後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の絵画(8)優しい美しさを描く小野竹喬

2019年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム
日本画の世界は西洋画の世界とは非常に違います。そのどちらも芸術的な作品である以上、絵画として美しいうえに人間の考えや精神が深く描き込んであります。そうして東洋と西洋では精神性が違うので絵画も違います。
日本画では人間と自然が調和しお互いに一体になりたいという精神が深く描き込んであります。西洋のように自然の風景を客観的に描くのではなく両者が調和し溶けあっています。自然に対する考え方の違いです。
ですから小野竹喬の日本画もそのように描かれています。そこで彼の日本画の特徴を考えてみましょう。
竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、自然に平安な世界にいざなってくれます。
このような特徴は西洋画にはあまりありません。
人間の優しさを自然風景を柔らかく美しく描いて表わしているのです。絵は人間性を表わすとよく言いますが、小野竹喬は優しくてしなやかな人格者だったに違いありません。そして絵を描く技ももちろん天才だったのです。
彼の絵画の世界への私の感想はこれくらいにして、さっそく絵を見ましょう。

1番目の写真は「西の空」です。素描で1967年作です。
空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。

2番目の写真は『夏の五箇山』です。 1933年(昭和8年)作で笠岡市立竹喬美術館が所蔵しています。
この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品で山々に茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。

3番目の写真は「池」です。1967年(昭和42年)の作で東京国立近代美術館にあります。
この絵は碧い池の中に淡い色の水草が浮き、葦が茂っている風景です。水草が水に溶け込んでいるように見えます。私は仏教が好きなので、何故か仏画を見ているような気分になります。

4番目の写真は「沖の灯」です。1977年作です。
茜色の雲が湧き、そして暮れかかった沖には漁火が点々とまたたいています。手前の海の風波には夕日の光が反射しているようにも見えます。中央を大胆に横切る黒い線は潮目でしょうか。
自然の光景の変化の一瞬を捕え、大胆な色使いでいきいきと描いてあります。自然の大きさと静謐さを感じられます。

5番目の写真は「春耕」で1924年作です。 絹本着色,二曲一双で笠岡市立竹喬美術館にあります。
これは35歳の時の作品です。春先に農民が牛を使って田おこしでもしているのです。大きな犂を引くことに疲かれた牛が一休みしているようです。
周囲の樹木の春らしい緑の色調の違いが丁寧に美しく描いてあります。「春耕」という題目が納得されます。これで小野竹喬の画の紹介は終わりにします。
彼は90歳まで生き数多くの名作を描き文化勲章まで貰った幸福な一生でした。しかし悲しい思いは避けられませんでした。昭和17年に長男の春男が出征して戦死してしまったのです。

6番目の写真の画は遺作の屏風絵です。戦死した小野春男の屏風絵の「茄子」です。1941年(昭和16年)の作でした。
この絵は信州、上田の戦没画学生の遺した絵画を展示している「無言館」にあります。
1917年、京都市生まれ、1941年に同市美術展覧会で入選を果たすなど活躍が期待されていたのです。
翌年に出征し1943年12月2日、中国湖南省で26歳の若さで銃弾に倒れたのです。
そのため、これまで知られているのは、屏風絵の「茄子」と自画像のみです。
息子が親より早く亡くなるというのは悲しいものです。小野竹喬もそのような悲劇に見舞われたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==================
(1)小野 竹喬
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%96%AC です。
小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年) - 1979年(昭和54年))は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
1889年(明治22年) 岡山県笠間市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作:
「郷土風景」(1917年) - 京都国立近代美術館
「波切村」(1918年)
「波切村風景」(1918年)
「夏の五箇山」(1919年) - 笠岡市立竹喬美術館
「波濤」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「青海」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「冬日帖」(1928年) - 京都市美術館
「溪竹新霽」(1938年) - 霞中庵 竹内栖鳳記念館
「秋陽(新冬)」(1943年) - 大阪市立美術館
「奥入瀬の渓流」(1951年) - 東京都現代美術館
「奥の細道句抄絵」(1976年) - 京都国立近代美術館

(2)小野春男
大正6年(1917)、日本画家・小野竹喬の長男として京都に生まれた。父の母校である京都市立絵画専門学校に入り昭和15年に卒業した。翌年には京都市美術展に「樹林」を出品している。
昭和17年に伏見の京都連隊に入営し、敵飛行場を占領して破壊するための作戦に加わっていた歩兵第109連隊に補充された。翌年、常徳殲滅作戦に参加。10月初に漢口付近に上陸し、揚子江を渡河し、敵陣地を潰しながら洞庭湖の西端にある常徳に向かった。
11月30日に常徳城の総攻撃が行われ、激しい市街戦が展開された。おそらくその日、彼は歩哨に立ち、狙撃された。死亡は12月2日となっているのでしばらく生きていたのではなかろうか。

(3)無言館:
私共は巡礼のような気分で3度ほど訪れました。遠い所にありますが最近はバスが上田駅から出ています。その詳細は、http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/shokan/0500/20100303105353073.html にあります。

韓国人は四季折々、花が好き

2019年07月14日 | 写真
花の価格が安く、花を贈る習慣が多い韓国です。卒業シーズンや記念日のみならず、花束を抱えながら歩いている人を1年中見ることができます。また、街中や市場には多くの花屋があり、韓国人にとって花は身近な存在のようです。
「韓国の花 」https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=2868 から四季折々の花の写真をお送りします。

1番目の写真はケナリ(レンギョウ)です。
見頃は3月下旬~4月中旬で名所は鷹峰山(ウンボンサン)、景福宮、昌慶宮、徳寿宮、南山公園、オリニ大公園、ソウル大公園、汝矣島・汝矣西路などです。

2番目の写真は国花のムグンファ(無窮花・ムクゲ)です。
7~9月にかけて咲く韓国のムグンファは約200種類もあり、白、淡紫、赤紫、ピンク、薄ピンク、紅色など色も様々。ホテルの格付けとし星のかわりにムグンファで示したり、遊び「だるまさんが転んだ」を「ムグンファが咲きました」と呼んだり、列車にムグンファ号があったりと、韓国人にとって馴染みの深い花です。

3番目の写真はサンスユ(サンシュユ)です。見頃は3月下旬~4月上旬です。

4番目の写真はコスモス(コスモス)です。見頃は9月です。名所はハヌル公園、九里漢江市民公園などです。
花祭りには「九里コスモス祭り」が毎年9月中旬にあります。

5番目の写真は良才花市場です。
韓国人の花を贈る習慣は現在でも盛んです。誕生日や卒業などのお祝いや記念日などに必ず花を贈る習慣があるのです。卒業式や成人の日、父母の日、先生の日などの記念日になると、学校前や街中は花を売る露店商で賑わいます。
これは日本で見られない華やかな風景です。
恋人同士の交際や結婚の記念日にも男性から女性に豪華な花束が贈られます。ときには謝罪の表現を伝える手段としても使われることもあります。
この様に韓国では日常の生活を一層幸福にしているのが四季折々の花々なのです。
私は世界中の全ての民族は花が好きだと信じています。

カトリックの本山のサン・ピエトロ大聖堂の写真

2019年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム
サン・ピエトロ大聖堂は世界の13億人のカトリック信者の本山です。
創建は4世紀で現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。
教会堂の前には長径200m短径165mのサン・ピエトロ広場があります。
北側にはバチカン宮殿、南に教皇謁見所と宝物館が隣接しています。
ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わりました。その内部装飾の豪華さを含め聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい美しい建物です。
初代のサン・ピエトロ大聖堂はローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を公認し、自らも帰依したコンスタンティヌス1世の指示で建設されたものです。
コンスタンティヌス1世はローマ帝国の皇帝として306年から337年まで在位しました。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/サン・ピエトロ大聖堂 をご覧下さい。

1番目の写真はサン・ピエトロ大聖堂です。

2番目の写真はサン・ピエトロ広場です。

3番目の写真の左奥はローマ教皇庁の建物です。
世界のカトリック信者の総数は前述の通り2016年には12憶9900万人です。アジアでカトリックの多い国はフィリピンです。
ヨーロッパでカトリック信徒の多い国はフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、オーストリア、チェコ、ハンガリー、アイルランド、リトアニア、ポーランドなどです。
さてカトリック信者として私はサン・ピエトロ大聖堂をどのように感じているか書いて置きたいと思います。
私はヨハネ・パウロ2世や現在のフランシスコ法王には親近感を強く感じています。心から愛しています。
しかしサン・ピエトロ大聖堂には酷く違和感を感じています。立派過ぎるのです。ローマ帝国の威信と絶大な権力を誇示しているので好きになれません。
サン・ピエトロ聖堂がパリのノートルダム教会位の大きさだったら好きになれたと何時も考えています。
いっそ長崎の大浦天主堂のようだったら良かったと思っています。
イエスさまもローマ教皇の建物群は華美過ぎてキリスト教にはふさわしくないとお思いだと信じています。
しかしその一方、ローマ教皇にはいろいろな絆があります。例えば私共が洗礼を受けたカトリック立川教会の門には「ピオ12世教皇守護教会」という大きな看板が掲げてありました。主任司祭の塚本金明神父さまが教会が完成した時に教会をピオ12世教皇へ捧げ守護神になって貰ったのです。
塚本金明神父さまは若い時ヴァチカンの学校へ留学したようでヴァチカンとご縁が強かったのです。
神父さまは1970年頃、ヴァチカンから美術品を借り出して銀座のデパートで「ヴァチカン秘宝展」を開催したこともありました。
今年の11月にはフランシスコ法王が日本をご訪問されます。心から歓迎しています。長崎での大規模なミサを期待しています。
今日は日曜日なので宗教に関する記事を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

北海道の花々の写真

2019年07月13日 | 写真
旅行情報ブログ、https://www.t-marche.com/tripper/article/970/ には北海道の花々の写真が掲載されています。
そこから写真5枚と説明文をお借りしてお送りします。
しばし梅雨の鬱陶しさを忘れて海道の花々の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真はチューリップです。
北海道に春の訪れを告げる花のうちのひとつが、このチューリップです。なんといっても品種が非常に多いのが特徴。赤・白・黄色だけではなく、紫やピンク、オレンジ、マーブルのように複雑な色が混ざったものなど、さまざまなカラーを楽しむことができます。

2番目の写真はシバザクラです。
木に咲くサクラと違って地面にじゅうたんのように広がって咲くのが「シバザクラ」です。花の形はサクラに似ており、芝生のように広がることからこの名が付いています。

3番目の写真は百合です。
札幌市にある百合が原公園は、その名の通りユリの名所です。約100種類ものユリが鑑賞できる「世界のユリ広場」があり、さまざまな色や香りを楽しむことが出来ます。

4番目の写真はスズランです。
日本一のスズラン群生地である、平取町芽生すずらん群生地。札幌からは車で約100分の距離にあります。敷地内に立ち入るとスズランの甘い香りが立ち込めます。一般公開されるのは開花からの一ヶ月間だけです。

5番目の写真は百合のズームアップ写真です。
大輪の花を咲かせる豪華で上品なルックスと、芳醇で官能的な香りが楽しめるユリ。生花やブーケなどにも好んで使われます。札幌にある「百合が原公園」ではさまざまな品種があり次々と開花していくので見頃が長く、ほかの花がほとんど終わりを告げても、まだ楽しめる場所も多いのが特徴です。

日本の絵画(7)色彩と質感の豊かな梅原龍三郎の世界

2019年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
梅原龍三郎はパリに5年間住んでルノアールに師事しました。
色彩豊かな絵画を自由奔放に描いて日本の絵画界の重鎮として有名な画家です。特に絵に質感があり見た人に充足感も与えます。
今日はまずフランスで描いた3枚の絵と帰国後に描いた4枚の絵をご紹介いたします。

1番目の写真は南フランスの「カンヌ風景」です。

2番目の写真はパリの「ノートルダム寺院」です。

3番目の写真はパリで描いた「少女アニーン」です。

4番目の写真は帰国後の作品です。梅原龍三郎の傑作と言われている「竹窓裸婦」です。

5番目の写真は「薔薇柿図」です。薔薇の絵は非常に多数描きましたがこれはその一枚です。

6番目の写真は「噴煙」です。

7番目の写真は「北京秋天」です。北京でも紫禁城や天壇の絵を何枚も描きました。

梅原 龍三郎は日本では非常に有名な画家ですので、皆様よくご存知とは思いますが以下に略歴を改めてご紹介いたします。
梅原 龍三郎は1888年(明治21年)に生まれ 1986年(昭和61年)に98歳で没しました。
ヨーロッパで学んだ油彩画に桃山美術、琳派、南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れました。
京都府京都市下京区生まれ生家は染物問屋でした。
京都府立第二中学校を中退し伊藤快彦の画塾、鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所に入ります。尚、同時期に安井曾太郎も一緒に学んでいました。
1908年(明治41年)フランスに留学し、帰国する高村光太郎のアトリエを引き継いでパリに滞在しました。
パリではアカデミー・ジュリアンに通いながらルノワールの指導も受けました。
1913年(大正2年)に帰国すると、白樺社の主催により東京神田で個展「梅原龍三郎油絵展覧会」を開催します。
このとき白樺社同人の武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦らの知遇を得ました。
翌1914年(大正3年)には二科会の設立に関わり洋画家の亀岡崇の妹、艶子と結婚しました。二人の間には長女、紅良と長男、成四が生まれました。
1920年(大正9年)には前年に死去したルノワールを弔問する名目で再び渡仏します。

1935年(昭和10年)には帝国美術院(現・日本芸術院)会員となり東京美術学校(現:東京芸術大学)教授にもなります。
1952年(昭和27年)に日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、梅原は早速東京美術学校教授を辞任して渡欧、ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めました。
1952年、文化勲章受賞し、翌1953年(昭和28年)に長野県軽井沢町にアトリエを設けます。
1957年(昭和32年)には日本芸術院会員をはじめさまざまな役職を辞し、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励みました。
少年時代からの良きライバルだった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と謳われたのもこの頃でです。
1973年(昭和48年)、フランス芸術文化勲章コマンドール章受賞します。
1986年(昭和61年)満98歳で死去しました。
晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエは、山梨県北杜市の清春芸術村に移築されて一般に公開されています。
余談ながら北杜市の清春芸術村は私の山の小屋に近いのでこのアトリエは何度も見ました。シトローエンをアトリエに改造した車も庭に展示してあります。

さて梅原龍三郎の絵画について少し私見を記します。
一言で言えば彼の画風が好きになれません。絵に対する真剣さと丁寧な仕上げに欠ける絵が多いのです。
彼は気楽に多すぎる絵画を描いた結果、完成度の悪い絵が多数市場に出回っているのです。
日本人が何故に梅原龍三郎の世界がそんなに好きなのか私には理解出来ません。
そう言いつつも梅原龍三郎の色彩と質感の豊かさに魅了されています。
今日選んだ7枚の絵はそんな絵の例なのです。やはり梅原龍三郎は日本が誇る不出世の天才です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

夏の伊吹山に咲く小さな花々の写真

2019年07月12日 | 写真
夏の伊吹山に咲く小さな花々の写真をお送りいたします。
5枚の写真は上から順々に、キリンソウ、シモツケソウ、イブキボウフウ、シオガマギク、そして霧につつまれたワレモコウの花々です。
写真の出典は、https://kioto-syokai.at.webry.info/201008/article_94.html です。お楽しみ下さい。









日本の絵画(6)日本画の巨匠、川合玉堂

2019年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム
川合玉堂は明治6年に愛知県に生まれ昭和32年に84歳で没しました。
玉堂美術館は奥多摩のJR御岳駅の向かいの多摩川の畔にあります。私は何度もこの美術館を訪れ川合玉堂の数々の大作に感動してきました。
玉堂はJR御岳駅のそばに昭和19年から32年まで住んでいました。奥多摩の自然を愛し、数々の傑作を世に送り出したのです。それで奥多摩の人々は郷土の誇りのように思っています。今日は巨匠、川合玉堂の日本画をご紹介いたします。

1番目の写真は紅梅白梅図の一部です。大きな六曲一双のニ面です。琳派風の絢爛たる力作です。絵画の出典は川合玉堂美術館のHP(http://www.gyokudo.jp/)からです。
川合玉堂の絵画は自由闊達でのびやかです。上品で穏やかです。自然の風景、草木、小鳥などを愛する心が画面に温かい雰囲気をかもし出しています。
初め京都、円山四条派に学び、のち橋本雅邦に師事します。雅邦に学びながら次第に独自の境地を切り開いて行きましいた。

2番目の写真は「行く春」という絵画です。玉堂の生涯の傑作と絶賛される作品です。 出典は、川合玉堂名画集(http://www.u-canshop.jp/gyokudo/)です。これも六曲一双で細長いので残念ながら左6面だけを示しています。
「行く春」を何年も前に東京の国立美術館で見たときの感動を忘れられません。
ここに示した写真は小さすぎますので少々説明いたします。左から散りかけた桜花が画面中央へ伸びています。水豊かな山峡の流れに大きな水車を乗せた船が連なってしっかりと係留されています。激しい流れを使って水車を回す「水車船」なのです。船の中には臼がが並んでいて穀物を挽いているのが想像出来ます。雄大な自然と人々の生活が描がれているです。そして過ぎ行く春が時の流れのはかなさを暗示しています。

3番目の写真は「彩雨」という傑作で、「行く春」と並んで玉堂の二大傑作と言われている感動的な日本画です。
絵は原画を見るに限ります。この写真の画質が粗いので少し説明いたします。この絵の下の方に2人の傘をさした女性が小さく描いてあります。それで雨が降っていると判然とします。その女性が精密に描いてあり、嫁と姑のように見えるのです。
勿論、傘の2人を見なくても雨の日だと分かります。何か懐かしい風景がのびやかに描いてあります。玉堂の絵画の特徴を表している傑作です。

4番目の写真は「山雨一過」で、 山種美術館に収蔵されています。出典は、 http://www.yamatane-museum.jp/exh/2017/kawaigyokudo.html です。

5番目の写真は「渓山秋趣」です。 山種美術館に収蔵されています。出典は4番目の写真と同じです。

6番目の写真「鵜飼」です。 現在玉堂美術館で現在展示中です。令和元年6月11日(火)より9月1日(日)まで展示されています。(http://www.gyokudo.jp/01now/index.html)
玉堂は郷里の鵜飼の絵を500枚ほど描いていますが、これはその中の一枚です。この絵はアメリカの雑誌ホリデー社主催の世界美術展に日本代表として展示されました。世界美術展の後アメリカ各地で巡回展示され大好評だったそうです。

天才的な画家でも画風を変えようと苦悶する時期が一生の間に何度かあるものです。しかし玉堂にはその苦しみがなかったように見えるのです。自由に楽しみながら描いて一生を終えたのです。毎日、奥多摩を散歩してはスケッチし、画室に戻り絵筆をとり、楽しみながら描きました。その様子は美術館のロビーにある紹介ビデオで見ることができます。
是非一度、川合玉堂美術館へお出で下さい。新宿駅から御岳駅までJRで1時間30分です。

7番目の写真は川合玉堂美術館です。
美術館はJR御岳駅前の多摩川の上の大きな橋を渡って、左へ曲がり、美術館への遊歩道を谷へ下りるとあります。御岳駅から徒歩5分です。車の方のためには広い有料駐車場もあります。美術館の隣には風情のある和風レストランもあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

山里に咲く花々と最近の国際情勢

2019年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の西部には甲斐駒岳と八ヶ岳があり山麓は北杜市という広大な市になっています。市と言っても高原野菜の栽培や牧畜をしている山里なのです。先週、この北杜市の武川町と小淵沢町を車で回りました。すると道路のそばに美しい花々が咲いていたのです。高原で畑作や牧畜をしている人々が花を愛し植えたものです。
そんな山里の路傍の花々の写真をお送りいたします。









さて今日はこの美しい日本の平和を脅かすような最近の国際情勢を見てみようと思います。
私は国際情勢に強い関心があり国際ニュースを毎日注意深く見て考えています。
その国際情勢を私は次のように分類し、それらの日本への影響を考えています。
(1)アメリカと中国の経済的な対立と軍事的な抗争。
(2)北朝鮮の非核化をめぐるアメリカ、中国、ロシアの動き。
(3)アメリカと中東の親米国と、イランとの戦争の可能性。
(4)アメリカ、ロシアの動きへ影響を与えるヨーロッパのNATO加盟国の動き。
(5)日本と韓国と台湾そしてアジア諸国との友好関係と日本の平和。
以上のように国際関係を整理分類して考えると毎日目まぐるしく変わる国際情勢も少し長期的に考えることが出来ます。そして日本の平和へ及ぼす影響が比較的明瞭になるのです。
しかし上に書いた5項目は相互に深く関係していてその理解にはかなり深く調べなければなりません。
今日は(3)アメリカと中東の親米国と、イランとの戦争の可能性に関係のある次のニュースを考えてみましょう。

・・・「東タンカー護衛で「有志連合」、参加国を数週間で決定へ=米軍トップ」
[ワシントン/東京 9日 ロイター]https://news.yahoo.co.jp/pickup/6329608
米国のダンフォード統合参謀本部議長は9日、中東シーレーンの要衝ホルムズ海峡とバブエルマンデブ海峡を航行するタンカーの護衛のための「有志連合」に加わる同盟国を、今後2週間程度で決定したいとの考えを示した。
・・・6月にホルムズ海峡付近で日本などのタンカーが攻撃されたのを受け、民間船舶の保護に向けた警備活動を行うとみられる。同盟国に「応分の負担」を主張するトランプ政権が、日本にも参加を求める可能性がある。
(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000021-jij-n_ame)
 ダンフォード氏は記者団に「ホルムズ海峡とバベルマンデブ海峡で航行の自由を確保するための連合を結成できるかどうか、多くの国と連絡を取っている」と発言。「今後2週間程度で参加国を見極めた上で、任務を支援するのに具体的に何が必要かを軍同士で協議する」と語った。

このニュースは次のような可能性を示しています。
(1)アメリカはサウジアラビア、アラブ首長国、ヨルダン、イスラエルなどと組んでイランの軍事基地を攻撃する可能性。
(2)安保条約に従ってイランの軍事基地攻撃の後方支援を要請して来る可能性。
(3)日本のタンカーを護衛するため日本の自衛隊がペルシャ湾に展開する可能性。
(4)ドイツ、フランス、イギリスがアメリカを説得してイランの軍事基地攻撃を止めさせる可能性。
(5)親日国のイランと交渉して日本のタンカーへの攻撃を止めさせる可能性。
(6)好戦的なイスラエルが単独でイランの軍事基地をミサイルで攻撃する可能性。

上の可能性のうち私は(4)のドイツ、フランス、イギリスがアメリカを説得してイランの軍事基地攻撃を止めさせる可能性が大きいと予想しています。
しかし(3)の日本のタンカーを護衛するため日本の自衛隊がペルシャ湾に展開する可能性は現実の問題として実行される可能性が大きいと思います。展開するのはフリゲート駆逐艦とその補給艦でしょう。

今後我々はペルシャ湾と紅海の軍事動向に注意する必要があると思います。
皆様からこの問題に関したご意見をコメンントとして頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本の絵画(5)パリで褒められ後低迷した安井曽太郎

2019年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
安井 曾太郎は1888年に生まれ1955年に67歳で亡くなった大正、昭和期の洋画家でした。 彼の油彩画の写真をお送りいたします。

1番目の写真はパリで描いた「孔雀と女」です。帰国後の1915年の第2回二科展で特別陳列されました。 京都国立近代美術館にあります。

2番目の写真はパリで1913年に描いた「山の見える町」です。

3番目の写真は1914年の作品で「下宿の人々」です。

4番目の写真はフランスで描いた「田舎の寺」です。

5番目の写真は帰国後10年ほどしてやっと独自の画風を確立して描いた「金蓉」と題した中国服を着た婦人像です。この昭和9年の「金蓉」が安井曽太郎の最高の傑作と言われています。

6番目の写真は独自の画風を確立した後のバラの絵です。

7番目の写真は画風を確立した後の玉蟲先生の肖像画です。

安井曽太郎は19歳の時、それまで描いた油絵を一切焼き捨てて白紙の状態でパリの美術学校に入りました。そこでは彼の抜群のデッサン力で何度も優等賞を取りました。
そしてセザンヌの影響を受けて7年のパリ在住の間に数多くの油彩画を描いて高く評価されていたのです。
1番目の写真から4番目の写真がフランスで描いた作品です。
しかし帰国後、画風が決まらないで苦悩した時期が続きました。この低迷の苦しみを示す安井曽太郎の展覧会が2005年にありました。
それは「没後50年・安井曽太郎展」でした。
水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示されたのです。それを見た私の感想記です。
この「没後50年・安井曽太郎展」では浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されていたのです。

全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせます。
浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は一流の画家になれると誉めたに違いありません。
そして19歳でパリに行ったのです。
美術学校で何度も優等賞を取り、後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描いたのです。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱です。
パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまうのです。
私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれません。見ているうちに私自身も苦しくなってくるのです。

独自の画風を確立するまでの帰国後やく10年間の模索と深い思索こそがその後の曽太郎独自の芸術を生んだのです。
西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能です。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能です。しかし安井氏はそんな浅薄なことは出来なかったのです。
東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはありません。
ところが、昭和初期の少女像、玉蟲先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されたのです。それはフランスからの卒業です。
昭和9年の「金蓉」と題した絵からは女性の強さ、美しさが伝わって来ます。
日本画の精神性を背景にした表現で独創的な画風を作りあげたのです。

8番目の写真は「外房風景」です。
横長の大きなキャンバスに描いた外房風景には強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いています。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示しているのです。風景が美しいだけではなく漁師の生活そして人生を描いているのです。
薔薇・果物を重厚に描いた静物画にも氏の誠実な心が表れています。深い余韻を感じさせるのも、研鑽を重ねた技量のおかげです。

もし「玉蟲先生像」、「金蓉」、「外房風景」、など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解出来なかったに違いありません。
没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心します。
安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家と評されてります。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。

今日はパリで褒められ帰国し、その後低迷し苦悩した安井曽太郎の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

八ヶ岳山麓の大きな森に囲まれた小さなホテル

2019年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
先週泊まった八ヶ岳山麓のスパティオ小淵沢というホテルに感動したので今日はこの小さなホテルをご紹介いたします。
感動した理由は2つです。まずホテルの周囲を取り囲む森が美しい大きな松の木の森なのです。そこへ一瞬霧が流て来て神秘的な景観になったのです。最上階にあるダイニングからこの森の景観を楽しみながらゆっくり食事をしました。
感動した第二の理由は食事にあります。大正時代からの東京の山水楼という中華料理店の流れをくむ「山水楼龍淵」がダイニングに入っているのです。本格的な広東料理です。
日本人の味の好みに迎合していない美味しい中華料理で、盛り付けは現代的にアレンジしています。
そこで撮ってきた写真に従ってもう少し御説明いたします。

1番目の写真は最上階の5階にあるダイニングです。3方が大きなガラス窓になっていて周囲を取り囲む八ヶ岳の森の景観が美しいのです。

2番目の写真は私どもの席から見下ろせた夕暮れの森の風景です。もう暗くなりかけていましたが松の大木が重なった大きな森の様子が見えました。雲間には甲斐駒岳が少し見られます。晴れていれば北岳などの南アルプスの主峰連山も見える筈です。

3番目の写真は一瞬霧が流て来て神秘的な景観になった森の風景です。霧が濃くなったり薄くなったりします。かなり早い風が音も無く流ているのです。昔高い山に登った時の霧の流れを思い出しました。

4番目の写真は夕食の広東料理の一部です。コースは季節前菜盛合せ、ずわい蟹と卵白落としのスープ、渡り蟹の海鮮詰め蒸し、芝海老のチリソース、スモークサーモン・タコの高原中華サラダ、黒酢の酢豚、五目炒飯、季節フルーツ杏仁豆腐と中国菓子の7品でした。特に美味だったのは前菜盛合せでした。
料理は感動的なのですが私達には塩味が効きすぎています。他の子供連れの家族は子供向きの塩の薄い料理をメニューから選んで楽しそうに食べていました。このホテルの常連客は朝食だけついた宿泊をして、夕食はメニューから自由に選んでいるのです。さらに近所の別荘からも広東料理を食べに来る人も多いそうです。

5番目の写真はホテルの写真です。ホテルが大きな森に囲まれている様子が分かります。

なお先週泊まった時はホテルの大浴場が改装中でしたが、「延命の湯」として本物の温泉です。「延命の湯」は地下1500mから出ていて高濃度のミネラル成分を含み心身をリフレッシュするそうです。
洒落た大浴場のほか露天風呂、岩風呂、サウナ等があるそうです。
スパティオ小淵沢というホテルの宿泊料金は広東料理のコースがついていても普通の値段です。泊まった洋室の設備も良いのでまた近いうちに泊まりに行こうと思っています。
このホテルにはいろいろな体験工房もあります。隣は小淵沢道の駅でレストランやパン焼きの店もあります。
近所には平山郁夫シルクロード美術館や「リゾートアウトレット八ヶ岳」や素人も楽しめる乗馬クラブもあります。
いささか塩味の強い料理でも大丈夫な方々へお薦めのホテルです。
HPは、http://www.spatio.jp/index.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

梅雨空に咲くヤマボウシの花々

2019年07月08日 | 写真
梅雨の時期に山に行くと緑の山の斜面に点々とヤマボウシの白い花が咲いています。とても地味な花ですが緑の森の中で見ると鮮やかに見えます。山法師は梅雨時の山の風物詩です。
最近はヤマボウシが庭木や街路樹に使われようになって品種改良され色々な形の花々になっています。
そんな街路に咲くいろいろなヤマボウシの花の写真をお送りします。
写真の出典は、 https://shizenkaze.exblog.jp/24291982/ です。









日本の仏教と釈迦の教えの5つの違い

2019年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教と仏教の比較をしてみると非常に違うことに驚きます。
キリスト教ではイエス・キリストの教えがそのまま新約聖書になっていて信者はイエスと直接会って話を聞いています。神とイエスは人々を愛しています。
しかし一方仏教では大日如来や薬師如来や観音菩薩を拝むのでお釈迦さまと直接会う機会がありません。
この違いは一神教のキリスト教と多神教的な仏教の違いです。
その上に日本の仏教は釈迦の教えとは非常に違うのです。
今日はこの大きな違いの5つの具体的な実例をあげて明らかにします。大乗仏教は釈迦の教えとは非常に違うということを明らかにします。

さてお釈迦様は2500年程前にインドに生まれ、現在でも世界中の多くの人に信じらている仏教を創ったのです。
インドでその後500年くらい経ってから仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つに分かれました。
玄奘三蔵法師が629年に陸路でインドに向かい645年に経典657部や仏像などを持って唐に帰還しました。
この玄奘三蔵法師の持ち帰ってきた経典は大乗仏教のものでした。
従って現在の日本の仏教は大乗仏教なのです。
一方、上座部仏教の方はミャンマー、タイ、ベトナムなどに伝承されました。

それではまず上座仏教と大乗仏教の違いは何処にあるのでしょうか?
上座部仏教では厳しい修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われません。
しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずです。そんな考えから生まれたのが大乗仏教です。
大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的とします。日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしています。

さてそれでは釈迦の教えと日本の仏教の違いを以下に示して見ようと思います。


(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。釈迦の教えとは違います。

(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。釈迦の教えとは違います。

(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。釈迦の教えとは違います。


(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。

(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。釈迦の教えとは違います。

以上のような違いのあることを私は重要視しています。
その理由の一つは自分がカトリックの信者だからとも考えています。キリスト教ではイエスの教えを福音書として正確に伝承しています。そのイエス自身の教えを変えないで、そのまま信じるように努力しています。だから仏教は間違っているなどと皮相的な、そして浅薄な主張をいたしません。
もしそう考えたとしたら宗教というものの奥深さを理解していない証拠です。

それはさておき釈迦の教えに大乗仏教より近い宗派は上座部仏教です。
上座部仏教は現在ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、そしてインドネシアのバリ島に伝承され多くの人が信者になっています。
上座部仏教を写真で示します。

1番目の写真は13世紀に作られたタイのお寺です。上座部仏教のお寺です。

2番目の写真も同じお寺の別の建物です。タイのチェンマイにあります。

3番目の写真はタイの上座部仏教のお寺のような日本のお寺の写真です。2009年に前橋市で撮った写真です。

4番目の写真は前橋市のお寺にあった仏足石です。

5番目の写真はた仏足石の説明板です。
前橋市のお寺の住職さんがインドのブッタガヤの菩提樹の下にあった仏足石の拓本をとって、帰国後、石屋さんに作らせたような経緯が書いてあります。

さてこの前橋市のタイ風のお寺について少し説明を加えておきます。
2009年の夏のある日、私共は前橋市に1泊しました。その時、このタイ風のお寺を発見しました。
ホテルの駐車場の裏にあったお寺です。タイ風のお寺へ好奇心が湧き、見に行きました。ところが本堂の前にいきなり大きな佛足石が飾ってあります。
お釈迦さまを身近に感じて日常の生活をするようにと住職さんが飾っておいたのです。
住職さんがブッタガヤで拓本をとり再現したのです。
翌朝、もう一度訪ね、玄関の呼び鈴を押し、突然で大変失礼ですが、住職様のお話を少しお聞きしたいのですがと頼みました。
出てきたのは頭をそり上げた若い住職様でした。父親がブッタガヤへ行って写してきたこと、タイを巡礼し何故か感動してタイ式のお寺を作ったことなど話してくれました。日本の屋根屋さんが苦労して作ったことも話してくれました。「お釈迦さまを身近に感じさせていることに感動しました」と申し上げました。若い住職様は「そうです。それが一番です」と答えます。
それだけの話ですがこの寺の住職さんはお釈迦様を一神教的に大切にいしお釈迦様だけを信じている様子です。

このお寺は日本の佛教が釈迦の教えと違うと示しているようで珍しいお寺です。

今日は5つの具体的な実例をあげて日本の仏教は釈迦の教えとは非常に違うことを明らかにしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

甲斐駒岳と八ヶ岳の山麓への旅

2019年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム
甲斐駒岳と八ヶ岳の山麓への旅に行ってきました。
北杜市武川町の山林の中の小屋に遊んで八ヶ岳山麓のスパティオホテル小淵沢に泊まってきました。
神秘的な深い森の新鮮な空気を吸いながら小屋で静かな時を過ごしました。
小淵沢ではリゾートアウトレット八ヶ岳でショッピングを楽しみ、甲斐小泉では平山郁夫没後10周年展を見ました。
泊まったホテルの5階には山水楼龍淵という広東料理がありました。日本人の味の好みに媚びない本格的な中華料理には驚きました。
そんな旅を皆様にも楽しんで頂くように道順に撮った写真でご案内いたします。

1番目の写真は激しい雨の降っている中央自動車道路です。天気予報では激しい雨は午後には止むと言います。雨のドライブの鉄則は車間距離を80m位とり車の流れに乗ることです。そして急ぐ車には素早く道を空けることです。甲府盆地に入ったら予報通り雨が止みました。

2番目の写真は北杜市武川町の山林の中の自分の小屋へ登る山道です。ここまでくると樹々の緑が鮮やかになります。私の好きな山道です。

3番目の写真は山林の中の小屋の周囲の森の風景です。今回は一匹の小鹿が遊んでいました。写真を撮ろうとしたらアットいう間に森の奥に逃げてしまいました。暗い森に白い尻尾が飛び跳ねて消えて行きました。

4番目の写真は花の好きなおばさんの別荘で撮ったタチアオイの花です。いろいろな花々がいつも沢山咲いています。いずれその花々の写真をご紹介します。

5番目の写真は今回の旅で北杜市白州町で買ってきたバラの花です。白州町の大きなスーパーでバラの花束を驚くような格安で売っているのです。山林の中の小屋に行くたびに寄るスーパーです。必ずのように薔薇の花束を数個買ってきます。

6番目の写真は小淵沢にあるアウトレット八ヶ岳の店舗の光景です。家内が何やら少し買ったようです。アウトレット八ヶ岳のことは別の記事でご紹介する予定です。

7番目の写真は今回泊まったスパティオホテル小淵沢です。このホテルは5階建てで大き過ぎず快適でした。八ヶ岳山麓の大きな森の中に立っています。最上階は山水楼龍淵という店になっています。非常に感動した中華料理だったので別の記事で詳しくご報告したいと思います。一泊2食付きの宿泊料は普通の価格です。

8番目の写真は翌日訪ねた甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館で撮った写真です。
展示絵画の撮影が自由なことが有り難かったです。没後10周年展で小品の絵画も沢山ありました。
平山郁夫の絵画には芸術的な深味が無いと言う人もいなますが、彼のシルクロードへも想いの深さは高く評価すべきです。一生をシルクロードに捧げ、その歴史を美しい日本画にしたのです。いずれ別の記事で平山郁夫の絵画をご紹介いたします。

この平山郁夫シルクロード美術館の訪問の後は長坂町に下り清春美術館にちょっと寄りました。
その後また北杜市武川町の山林の中の自分の小屋へ行って昼食を食べ少し遊んで帰って来ました。帰りは韮崎市で中央高速道路に上がりました。中央高速道路は車が少なく楽しいドライブになりました。

以上が今回の旅ですが、皆様にお薦めしたい所が3つほどあります。
1、小淵沢にあるリゾートアウトレット八ヶ岳
2、スパティオホテル小淵沢と5階の山水楼龍淵(外部の人が自由に入れる広東料理店)
3、甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館
これらの所の詳細はそれぞれ検索するとネット上に情報が出ています。
いずれも八ヶ岳山麓の小淵沢地区にあります。

今日は皆様を甲斐駒岳と八ヶ岳の山麓への旅にご案内いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

昔の武蔵野の面影を残す埼玉県、三芳町

2019年07月05日 | 写真
現在私共が住んでいる東京都小金井市から北の埼玉県川越市に行く途中に三芳町という農村地帯があいます。
昔の武蔵野の面影の残っている畑と雑木林、そして茅葺の農家などがあります。
そんな写真を撮って来ましたのでお送りいたします。
どうでしょうか? 昔の武蔵野の感じが出ているでしょうか?










写真だけをお送りしましたが、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)