読をお願い申し上げます。

=====趣味人倶楽部のリタさんからのご意見=======

この日本国憲法の精神をこそ世界に広める努力をすべきです。


もし日本や中国やアメリカなどの大国が直接戦争をするようなことになれば
想像を絶する惨禍を人類に及ぼすことになるでしょう。


際限のない軍備拡張競争は人類にとって不幸をもたらすだけです。


過激な罵詈雑言の応酬をしていても何も良いことはありません。


一部の過激な国民を満足させるために他国から誤解を受けるような言動を指導的立場にある政治家は行ってはならないと思います。


信頼を築いていくことがいかに大切か、互いに理解を深めるための忍耐強い話し合いの場を持ち続ける努力を惜しんではならないと思います。


戦後、様々の好条件があったとはいえ、日本は一度も他国と戦闘を行わず、自国民も他国民も殺傷していない実績は世界に誇りこそすれ平和ボケなどと卑下することは何もありません。


戦前の戦争ボケの方がはるかに恐ろしいのです。


互いの国民一人一人は平和な生活を望んでいるはずです。


国家が起こす戦争に巻き込まれてはなりません。


その根本を決して忘れてはなりません。


若い人たちにこのことを引き継いでいく努力をあきらめず続けていきたいと思ってます。(以上)

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上の文章を是非、20歳代、30歳代、40歳代の方々へ心からお送りいたします。それ以上の言葉は私にはありません。 

後は祈ることしか出来ません。日本民族の永遠の幸せを。 

下の各新聞社による世論調査の結果も是非ご覧下さい

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/j013.html=========

J0131

2013年の53日の憲法記念日に合わせ、メディア各社は憲法改正についての世論調査を事前に行った。図は7社の世論調査の結果である。

 改憲そのものについては、設問を設けた6社すべてで賛成が反対を上回っていた。

 最初にまず改正が必要と安倍首相が主張している憲法改正の手続き条項である96条の改正については、賛成が反対を上回っているのが1社、同数が1社、反対が賛成を上回っているのが4社である。

 自民党などが最終的に目指している軍隊不保持の条項である憲法9条の改正については、2社で賛成が反対を上回り、1社で反対が賛成を上回っている。

 このように、各社調査で改憲そのものの総論はみな賛成多数だが、96条改正、9条改正といった各論では賛成多数と反対多数の結果が混在している状況であることが分かる。

=========以下省略=====================


梅の花の香りを楽しみながら写真をゆっくり撮ってきました

2014年02月17日 | 写真

この季節は花といえば梅の花しか咲いていません。今年の蝋梅は美しく咲きましたが、もう散ってしまいました。

小金井公園ではまだ数本しか咲いていませんが、今週から梅まつりの幟を立てています。

先程、咲いた梅の香を楽しみながら構図を考え、考え、ゆっくり写真を撮ってきました。

いつも家内がアングルや構図について建設的な意見を言うのです。でもいささかうるさいと感じる時もあるのです。今日は一人だったので静かに写真を撮ることが出来ました。白梅はまだ咲きはじめですが清らかな香も楽しんで来ました。

下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

まず広い駐車場の前にある芝生広場の左側にある雑木林の写真です。

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この雑木林の左隣に下のような梅林があります。

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この日本に住む幸せ(4)69年間、平和が続いた国に住む幸せ

2014年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

いきなり最初からつまらない写真ですが、まずご覧ください。

公園で母と子供が遊んでいる光景です。よく見ると母の胸にはもう一人赤ん坊が抱かれています。

この光景を見て私の胸が熱くなったのです。ああ、平和とは有り難い。そして戦争中の仙台空襲で焼け死んだ人が焼け跡に転がっていた光景を思い出したのです。

大人、子供、幼児そして乳飲み子を抱いたままの母親などの姿が忘れられません。

この平和な光景を見て、涙が出そうでした。こんなありふれた光景に戦前生まれの日本人はひどく感激して、遠方から静かに眺めるのです。

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戦後のこの69年間の日本の平和は占領軍が作ってくれた戦争放棄を明記した平和憲法のおかげなのです。

この憲法の出来た後で朝鮮動乱が起きました。しかしマッカーサーは日本人を義勇兵として動員しなかったのです。掃海艇は出ましたが戦死者は1人だけでした。

マッカーサーは日本人は奴隷になっても戦争は嫌だ、平和だけが欲しいと切望していた状態にあるときに平和憲法を与えたのです。

国民はこの平和憲法に涙して、有難がったのです。

やがてマッカーサーがトルーマン大統領に解任され、羽田から日本を去る日には何十万人という日本人が沿道に出て別れを惜しんだのです。

現在の若い日本人は、日本の憲法は占領軍が押し付けた憲法だと非難します。それはトンデモナイ理解不足なのです。日本人が感激して受け入れた憲法だったのです。

朝鮮動乱以後、アメリカは中南米派兵、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、湾岸戦争、イラク戦争と数多くの戦争をしてきました。しかし日本は徹頭徹尾平和でした。

平和だからこそ経済も成長し、新幹線も高速道路も完備出来たのです。

このように平和が長く続いた日本に住む幸せをしみじみと感じています。

その平和条項をも一度お読み下さい。

憲法第9条: 

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2.  

  3. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 憲法第96条: 

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。 

憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

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さて現在、若い日本人は上の第九条を削除しようとしています。

本当にそれで良いのでしょうか?削除して本当に平和が守られるのでしょうか?

削除した後でどのような政策で平和を守るのかの議論が無いのです。

実に危険な状態です。

しかし人間は世代交代をすると戦争の悲惨さや平和の有難さを忘れるのです。困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装(3)ひどい敗戦、茫然自失、反省と自虐

2014年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

神州不滅と叫びながら、夜毎のB29による空襲のもとで頑張ってきた我々にとって8月15日の敗戦はあまりにも衝撃が大きかったものです。

それはひどい負け戦の連続でした。グアム島の玉砕、サイパン島の玉砕、沖縄戦の敗北、そして広島と長崎への原爆投下です。本土決戦と叫びながら日々を過ごしていたら8月15日に敗戦の詔の放送です。

人々は何故かホッとしながらも茫然自失の状態です。虚脱状態の日々です。毎日、暗い気持です。

下の写真のような心象風景だったのです。

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数多くの港には生き長らえた復員兵が帰ってきました。

輸送船から下りてくる復員兵の胸には戦友の遺骨が入った白い箱が抱かれているのです。

そして舞鶴港には満州からの引揚者が幽鬼のような姿で帰ってきたのです。

皆老人と女子供だけです。青年と壮年の男は皆シベリアへ連れ去られてしまったのです。

電車に乗ると傷痍軍人が白衣を着て、アコーデオンを持って歌を唄い、お金を貰っています。街には飢えた浮浪児が走り回っています。

そんな光景をまのあたりに見て、そして新聞やニュース映画で見てきた我々です。

そんな我々を、自虐史観を持ったからといって非難する人々にはその資格があるのでしょうか。あなたがたはそれを見ていたのでしょうか?

現在の日本人は終戦直後の実態をあまりにも知らな過ぎます。

世の中は食糧難が続き混乱状態です。着る物も家も無いのです。

そして戦後すぐに大本営発表の戦果がデタラメだったことが明らかになったのです。

大東亜共栄圏という美辞麗句で進軍して行ったのは、領土拡大のための侵略戦争だったことは誰の目にも明らかになったのです。

武力侵略したことの因果応報として日本は地獄のような世の中になったのです。

それは因果応報という言葉を幼少の時から聞いていた日本人の自然な気持ちでした。

かつての大日本帝国の軍部を信用出来なくなった人々は占領地での一部の将兵の残虐行為を想像して、それを信じるようになったのです。

当然、日本人は立派な民族ではないのではないかという自虐的な反省の気持ちが湧いてきたのです。

それを現在の右翼的な人々が自虐史観と称して悪口を言うのです。その上、その自虐的史観は占領軍の教育指導や日教組の先生たちの教育によって出来上がったと主張するのです。

しかし近隣国を侵略し悪かったという反省は占領軍の教育指導や日教組以前の人間としての当然な気持ちだったのです。

自分の悪かったことを認め反省するといういさぎよい態度は立派な武士道だと戦前から教わっていたのです。それこそ大和魂なのです。

ですから私は自虐史観は、人間としての良心的な反省の産物の一つなので、悪しざまに非難すべきではないと信じています。

例えば南京虐殺は無かったとしても、日本の軍部は南京のはるか南の桂林まで占領したのです。それは百歩譲っても侵略行為に間違いないのです。

戦後賠償の代わりに巨額のODA援助を中国にしたのですから政治的にはケリがついているのです。政治的にはチャラです。

しかし人間としていつまでも反省することは個人の自由なのです。

それは戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装という一連の動きとは全く別な次元の問題なのです。

敗戦直後の日本人は、もう二度と戦争は嫌だと思っていたのです。奴隷になっても戦争だけは御免だと思っていたのです。

絶対に平和だけは守ろうと決心していたのです。ですから戦争を永久に放棄すると明記した平和憲法を絶賛して歓迎したのです。私も嬉しかったことを絶対に忘れません。

その当時の社会の雰囲気を知らない現在の日本人は押し付けられた憲法だと言うのです。しかしそれは全くの間違いなのです。

そして60年以上の年月の経過にしたがって私の心も癒され、少しずつ変わってきました。

私は戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強に賛成です。

しかし敗戦後の人々の感じ方を無視した最近の自虐史観非難の論調はどこか事実に即していないと思っています。まったくトンチンカンな議論なのです。

それにしても個人的な体験を次世代へ伝承することの困難さが身に沁みます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


神代植物公園のカリオンの写真と音楽をお届けいたします

2014年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

神代植物公園の温室と広いバラ園の間に大きなカリオンがあります。

一時間おきに澄んだ鐘の音で音楽を聞かせてくれます。曲は季節によって変わりますが、昔懐かし童謡や外国の民謡のメロディです。

下に先月撮ったそのカリオンの写真を示します。

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上の写真の向こうに広がっているのがバラ園です。その中央には大きな池と噴水があります。

バラ園の先は手つかずの武蔵野の林を保存してある区域です。その自然林は下の写真に写っている林です。

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毎回、決まった時間になると澄んだ鐘の音を組み合わせた美しいメロディが下の写真のような水面や桂の林の中に響きます。

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さてそれではどのようなメロディなのでしょうか?

このカリオンは美しい造形作品です。鐘の下についている数多くの金属の羽がメロディとともに動くのです。大きな白鳥が空を舞うようです。

その羽の動きと、響くメロディを記録した動画を下に2つお送りいたします。

http://www.youtube.com/watch?v=Ud23d3GT23E と、

http://www.youtube.com/watch?v=1UvmiWWocGM です。

前者は音をきれいに録音してあります。後者は造形作品の羽の動きを美しく示しています。

どうぞお楽しみ下さい。

尚、ついでに全国の公園に設置してあるカリオンの情報が出ているサイトをご紹介いたします。http://www.carillon.co.jp/koen.htm です。

自分のお住まいから近い公園で是非カリオンの澄んだ音色をお楽しみください。(終わり)


大雪の風景を見て楽しみ、悲しむ・・・そして鈴木牧之の「北越雪譜」

2014年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

朝起きたら庭に大雪が積もっています。1964年から50年間、この家に住んでいますがこのような大雪は初めて見る光景です。下に庭の写真を示します。

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上の写真で庭木の根元が少し明るくなっているのは高さ60cmくらいのガーデン灯が完全に埋まってしまって、雪の中から光っているのです。

下の写真はこのコンピューターの置いてある机のそばの窓から見た光景です。

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雪を見ると昔仙台に生まれ育ったころの雪遊びを思い出します。太い竹を割って、先端を焚火にあぶって曲げるのです。すると立派な竹スキーが出来ます。

小学校へ行く長い坂道を踏み固めて、竹スキーに乗って滑り下りるのです。

上手な子は40mも50mも転ばないで滑り下ります。私は10mくらいがやっとで、転んでしまいます。足を離れた竹スキ-だけが上手に滑り下りて行くのです。

そんなことを思い出しながら先週の大雪の日は座敷に茶道具を広げて雪見の茶をたてました。畳に炉を切った茶室ですがその炉はめったに使いません。面倒なのです。しかし炉など使わなくてもガラス戸の向こうに広がる雪の庭を見ながらのお茶は格別でした。

しかし大雪を見るたびに北越後の鈴木牧之が江戸時代に出版した「北越雪譜」という本の内容を思い出し、悲しい思いをします。雪国の人々の冬の暮らしぶりの苦しさが描かれた本です。冒頭に書かれています。

・・・・今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。・・・・

この一行の文章は、現在でも雪の深い地方に住んでいる日本人の思いなのです。雪に閉じ込められて買い物にも行けない日々が続くのです。そして大雪の日は停電が起き電話もテレビも使えなくなります。暗い部屋の中では電気を使わない昔風の石油ストーブだけが頼りなのです。

大雪を見ると雪国の人々の苦しい憂鬱な冬の生活を想像してしまいます。

鈴木牧之の「北越雪譜」という本のおかげで雪国の生活を体験したような気分になります。ですから雪の日は心はなやぐだけでなく悲しい気分にもなるのです。

それにしても純白の雪の世界は美しいものです。

下に「北越雪譜」の簡単な紹介をつけました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====鈴木牧之と「北越雪譜」の簡単な紹介==========

http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.htmlより転載しました。

著者の鈴木牧之の生れた南魚沼(みなみうおぬま)郡は、東南に波濤(はとう)のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間(やまあい)の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八~三メートル)に達する。

「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨(うらやま)ざらんや」

彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調している。江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁(うつばり)や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲(く)み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶(おけ)に入れたりする。「其外(そのほか)雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」

現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものだった。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とした。「漸(やうやく)雪の止(やみ)たる時、雪を掘(ほり)て僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生(うまれ)たるこ>ちなり」

鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。

もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。

けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。以下省略、http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.htmlへ続く。


戦後レジームからの脱却と、憲法改正、軍備増強、そして核武装(2)国民に歓迎されたマッカーサーの五大改

2014年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後体制すなわち戦後レジームはポツダム宣言の要求をマッカーサーが五大改革として日本政府に実施させ出来上がった体制を意味します。

それをアメリカ軍による押しつけだったと非難する人もいます。

しかし完膚なきまでの敗戦で自信を喪失し、呆然としていた日本国民にとってはそれこそが希望の光に見えたのです。多くの国民が喜んで大歓迎したのです。

私自身もその大衆の一人だったので、随分と明るい気持ちになったことが忘れられません。

五大改革とは以下の5つです。

(1)婦人へ参政権を与え解放する。

(2)労働者の組合結成の促進。

(3)自由主義教育の推進と学制改革。

(4)特高の廃止と検察や警察制度の改革。

(5)農地解放と財閥解体による経済体制の民主化。

これらの五大改革は多くの国民な当然だと感じたのです。

それは戦前のひどい男尊女卑、労働者の悲惨な生活、軍国教育の強制、警官の横暴、小作人の搾取、そして財閥の産軍協同体制を苦々しく見てきた庶民の心に心地良く響いたのです。

戦前に虐げられてきた大多数の大衆を喜ばしたのです。因果応報だ、ザマを見ろという感じがしたのです。

ですから現在、占領軍に押し付けれたと主張されても、当時の雰囲気を知っている我々高齢者にとっては、「それは違う!」という感じがするのです。押しつけでなく大歓迎したのです。

現在、「戦後レジーム」は悪だと言う人が多くなりました。悪だからご破算にしろと言います。私には納得できないのです。

いったい五大改革のどれが悪なのでしょうか?

この改革があったればこそ日本の経済の高度成長があったのです。

しかしもう少し詳しく考えていくと(3)の自由主義教育の推進と学制改革には弊害もあったと思います。

共産党の影響の強い日教組が教育現場を支配し、子供達の良い意味での愛国心教育をしなかったことです。

客観的歴史観を身につけさせるような公平な歴史教育をしなかったことです。

断片的な知識を丸暗記させ、自分の頭で考える能力を育てなかったことです。

「戦後レジーム」の改革がこの教育問題の改革に限定されるなら私も賛成です。

その上、五大改革ではありませんが、平和憲法も押しつけだと言われています。

しかし戦争の悲惨さを見た大多数の国民は平和を熱望していたのです。したがって理想主義的過ぎるこの平和憲法も喜んで大歓迎したのです。

しかし、時代が変わったからと言って、それを改正して軍拡することも良いでしょう。そのためには、国際友好外交を全方位に徹底するという条件が約束出来るなら私は賛成です。

平和は憲法で守るのではなく、強大な軍備による抑止力と徹底した友好関係の樹立によって守られるのです。日中友好と日韓友好は戦争の抑止の為に必要なのです。

下に参考資料として五大改革の詳細を示しておきます。(続く)

=====マッカーサーの要求した五大改革============http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14102054944 より。

戦後の五大改革とは、昭和20年(1945)10月11日にマッカーサーが出した「五大改革指令」のこと。

1945年8月15日、天皇が国民に「ポツダム宣言」を受諾したことを玉音放送で伝え、日中戦争から8年に及んだ戦争が終わった。
日本は連合国に占領されることになり、8月末にアメリカのダグラス・マッカーサー元帥が占領政策を実施する連合国軍最高司令官として来日した。マッカーサーをトップに連合国最高司令官総司令部(GHQ)がつくられ、占領は間接統治の形をとりGHQの意向は日本政府を通して実施された。
この占領機構の上部組織として極東委員会がおかれた。極東委員会とGHQの間にはアメリカ政府があり、極東委員会の決定に対する拒否権や、緊急事態が生じたときに委員会の決定を待たずに指令を発する中間指令権などをアメリカ政府がもっていた。また、対日理事会もあったが名ばかりであった。

昭和20年10月11日、新任挨拶のためにGHQを訪れた幣原首相はマッカーサーと会談し、この中でマッカーサーはポツダム宣言に基づき占領政策の基本を示し、「五大改革指令」と呼ばれる意見を表明した。

「五大改革指令」
① 選挙権賦与による婦人の解放:
1945年12月に選挙法が改定され、20歳以上の男女全てに選挙権が与えられた。1946年4月に戦後初の衆議院議員選挙が行なわれ、女性が初めて投票し、39人の女性議員が誕生した。

② 労働の組合化促進:
労働組合結成など、労働者の権利を保障する法律の制定し、労働者保護のため労働条件の最低基準を定めた「労働基準法」など「労働三法」が制定され、労働組合が多数結成されていった。

③ 自由主義的教育を行うための諸学校の開設:
教育を通じて民主主義を根付かせようとし、教育基本法など教育三法が制定され、それまでの地理、日本の歴史、修身の三教科は軍国主義的とされて、教えることが停止され、教科書も回収された。

④ 検察・警察制度の改革:
GHQは「人権指令」を日本政府に通達し、戦前、社会主義者、共産主義者などの反対勢力を弾圧するために作られた治安維持法や特別高等警察を廃止。政治犯の即時釈放などが行なわれ共産主義者などの政治犯およそ500人が釈放された。

⑤ 経済機構の民主主義化:
経済の民主化として、大資本家の一族が経営した巨大企業である財閥が解体され、2度の農地改革により地主制が解体された。GHQは、本経済を支配していた財閥を軍国主義の基盤の一つと見なし、三井、三菱、住友、安田など15の財閥は、持ち株を売却させられ、解体された。さらに2度にわたる農地改革によって地主の土地所有が制限され、優先的に小作農に売り渡され、小作農の大部分が自作農となり、地主制度はほぼ解体した。