後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

4羽の白鳥一家と仲良くなった不思議な体験

2019年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、夏になると南の国から渡って来るオオルリとキビタキの美しい姿の写真をご紹介いたしました。その時冬になると渡って来るいろいろな渡り鳥のことを思い出しました。
夏の間はシベリアのアムール河付近で繁殖する白鳥や何種類もの鴨たちが冬に日本に飛んで来るのです。

1番目の写真は10年位前に私が霞ヶ浦で撮った写真です。ハクチョウの列の向こうに黒っぽいカモ類が泳ぎ、その向こうに白いカモメがが列を作って泳いでいるのが見えます。カモメも渡り鳥なのです。
これはほんの一部でカモ類は湖面を埋め尽くすように一面に泳いでいます。

2番目の写真は湖岸で休んでいる白鳥と鴨たちです。白鳥やカモ類は人を恐れません。私の手が届くくらい近づいても少し動いて私の手を避けます。一方カモメは神経質で近づくと一斉に飛び立ってしまいます。
私は霞ヶ浦にヨットを係留していたので25年間冬になると白鳥やカモ達やカモメの姿を見て楽しんでいました。
そうしたら2羽の白鳥が夏になっても岸辺の草原に棲みついてアムール河沿岸に帰らないのを発見しました。それは2007年の夏のことでした。

3番目の写真は2007年の晩秋に撮った夫婦の白鳥です。この岸辺の草を食べていました。この写真に草原の向こうに黒っぽい堤防のようなものが写っていますが、そこは浮島になっています。夫婦の白鳥は夜になると寝る浮島です。野犬や野良猫の行けない安全なねぐらです。
その翌年見たらこの夫婦に2羽の子供が生まれていました。その翌年も2羽の子供が生まれていました。

4番目の写真は2009年に撮った写真です。4羽の白鳥一家が私のヨットの係留場所近くに遊びに来たのです。ヨットの舷側からいろいろと話しかけました。夫婦の白鳥は小首をかしげて日本語は分かりませんと言います。しかし私と家内の友情は感じ取っていたのです。
その日の夜、ヨットに泊まっていたらこの4羽の白鳥一家が再び遊びに来てくれたのです。

5番目の写真は遊びに来てくれた4羽の白鳥一家です。家内が手を伸ばしてパンを食べさせています。
キャビンの中で作った夕食を食べた後で、後ろの甲板で夜景を楽しんでいたら来たのです。いろいろ話しかけると分かったように首を振ります。それでつい話し込んで1時間以上も一緒に居ました。

私は2011年、75歳の時ヨットを止めました。霞ヶ浦へも行かなくなりました。
しかしあの4羽の白鳥一家が気がかりで2013年11月に車で霞ヶ浦に行きました。
そうして白鳥一家が巣にしていた浮島の傍に行ったのです。
何と草原に4羽の白鳥一家が居るではありませんか。子供は毎年親を離れてシベリアに飛んで行きます。夫婦の白鳥だけが残って毎年2羽づつ子供を育ていたのです。4羽の白鳥一家に近づくとただ小首をかしげてくれるだけです。それが久しぶりに会った私への挨拶なのです。
こうして見るとこの夫婦は毎年のように春に2羽の子供を産み、育てていたようです。そして子供の白鳥は1年後の春にはシベリアに飛んで行くのでしょう。白鳥の夫婦は離婚なしで一生そいとげるそうです。
あの白鳥の夫婦に最後に会ったのは2013年です。もう6年の月日が流れました。

昨日、渡り鳥のオオルリとキビタキのことを書いたので昔つきあった白鳥一家のことを思い出しました。彼らの幸せを祈ります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は美しい夏の野鳥の写真をお楽しみ下さい」

2019年07月21日 | 写真
野鳥の写真を熱心に撮ってブログに掲載している方がいます。
定年退職後、鳥の写真を撮って楽しむおじさんのブログ、「鳥をたずねて三千里」、http://torizukiojisan.blog82.fc2.com/blog-entry-1054.html です。
そのブログからオオルリとキビタキとカワセミの夏鳥の写真をお借りして順にお送りいたします。美しい夏の野鳥の写真をお楽しみ下さい。

この写真のオオルリ(大瑠璃)は日本へ夏鳥として渡来、繁殖し、冬季は東南アジアで越冬する。高い木の上で朗らかにさえずる。姿も囀りも美しい。

この写真のキビタキは日本列島全土で繁殖し、冬期はフィリピンやボルネオ島などの東南アジアへ渡りをおこない越冬する。
日本では夏鳥として全国の山間部でキビタキが普通に見られます。福島県の県鳥に指定されています。

この写真のカワセミは暖かい地方では定住するが、高緯度地方のものは冬には暖かい地域に移動する。日本では亜種カワセミ が生息し、北海道で夏鳥だが、ほかの地域では留鳥として1年中見ることができます。

「今日のカトリック小金井教会のミサの写真」

2019年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリックのミサで非常に重要なことはイエス様の体を食べさせて頂くことです。それは酵母を入れないで焼いた500円硬貨くらいの小さなパンです。聖餅と言います。
それを200枚くらい金の鉢に入れ神父さんが聖餅がイエス様の体に変化するように祈ります。
その祈りの後、神父さまが信者一人一人に食べさせるのです。行列した信者一人一人へ神父さんが「イエスの体」と言って、聖餅を手に渡してくれます。それを受けてすぐに食べるのです。その様子は3番目の写真にあります。
今日はイエズス会の竹内修一神父さまが司式して下さいました。竹内修一神父さまは上智大学の「キリスト教文化研究所」の所長でもあり、説教が知的で明快なのです。非常に多忙ですが小金井教会に毎月来てミサの司式をしてくれています。有難いことです。





カトリックとプロテスタントの違いは、マリア信仰の有無

2019年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教はカトリックとプロテスタントとに別れます。1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会と城内に95ヶ条の論題を打ちつけたのです。これが一般に宗教改革の始まりとされています。
このルターの宗教改革の後で生まれたキリスト教のいろいろな宗派をプロテスタントと言います。そしてその以前から連綿と続くのがカトリックです。
しかしこの2つの分類は大まか過ぎます。この2分類の他に私が好きな宗派のロシア正教や日本正教もあります。これらもカトリックに非常に近いものです。
イギリスの聖公会はカトリック的な典礼を用いますが信仰の内容はプロテスタント的です。ようするに中間的です。
それはさておきカトリックとプロテスタントの違いは何でしょうか?
神学的には難しい説明がありますが、カトリックの一信者として簡単に言えば、カトリックではマリア様への信仰が重要ですが、プロテスタントにはそれがありません。
そしてもう一つの違いは毎週のミサのたびにイエス様の体としてパン片(聖餅)を神父さまから食べさせてもらうことです。

下にマリア様とその息子のイエスと父親のヨゼフの3人の家族の写真を示します。

1番目の写真はマリア様とその息子のイエスと父親のヨゼフの3人の家族の像です。

2番目の写真は幼いイエスを抱いたマリア様の写真です。カトリックの教会の中には必ずあるお像です。

3番目の写真も幼いイエスを抱いたマリア様の写真です。
くどくど書かない方が良いのかも知れませんが、凡俗な一信者としてのマリア様への祈りについて少し説明いたします。
マリア様への祈りは「甘えた祈り」なのです。病気が直りますようにとか家内安全を祈ります。イエス様には恥ずかしくて出来ないような利己的なお祈りをします。
しかしイエス様へは東日本大震災で被害にあった方々のために祈ります。イエス様の慈しみが豊かにありますようにと祈ります。世界の平和も祈ります。イエス様へは利己的な身勝手なお祈りはしません。それを引き受けてくれるのがマリア様です。
このようなことを書いてましたら、山梨県の韮崎市にある巨大な観音像を思い出しました。その観音様は下の写真に示すように女性なのです。

4番目の写真は韮崎市にある巨大な観音像です。
観音さまはお釈迦様の知恵や慈悲のシンボルなのです。男性でも女性でもありません。中性です。韮崎の観音像は間違っているという人もいますが、作った人の気持ちを考えるとほほえましいですね。
カトリックとプロテスタントの違いはマリア信仰の有無だけではありまえん。
カトリックでは神秘的な儀式を大切にしなす。聖霊を重要視します。父(神)と子(イエス)と聖霊の三位一体を信じます。これはプロテスタント諸派には無い信仰です。
分かり易く仏教に例えればカトリックは真言宗のような密教なのです。一方プロテスタント諸派は鎌倉佛教の諸派のように顕教なのです。これは雑な比較です。そもそもキリスト教と佛教は比較出来ない宗教なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「東京にあるパリ風の花屋さんの写真」

2019年07月20日 | 写真
東京・神宮前の花店、「花宴(はなのえん)」の花の写真です。店主は石田志保さん。石田さんがまだ花の仕事をしていなかった20年ほど前、パリでクリスチャン・トルチュさんとの出会い、彼のショップやディスプレーを見て強い衝撃を受けたそうです。
さっそくOLを辞め、花の仕事をすることにしたそうです。
写真の出典は、https://shokubutsuseikatsu.jp/article/news/p/3137/ です。





日本の絵画(10)暗く美しい絵を描いた松本竣介

2019年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
松本竣介は1912年に生まれ 1948年に36歳で亡くなった日本の洋画家です。
色調が暗いのですが深い内容を感じさせる油彩画を沢山描きました。暗い絵ですが美しいのです。
3枚の絵を選んで写真を示します。

1番目の写真は「建物」で1935年 23歳の時の作品で第22回二科展入選作です。神奈川県立近代美術館蔵です。暗い色調ですがよく見ると美しい絵画です。松本竣介のこの絵のような画風は死ぬまで変わりませんでした。

2番目の写真は「立てる像」で彼の抜群のデッサン力が分かる構図です。(1942年、神奈川県立近代美術館)
戦後まもなく36歳で没した松本竣介の代表作です。都会の風景と人間を描いたこの作品には、静まり返った街に両足を踏ん張って立つ青年像が描かれています。人物は暗い時代に抵抗しつつ画家としての生き方を模索している松本自身の自画像のように見えます。

3番目の写真は「Y市の橋」で1943年作です。(1942年、岩手県立美術館)
4点ある同タイトルの油彩画のうちの2番目の作品で東京国立近代美術館蔵です。
Y市とは戦前運河の多かった横浜市のことでしょうか?
絵の右にある煙突の出ている大き建物は火力発電所のように見えます。都会の海側にはよくこんな発電所や工場の風景があったものです。工場地帯なのに静まり返った風景です。見る人の心も静かにさせます。

さて松本竣介を簡略にご紹介します。(https://ja.wikipedia.org/wiki/松本竣介 )
彼は1912年 (明治45年) 渋谷に生まれその後岩手県で育ち、17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けました。
旧制中学にあがった時に聴力を失います。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を本名の「俊介」から「竣介」に改めます。父は佐藤勝身で母はハナで二人の二男として生まれます。
1936年(昭和11年)に結婚する以前の旧姓は「佐藤」でしたが松本禎子と結婚して松本姓となったのです。
幼少の竣介は父親の仕事の関係で満2歳の時に岩手県花巻へ、10歳の時に盛岡へ移ります。
盛岡は父勝身の故郷でした。
実家が豊かだったので岩手師範付属小学校に通い1925年(大正14年)小学校を首席で卒業します。
岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に1番の成績で入学しました。
入学式の前日に頭痛を訴えたが無理を押して入学式に出席、翌日に脳脊髄膜炎と診断されます。この病気が原因で聴力を失ったのです。初秋に退院し、10月から登校しました。
父の勝身は竣介を当時のエリート校の陸軍士官学校に入れたいと思っていたが竣介自身は技師になりたいと考えていました。耳が聴こえなくなり軍人への道が断たれたのです。
盛岡中学2年の夏頃からスケッチに熱中するようになり3年の時には学校に絵画倶楽部を作ります。そして次第に絵の道を志すようになったのです。
竣介が盛岡中学2年の時に、兄彬が卒業後上京し府立一中の補習科へ通いだしたのです。
これが切っ掛けで竣介も1929年(昭和4年)に盛中学を3年で中途退学し東京へ上京します。その時に兄が油絵の道具一式を買って弟へ贈ったのです。
それから竣介は油絵を沢山描くようになったのです
東京では太平洋画会研究所(後の「太平洋美術学校」)へ通います。この研究所には中村靉光、井上長三郎、鶴岡政男も通っています。
当時の竣介はモディリアニの生き方に傾倒していました。「太平洋近代藝術研究会」と名付けた会を作って「線」という雑誌を昭和6年9月に出したりします。
1932年になると、この頃池袋に林立しつつあったアトリエを仲間と共同で一軒借り、ここで絵画の制作を行うようになります。
ここまでが松本竣介の修行時代です。
1935年、鶴岡政男らが作ったNOVA美術協会の展覧会に出品しすぐに同人に推薦されます。同年秋のニ科展に「建物」が入選し画壇にデビューしプロの画家として認められるようになったのです。今日の1番目の写真はこの時の作品です。
その後は以下のような傑作を描きます。
街(1938年、大川美術館)
画家の像(1941年、宮城県美術館)
立てる像(1942年、神奈川県立近代美術館)
Y市の橋(1942年、岩手県立美術館) - 同名の油絵は4点あり。
鉄橋付近(1943年、島根県立美術館)
裸婦(1944年頃)(文化遺産オンライン)
そして1948年(昭和23年)に病死しました。享年三十六歳、戒名は浄心院釋竣亮居士で墓所は松江市の真光寺にあります。
今日は彼の作品の3枚しか示しませんでしたが、https://ja.wikipedia.org/wiki/松本竣介 には30枚ほどの油彩画が掲載してあります。
それを見ると彼の非凡さが分かります。
松本竣介は印象派の巨匠たちの絵を模倣しませんでした。深いところで影響はあったでしょうが彼独自の画風を一生貫いたのです。独創的な日本人でした。
それにしても36歳とは早過ぎる死でした。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」

2019年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
竹内義信君は私の仙台の大学時代の友人です。数年前からこのブログにハイラルでの小学校の思い出やイタリア駐在時代の記事を寄稿してくれました。
しかし仙台の大学時代の思い出を書いたものが無かったので先般それをお願いしました。
頂いた原稿にイタリアでの思い出を組み合わせて編集しました。
竹内義信君は化学会社の帝人から派遣されて1974年からイタリアのミラノに4年間、家族とともに住んでいました。そしてイタリアの地方色豊かな文化にすっかり魅了されたのです。
竹内義信君は竹を割ったような清々しい性格です。文章も淡々として雑味の無いものです。
この竹内君の文章を読むとイタリア社会の実態や魅力が活き活きと書いてあります。そしてそのイタリアには世界で一番古いボローニャ大学もあるのです。そこで仙台の大学での専門教育を思い出してその教育内容を書いています。

今日は先日の竹内義信著「イタリアの魅力と大学の専門教育」をお送りいたします。先日の竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」の続編です。
これは化学会社の一技師によるイタリアと日本のささやかな比較文化論です。
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竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」

(1)イタリアの大きな魅力
 イタリアくらい毀誉褒貶の激しい国はないと思います。「イタ公」と言う侮蔑した呼称があり、イタリアはいい加減な人間の集まりで国としても頼りにならないと言うマイナスの面がある一方で、イタリアの素晴らしさを礼賛する人達もいます。しかしそこに住んでいた私はイタリアはヨーロッパ文明の源泉と思うようになったのです。
ヨーロッパ文明の源泉はローマ文明です。「すべての道はローマに通ず」といわれ、当時のヨーロッパのあらゆる意味での中心だったのです。
そうしてルネッサンスもありました。ルネッサンスは14世紀から16世紀にかけて、イタリアを中心に近代文明の先駆けとなりました。文化、美術、学術の伝統が現在まで、イタリアに脈々と生き続けています。
 また、イタリアの地理的環境の素晴らしさです。スイスに接する北イタリアはアルプスの山々と湖に囲まれ、中部イタリアのなだらかな丘陵に展開するブドウ、オリーブさらに穀物の実るトスカーナ地方に代表されます。さらに南に行けばナポリとその近くのソレント、アマルフィとカプリ島の青い空と海、どこを見てもBRAVO !です。どんよりとしたヨーロッパからアルプスを越えてイタリアに入れば、青い空と輝く太陽、まさに「君よ知るや南の国」なのです。夏にはヨーロッパからどっと観光客がイタリアに押し寄せます。

これだけの景観と気候が揃えば、観光地としては文句なく最高ですが、さらにイタリアはローマ時代の遺跡、中世の教会、古城、ルネッサンス時代の絵画、彫刻、建物がどこかしこにあり、簡単には見切れません。
次に、イタリア観光に欠かせないのが、イタリア料理とイタリアワインです。それからショッピングをする人には、イタリアファッションがあります。
ミラノは世界のファッションの発信地です。
 イタリアには音楽もあります。カンツオーネとオペラです。世界で公演されるオペラの70%はイタリアオペラと言われています。ミラノのスカラ座もいいのですが、夏のローマのカラカラ浴場とか、ヴェローナのアレーナ(円形劇場)での野外オペラの素晴らしさは忘れられません。
 もう一つイタリアで忘れられないのは自動車でスポーツカー、AlfaRomeo, Ferrari, Lancia, Massellattiと枚挙に暇がないくらいです。私はFIATの1800ccのセダンに乗っていました。私の働いていた会社の低利融資の恩恵を受けあまり負担なく4年近く乗りました。日本からのお客様も満足して乗ってくれましたし、4人家族で休暇に旅行するには丁度いい大きさでした。先ほど列挙しましたイタリア列島の北から南までは勿論、リヴィエラ海岸を通ってイベリア半島、フェリーに乗せてシシリー島まで出掛けました。

こんな魅力溢れるイタリアに更に世界で一番古いボローニャ大学もあるのです。日本の大学の祖先にあたる大学です。そこで次にこのボローニャ大学を簡単にご紹介いたします。

(2)イタリアのボローニア大学は日本の大学の祖先
ボローニャ大学はイタリアのボローニャに現在もある大規模な総合大学です。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ボローニャ大学 )
ボローニャ大学はヨーロッパ最古の総合大学であり、11世紀に設立されました。
現在規模においてはイタリア国内第2位の大学です。世界の近代型大学の原点と言われています。
明治維新以後日本の大学はイギリス、フランス、ドイツの大学を手本として作られました。その西洋諸国の近代の大学の元祖がボローニャ大学なのです。
正確な創立年は1088年と言われています。
現在ではエミリア=ロマーニャ各地を拠点にして23もの学部があり、10万人を超える学生がいる巨大な大学です。
学部は次のようものが含まれています。農学部、芸術学部、経済学部、教育学部、工学部、その他、化学、法律、哲学、数学・物理・自然科学、獣医学、医学、政治科学、心理学、統計学、薬学などの分野の学部がそろっているのです。
そこで次の部分では仙台の東北大学で私が受けた専門教育をご紹介したいと思います。
その前に少し長文になったのでイタリアの風景写真をお送りします。始めの写真は有名なミラノ大聖堂です。続く2枚は北イタリアの海辺の風景写真です。






(3)私が東北大学で受けた応用化学の専門教育
 応用化学科進学予定者は二学年の後期から無機及び物理化学、応用有機化学と分析化学の講義が応用化学科の教室で始まりました。
教室も立派なものに変わり、教養課程とは違う専門性が高まったと言う印象でした。
特に、有機化学の三井教授の講義は従来の記述有機化学に加えて、最新の電子論と立体化学で理論付けされたもので、時折先生のお口から出る「ザイテンケッテ(側鎖)」と言うドイツ語と共に正に学問の香りを感じさせるものでした。
有機化学の教科書は丸善から復刻版の出ていたFieser &FieserのTextbook of Organic Chemistryでした。油井助教授の無機及び物理化学では参考書としてGlasstoneのElements of Physical Chemistryで、加藤教授の分析化学はTreadwellのAnalytical Chemistryでした。
 三学年になる前に二年間お世話になった早坂医院から新しい下宿を探して移ることにして、学生課で紹介して貰った角五郎丁の下宿に引っ越しました。
 昭和25年(1950年)6月に勃発した朝鮮動乱による特需景気がきっかけで昭和29年暮れから神武景気が昭和32年半ばまで続きました。
化学産業も高度成長しつつあり教授達の講義にも熱が入っているように感じました。
 三学年からは専門科目として、八田教授の化学工学、堀教授の無機工業化学、村上教授の窯業工学、徳久教授の有機工業化学第3(石油工業)の授業が一斉に開始され、応用化学科の核心に触れる思いででした。
また化学工業と関連する他学科の通論も開始された。機械工業通論は三人が分担されたが、精密機械工学について、成瀬教授が講義された。「歯車の成瀬」と呼ばれた看板教授で非常に面白かった。
 三学年になると、午前は上述の講義があり、午後は分析化学の実験であった。重金属イオンを沈殿させるための硫化水素が充満する実験室で未知検体の同定に励んだ。後期には有機化学の実験でニトロ化や有機物の蒸留を行った。

(4)楽しかった工場見学旅行
 三学年から四学年に進級する春休み中に二週間程の工場見学旅行があった。クラスを二つに分け約20名ずつの二組に別れて関西方面に出掛けた。
四日市のコンビナートなどが目新しかった。どの会社の工場に行っても、学科の先輩がおられ夜には歓迎会を開いて貰い先輩達の活躍に感銘を受けた。
授業では分からない実際の工場の装置に驚いたのが正直なところだった。例えば、屋外にあるセメントのロータリーキルンについて、クラスメートの一人が雨が降っても運転できるのかと質問すると雨の中でも機関車が走るだろうと言われ妙に納得しました。
 旅館で夕食が済むと、飲める連中は街に飲みに出掛けたが、飲めない四五人が残っていると、そのうちの一人が外から赤玉ポートワインを一本買って来て皆で舐めるように試飲しました。
 四学年になると、卒業研究のための研究室への振り分けがあった。はっきり言って就職に有利な研究室、例えば八田研は希望者が多かった。三年生の時から三井研に入ることを三井先生の内諾を取ってあったので、問題なく石川君、元木君、山田君と一緒に四人が三井研に配属された。
 四学年の新学期にアメリカのヨシ・エス・クノ奨学賞を受けた。入学式で訓示をされた高橋里美学長から賞状を手渡され緊張したが嬉しかった。ヨシ・エス・クノ氏はアメリカで成功した日系人です。
このご縁もあり後に帝人から派遣されてアメリカでPh.D の学位も取りました。
また6月頃には三井先生に呼ばれて、帝人奨学金の試験を受けないかと言われました。一年上級の中鉢純雄さんが帝人奨学金で大学院に進んでおられたので受けることにしました。
この縁で後に帝人に就職することなったのです。しかし私は大学院にはいったので、帝人に入社したのは2年後の工学修士の学位をとってからでした。

(5)東北大学卒業後の同級会のこと
 卒業直後は全員が多忙でクラス会も開けなかったが、卒業10年も経つころから少しずつ集まりようになりました。
いろいろな会社の社員寮を使わせて貰いました。平石君の日赤寮、伊藤君の住化の寮、斎藤君の三菱重工の寮などをよく使わせてもらいました。
 石油化学工業の勃興期で石油会社に入社したものが多かった。日東化学に入社した桜庭君が一
念発起して公務員試験を受け通産省に入省して石油関連の部署に就いたのその頃です。
卒業50周年を記念して2008年5月13,14日に、仙台郊外の泉が岳温泉「やまぼうし」で、神武会50周年記念クラス会を開催しました。参加者は19名と夫人2名でした。
13日の午後1時に仙台駅に集合し、タクシーに分乗して片平キャンパスに移動して午後2時まで構内を散策しました。
北門から迎えのバスに乗って泉が丘温泉に向かいました。宴会は同級生40名のうち亡くなった12名の級友に黙祷を捧げて始まりました。宴会の後も幹事の部屋に集まって団欒しました。朝食後も談笑して、記念写真の撮影後、仙台駅に向かい再会を約して別れました。
卒業60周年記念のクラス会を2018年5月に秋保温泉で開催する計画を立てましたが、参加者が10名を切り残念ながら開催されませんでした。最近では2019年(平成31年)5月に新宿東口の美々卯でクラス会を開いて7名の参加でした。これからも集まれるものだけでも集まって会を続けたいと思っています。(終り)

あとがき;                              
これで竹内義信著、「イタリアの魅力と日本の大学の専門教育」の終りとします。
イタリアの魅力や世界最古のボローニャ大学のことに合わせて仙台の東北大の専門教育を紹介する記事でした。少し長くなって恐縮です。
それにしても1950年代の日本の大学の専門教育は随分充実していたものです。そんな時代もはるか昔になってしまいました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===関連記事========================
竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(1)その魅力のいろいろを纏めてみました;2013年09月30日 掲載
竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(2)社会の混沌ぶりと犯罪の多発;2013年10月02日 掲載
竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(3)イタリアの地域主義;2015年02月13日 掲載
竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(4)確かな仕事をするイタリア人管理職;2013年10月06日 掲載
竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」(5)イタリア料理の知られざる世界;2013年10月07日 掲載

「今日は魚を買いに行きました」

2019年07月18日 | 写真
車で30分くらいの所に角上魚類店という大型の鮮魚専門店があります。大きな蓮子鯛を1枚買いました。今晩は塩焼きです。
活き活きした魚を見て楽しんで来ました。
写真のように昔風の売り方をしています。





日本の絵画(9)岸田 劉生の「切り通し」

2019年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
岸田 劉生が1915年に描いた油彩画の「切り通し」を見るといろいろなことを考えさせられます。
絵が美しいだけでなく人間の一生を暗示しているように感じられるのです。
日本の重要文化財に指定され東京国立近代美術館に常に展示されております。
私はこの絵を近代美術館で見た時の感動を忘れません。

1番目の写真は岸田 劉生が代々木の道路と土手と塀を描いた「切り通し」です。
この絵と「麗子像」は37歳で夭折した岸田 劉生の代表作と言われています。
「切り通し」をよく見ると左の道に沿って伸びる白い塀と、電信柱の影を真横に落とした土の坂道と、右の緑の丘の3つがそれぞれ独立していながら妙に一体感を与えています。
私が若い頃この絵を見た時は真ん中の生々しい土の坂の遥か向こうには何があるのだろうと考えていました。若かったので人生に明るい希望を抱いていたのです。坂の上の碧い空と白い雲に何故か胸が熱くなりました。
そして老境に至ってこの絵を見ると左の道に沿って伸びる白い塀こそこの絵の命だと思うのです。丁寧に描けています。それは美しい塀です。そして右の丘も心地良い風景です。
老境になって坂の上の向こうには何も無いことが分かったのです。人生は邯鄲の夢だったのです。
そんな境地でこの絵を見ると、この絵は美しい純粋な風景画なのです。芸術的感動を与える風景画なのです。
見る私が勝手な解釈をしても無意味なのです。
老境に至ってようやく絵を虚心坦懐に楽しめるようになったのです。雑念を無くして素直に芸術作品を楽しむのです。これも老境の幸せの一つと想うこの頃です。一方家人は卓上の静物を描いた穏やかな筆遣いが好ましいと申します。

さて岸田 劉生のことです。彼は1891年に生まれ 1929年に37歳で亡くなりました。
大正から昭和初期の傑出した洋画家で、父親は実業家でジャーナリストの岸田吟香でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/岸田劉生 )
1891年(明治24年)、薬屋「楽善堂」を経営する岸田吟香の四男として東京銀座に生まれます。
東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事します。1910年(明治43年)の文展に2点の作品が入選します。
1911年(明治44年)の『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになります。
劉生は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店、1979年~1980年)にまとめられています。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎・斎藤与里・清宮彬・木村荘八らとともにヒュウザン会を結成し、第1回ヒュウザン会展には14点を出品しています。これが画壇への本格的なデビューと言われています。
そして 1929年に37歳で亡くなってしまうのです。37歳とはあまりにも早い死でした。長生きすればもっともっと感動的な油彩画を描いたと思います。残念です。
なお岸田劉生の作品の一覧と収蔵美術館は、(https://ja.wikipedia.org/wiki/岸田劉生 )にありますから是非他の油彩画もご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉

2019年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、鬱陶しい梅雨空が続きます。
しかし野山や花園にはいろいろな季節の花々が咲いています。
そこで今日は夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉をご紹介いたします。
私が何度も写真に撮った馴染み深い花を10種選びました。
花言葉で自分の気持ちを相手に送ることはロマンチックですが、お互いに意味を知らないと役に立ちません。
しかし花言葉を一つ一つ見て行くと、それを始めて見た人間の感じ方が偲ばれて面白いものです。
一方、花の名前の由来は花の形や色に由来するものと学名に由来するものがあります。花の咲き方や他のことが由来になっているものもあります。丁寧に見て行くとその花と人間のかかわりが分かり、興味が尽きません。
お時間のある方はゆっくりお楽しみ下さい。
写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

2番の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

3番の写真はアリウムです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番の写真はオジギソウです。花名・花言葉の由来
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます。

5番の写真はカラスウリです。
花名の由来、
属名の学名「Trichosanthes(トリコサンセス)」は、ギリシア語の「thrix(毛)」と「anthos(花)」が語源となり、花びらの縁部が細裂して糸状になることに由来します。
和名の烏瓜(カラスウリ)は、熟した赤い実をカラスが好んで食べることにちなむともいわれます。しかし、特にカラスの好物という観察例はほとんどないようです。
英語では「Japanese snake gourd(日本のヘビウリ)」とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「よき便り」は、実のなかの黒褐色のタネの形状が結び文に似ていることに由来するといわれます。特異なタネの形状はカマキリの頭部や打ち出の小槌にたとえられることもあります。
「男ぎらい」の花言葉は、この花が日没後にレースのような純白の花を咲かせ、日の出前にはしぼんでしまうことにちなむといわれます。

6番の写真はキョウチクトウです。
花名の由来、
花名の夾竹桃(キョウチクトウ)は、葉がタケに、花がモモに似ていることにちなみます。
属名の学名「Nerium(ネリウム)」は、ギリシア語の「neros(湿った)」を語源とし、この属の植物が湿地によく育つことに由来します。
花言葉の由来、
花言葉の「注意」「危険」「用心」は、キョウチクトウに強い毒性があることに由来します。

7番の写真はサルスベリです。
花名の由来、
花名のサルスベリ(猿滑)は、樹皮がツルツルしていて、猿でも滑りそうなところに由来します。実際には滑ることなく、簡単に登ってしまいます。
また、百日紅(ヒャクジツコウ)とも呼ばれ、サルスベリが夏の盛りに長い間咲き続けることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「雄弁」は、枝先に群がり咲くサルスベリの華やかな咲きかたに由来するといわれます。
また、枝をこすると葉や花が揺れ、盛んに話しているようにみえることから「雄弁」の花言葉がついたともいわれます。

8番の写真はヒマワリです。
花名の由来、
和名の「向日葵(ヒマワリ)」は、花が太陽の方向を追うように動くことに由来します。
英語では「太陽の花(Sunflower)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「私はあなただけを見つめる」は、ヒマワリが太陽の方向を追うように動く性質にちなみます。
西洋の花言葉の「偽りの富(false riches)」は、インカ帝国(ペルー)を征服したスペイン人が、太陽の神殿に仕えた巫女のヒマワリを形どった純金の装身具などを奪い取ったことに由来するともいわれます。

9番の写真はスイレンです。
花名の由来、
花名のスイレン(睡蓮)は、この花が夕方に閉じる(睡る)ことに由来するといわれます。
日本全国の池や沼に広く分布するスイレン属のヒツジグサ(未草)の名前は、未(ヒツジ)の刻(午後2時)に花を開くことにちなみますが、実際には朝から夕方まで花を咲かせます。
花言葉の由来、
朝に花を開き、夕方に花を閉じるスイレンは、古代エジプトにおける太陽のシンボルとされ、エジプトの装飾や神話にも多く登場します。花言葉の「信仰」もこれにちなむといわれます。
花言葉において、白い花は「純潔」「清浄」をあらわすことが多く、スイレンの花言葉「清純な心」も野生のスイレンの多くが白い花であることに由来します。

10番の写真はジキタリスです。
花名の由来、
属名の学名「Digitalis(ジギタリス)」は、ラテン語の「digitus(指)」を語源とし、花の形が指サックに似ていることに由来します。
別名の「狐の手袋(キツネノテブクロ)」は、英名のフォックス・グローブ(Foxglove)をそのまま訳したもので、この花が手袋の指のように見えることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「不誠実」は、ギリシア神話にてサイコロ遊びが好きだったゼウスの妻ヘラに由来するといわれます。

さて以上では10種類の花だけを選びましたが、本当はもう10種位は示したかったのです。夏の花と言えば皆様ももっと違う花を思い浮かべるかもしれません。全国の場所、場所によって代表的な夏の花も変わることでしょう。
そして幼少の頃の夏にみた懐かしい花の思い出を大切にしている方も多いと思います。そんな私の懐かしい花は野原に咲いていた夏の夜の月見草の花でした。最近は野原も少なくなって野の月見草を見ることは稀になりました。淋しいです。

竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

2019年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
竹内義信君は私の仙台の大学時代の友人です。数年前からこのブログにハイラルでの小学校の思い出やイタリア駐在時代の記事を寄稿してくれました。
しかし仙台の大学時代の思い出を書いたものが無かったので先般それをお願いしました。
頂いた原稿にハイラルでの小学校の思い出を組み合わせて編集しました。
竹内義信君は竹を割ったような清々しい性格です。文章も淡々として雑味の無いものです。
この竹内君の文章を読むと満州の実態や戦後の新制大学の混乱ぶりがあぶり出されています。これは民衆の立場から見た日本の敗戦にまつわるささやかな歴史書になっています。
ヴァイツゼッカー大統領の有名な謝罪演説の「荒れ野の40年」にあるように、過去に目をつぶる者は現在に対しても盲目になるのです。
今日は竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」をお送りいたします。心静かにお読み頂くようにと祈っております。
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竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

(1)遥かなるハイラルの小学校
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
私はこのハイラルに存在していた日本の小学校で4年生まで勉強していました。ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
ハイラルの小学校は楽しい思い出ばかりです。その上郊外は一面の草原でした。
 私は昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、ハイラルで平和に暮らしていたのです。
その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
学校から帰るとそんな場所が遊び場でした。
この平和な楽しい生活が昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で突如崩壊してしまったのです。
苦難の引き揚げの後、郷里の新潟県の小千谷町に帰って来ました。
そこの小千谷高校から仙台の東北大学へ入学したのです。

(2)東北大学に入学出来て一番喜んだのは母
私は昭和29年(1954年)に東北大学に入学して、工学部応用化学科を昭和33年に卒業して、昭和35年に修士課程を終えました。昭和29年と言うのは戦後9年目で新制大学制度になってから5年目でした。
化学をやりたいと中学の時から決めていましたが、理学部にするか工学部にする迷いましたが、就職のことを考えて工学部にしました。
私が卒業した新潟県立の小千谷高校からは前年工学部に三人、農学部に一人と四人も東北大学に受かっておりましたので、何とか入れるだろうと受験しました。
東北大に合格して母が一番喜びました。母は大正時代に東北大学医学部の看護婦養成所を出ていました。
満洲から引き揚げてからずっと小千谷で看護婦をやっておりました。私の入学式には「杜の都 仙台」が見たいと約30年ぶりに仙台を訪れましたが、戦災で街路樹が消失しており大変残念がっておりました。

(3)仙台での下宿生活が始まる
受験の時は長町の早坂医院に小千谷高から7名が宿泊して、二年上の加藤先輩と一年上の斉藤先輩のお二人がお世話をして下さいました。入学してからも私は早坂医院に下宿したので、小千谷高校の卒業生が6名となり、早坂医院の下宿生総勢17名の一大勢力となりました。
早坂医院と言うのは開業医だったのですが、先生が年を取られ廃業して、病室と診察室を利用した食事つきの学生下宿となっておりました。食事は一組8~9人の二交代制で、女中のオチヨサン(清子)が声を掛けると座式の食卓に並びました。奥さんのオバンゲルとお嬢さんのマスミさんも手伝っていました。
入学して早坂医院の昔の診察室に新潟県出身の三名が割り当てられました。長岡高出身の中川君と新発田高出身の佐藤君でした。12畳ほどの畳の大部屋に三人が机と布団を並べて暮らしました。

(4)マッカーサーの命令で帝国大学が消滅し新制大学になり混乱する
新制の東北大には、旧制の二高、仙台高専、宮城県の各師範が吸収されました。二高は工学部と教育学部以外の文学、法学、経済、理学、農学の各学部の教養部となり一教と呼ばれ三神峯にありました。
工学部の教養部は二教と呼ばれ、片平丁の本部に隣接した南六軒町にありました。旧仙台高専の校舎を使用しました。二教の敷地内に新築の体育館があり、入学式や卒業式に使用されておりました。従って、入学式の体育館からそのまま二教の教養部で二年間を過ごしました。
工学部は専攻は帝国大学当時と同じ機械、精密、電気、通信、応化、金属、鉱山、土木、建築の9学科で一学年350名でした。
二教では350名が8クラスに分けられ私は8組だったと思います。
マッカーサーの命令で変わったことは旧制の高校や専門学校などが消えそれが2学年までの教養部になったことでした。帝国大学の専門教育はそのまま残ったのです。マッカーサーの命令はアメリカと同じ大学を作れという命令でしたが徹底しませんでした。大学改革は中途半端に終わったのです。

(5)担任の宮崎芳三助教授と親しくなる
担任の宮崎芳三助教授は土居光知大先生の教え子で新進気鋭の英文学者でした。また私が8組クラス委員に指名されたので、宮崎先生とは比較的親しくさせて頂きました。
 一学年の履修科目の英語は講読で二人の先生がおり、一年に一冊上げると言う旧態依然とした授業で面白くないのです。宮崎先生のところにつまらないと言いに行きました。
 理科は物理、化学、生物、地学の四教科を全部履修しました。生物の永野為武先生は俳人としても知られておられましたが、工学の世界でも生物に学ぶ点は多いと教えられました。
地学では2万5千分の1を使って等高線により横断面を書くのが面白かったです。
 図書館で見付けたライナス・ポーリングの「一般化学」(関集三、千原秀昭、桐山良一郎共訳、岩波書店)で化学結合が電子雲で表現されているのに目が覚める思いでした。
 その頃の学生の愛読書として河合栄次郎「学生に与う」と阿部次郎の「三太郎日記」が人気がありました。

(6)入学一年後に応用化学科へ進学
 私達の学年から工学部の専攻学科をこれまで三学年になる時に決めていたのを一学年が終わった時点で決めることになり、一年早く専攻学科が決まることになりました。
 各学科には厳密な定員があるので希望者が多い場合は成績順に決めると言うことでした。応用化学科は定員超過だと言う噂がありました。第一志望から第九志望まで記入することになっていたが、応用化学科以外には行く気がなかったので、またクラス担任の宮崎先生のところへ相談に行きました。「私は応用化学科へどうしても進みたいので、第一志望の応用化学科しか書かない」と言うと宮崎先生はニコニコしながら、「君の成績は分らないが、私の英語の成績からだけでも君が希望の応用化学科に行けないことはないと思うから心配しなくとも良い。」と言われました。結局宮崎先生の仰る通り二学年になる時、応用化学科進学予定者に入れて貰えました。
 このように二学年になる時に専攻学科を決めるのは、二学年の後期から基礎専門学科の授業を開始するためでした。旧制大学は三年間だったのですから、それを二年間で教えると言うのは無理と言うものです。新制大学と旧制大学とを常に比較し旧制に戻ろうとう風潮があったように思います。
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こうして竹内君は応用化学科へ進学しますが、その専門教育については続編の、竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」という記事に続きます。

今日の挿し絵代わりの写真はハイラル郊外の草原と樟子松の林の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





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竹内義信氏の略歴:1958年、東北大学、応用化学科卒業。1960年大学院を修了。総合化学会社の帝人の研究所に就職。その研究所が彼の生涯の仕事場になったのです。その研究所からアメリカの大学へ留学し、博士号をとります。そして帰国後数年してから、今度はイタリーのミラノに派遣され4年間在住しました。大会社の研究所にいる優秀な研究者がよくたどる経歴でした。

夏の風物詩、蓮の花が咲く風景

2019年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム
蓮の花の咲く景色は夏の風物詩です。
お寺の境内、各地の城のお堀や一面に広がる蓮根畑に咲いています。
夏の陽に輝く白い花が風に揺れている光景は心に刻み込まれて夏が来ると思い出します。
私は霞ヶ浦でヨットをしていたので周囲に広がる蓮根畑の白い花が忘れられません。
そこで今日は昨日撮って来た小金井市、真蔵院の蓮の花の3枚の写真と霞ヶ浦の周囲に広がる蓮根畑の2枚の写真をお送り致します。霞ヶ浦の蓮根畑の写真は2008年の夏に撮ったものです。









よくお城の堀には蓮の花が咲いています。私は小田原城の堀や行田市のハス公園のピンクの蓮の花の光景が忘れられません。鎌倉の八幡宮の掘に咲く白と紅に分けられた源平蓮の光景も心に残ります。
観賞用の蓮は美しいピンクなのです。そして蓮根畑の蓮の花は純白なのです。
それはさておき蓮は何故お寺の境内にあるのでしょうか?
明快な説明は次の本にあります。
稲垣栄洋著「なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 」、幻冬舎の新書、2015年出版、(https://www.gentosha.jp/article/3402/)
それによると、ハスは不浄である泥の中から茎を伸ばし清浄な花を咲かせるので仏教が理想とする在り方なのです。極楽浄土に最もふさわしい花なのです。蓮の臺(ウテナ)という言葉もあります。
ですから仏像はハスの花の上に座っているのです。

その上この本では仏教のさまざまな教義が植物に喩えて説かれ、寺や墓のまわりも仏教が尊ぶ植物で溢れている理由を分かり易く説明してあります。
例えば『法華経』というお経があります。これは「華の法の経」と書きます。蓮華にたとえられる経典という意味です。つまり、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という教義を中心にしたお経とも言えるのです。

稲垣栄洋著「なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 」の本は興味深い内容なので始めの第一章と終りの第四章を次に示します。

第1章
仏教と縁の深い植物の謎 
泥の中から花を咲かせるハスの秘密 
なぜハスは因果倶時のたとえに用いられたのか 
葉っぱがないのに花を咲かせるマンジュシャゲ 
種をつけないマンジュシャゲはどうやって各地に広がったか 
マンジュシャゲが墓地に植えられる理由 
死者を悪霊から守るシキミ 
三千年に一度咲く縁起の良いウドンゲ 
鬼門を守るヒイラギとナンテン 
キクは縁起が良いのか悪いのか 
イネより高級なススキ 
なぜジュズダマに穴があいているのか 
マコモは日本人にとって重要な植物 
どうしてムクロジが無病息災のお守りになったのか 
沙羅双樹の代わりにされたナツツバキ 
お経の木と呼ばれるタラヨウ 
本当は怖い聖なるボダイジュ 
線香の材料となるタブノキ

第4章
仏教が理想とする植物の生き方 
どうして肉食が禁止されるようになったのか 
どうして植物を食べることは殺生ではないのか 
日本人はすべての生物に仏性を感じる 
キリスト教の自然観、日本仏教の自然観 
キリスト教では悪い草が「雑草」、良い草が「ハーブ」 
自然の力を活用しながら、自然とともに生きる 
雑草に悩まされながら憧れを抱く日本人 
植物の生き方、人の生き方 
植物にとって「自分」とは何か 
命短く進化する 
「寿命」の発明 
植物の寿命 
七十兆の命の集まり 
草の生き方、虫の生き方 
あなたという名の生態系 
命のつながり 
花は無心に咲くのか 
招かれざる客 
花を美しいと思う心 
すべてのものに意味がある 
赤い花は本当に赤いのか 
虫の目、草の目 
植物は動けない 
おわりに 

この様にこの本は大乗仏教を分かり易く説明した優れた入門書なのです。
稲垣 栄洋さんは1968年生まれの植物学者で静岡大学教授です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

台湾、台北の巨大な花市場の風景写真

2019年07月15日 | 写真
台湾の台北市にある200店からなる巨大な花市場の風景写真をご紹介いたします。
出典は、「建国假日花市場・玉市場」、https://www.taipeinavi.com/shop/69/です。
台北市の中心部を南北に走る建国南路の高架下です。南国らしい植物や珍しい花々が並んでいます。
花市場は1976年に重慶南路から始まり、1983年にいまの場所で再開されました。現在は信義路から仁愛路の間の約400メートルに中央通路を挟んで左右に約200の店が並びます。週末限定ですが内湖花市と並んで市内でも有名な花市場です。
それにしても台湾の人々はこんなに花を買うのですね。驚きです。