後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

戦後72年の平和から憲法改正、再軍備の時代へ

2017年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味として日本民族の歴史を調べたり考えたりすることは楽しいものです。
例えば日本民族の考え方や人生観が大きく変わった変革の時代を考えると、明治維新と第二次大戦の敗戦がすぐに思い浮かびます。
明治維新ではそれまで連綿と続いた封建制が崩壊し、欧米流の近代国家になったのです。路頭に迷った武士階級の悲劇があちこちで起きました。それに従って人間の価値観や人生観が大きく変わったのです。
第二次大戦の敗戦では軍国主義が崩壊し、アメリカ流の民主国家に変わったのです。それは明治維新以来続いていた富国強兵思想の挫折でした。軍備を放棄し、戦争を絶対にしないという平和憲法を作ったのです。
この明治維新と第二次大戦の敗戦は日本民族の超弩級の意識変化でした。日本社会における革命でした。
この超弩級の日本社会における革命の他にもいろいろな時代に小さな変革が起きています。
例えば経済の高度成長とバブル経済の崩壊もその一つです。1990年前後に起きたバブル経済の崩壊によって人間の価値観が変わりました。経済成長だけに価値を置いていた社会が崩壊し、環境問題や地球温暖化も重視する広い視野にもとづいた人生観を持つようになったのです。バブル経済の崩壊で大会社の経済力も地に落ちたのです。従って大会社の傘下にあった多数の中小企業は大会社の系列から解き放され自由に活動をするようになったのです。その一方あおりを受け倒産した会社も数多くありました。
そして最近になって戦後の平和憲法のもと、圧倒的なアメリカ軍に保護された日本の安逸な平和が終焉する時代に入ろうとしています。
それこそ72年間続いた日本の戦後体制の崩壊です。時代の変わり目です。安逸な平和が終わり、憲法改正と再軍備と防衛戦争の覚悟で平和を守る時代へと変わりつつあるのです。
この変革は安倍政権の「戦後レジームからの脱却政策」から始まりました。
この変革はトランプ大統領によって具体的に加速されたのです。
すなわちトランプ大統領は日本も戦争に参加しなければ日本を守ってやらないという方針を明確にしました。
そして北朝鮮沖で日本の海軍とアメリカ海軍が共同で北朝鮮を脅す砲艦外交を実施したのです。
その様子は2017年11月14日掲載の記事、「北朝鮮が撃たなくなったのはトランプ大統領の砲艦外交の勝利」で説明しました。
その記事の1番目の写真には、アメリカの3隻の空母に囲まれて航行している海上自衛隊の大きな護衛艦「いせ」の姿が写っています。
写真は2017年11月12日、日本海で撮った写真です。共同訓練する米空母ロナルド・レーガンが左端で、ニミッツがその右上でセオドア・ルーズベルトが右端に写っています。レーガンの後方は海上自衛隊の護衛艦いせです。
この脅しの効果はてきめんで、北朝鮮は9月15日以後、核実験もミサイルの発射もピタリと止めてしまったのです。
トランプ大統領の砲艦外交の短期的な勝利です。
この訓練を北朝鮮からみれば日本とアメリカの軍隊が協力して北朝鮮を脅しているように感じるでしょう。
つまり日本もアメリカとともに砲艦外交の一翼を担ったのです。
このような状態は時代の変わり目を意味します。安逸な平和が終わり、憲法改正と再軍備と防衛戦争の覚悟で平和を守る時代へと変わりつつあるのです。
さて戦後70年の日本人の意識調査の結果を見てみましょう。(https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/20150801_4.html)
2015年は、太平洋戦争が終わってから70年目です。この節目の年にNHKが日本人の「戦後70年観」に関する世論調査を実施したのです。
戦後70年は全体としてどんな時代だったかと尋ねたところ、『よい時代だった(「どちらかといえば」を含む)』と答えた人は85%に上り、「戦後」をイメージする言葉は、「平和」が37%と一番多くなったのです。
戦後日本人がどのような社会を築いてきたか、3つまで選んでもらったところ、圧倒的に多かったのは「戦争のない平和な社会」が87%だったのです。
このように大多数の日本人は戦後の70年は平和な良い時代だったと思っているのです。
しかしその平和は、圧倒的なアメリカ軍に保護された日本の安逸な平和だったのです。
ところがトランプ大統領は日本も戦争に参加しなければ日本を守ってあげないという方針で、日本人は否応なしに戦争に参加しなけらばならない時代に突入したのです。
自分の国の平和と安全は防衛戦争も辞さない覚悟で守らなければならなくなったのです。それは大きな意識変革です。時代の変わり目です。
戦後の平和憲法はアメリカ占領軍の要請で作りました。そしてトランプ大統領の外圧によってこの平和憲法は来年あたりに改正されるでしょう。外圧に弱いのは日本民族の宿命なのでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は山梨県の韮崎から西方に続く断崖、「七里岩」です。紅葉がこれから始まります。
「七里岩」は八ケ岳の約20万年前の溶岩類が釜無川の浸食によって出来た断崖です。東西約18キロの大規模な断崖の続きになっています。釜無川の流れによる浸食され、高さ40~150メートルという断崖地形が連続しているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「高尾の今日の紅葉の風景です」

2017年11月16日 | 写真
高尾山は、東京の西の郊外にある山です。標高は599mあります。
山頂付近に神仏混淆の薬王院というお寺があり、お寺の本堂の背後に飯綱権現神社があります。古くから修験道の聖地でした。
山全体が紅葉になり素晴らしい所です。
今日は午後から車で高尾の紅葉の写真を撮りに行きました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。













甲斐のくにの紅葉(4)武田神社と甲斐善光寺

2017年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は武田神社の紅葉の写真をご紹介致します。その後で長野の善光寺のご本尊の一光三尊(善光寺如来)を武田信玄が甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作った経緯を書きます。この善光寺如来は武田家滅亡後の40年間各地を流転して最後にまた長野の善光寺に帰って行ったのです。それは不思議な物語です。
さて最初に武田信玄を神として祀る甲府市の中央にある武田神社の紅葉の写真を示します。

1番目の写真は本殿前の紅葉の風景です。

2番目の写真は入り口の鳥居の方向の紅葉です。

3番目の写真は武田神社の拝殿です。武田信玄は山梨県の誇りです。従って信玄様にまつわるものは全て豪華で華麗に保存してあります。武田家は代々、甲斐の国の守護でした。その生地の韮崎にも武田神社があり、そちらも立派な神社です。

4番目の写真は鳥居の所にある狛犬です。

5番目の写真は武田神社への入り口にある朱塗りの橋と堀です。

6番目の写真は武田神社を囲む堀の写真です。この神社は信玄の館の跡に作ったのでお城のように掘に囲まれています。

7番目の写真は武田神社を正面から見上げた写真です。

さて私事で恐縮ですが私は宗教が好きです。ですから信玄が長野の善光寺の本尊や寺宝や全ての僧侶を甲府に連れ帰ったことは善いことか悪いことかを考えています。
善光寺は元来、飯田市にありました。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、作った寺が現在の飯田善光寺なのです。それを皇極天皇元年(642年)に勅命により長野に移されたのです。
その善光寺如来を震源は甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作ったのです。
私は飯田善光寺も長野善光寺も甲斐善光寺もすべて参拝しました。3つとも大変規模が大きくて格段に立派な本堂を有しています。
そして信玄が上杉謙信と川中島の合戦の折りに甲府に移転させたのです。
しかし天正10年、1582年に武田家は織田信長によって滅ぼされます。その際、織田信長の長男である信忠は、さっそく善光寺のご本尊を甲斐甲府から本拠地である岐阜へ移しました。これが岐阜善光寺です。
その年の夏に織田信長は家臣である明智光秀により京都の本能寺で殺されてしまいます。そのため、善光寺のご本尊は尾張清洲甚目寺(愛知県甚目寺町)に移されます。
その翌年、今度は徳川家康により浜松(静岡県)の鴨江寺に移され、やがて甲府に戻されます。
それから15年して、天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、その翌年に善光寺のご本尊を甲府から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになりました。
そのため、慶長3年(1598)に、急いで長野善光寺へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が信濃へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は長野の善光寺に戻ったのです。
この辺の詳しい経緯は、http://zenkozi.com/about/wandering.html をご覧ください。

以上のように武田信玄も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も長野善光寺の一光三尊(善光寺如来)に執着してそれを自分の都合で動かしたのです。
それが良いことなのか悪いことなのか私は考え込んでしまいます。しかし正解はいまだに出ません。皆様はどうのようにお思いでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「冬はパンジーとビオラの季節」

2017年11月15日 | 写真
パンジーとビオラは春先の野に咲く小さな可憐なスミレから改良した栽培種の花です。寒さに強く改良されているので冬の花として花屋さんの店先に溢れるように咲いています。
先程、家内がいろいろな色のパンジーの大きな鉢植えを作ると言うので買いに行きました。
ついでに見事な百合の切り花も買いました。
店先で撮った花々の写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。









北朝鮮が撃たなくなったのはトランプ大統領の砲艦外交の勝利

2017年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
砲艦外交とは昔の言葉です。その意味は威嚇的な軍事力で脅し、外交交渉を有利にしようとすることを意味します。暴力団が刃物やピストルをちらつかせ相手を服従させるようなものです。品の悪い外交手段ですが効き目があります。
日本もこの砲艦外交をされた歴史的な事実があるのです。1853年に東インド艦隊司令官のマシュー・ペリー提督が軍艦5隻を率いて日本に来た時です。勝手に浦賀へ入港して日本へ開国を要求したのです。そして翌年の1854年には黒船の艦隊を東京湾に進入させ江戸幕府を脅したのです。幕府は恐れおののき、日米和親条約を締結してアメリカに対して開国したのです。ペリーは議会から交戦許可を取っていなかったにもかかわらず強硬姿勢により日本を無理に開国させたのです。
理想主義的なアメリカ大統領は砲艦外交を使いません。前のオバマ大統領は使いませんでした。
ところがトランプ大統領はアメリカの伝統的な砲艦外交を北朝鮮に対して使ったのです。
北朝鮮の沖に原子力潜水艦や多数の駆逐艦を従えた航空母艦打撃群を展開して北朝鮮を脅したのです。
これは現代における砲艦外交です。
その効果はてきめんで、北朝鮮は9月15日以後、核実験もミサイルの発射もピタリと止めてしまったのです。
トランプ大統領の砲艦外交の短期的な勝利です。あくまでも短期的な勝利です。しかし北朝鮮は今後アメリカの要求を承諾するでしょうか?
今日はこのトランプ大統領の砲艦外交と今後の展開について考えてみたいと思います。
まず北朝鮮の沖における空母打撃群と日本や韓国の共同訓練の様子を写真で示します。

1番目の写真は2017年11月12日、日本海で共同訓練する米空母ロナルド・レーガン(左端)、ニミッツ(その右上)、セオドア・ルーズベルト(右端)。レーガンの後方は海上自衛隊の護衛艦いせ(海上自衛隊提供)

2番目の写真は11月12日、共同訓練する米空母ニミッツ(左上)、ロナルド・レーガン(左中央)、セオドア・ルーズベルト(右下)と、米国と韓国海軍の艦船(韓国国防省提供=AP)

3番目の写真は11月12日、共同訓練する韓国海軍のイージス艦(手前)と米空母の3隻(韓国国防省提供=AP)

この日本海における共同演習に関する記事をご紹介いたします。
『海自と米空母3隻共同訓練 日本海、北朝鮮けん制』
2017.11.13 16:29、産経フォト、http://www.sankei.com/photo/story/news/171113/sty1711130016-n1.html

 海上自衛隊は11月12日、護衛艦3隻が米海軍の原子力空母3隻と日本海で初めて共同訓練したと明らかにした。米海軍が西太平洋周辺で14日までの予定で実施している共同演習の一環で、日米の護衛艦や空母、付随する艦艇がそろって訓練した。核・弾道ミサイル開発を進める北朝鮮を強くけん制する狙いがある。 河野克俊統合幕僚長は自衛隊の訓練視察に訪れた静岡県沼津市で報道陣に「北朝鮮を含めた各国に、日米同盟の固い絆、連携の強化を示すことができた」と強調した。
訓練には海自の護衛艦いせ、まきなみ、いなづまと、米空母のニミッツ、セオドア・ルーズベルト、ロナルド・レーガンが参加。他の艦艇と編隊を組みながら共に航行したり、通信訓練をしたりした。

ここで指摘したいことがあります、示した3枚の写真の日は11月12日となっています。つまり同じ日に日米共同演習と韓米共同演習をしたのです。3枚目の写真の手前には韓国の国旗がはためいている駆逐艦が写っています。
この訓練を北朝鮮からみれば日本、韓国、アメリカの3国の軍隊が協力して北朝鮮を脅しているように感じるでしょう。
つまり日本も韓国も砲艦外交の一翼を担ったのです。
効果は絶大で北朝鮮は9月15日以後、核実験もミサイルの発射を止めているのです。
お忘れでしょうが、9月15日には北朝鮮は弾道ミサイル1発を発射しました。ミサイルは7時4~6分に北海道上空を通過、同16分頃に襟裳岬の東約2000キロ・メートルの太平洋上に落下したのです。
ここで、これまでの北朝鮮の核実験とミサイル発射の記録を下に示します。
核実験
1998年
2006年
2009年
2013年
2016年1月
2016年9月
2017年9月
ミサイル発射実験
1993年
1998年
2006年
2009年
2012年4月
2012年12月
2016年
2017年
8月
9月15日
さて北朝鮮は一時的に静かになりました。
それではアメリカの要求している通り核兵器や長距離ミサイルを放棄するでしょうか?
答は残念ながら「否」でしょう。
核実験の実施をしなくてもこれまでの実験から多数の核兵器は製造出来るからです。
そして北朝鮮は現在でも下記のような種々の弾道ミサイルを保有しているのです。

スカッド
KN-02
ノドン
ムスダン
テポドン1号
テポドン2号
KN-08
北極星1号
北極星2号
火星12
火星14
これらのミサイルは発射実験をしなくても推進器の燃焼実験さえ行えば簡単に飛距離を伸ばすことが出来そうです。
その上、平和的な人工衛星の打ち上げを行えばロケットの誘導技術も向上するでしょう。
北朝鮮が国内で秘密裏に行う核兵器の製造とミサイルの推進器の燃焼実験は砲艦外交のみでは阻止出来ません。
それには中国、ロシア、全てのアジアの国々が団結して北朝鮮の経済制裁を完全に実施しなければなりません。
しかしそれは非常に困難な外交交渉になります。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」の政策が邪魔になります。
TPPやパリ協定からの勝手な脱退を考えると、多くの国々はそう簡単にトランプ大統領の言いなりにならないと思います。
根気が要求されるオーソドックスな外交手法が必要になります。はたしてトランプ大統領はそれに成功するでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

甲斐のくにの紅葉(3)山梨県立美術館と文学館の紅葉

2017年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
戦争に負けてしまった日本は戦後の72年間、経済的な復興と精神的な復興をして来ました。
幸運にも平和に恵まれ、経済も精神文化も各段に成長しました。この精神文化の成長はいろいろな例をあげれば歴然です。例えば現在の各地の美術館の規模と充実ぶりもその一例です。
上野には松方コレクションを常設展示してある国立西洋美術館があり倉敷には大原美術館があります。箱根や長野の美ケ原には大規模な彫刻の野外展示もあります。
そして地方のそれぞれの県にも立派な美術館がありす。以前何度も訪れた山梨県立美術館は、ミレーに代表されるバルビゾン派の絵画を蒐集、展示している立派な美術館です。同じ敷地に大きな文学館があり樋口一葉や太宰治や芥川龍之介や夏目漱石などの肉筆が展示してあります。尚、樋口一葉の両親は甲州の出身なのです。
それでは先週撮って来た山梨県立美術館、文学館の構内の紅葉の写真を示します。

1番目の写真は山梨県立美術館です。1978年の開館以来、「ミレーの美術館」として有名です。
最初の収蔵品のミレーの《種をまく人》をはじめ、ミレーやバルビゾン派の画家、ヨーロッパの主要な風景画家、ならびに山梨ゆかりの画家の作品を収集し展示しています。
 所蔵品の総点数は現在約1万点で、常設展示は年4回展示替えを行っています。

2番目の写真は美術館の前の広場です。岡本太郎やザッキンやムーアの大きな彫刻が野外展示されています。この広場を挟んで文学館があります。

3番目の写真は山梨県立文学館です。平成元年十一月三日に開館いたしました。
樋口一葉や芥川龍之介、飯田蛇笏等の資料を収集・保存し、展示しています。
丁度、太宰治の妻だった津島佑子の特別展を開催していました。

4番目の写真は美術館の2階から見た西側の庭で岡本太郎の大きな彫刻が展示してあります。周囲に甲斐の山々が見えます。

5番目の写真は美術館の南側の庭の紅葉です。ここは何時もは美しい水を湛えた池になっていますが、間もなく冬が来るので水を抜いています。

6番目の写真は美術館の2階の窓から見た東側の庭の紅葉です。

7番目の写真は広大な無料駐車場をぐるりと囲んでいるイチョウの黄葉です。

写真に示したように山梨県立美術館を囲んでいる樹々の紅葉や黄葉の写真を撮りながら展示も鑑賞して来ました。
その展示品の概略を簡単にご紹介します。
まず美術館は広い第一の常設展示室から始まります。そこにはミレーの絵画が多数展示してあります。1975年の開館以来、毎年買い集めて来ただけあってミレーの絵画が数十枚展示してあるのです。ミレーの絵画の収集としては国内随一です。
題二展示室はバルビゾン派の風景画だけを集めて展示してあります。パリの近くのバルビゾンに住んでいたコロー、ミレー、テオドール・ルソー、ドービニー達のことをバルビゾン派と言います。これにクールベを加えてもよいと思います。
その絵画を一言でまとめれば写実的に描いた美しい自然の風景画です。1830年から50年位の絵画です。これの終わる頃、重なるようにして印象派が隆盛するのです。
日本画にも美しい風景画が多いので、バルビゾン派の絵画は私たちにも分かり易く大変好まれます。
第二展示室の終りの部屋には静物画だけが展示してあります。静物画も深い精神性が感じられなかなか良いものです。
このように展示がミレーの農村風景、バルビゾン派の風景画、そして静物画だけと3つに分類して展示してあるところが良いのです。下手に印象派の絵が混じっていない点が学芸員の見識です。
西洋の絵画は中世の暗い宗教画から15世紀のルネッサンスで、モナリザを描いたレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロの絵画へと人間中心のものに変貌しました。
そして雑に言えば、バルビゾン派の絵画へ、そして印象派の絵画から近代抽象画へと発展していったと言えます。

8番目の写真は常設展示の絵画の例です。この写真は美術館のHPです。
この美術館では並行して、「狩野芳崖と四天王 ー近代日本画、もうひとつの水脈ー」という特別展を平成29年11月3日(金・祝)~12月17日(日)に開催しています。
狩野芳崖の《悲母観音》(明治21年 東京藝術大学蔵)は是非見たかったのですが、展示期間が12月2日~17日なので見ることが出来ませんでした。

さて山梨県立文学館ですが、ここも何回か訪れました。
今回は津島佑子の特別展でしたので家内だけ観に行きました。津島佑子の母、石原美知子は井伏鱒二の媒酌で太宰治と結婚しました。
家内は石原美知子に関心があったようです。甲斐出身の石原美知子の祖先の人々を描いた津島佑子の大作「火の山-山猿記」の全原稿、ビデオによる講演の肉声に触れて、たいそう感動した様子でした。展示では父の太宰治にはほとんど触れず、「津島佑子」を独立し卓越した作家として紹介していたそうです。父の有名さに頼らない学芸員の見識が立派です。

尚、津島佑子は1947年生まれ、2016年没で本名は里子です。
この「津島佑子展ーいのちの声をさかのぼるー」は平成29年9月23日(土・祝)から11月23日(木・祝)まで開催しています。
この特別展の他に文学館には樋口一葉などの資料の他に、山梨の俳人、飯田蛇笏、飯田龍太の詳細な資料が常設展示してあります。

以上のように山梨県立美術館と文学館は紅葉や黄葉が美しい上に、内容が充実していますので是非お出掛けになって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

甲斐のくにの紅葉(2)甲斐駒岳山麓の小屋の周囲の紅葉

2017年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
深い、深い森の奥に私は小さな小屋を持っています。1974年に建ててからもう43年間も通よっています。猿や鹿は猪が沢山棲んでいる山深い雑木林の中にある小屋です。毎年11月には紅葉が美しくなります。
今回も昇仙峡で昼食を食べた後に行きました。
例年通り雑木林の紅葉や黄葉が輝いていました。
その写真をお送り致します。

1番目の写真は甲斐駒岳の麓に広がる雑木林の中を登って行く道です。
細い砂利道を2Km位根気良く上がっていくと私の小屋に着きます。
紅葉や黄葉の色が混じりあって美しい樹々が果てしなく続いています。何処かに桂(カツラ)の落葉があるのか甘い香りが漂っています。
この道に車を入れると、嗚呼、別世界に来たと感じます。水田の作れない高冷地なので人が住んでいないのです。人がいないので小鳥や雉がたくさんいて美しい声で鳴いています。
初夏にはハルゼミが、そして盛夏にはヒグラシ蝉などの幻想的な声が林の中に響いています。

2番目の写真は小さな私の小屋です。6畳と4畳半の2部屋だけです。電気は引いてありますが水道やガスは来てません。
1974年の小屋を建てるとき、大工さんが木造にするとすぐに腐って倒壊してしまうと言って、鉄筋コンクリートの小屋を作ってくれました。それは実に正解でした。木製の内装の部分はすぐに腐ってしまうのです。床の全面を防水コンクリートにしましたが窓やドアの隙間から湿気が入って内部はカビだらけになるのです。
他の地域の別荘の人に聞くとやはり留守の間に屋内の全ての物が湿ってしまって困ると言います。
山林の中の小屋と言えばロマンチックですが現実はなかなか厳しいものなのです。

3番目の写真は小屋の東側の庭先の雑木の紅葉の写真です。庭先の斜面を登ると白樺林があります。庭は谷地になっていて一年中水の涸れない小川が流ています。
水道がありませんので、この小川の水を生活用に使います。飲み水は持参して行きます。

4番目の写真は小屋の周囲の林の紅葉の写真です。まったくの自然林なので樹木の枝が枯れて折れることが普通です。植木屋が綺麗に剪定する筈はありませんので、林は荒れたような景観になります。40年以上前に小屋を作った時代には里人が周囲の雑木林を薪にしていたので管理していました。雑木の大きさと間隔が一定に揃えてあったので荒れた景観はありませんでした。

5番目の写真は庭の小川の写真です。岸辺に落ち葉がありますが、冬までに全て流れて綺麗な小川になります。
以前は腹に斑点のある岩魚が2匹ほど棲んでいましたが、最近は見かけなくなりました。猪の足跡が岸辺に沢山あるので猪に食べられてしまったのかも知れません。この小川の川筋で鱒を飼っていた人がいましたが、時々、その鱒が逃げて私の小屋の前の小川を泳いでいたこともありました。

6番目の写真は庭の小川にある小さな滝の写真です。この小川は実に良い音を立てて流れているのです。サアーサアーといったりコロコロと言ったり、いろいろな音を出すのです。清い音です。夕方になるとコトコトと言い、夜になるとゴトンゴトンと流れ下ります。
小川の精霊が私に話しかけて来るのです。それは楽しいものです。家内は面白そうに返事をしたり、相槌をうったりしています。
この土地を買う時、案内して来た不動産屋さんが5つほどの区画を見せて、すきな区画を買って良いと言ったのです。
私は迷わずに小川が流れている区画を買ったのです。この小川のお陰で非常に楽しいことになったのです。
小川の傍にテーブルを据え朝はコーヒーとトースト、ベーコンエッグです。夕方はバーベキューと冷えたビールです。
夏に孫達が来れば小川に入って水遊びです。小川は私共の宝なのです。

7番目の写真は今回燃やした薪ストーブの写真です。
電気ストーブや石油ストーブを使ったこともありましたが、薪ストーブが一番暖かで良いという結論になりました。薪が燃える音と香が何とも言えず良いのです。

8番目の写真は窓の外の大きな樹々の写真です。薪ストーブの煙突からの煙が薄く流れ、それに晩秋の日の光が斜めに射し込んでいます。遠方の森からケーンという雉の鳴き声が響いて来ます。

この山林の中の小屋は此の世とは離れた別世界のような感じがします。
此処に行き続けて、もう40年以上になりました。現在81歳の私にとっては我が人生で一番長続きした趣味になりました。
一番大切な趣味です。12月も行こうと思っています。充実感のあった趣味でした。雑木林と小川に感謝しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

キリスト教の簡単な説明(3)イエスは何故生き返って来たか?

2017年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載では仏教には無いキリスト教の特徴を幾つか取り上げて説明しようと思います。
そこで2017年11月05日 の「キリスト教の簡単な説明(1)何故イエスは処刑されたか?」では、イエスがユダヤ教の保守派に捕まって死刑になった経緯を書きました。
イエスは十字架の上で苦しみながら、「神は私を見捨てられるのか!」と叫んで絶命したのです。
仏教と比較すると、お釈迦様は弟子たちに見守られながら、平和に死んで行くのです。
続いて、2017年11月08日 には「キリスト教の簡単な説明(2)水を葡萄酒に変えたイエス」を掲載しました。
カナの婚姻で葡萄酒が足りなくなったときイエスが水を葡萄酒に変えたという奇跡を書きました。
佛教ではお釈迦さまは奇跡を行いません。人間自身が色即是空、空即是色を理解し信じれば悟りの境地に入れるのです。奇跡なんて必要ないのです。

連載の第三回目の今日はいよいよキリスト教の一番重要な「復活」ということを取り上げます。
復活とは死んだイエスが生き返って弟子たちに現れることです。そして最後の日に全ての死んだ人間がまた生き返えることも意味します。
新約聖書に十字架上で刑死したイエスが、その後白い亜麻布に包まれて洞窟の中に葬られたことが書いてあります。
ところが死んだはずのイエスが亜麻布を脱ぎ捨て、マグダラのマリアや弟子たちの前に現れたのです。
イエスは何故生き返って出て来たのでしょうか?
その理由の一つは愛する弟子たちに自分の姿をもう一度見せる為でした。そして弟子たちに聖霊を与え、「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされる」という聖職者としての力を与えたのです。
もっと俗な説明をします。
人間は誰でも、死んだ両親や兄弟や恩人、友人にもう一度会いたいと思います。しかしそれはかなわない夢にすぎません。先に死んでしまった夫や妻に恋い焦がれます。でも二度と会えません。
しかしイエスの生き返りはそれが儚い夢ではなく実現することを暗示しているのです。
キリスト教が愛の宗教だと言われる所以でもあるのです。
そして先に死んでしまった夫や妻に恋い焦がれることは民族の違いに関係なく人類共通のことです。
これもキリスト教が世界宗教だという根拠の一つになっているのです。
さて生き返ったイエスはその後、天に昇って神の右の座につきます。
そうして最後の審判の日に再びこの世に帰ってくるのです。その最後の日に全ての死者の肉体が蘇ってくるのです。私はこの永遠の命を信じています。これがキリスト教の復活の意味なのです。
写真に生き返ったイエスが弟子たちの前に現れている場面を描いた絵画を示します。

1番目の写真は『キリストの復活』の絵画です。18世紀にポーランドで描かれました。
(写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99) です。)

さて科学的に考えれば一度死んだ人間は絶対に生き返りません。それは明々白々なことです。
私の昔の職業は実験科学者でした。ですからイエスの復活は有り得ないと思います。
しかし信仰の上ではイエスの復活を信じています。これはキリスト教の一番重要な教えだと信じています。
何故、信じているかを言葉では説明できません。ですから他人へ信じなさいと言うことも絶対に出来ません。
強いて言えば次のように聖書に書いてあるからです。
ヨハネによる福音書、第20章
(1)弟子たちがイエスの遺体が消えていることを発見する場面
1さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。 2そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。 3そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。 4ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、 5そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。 6シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、 7イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。 8すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。 9しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。 10それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
(2)生き返ったイエスがマグダラのマリヤに話しかける場面
11しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、 12白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。 13すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。 14そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。 15イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。 16イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。 17イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
(3)マグダラのマリヤが弟子たちへイエスが生き返ったと報告する場面
18マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
(4)イエスが弟子たちに会い、聖霊を与える場面
19その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 21イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 22そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 23あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
(5)弟子のトマスだけがイエスの生き返りを信じないと言う場面
20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
(6)イエスがトマスの前に現れ、手を釘跡の傷穴に入れて見なさいと言う場面

2番目の写真は生き返って立ったいるイエスがそれを信じないトマスが脇腹の傷跡を探っている光景を描いた絵画です。(出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/ です。)

26八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 28トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 29イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
30イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。 31しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

如何でしょうか?
佛教には無い教えですね。仏教とキリスト教の違いはお分かりになったと存じます。
こういう教えがキリスト教なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

山の別荘の庭でのクリスマスリース作りへのご招待

2017年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある別荘の持ち主が庭でのクリスマスリース作りへのご招待しています。
お子様連れや、どなたでもお気軽にいらっしゃって下さい。勿論無料です。材料は用意してあります。

この別荘の庭は陽賜里工房ガーデンと称していまして毎年、春と秋にオープンガーデンが開催されています。

リース作りの指導は原田聖也さんがして下さいます。その母上も指導してくれます。

日時:11月23日(木)午後1時30分から3時30分の間です。

ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里工房ガーデンです。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail: t-taraku@t-net.ne.jp

この庭のそばまで一昨日行ってみましたら紅葉が綺麗でした。
写真はその時近くの雑木林の黄葉を撮ったものです。


甲斐のくにの紅葉(1)修験道の昇仙峡と紅葉

2017年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県は昔甲斐の国と呼ばれていました。現在この甲斐は紅葉まっさかりです。
一昨日は甲府市内のある旅館に泊り、二日間、周辺のいろいろな場所に行って紅葉の写真を撮って来ました。
そこで以下のように連載記事にして順にお送りしたいと思います。
(1)昇仙峡の紅葉、(2)甲斐駒山麓の雑木林の紅葉、(3)七里が岩の紅葉(4)武田神社の紅葉、(4)山梨県立美術館の紅葉。

さて今日は「修験道の昇仙峡と紅葉」をお送りします。
甲斐のくには険しい山が沢山ありますので昔から修験道が盛んでした。皆様よくご存知の富士山の他に、白い花崗岩の姿の美しい瑞牆山(みずがき山)や地蔵岳や金峰山などなどがあります。
昇仙峡はその源流にある金峰山へ登る道筋として多数の修験者たちが白装束で歩いた道です。
その道には覆いかぶさるように聳え立つ岩山が続いているのです。
その岩山の神秘的な姿は此の世のものではありません。別世界に足を踏み入れたと感じるのです。
修験道とは大昔からあった山岳信仰に空海の密教が混淆した日本独自の信仰です。
そんな昔の修験者たちの白装束の行列を想像しながら紅葉の写真を撮って来ました。

1番目の写真は覚円峰です。昇仙峡を代表する岩峰でほぼ垂直に屹立する高さ約180mの巨岩です。
その昔、僧侶覚円が畳が数畳敷ける広さの頂上で修行したことが、その名の由来です。

2番目の写真は覚円峰の対岸にある天狗岩です。
江戸時代後期に成立した『甲斐国志』では、この岩峰の下の道は玉塁と称されていた金峰山に至る道になっていました。古くからの信仰の道だったので、付近の洞窟には修験者の修行跡や刻字が残り、また空海の伝説も伝わっておるそうです。

3番目の写真は日本の滝百選に選ばれた仙娥滝の上の山の紅葉です。
昇仙峡は1923年(大正12年)に国の名勝に指定され、1953年(昭和28年)には特別名勝に指定されています。
昇仙峡は入り口の長潭橋から仙娥滝までの全長約5キロメートルに亘る渓谷です。渓谷内には、柱状節理の花崗岩および輝石安山岩の奇岩が至る所にあります。

4番目の写真は昇仙峡を過ぎてさらに荒川ダムへ登って行く道の紅葉です。

5番目の写真は荒川ダムに着いた所にあった紅葉です。このダムは甲府市内を流れる荒川の上流にあり甲府市の水道水になっています。

6番目の写真はダム湖に映る紅葉の写真です。美しかったので長い間眺めていました。

7番目の写真はダム湖の対岸の紅葉と陽にきらめく水面の写真です。

昇仙峡は紅葉の頃によく行きました。派手なホテルや都会風のレストランが無く静かな観光地です。入り口の長瀞橋を渡ると広い無料駐車場がありますので、そこに車を置き、観光馬車で渓谷の道を登ったこともありました。
さらに車で上の方に登ると広い県営の無料駐車場があり、そこに車を置き、仙娥滝まで下りて行ったこともあります。
紅葉はまだまだ美しいので是非一度お出掛け下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料======================
昇仙峡の山岳信仰としての歴史、
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%87%E4%BB%99%E5%B3%A1 )
金峰山信仰と昇仙峡
昇仙峡を含む奥秩父山塊には甲信国境に金峰山があり、古来から山岳信仰が広まり、甲府方面から昇仙峡を通過し金峰山頂に至る吉沢口など修験道の道として御嶽道が存在していた。
金峰山信仰は近世にも展開され、御嶽道は甲府方面の南口のみならず東口・西口方面からも山口九所と呼ばれる登拝口が整備され、いずれも昇仙峡を通過する街道として整備された。また、近世初頭には甲州街道が整備され甲斐には江戸から多くの文人が往来し、昇仙峡は地誌類を通じて山岳信仰のみならず甲斐の名所として広まった。

御岳新道(渓谷沿いの観光ルート)の開削と観光開発[編集]
江戸時代に荒川上流の猪狩村(甲府市猪狩町)と周辺諸村は製炭が盛んで、甲府城下へ薪炭を販売するために御岳道(外道)を通過していた。御岳道は荒川西岸の難路であったため、荒川沿いの新道の開発が望まれていた。
御岳新道は天保14年(1843年)には完成しており、この御岳新道は現在の渓谷沿いの観光ルートとしても利用される。

昇仙峡を描いた絵画資料として『甲州道中図屏風』がある。『甲州道中図屏風』は幕末期の嘉永4年(1851年)から慶応3年(1867年)にかけて作成され、本来は巻子状であったものが近代に順不同で屏風絵に仕立て直されたと考えられている。作者は不明であるが武士であり、高尾山・身延山久遠寺の参詣、武田氏に関する史跡来訪を目的とした旅で、時期は8月下旬であると推定されている。

神代植物公園のダリア園の花々の写真

2017年11月10日 | 写真
戦前、私の家は仙台市の向山という町にありました。もう随分前に亡くなった父が庭にダリアやマーガレットの花を咲かせていました。春にはスイセンやチューリップも咲いていました。それが次第に戦争が激しくなるに従って姿を消し、一面にカボチャが生い茂るようになったのです。
最近はダリアの花は流行らないようで家々の庭では見かけないようです。
しかし神代植物公園にはダリアの花園があります、見たことの無いような珍しいダリアもあります。
ダリアの花を見ると仙台の戦前の家の庭を思い出し懐かしいです。
先日、そのダリア園で撮った写真をお送りします。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













アメリカと北朝鮮の対立と恐竜の1億4千万年間の繁栄

2017年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日はトランプ大統領が韓国の議会で演説をしました。北朝鮮沖に空母打撃群3つを展開し原子力潜水艦も随伴していることを明言していました。
なにせ韓国軍と米軍は朝鮮動乱やベトナム戦争で共に戦った友軍同士なので、北朝鮮と戦争になればまた共に戦うことになります。従って演説の内容もかなり激烈なものと感じました。
トランプ大統領は戦争も本気で考えているようで怖い感じがました。
こういう時こそ日米韓の人々が一層冷静になり、もとお長い歴史観で緊迫した問題を考えたほうが良いと思います。
そこで今日は少し壮大な想像力を働かせて恐竜と人類の運命を考えてみます。
恐竜はその定義にもよりますが約2億年前に出てきて非常に繁栄し、地球上の全地域に住んでいた動物です。
雑に言えば現在の爬虫類を大型にしたような動物です。それが6600万年前に突然絶滅してしまったのです。
巨大な隕石がメキシコ湾に落ちて、その粉塵が地球の上空に長期間漂い寒冷化し、全ての恐竜が絶滅してしまったのです。それは全ての生物の進化の歴史において最大級のドラマチックな現象でした。
地球上を覆っていた多種多様な恐竜が一夜にして消えてしまったような出来事でした。
6600万年以前には勿論日本にも恐竜が数多く闊歩していたのです。

現在、日本では福井県から恐竜の化石が沢山出て来ます。
しかし、当時は日本列島は存在していなかったのです。
ですから現在の福井県の風景と恐竜を組み合わせるのは荒唐無稽です。第一、植生があまりのも違います。そして山並みも後に海底の隆起で出来たのでしょうから荒唐無稽です。
それにもかかわらず恐竜の存在を身近に感じて頂くために現在の風景と恐竜を合わせてみました。

1番目の写真は2015年10月19日に撮った北海道の知床の風景です。当時は別の種類の樹木だったと思われますが。

2番目の写真も2015年10月19日に撮った知床五湖の風景です。
これらの土地には現在多数のエゾシカとヒグマは住んでいて私共もバスの窓から見ました。
しかし6600万年以前には、ここに恐竜しか棲んでいなかったのです。その時代にはエゾシカやヒグマやキタキツネなどは影も形もありません。そのような哺乳動物の出現はずっと、ずっと後なのです。
恐竜が日本全土に繁栄していたことは福井県からの恐竜の化石で照明されています。それらの化石は勝山の恐竜博物館に展示されているのです。写真にその博物館の屋外に展示されている恐竜の復元像を示します。

3番目の写真は福井の山波を背景にした草食恐竜の姿です。

4番目の写真は福井の勝山の盆地を背景にした草食恐竜の姿です。

5番目の写真は日本の山脈を背景にした肉食恐竜の写真です。
恐竜の化石は少数ながら全国で発見されています。しかし福井県では非常に多数出土しています。その理由は簡単です。
恐竜の棲んでいた頃の古い地層が福井県だけで地表に露出しているからです。
私は恐竜の繁栄と突然の絶滅に興味があります。
2つの理由で興味があります。
一つは恐竜の繁栄を証明したのが1840年以後の近代科学の発達によるものだからです。それ以前の人類は恐竜の存在を想像すら出来なかったのです。
もう一つの理由は6600万年前の突然の恐竜の絶滅は未来の人類の絶滅を暗示しているからです。
何時の日か巨大隕石が地球に衝突し、地球を破壊する日がやってくると暗示しているのです。
そのことを想像すると戦争の無意味さがしみじみと理解出来るのです。
アメリカと北朝鮮の抗争も無意味に想えるのです。
人間は限りある期間だけ地球上に生きているのです。
生きている間だけでも仲良く平穏に暮らしたいという思いに駆られるのです。
ですから私は恐竜の繁栄と絶滅の歴史を大切にしています。
こんな考え方は間違っているでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料================
恐竜とは:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%90%E7%AB%9C
1842年、それまでに発見されていた3種の化石爬虫類(イグアノドン、メガロサウルス、ヒラエオサウルス)の新しい分類名として、リチャード・オーウェンによって命名されたものである 。
定義:
通俗的には、「恐竜」という言葉は往々にして「大昔の爬虫類」という程度の把握しやすいイメージで認識されており、同じ地質時代に生息していた翼竜や魚竜・首長竜のほかに、古生代に生息していた一部の非哺乳類型の単弓類(いわゆる哺乳類型爬虫類)なども含めた概念として呼ばれる場合が少なくない。“恐竜展”や子ども向けの“恐竜図鑑”などではこれらの各種爬虫類や、さらには恐竜絶滅後の生物(マンモスなど)まで含めて展示/掲載するものがよく見られる。 しかし正確には「恐竜」は、系統的に異なる翼竜、魚竜、首長竜などは一切含まない独立した分類群である。この分類群、即ち恐竜類はそのもっとも際立った特徴をして「直立歩行に適した骨格をもった爬虫類」と呼ぶことができ、ほぼすべて地上に棲んでいる。
絶滅:
K-Pg境界(以前はK-T境界と呼ばれた)の大量絶滅は、恐竜のみならず数多くの動植物を巻きこんだという意味で大規模な絶滅であり、事実、K-Pg境界における恐竜の絶滅に関する科学的な研究は長い間なされてこなかった。
絶滅の主要因に関する仮説には以下などのものがある。
短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・すい星遭遇説など)
長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)
そのうち、確定的とされているのは巨大隕石の衝突である。1980年、地質学者のウォルター・アルバレスとその父で物理学者のルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる中生界白亜系と新生界古第三系を境する粘土層(通称K-T境界層)に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であり、かつ、イリジウムは地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、大量絶滅の原因を隕石の衝突に求めた。
その後、1991年メキシコ・ユカタン半島に、直径180キロの巨大クレーター(チチュルブ・クレーター)が再発見され、このクレーターを形成した隕石の衝突が恐竜絶滅の原因だとする説が提唱された。この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると主張された。

キリスト教の簡単な説明(2)水を葡萄酒に変えたイエス

2017年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は読んで楽しい話と見てたのしい絵をご紹介いたします。お気軽にお楽しみ下さい。
お話は新約聖書に書いてあるキリストが水を葡萄酒に変えてみんなに振る舞ったという話です。
「カナの婚姻」という有名な話です。
結婚の宴席で葡萄酒が足りなくなりました。客として招待されていたイエスが6個の甕の水を葡萄酒に変えたのです。人々はそれを飲んでさらに楽しい宴席になったのです。非常に明快な個所なので以下に聖書の文をそのまま示します。

・・・それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2:1ー10 )・・・

この話の面白いところは宴席で酔いが回ったら悪い葡萄酒を出すという当時の知恵です。これは現在でも通用します。私は以前はまず上等なスコッチを一杯飲みます。少し酔ったら国産のウイスキーにしました。少し酔った後は何を飲んでも美味しいのです。
そのことをイエスさまも知っていたので、逆に上等な葡萄酒にしたのでしょう。親近感が湧きます。
それにしても自分の母であるマリアへ「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。・・・」と言ったことはイエスが不孝者だったことの証明です。そしてやがて十字架の刑で死んでしまうのです。母の目の前で息子が死刑になるのです。これほど不孝な話はありません。この悲劇を暗示している文章が、・・・わたしの時はまだ来ていません。」 ではないでしょうか。
それはそれとして、世話役が「・・・あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」という場面には思わずニヤリとします。

このように「カナの婚姻」は面白い話なので多くの画家が絵に描いていましす。
そこでここでは、パオロ・ヴェロネーゼの「カナの婚礼」の巨大な油彩画と、「ムッシューP」さんがお書きになった簡明な解説を引用します。
ムッシューPさんの解説は、http://t-jikkosan.jugem.jp/?eid=59 にございます。
今回の作品は、ルネサンス、ヴェネツィア派の巨匠パオロ・ヴェロネーゼの大作「カナの婚礼」です。 パリのルーヴル美術館にあるこの絵は、あまりにも大きな画面に、たくさんの人びとが描かれていて、それだけでも圧倒され、記憶に残る作品です。

1番目の写真はパオロ・ヴェロネーゼ作 「カナの婚礼」1562-63/パリ・ルーヴル美術館、です。
なんと、縦666cm、横990cmの大画面です。大作で有名な、あのダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」より大きく、ルーヴル美術館で最大の絵画だそうです。描かれた人物は、100人以上、130人といわれています。犬や猫も、いきいきと描かれています。

2番目の写真は「カナの婚礼」中央下部分です。
祝宴の主座には、キリストが正面を向いて坐っています。聖母マリアが隣に、ほかに弟子たちが同席していますが、この絵の風俗画的な特徴として、注文主の要望に沿い、各国の国王や女王、多くの著名人が加わっていることです。

3番目の写真は「カナの婚礼」左下部分です。
さて、この婚礼祝宴の花婿と花嫁はというと、どうやらいちばん左端に坐っているカップルが、そうのようです。とくに彼らの絢爛豪華な服装が目立ちます。花婿が手を伸ばして、受け取ろうとしているぶどう酒が、すでに奇跡によって、水から上等のぶどう酒になったものと思われます。

4番目の写真は「カナの婚礼」右下部分です。
水甕から、奇跡のワインが酒瓶に注ぎこまれています。味見をした後、グラスのぶどう酒を凝視して、感嘆しているのは、サン・ジョルジュ・マッジョーレ修道院の当時の院長、ジローラモ・スクロケットだそうです。手前の水甕にじゃれ付いている猫がいます。まだキリストが起こした奇跡に、誰も気付かず、無邪気に祝宴を楽しんでいる様子を表しているのでしょう。

さてこの大作はイタリアのルネンサッス(文芸復興)期に描かれました。それまでの西洋の宗教画の暗さに比較すると、活き活きと人生を楽しんでいる人々が描き出されています。それはギリシャ時代の人間賛歌への回帰です。文芸復興とはギリシャ文化への回帰、すなわち復興なのだと学校で習ったことを思い出しました。
ところでカナの婚姻ではイエスさまが水を葡萄酒に変える奇跡を行ったのです。
私はこの事実は信じています。科学的に不可能なことを私はよく理解しています。しかし私は聖書に書きてある全ての奇跡を文字通り、そのまま信じています。それがキリスト教です。
でも他人には信じなさいとは絶対に薦めません。そのことが一番重要なことだと思っているからです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北朝鮮に対抗する日本とアメリカは運命共同体か?

2017年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の11月3日に『北朝鮮沖に展開する3隊の米海軍空母打撃群の効果』という記事を掲載しました。その冒頭は次のようなものでした。
北朝鮮とアメリカの軍事衝突は次の3つの条件が満足されると始まる可能性が非常に大きくなります。
(1)アメリカの海軍や海兵隊が北朝鮮沖に集結する。
(2)中国が確実に中立を守るという確約をアメリカにする。
(3)北朝鮮が沖に展開するアメリカ軍へ対して武力攻撃をする。
以上の3つの条件のうち最近になって(1)と(2)の可能性を暗示するニュースがありました。
一つは3つものアメリカの空母打撃群が日本海に展開していることです。
二つ目はアメリカの航空母艦が中国の香港に3年ぶりに寄港した事実です。
今日はこの2つの重大ニュースをご紹介した上で、(3)についての推論を書きます。・・・以下省略。

さて今日はトランプ大統領とイバンカ補佐官の日本訪問について、上記の11月3日掲載の記事の続編として書いてみたいと思います。
今回のトランプ大統領とイバンカ補佐官の日本訪問の目的は北朝鮮の脅威に対して、最後の手段の軍事行動においても日米が強固に団結して戦うという準備をすることです。そしてもう一つの目的はアメリカの農産物や軍備を日本がもっと輸入するように要請することです。
この2つの目的は密接に関係していて別個の問題ではありません。
トランプ大統領は、安倍総理が大統領当選後すぐに彼の自宅を訪問して祝意を表したことを恩に思っていると今回表明しました。そして2晩3日の日本滞在の間に安倍総理と10時間近く一緒に行動したのです。両者の親密ぶりは従来のアメリカ大統領に比較しても一番親密だと言っても過言ではありません。過去には中曽根総理とレーガン大統領そして小泉総理とブッシュ大統領も仲良かったのですが、それ以上親密な様子です。
そして今回トランプ大統領は拉致被害者の家族を迎賓館によび入れ面会し親しく言葉を交わしたのです。
前のオバマ大統領は広島の原爆慰霊碑に詣りました。そして今回はアメリカの大統領が拉致被害者の家族の訴えに耳を傾けたのです。
北朝鮮の脅威に対して日米が強固に団結して戦うというメッセージを北朝鮮へ送ったのです。
冒頭にか書いた3隊の米海軍空母打撃群は日本の防衛にも直接的に役に立っているのです。
このようなトランプ大統領の積極的な政策と実行力を見ると北朝鮮に対抗する日本とアメリカは運命共同体のような存在になっていると感じざるを得ません。特に日本独自で出来ることはほとんど無いので、ただ座してこの運命を受け入れる他は無いような気分になります。

さて今回のトランプ大統領の特別な行動は、来日の第一歩として横田米空軍基地に降り立った事実です。これは歴代のアメリカ大統領が羽田空港を使ってきたことに比較して大変特別なことです。
横田空軍基地に着くやいなや米軍の将兵を集めて彼等の苦労に感謝し鼓舞する演説をしたのです。集まった人数が多いので米空軍の厚木基地や三沢基地や岩国基地からも幹部将兵を集めたのかも知れません。これもトランプ大統領の断固とした軍事的選択肢の決意の表れなのでしょう。もっともオバマ大統領も岩国空軍基地でアメリカの将兵を集めて演説しましから、これは単なる恒例の行事とも思われます。

さて今日はトランプ大統領は韓国に行きます。
韓国でも拉致被害者の家族に会うのでしょうか。そして北朝鮮の脅威に対して、最後の手段の軍事行動においても韓米が強固に団結して戦うという確約をとるのでしょう。
その後は中国に行きます。
中国との貿易問題も重要な話題ですが、冒頭に書いたように中国が確実に中立を守り北朝鮮へ軍事支援をしないことを交渉すると思います。勿論、中国が北朝鮮を経済的に圧迫することも要請します。代わりにアメリカは中国の南沙諸島の軍事基地に対して譲歩的な態度を示すでしょう。勿論、南シナ海、そしてインド洋の船舶の安全航行は中国も保証するように交渉するでしょう。
その後のベトナムとフィリピンの訪問では、南シナ海でのこれ以上の中国との紛争はひかえるように説得するでしょう。そして北朝鮮に対するアメリカの経済圧迫政策に協力するように頼むはずです。

以上のように考えると今回のトランプ大統領の日本、韓国、中国、ベトナム、フィリピンの訪問はこの地域の平和に直結した非常に重要な行動だと考えられます。
トランプ大統領はその差別主義的言動や露骨なアメリカ第一主義のせいでアメリカのマスコミの評判が悪いのも事実です。アメリカの理想主義者に嫌われてもいます。私自身もあまり好きではありません。
しかし彼の現実的な考え方がアジアの平和に大きく貢献するかも知れません。全ては歴史が証明するでしょう。

今日の挿絵代わりの写真は清瀬市金山緑地の昨日の黄葉の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









キリスト教の簡単な説明(1)何故イエスは処刑されたか?

2017年11月05日 | 日記・エッセイ・コラム
こんにちは。毎日、ご気分よくお過ごしでしょうか?
今日はまず美しい水蓮の花々の写真をお送りいたします。先日、神代植物公園の温室で撮ったものです。熱帯では、水蓮の花が年中いつでも咲いているのでしょうか?この温室では季節に関係無く、何時行っても色とりどりの花々が咲いています。
写真の花々の色合いをお楽しみ頂けたら嬉しくおもいます。













 さて、キリスト教は1549年にザビエルによって日本に伝えられました。それから468年がたちました。
この長い年月にもかかかわらず、日本人にとってはキリスト教とはどんな宗教なのか簡単には理解できません。
それまで馴染んで来た仏教や神道とはあまりにも違うからです。
そこで2017年10月27日 に掲載した「キリスト教を簡単に理解する方法」という記事では、仏教と比較しながら説明をしました。
それでも分かり難かったかも知れません。
そこで現在の日本人の常識にしたがってキリスト教の理解し難い点を幾つか説明したいと存じます。幾つかの分かり難い点を説明して行けばやがて全体像が明快に見えて来るのではないでしょうか?
断片的に思い付く話題を出しますので、体系的でもありませんし、学問的でもありません。
今日は「何故、キリストは死刑になったか?」という疑問を説明したいと思います。
結論を先に書けば、イエスが従来のユダヤ教の指導者達を馬鹿にしたからです。怒ったユダヤ教の保守的な指導者達がイエスを捕まえて裁判にかけて十字架の死刑に処したのです。
この事件は西洋社会に2000年も続いたユダヤ人の差別と迫害の原因になったのです。それは大変重大な事件だったのです。
その直接的な原因となったイエスがユダヤ教の指導者達を馬鹿にした場面は新約聖書に書いてあるのです。
それはマタイによる福音書の第23章の冒頭に明示してあります。私の勝手な意訳と説明を付けた文章を以下に示します。

・・・イエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「ユダヤ教の保守的な指導者達の律法学者とパリサイ人は、モーセのような宗教上には正しい座にすわっている。 だから、彼らがあなたがたに言っていることだけは、みな守って実行しなさい。
しかし、彼らの行為には、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないからです。
一般信者へ重い荷物を肩にのせるだけです。しかしその重い荷物を動かすために、保守的な指導者達は自分の指一本も貸そうとはしないのです。
保守的な指導者達のすることは、すべて他人へ見せるためだけなのです。すなわち、彼らは儀式に使う道具をきらびやかに作り、法衣のふさ飾りを大きくします。そして、宴会では必ず上座に着き、会堂の上席を好みます。
保守的な指導者達は常に広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいます。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとり、神だけであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である神だけである。
また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。(この文章はマタイが書いているのです)
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
保守的な指導者達の偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人を入らせもしない。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見栄のために長い祈をする。だから、もっと厳しいさばきを受けるに違いない。・・・

どうでしょうか?以上を読めば保守的な指導者達の律法学者、パリサイ人たちと、彼等に扇動された群衆がイエスを捕まえた事情がご理解出来たと思います。そして、ローマ総督の裁判で死刑の判決を受けたのです。当時の中東はローマ帝国の支配地だったのです。
重大な事件の裁判権はローマから派遣される総督が持っていたのです。
常識的に言えばイエスの処刑はユダヤ教の中の権力争いの結果だったのです。
しかし皆様はユダヤ教の保守的な指導者達の律法学者を好きになれますか?彼等と同じような指導者は仏教の僧侶にもいますね。困ったものですね。
一方、日本の常識でも次のイエスの言葉には納得するでしょう。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」 、そして「常に広場であい挨拶されることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいます」・・・これらのことは世界中に共通しますね。それでこの教えがユダヤ教が民族宗教から世界宗教へ脱皮した一つの原因になっているのです。他にも原因がいろいろありますが、いずれ取り上げて行きます。
こういう教えがキリスト教なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)