後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の三大水仙群生地、淡路島の灘黒岩水仙郷の写真

2019年12月09日 | 写真
もう師走になりました。年をとると月日の流れが速くなります。
毎年、12月になると伊豆の爪木崎から買って来た日本スイセンが庭に咲き出します。しかし今年は緑の葉が伸びていますが花は咲きません。例年より遅れているようです。
伊豆半島の爪木崎は十数年前から何度も通った群生地なのです。その美しい風景が私の網膜に焼き付いています。爪木崎には昔から冬でも自然のスイセンが花を咲かせていたそうです。
そしてこのような水仙の群生地は日本のあちこちにあるのです。
その上三大水仙郷というものもあります。淡路島の灘黒岩水仙郷、伊豆半島突端の爪木崎水仙郷、福井県の越前海岸水仙郷が三大水仙郷と言われています。
今日は淡路島の灘黒岩水仙郷の写真をご紹介いたします。写真の出典は、、http://www.awaji-web.com/index.php?sightseeing_suisenkyo です。









瀬戸内海の国立公園 淡路島 灘黒岩水仙郷は、諭鶴羽山の南側斜面に面した約7haにあります。500万本の野生のスイセンが群生してます。日本三大群生地の一つとして有名なスイセンの名所なのです。
写真のスイセンは日本スイセンです。
日本スイセンの花弁は一重で中の盃が黄色です。都会の花屋さんでは球根を売っていないスイセンです。それが海岸の丘にえんえんと咲いているのです。私も日本スイセンの原種の球根を10年前に伊豆の爪木崎から買って来て庭に植えてあります。

冬の花として師走から春先に咲くスイセンは暗い冬の季節を足元から明るくしてくれます。ほのぼのとして暖かくしてくれます。
群生地のスイセン、庭に咲くスイセン、鉢植えの家の中に飾ったスイセン、それぞれに良いものです。心を温めてくれます。
皆様のお住まいの近くにスイセンの群生地は御座いますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

美しいクリスマスの風景写真と聖歌をお送りします

2019年12月08日 | 写真
12月1日から始まった待降節もはや20日も過ぎクリスマスも迫ってきました。
そこで今日は日本やカナダ、アメリカ、フランスの美しいクリスマス風景の写真をお送りします。
写真の出典はすべて、http://www.moshtravel.com/christmas-around-the-world/ です。

1番目の写真はきらびやかな街明かりに浮かぶ大浦天主堂です。長崎は神戸・函館と並ぶ日本三大夜景のひとつです。

2番目の写真は五島列島の中通島にある桐教会です。カラン、カランと鐘の音が響き、清らかな歌声が聖堂を包み込んでいます。

3番目の写真はカナダ東部にある都市ケベックでのクリスマス風景です。店の前にクリスマスツリーも並べられ、クリスマスの雰囲気満載です。

4番目の写真はニューヨークのタイムズスクエアです。かなり雪が降っていますが、世界一華やかな交差点だけあって、独特の雰囲気があります。

5番目の写真はフランスのパリです。
パリの通りでは木に設置された青いイルミネーションがずっと続いています。

長崎と五島列島の写真の出典は、https://www.sankei.com/photo/photojournal/news/161222/jnl1612220001-n1.html です。
カナダ、アメリカ、フランスの写真の出典はすべて、http://www.moshtravel.com/christmas-around-the-world/ です。

そしてクリスマスが近づいて来たので聖歌のYouTubeもお送りします。
カトリックの教会で毎週、日曜日に歌っている聖歌も混じっています。
URLをクリックしてお楽しみ下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=5Zw33qcJ12Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=wzCCUZRoo2Y&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV&index=2

https://www.youtube.com/watch?v=9MDGOjzjj3k&index=3&list=PLKFzvc3KMkE03vHmFzeDTR22dCevw9yaV

https://www.youtube.com/watch?v=m8JP7fSwljo

https://www.youtube.com/watch?v=7IYCfI6FRmU

日本にも各地に美しいイルミネーションが華やかに輝いています。このクリスマスの季節は心が浮き浮きします。皆様も楽しくこの季節をお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「中村哲さんの棺の先頭を担ぐガニ大統領の写真」

2019年12月08日 | 写真
今朝一枚の写真で私の胸が強く打たれました。 
中村哲さんの棺の先頭を担ぐガニ大統領の写真です。棺を日本に帰る飛行機に積もうとして担いでいるのです。
12月4日の中村さんの死亡以来私の心の中に鎮魂の鐘の音が悲しく鳴り響いていました。
今朝この写真を見てほんの少しいやされました。中村さんの愛がアフガニスタンの人々に届いていたのです。貧し人々の心を打っていたのです。
その中村さんは前から反政府武装勢力の一つから命を狙われていたことを知っていたのです。中村さんは微塵もたじろがず貧しい農民を救う用水路建設を続行していたのです。自分の命をかけて貧しい人々に寄り添い助けようとしていたのです。
西日本新聞の下記の記事をご覧下さい。
・・・日本の外務省が中村さんに対し、危険が迫っているとして注意を呼び掛けていたことが12月7日分かった。地元当局は約1年前から危険情報をつかみ、事件直前に中村さんに襲撃計画の情報を伝えていた。中村さんも警戒態勢を強めていたものの、犯行グループが用意周到に襲撃を実行した可能性が高まっている。
 複数の政府関係者によると、外務省は直接、中村さんに対して危険が迫っている旨の情報を伝えていたという。外務省幹部は「中村さんとは接触して『危ないです』と伝えていた。(事件に遭ったのは)非常に残念だ」と話した。
 一方、事件が起きたナンガルハル州の当局者は、約1年前に情報機関から中村さんの身に危険が迫っているとの情報が州当局に伝えられ、内務省がボディーガードを派遣して護衛に当たらせていたという。同州のメヤヘイル知事は、情報機関からは約1カ月前にも注意喚起があり、事件前日の3日に中村さん本人に襲撃の恐れがあると伝えた、としている。
 中村さんは4日、同州ジャララバードで、車で移動中に武装した男らに襲われた。銃撃した武装集団は6、7人で、車2台を使ったとの情報があり、地元警察が当時の状況を調べている。(https://www.nishinippon.co.jp/item/n/566300/)・・・
そして中村哲さんの棺がカブール空港でガニ大統領に担がれ日本へ向かう飛行機に乗せられたのです。その様子を伝える下記の読売新聞の記事をご覧下さい。
・・・アフガニスタン東部で殺害された民間活動団体(NGO)「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さん(73)の遺体は7日、妻の尚子さん(66)と長女・秋子さん(39)らとともに、アフガンから帰国の途についた。
 出国に先立ち、アフガン政府が首都カブールの空港で見送りのセレモニーを開いた。アフガン国旗に覆われた中村さんのひつぎをガニ大統領が先頭に立って担ぎ、飛行機に向けて運んだ。ガニ氏はあいさつで、井戸や農業用水路の整備に取り組み復興に尽力した功績をたたえ、「全てのアフガン人は、彼をアフガンの勇敢な男として記憶する」と述べた。
 尚子さんらは6日、大統領府でガニ氏と面会した。秋子さんは「(父に)良くしていただいて、ありがとうございました」と述べ、アフガンの人々へ謝意を示したという。
 ペシャワール会によると、中村さんの遺体は9日に出身地・福岡に着き、11日に告別式が行われる。(【テヘラン=水野翔太】https://www.msn.com/ja-jp/news/world/中村さんの遺体、アフガンから帰国の途に…大統領もひつぎ担ぐ/ar-BBXTl2B )・・・
中村さんのペシャワール会とは次のような団体です。
ペシャワール会は、パキスタンでの医療活動に取り組んでいた医師の中村哲を支援するために1983年に結成された非政府組織です。現在はパキスタン北西辺境州および国境を接するアフガニスタン北東部で活動しています。
中村は当初、主にハンセン病の治療に取り組んでいたが、2000年の大干ばつ時の赤痢患者急増をきっかけに、清潔な飲料水の確保にも取り組むようになったのです。
また、自給自足が可能な農村の回復を目指し、農業事業にも取り組んでいました。
2001年の米軍によるアフガニスタン空爆の際には「アフガンいのちの基金」を設立、アフガニスタン国内避難民への緊急食糧配給を実施します。
日本の人々から募金が寄せられ、2002年2月までに15万人の難民に配給を行いました。
後にこの基金をもとにした総合的農村復興事業「緑の大地計画」が実施されることとなります。
2008年8月26日、ジャラーラーバード近郊を自動車で移動していたペシャワール会の日本人スタッフ・伊藤和也(当時31)さんが武装集団に拉致されその後、遺体が発見された。
直後にターリバーンのムジャヒド広報官が、ターリバーンによる男性の拉致と殺害を認め、「このNGOが住民の役に立っていたことは知っている。だが、住民に西洋文化を植え付けようとするスパイだ」「すべての外国人がアフガンを出るまで殺し続ける」「日本のように部隊を駐留していない国の援助団体でも、われわれは殺害する」との声明を発表したのです。
このペシャワール会は次のような賞を受賞しているのです。
2003年 - マグサイサイ賞・平和国際理解部門受賞。
2004年 - イーハトーブ賞受賞(宮沢賢治学会主催)
それにしても悲しい事です。嗚呼。

それはそれとして、今日は中村哲さんのご冥福を心からお祈りします。 後藤和弘

スコッチとサントリーの違いが分かる男、分からない男

2019年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の男は3種類に分類されます。
スコッチとサントリーの違いが分かる男、分からない男、そして酒が全然飲めない男です。
スコッチとサントリーの違いが分かる男こそ男の中の男です。女は今回だけは遠慮して頂きます。
若い頃私は違いが分かりませんでした。若くても違いが分かる男を尊敬していました。
それが70歳を過ぎた頃からはっきり違いが分かるようになったのです。70歳になってやっと男の中の男になれたのです。これも老境の華やぎの一つです。
その頃から私は有名でないスコッチウイスキーのThe Claymore という銘柄をもっぱら飲んでいます。1890年創業の会社です。味がサッパリしていてくせのないスコッチです。
味は同じスコッチのカティサークのように軽快です。年をとってくるとジョニ赤もジョニ黒もオールドパーも味が重すぎます。
ニッカやサントリーも飲みますが香りがスコッチとはまったく違うのです。
ニッカやサントリーも良い蒸留酒と割り切って楽しみますが味が何となく日本人の「好み」に迎合しているのです。分かり安く書けば味噌や醤油の味が隠し味に入っているような感じなのです。これは半分冗談ですから本気にしないで下さい。
写真にニッカウイスキーの北海道、余市工場の写真を示します。北海道の旅で小樽から足を伸ばして余市にあるニッカウイスキーの醸造・熟成所を訪問した時撮った写真です。









さてここからは私の歴史趣味です。ウエスキーのお好きな方はお付き合い下さい。
(1)スコッチウイスキーの起源(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC より抜粋)
大麦や小麦を発酵して蒸留する酒は世界中にあります。日本では麦焼酎です。ロシアではウオッカです。同じものがスコットランドで作られるとスコッチウイスキーになるのです。
大麦を原料にした蒸留酒の製法がスコットランドに伝わった時期は、遅くとも12世紀から13世紀にかけてと言われています。
製法の要の一つである蒸留技術はアイルランドからキリスト教とともに伝来したそうです。その原料の大麦をピートという泥炭で乾燥、燻蒸したのでウイスキーと呼ばれる蒸留酒になったのです。
スコットランドにおけるウイスキーに関する現存する最も古い記録は、1494年のスコットランド財務省の記録で、「修道士ジョン・コーに8ボルのモルトを与え、アクアヴィテ(aqua vitae)を造らしむ」という内容です。アクアヴィテはラテン語で「生命の水」という意味で、これをゲール語で表すと「ウシュクベーハ」(uisge beatha、ウシュクは水、ベーハは生命の意)となり、そこから「ウイスキー」という英語が生まれたそうです。ウイスキーという単語に関する最古の記録は1736年にスコットランド人が書いた手紙で、1755年には英語辞典に登場しました。
以上要約するとスコッチの特徴は原料の大麦を泥炭のピートで乾燥、燻蒸し独特の風味をを付けることが特徴です。
当然ながらサントリーとニッカは泥炭をイギリスから輸入して使いウイスキーを製造しています。

(2)竹鶴政孝さんの1918年の渡英とその後の紆余曲折(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-5811.html より抜粋)
竹鶴家は関西の塩田の大地主として製塩業を営み、その傍ら酒造業も営んでいました。
竹鶴さんは大学も"大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の醸造学科"を卒業します。
そして1916年3月に当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造 (摂津酒精醸造所)に入社しました。
当時、"日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかったそうです。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画しました。
1918年、竹鶴は社長の阿部喜兵衛の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶことになります。
1920年11月、日本に帰国しましたので摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画します。ところが、第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまいました。
竹鶴政孝さんは1922年には摂津酒造も退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えるということで、お酒の世界からも離れることになりました。

(3)壽屋の鳥井信治郎氏との出会いと訣別(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-5811.html より抜粋)
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)も"本格ウイスキーの国内製造を企画し、社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせ"ました。
 ここで「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得たため、竹鶴さんにお鉢が回ってきます。スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額の年俸四千円という破格の給料で採用することになりました。
そして1924年11月11日、サントリー山崎工場が竣工されます。
当時は工場は社員は竹鶴のほかに事務員1名がいるのみの小さい工場だったそうです。 
鳥井は最大限、竹鶴の好きなように製造をさせたが、金ばかりがかかって全く製品を出荷しない山崎工場は出資者らから問題にされ、鳥井はやむなくそれとなく発売を急ぐよう指示します。
出荷ができるほどに熟成した原酒は最初の年に仕込んだ1年分のみで、ブレンドで複雑な味の調整をすることができないため難色を示した竹鶴だが、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので、出荷に同意します。
それが国産はじめてのウイスキー、『サントリー白札』で1929年4月に発売されたのです。ところが、これがさっぱり売れませんでした。
模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人には受け入れらなかったのです。
鳥井自身は竹鶴がスコッチにあまりにもこだわりすぎるのを疑問視していた節があるともされており、本格ウイスキーの国内製造を企画したとはいえ、あまりに本格すぎるものは望んでいなかったのかもしれません。
これは経営者が利潤にこだわるのに技師は品質だけにこだわるというよくあるパターンです。そして経営者と技師は訣別するのもよくあるパターンです。
例の通り1934年4月に竹鶴さんは寿屋を退社します。訣別したのです。

(4)竹鶴政孝さんが北海道余市でニッカウイスキーを製造し1940年に販売開始
竹鶴さんは北海道でと、1934年7月に北海道余市町でウイスキー製造のため、大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任しました。
会社名が何で「大日本果汁」なのは、最初はリンゴジュースを作っていたためです。
ウイスキーは1940年からで、「大日本果汁」の「日」「果」をとり、『ニッカウヰスキー』と命名しました。これが現在の社名に繋がっています。
本社の東京移転も1952年(昭和27年)と古く北海道生まれの会社でした。しかし2001年(平成13年)、筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得して完全子会社化されました。現在ニッカが製造する商品の販売及びマーケティングは全てアサヒビールが行なっています。

以上を分かりやすく要約します。
日本の最初の本格的なウイスキーは寿屋(現在のサントリー)の鳥井信治郎社長が1929年4月に発売した『サントリー白札』でした。これを製造したのがグラスゴー大学に留学した技師の竹鶴政孝さんでした。
その後鳥井信治郎社長と技師の竹鶴政孝さんとが訣別し1940年に竹鶴政孝さんがニッカウイスキーを製造販売します。
一方サントリーの鳥井信治郎社長も根気よくウイスキーを製造し続け現在に至っているのです。
日本のウイスキーに貢献した人はサントリーの鳥井信治郎社長と技師の竹鶴政孝さんなのです。とてもドラマッチックな歴史だと思いましたのでご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

初冬の花、ツワブキの花と緑の葉の美しさ

2019年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、初冬になると黄色いツワブキの花が咲く。花も可憐で美しいが分厚い緑の葉がつやつやして魅了されるのです。私の大好きな花なので毎年写真を撮っています。
今年は庭のツワブキが咲かなかったので近所で咲いている花の写真を撮ってきました。その2枚の写真をお送りいたします。



考えてみると過去にも何回も写真を撮り写真をブログに掲載してきました。
そこでGoogleで「後藤和弘のブログ、ツワブキの花の写真」を検索してみたらツワブキの花の写真が出てきました。その過去に撮った3枚の写真をお送りいたします。





3番目の写真は特につやのある大きな葉を撮ったつもりです。葉の厚さと緑が素晴らしく感じます。
花は毎年秋から冬にかけて黄色い花が咲きます。
そのため「石蕗の花(つわのはな)」は、日本では初冬の季語となっています。
ツワブキは福島県から、日本海側では石川県から西の地域と四国や九州に分布しています。
海辺に多く自生し低地から山地の日陰などにも咲いています。
冬にも緑の葉が茂り何年も枯れずによく生き残れる常緑多年草です。
ツワブキは同じキク科のフキと よく似ていますが、フキは秋になると葉が落ちる夏緑性の草であり常に緑の葉をつけているツワブキとは別属の植物です。

またツワブキは地方によっては食用になっています。
鹿児島県や沖縄県を中心に西日本の一部地域ではフキと同じように葉柄を食用としています。
ツワブキうは毒のピロリジジンアルカロイドを含むため、軽くゆがいて皮を剥き酢を少量加えた湯で煮直し1日以上水に晒すなどの灰汁抜きが必要です。
鹿児島県などでは灰汁抜きしたものが市場で売られているそうです。
三重県南伊勢町や高知県土佐清水市などでは木枠にツワブキの葉を敷いて押し寿司である「つわ寿司」が作られているそうです。葉そのものは食べません。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/ツワブキ をご覧下さい。

それにしてもツワブキの花や葉が美しいです。美しいだけでなく地方の特色ある食文化に使用されているのです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本古来の馬、都井岬馬、木曽馬、そしてモンゴルの野生の馬

2019年12月03日 | 日記
弥生時代に稲作が始まり、その末期には馬は日本人の農耕や産物の運搬に人々に役にたっていたようです。
次の古墳時代になると馬具や馬の埴輪が沢山出土することから古墳時代の少し前から馬が活躍したと想像するのは自然ではないでしょうか。そして奈良時代の律令国家の時代になるると全国各地で馬牧場が出来て朝廷に軍馬として献上されたのです。
それでは古墳時代や律令国家時代の馬はどのような馬だったのでしょうか?
簡単に結論を言えば小型ながら頑健な蒙古馬が中國や朝鮮半島を経由して入ってきたと考えられます。
野生の馬と言えば宮崎県の都井岬に現在でも野生の馬が多数生息しています。

1番目の写真は都井岬の野生馬の写真です。
この都井岬の野生馬の写真の出典は、http://www.kanko-miyazaki.jp/data/ja/smartphone-index?page-id=9265とhttp://meito.knt.co.jp/1/ca/11106005/1/です。
しかしこの野生馬は旧石器以前の野生馬ではなく、姿をよく見ると蒙古系の馬のように見えます。
この宮崎県の都井岬の野生馬は国の天然記念物に指定されています。
これらの野生馬は約300年前秋月藩主が放牧したのが始まりと明確に分かっています。
日本の律令国家の時代に飼育され朝廷に献上された蒙古系の馬に近いと考えられ、木曽馬のような馬と言われています。

2番目の写真に木曽馬の写真を示します。後ろの山は木曽の御嶽山です。
写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/nihonzairaiba08/1030166.html です。
木曽馬とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E9%A6%AC によると長野県木曽地域(木曽郡)を中心に飼育されている日本在来種の馬だそうです。岐阜県飛騨地方でも飼育されています
日本在来種は他に北海道和種(北海道、俗称:道産子)、野間馬(愛媛県今治市野間)、対州馬(長崎県対馬市)、御崎馬(宮崎県都井岬)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古諸島)、与那国馬(沖縄県八重山諸島)がありますが、本州の在来種は木曽馬のみです。
一時絶滅寸前であったが木曽馬保存会が中心に活動が行なわれた結果、飼育数は増加しました。しかし以前のような乗馬、農耕を目的とした需要ではなく、種の保存と観光用として現在は200頭以下が飼育されています。
この木曽馬は平安時代から江戸時代にかけて、武士の馬として使用されきたのです。
起源ははっきりしていませんが、元々は蒙古の大陸系の馬です。一説では紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀に、朝鮮半島経由で渡来したと言われています。この馬が木曽地域という山岳地帯で飼育された影響で、木曽馬となったのです。
北海道の道産馬には欧米系の労働馬と小型の和種の道産馬の2種があるようです。

3番目の写真に和種の道産馬を示します。
道産馬の写真の出典は、http://www008.upp.so-net.ne.jp/kurumada/horse.htmです。
自動車は普及する以前は馬が荷物運搬に活躍していたのです。
さて野生馬と言えば純粋の野生馬は非常に珍しく都井岬の野生の馬のように人間が飼っていた馬が放たれて野生のように繁殖したものです。
この世界でも珍しい純粋の野生馬はモンゴルに現在でも生きて繁殖しています。

4番目の写真は世界で唯一の純粋な野生馬と言われているモンゴルの野生馬です。
写真の出典は、http://cgi2.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/detail.cgi?sp=p348 です。
このモウコノウマは、体高140センチ。ポニーほどの大きさで、足は短くずんぐりした体型をしています。漢字で書くと「蒙古野馬」で「モンゴルの野生の馬」という意味です。
現在、モンゴルと中国にわずか数百頭しか生息していないため、絶滅危惧種に指定されています。気性が荒く人に慣れないので、家畜化は不可能だといいます。
モウコノウマは1頭のオスと複数のメス、そしてその子どもからなる家族単位の群れで暮らします。
オスは、家族のリーダーとして圧倒的な力を持っています。移動のときは常に最後尾を歩き、オオカミなどの外敵を警戒、家族を守ります。指示に従わない家族がいれば、噛みついて追い立て統率するのです。メスたちの役割は子育てで、いつもぴったりと我が子に寄り添い、授乳や毛づくろいなどの世話をします。

ついでに5番目の写真に大型の欧米系の北海道の馬と家内の写真を示します。

5番目の写真は2012年9月に道東の弟子屈市の郊外で撮った写真です。
家内が馬が大好きなので都井岬の野生馬も木曽馬も見に行きました。
家内と馬の馴れ初めは軍馬だったそうでせす。
群馬県下仁田町の疎開先の家の息子が終戦で軍隊から帰るとき軍馬に跨って帰って来たのです。
少女だった家内はその軍馬に何度も乗せてもらい乗馬の楽しさを覚えてしまったのです。
都内の大学に入学するとすぐに馬術部の入ります。
毎日厩掃除をしたそうです。
家内は「馬は賢くて厩掃除をしてくれる人になつく」と何度も言っていました。
結婚後も小金井市の「さくら乗馬会」というクラブの馬場で馬に乗っていました。
旅行をすると必ずのように馬に乗れるところを探します。
北海道や八ヶ岳の麓には馬に乗れる馬牧場が散在しているのです。

家内の影響で私も馬を見るのが好きになりますした。皆様は馬がお好きでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

蚕糸の森の紅葉の写真と蚕糸試験場隆盛の時代

2019年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム
明治、大正、昭和の時代、絹糸は日本の外貨獲得の最も重要な輸出品でした。
その時代には全国に国立や県立の蚕糸試験場があり、その試験場は蚕糸業を支えていたのです。蚕糸業は日本の富国強兵を支える財源だったのです。
そんな時代も過ぎ去ってはるか遠い昔になりました。
現在あちこちの蚕糸試験場の跡地は公園になっており大きな樹々が生い茂っています。
蚕を飼う建物は太陽の直射を避けるためにケヤキやイチョウの樹々で囲んだのです。
その樹々が現在大木になり見事な森になっています。
日野市にある農林省の蚕糸試験場の跡地は「仲田の森公園」になっています。その周辺にあった広い桑園は住宅地になって姿を消しました。
そんな歴史を想い返しながら昨日の午後、蚕糸の森の紅葉の写真を撮って来ました。
喬木の紅葉の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









この公園の一帯には蚕業試験場(後の蚕糸試験場)と日野村の桑園がありました。
ここは昭和3年(1928)から、農林省蚕業試験場と附属の日野桑園があ った場所です。
蚕業試験場は、養蚕・製糸・絹加工に関する試験研究を行なう国の研究機関でした。 そのはじまりは明治 44 年(1911)5 月、高円寺(杉並区)に造られた農商務省原蚕種 製造所です。
この原蚕種製造所は大正 3 年(1914)に農林省の蚕業試験場と改称し、さらに 昭和 12 年に蚕糸試験場と改称されました。
日野市域には、仲田に日野桑園が出来るよりも早く、明治 44~45 年に、石田(石田 402 番地、現・万願寺1丁目)に、万願寺桑園が造られました。
万願寺桑 園は、高円寺の原蚕種製造所で飼育する蚕のえさとなる桑の葉を栽培するために作ら れた桑園で、ここから荷馬車で桑を運んでいました。
昭和 3 年に仲田に蚕糸試験場と付属の日野桑園が出来たことで、日野桑園は第一桑 園、万願寺桑園は第二桑園と呼ばれるようになりました。また、谷戸上・神明にも土 壌研究のための第三桑園がありましたが、ここは昭和 23 年に廃止されました。
日野桑園には、庁舎と第一から第六までの蚕室があり、ここで桑や蚕の品種改良や 優良品種の育成など、さまざまな研究が行われていました。
敷地内には他に職員の宿 舎や寮もあり、最も盛んだった頃には、100 名近い人たちが働いていたといいます。
その後、機構改革により、昭和 55 年に蚕糸試験場が筑波(茨城県つくば市)に移転するのにともない、日野桑園も閉鎖され筑波に移転しました。
現在仲田の森には、第一蚕室(通称「桑ハウス」)と庁舎の入口基礎がわずかに残り、 かつて蚕室を日光の直射から守っていたケヤキの大木などから当時をしのぶことが出 来ます。
(日野市郷土資料館 矢口祥有里) hino-museum.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/06/rekimin148.pdf
蚕業試験場が蚕糸試験場への拡充されたのは昭和12(1937)でした。

尚、農林水産省における蚕糸試験研究の歴史については以下に詳しい歴史書があります。
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/FYI/history/history-index.htm
近代的統一国家の形成を進める明治政府が目指したのは、富国強兵、殖産興業、文明開化でした。この歴史書は政府の殖産興業の重要な分野だった蚕糸業に対する政策が詳しく説明してあります。ご興味のある方は是非ご覧ください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の待降節第一の主日のミサの風景写真

2019年12月01日 | 日記
カトリック教会では今日から4週間のアドベント(待降節)に入ります。イエス様の誕生を待ちながら楽しい季節に入ります。
カトリック小金井教会での待降節第一の主日のミサの風景写真をお送りいたします。
1番目の写真から3番目の写真は今日の小金井教会で撮った写真です。





この今日からはじまった待降節には教会や家々に針葉樹の枝で作った輪の上に4本のローソクを飾ります。
今日、その一本に火を灯し、毎週、1本ずつ火を灯します。クリスマスの前の日曜日に4本目のローソクに火を灯し、全てのローソクが点火されます。
そして12月1日から子供のいる家ではアドベントカレンダーという特別の暦を使います。
毎日、カレンダーの一部をめくると紙の裏が箱になっていてチョコレートやキャンディーが入っています。子供の為のアドベントカレンダーですね。

4番目の写真は24個のお菓子の包みを入れたちょっと贅沢なアドベントカレンダーです。

5番目の写真はにドイツから輸入されたアドベントカレンダーです。
中のカレンダーでは毎日、めくる部分に薄い切れ込みが入っていて一個ずつチョコレートが出て来ます。合計24個のチョコレートが入っているカレンダーです。
このように子供のいる家庭では今日から毎日楽しい雰囲気がクリスマスまで続きます。
子供が育ってしまった老夫婦も自分達が子供の頃楽しかったアドベントを思い出して楽しいことをします。一緒に買い物に行ったり、外で食事をします。
今日からクリスマスまでは家庭的なほのぼのとした季節です。そして商店街が楽しげに飾ってあるのも良いものです。
どちらにしてもアドベントは季節の風物詩のようなものです。皆様も楽しく過ごせるようにお祈りいたします。

4000年前の三星堆遺跡と少数民族、彝族との関係は?

2019年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味にはいろいろあります。私の趣味は若い頃から比較文化人類学でした。素人の趣味ですから間違った予測や結論になりますが楽しい趣味です。
最近のテーマは、「4000年ほど前にあった古蜀という国を作った民族と現在の中国南部の雲南省の険しい山々に住む彝(イ)族との関係」を調べることです。なお古蜀とは三国志の蜀のあった場所に存在していた古代の蜀の呼び名です。
何故、これが面白いテーマなのでしょう。それは古蜀という国を作った民族が忽然と消えてしまったからです。
しかしその一方、現在生存している彝(イ)族が、消えた古蜀の人々の子孫だという仮説があるのです。
根拠は古蜀文化の三星堆遺跡からの出土品の文字が現在の彝族の使っている文字に似ているからです。
彝族文字は漢字とまったく違います。写真をご覧下さい。

1番目の写真は現在の彝語で書かれた四川省涼山イ族自治州人民政府の北京事務所の看板です。
写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25058012538&GroupCD=0&no= です。
写真の上の方にあるのが現在の彝族の文字なのです。
このように奇妙な字を見ると私の好奇心の血が騒ぐのです。
彝(イ)族が古蜀の人々の子孫だという説はまだ仮説であって学界の結論ではありません。
そこで今日は三星堆遺跡からの出土品と少数民族、彝(イ)族の両方についてご紹介したいと思います。

さて三星堆遺跡の説明から始めます。
紀元前2000年頃以前と考えられる極めて古い時代に属する三星堆遺跡とその文化は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀文化のものです。
この三星堆遺跡からは、異様な形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数出土しています。
三星堆の遺跡および文物の発見は 3、4千年前の中国の長江文明の古蜀王国の存在と中華文明起源の多元性を有力に証明していると考えられているのです。
上記の説明文と以下に示す写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%9F%E5%A0%86%E9%81%BA%E8%B7%A1 です。

2番目の写真は青銅神樹です。神へ捧げる樹木の模型です。
三星堆遺跡の二号祭祀杭から1986年8月に出土した青銅製の扶桑樹です。「青銅神樹」と呼ばれています。
殷代晩期のもので、全高396cm、像高(樹高)384cm。3階層になっている幹の各層に3枝ずつが張り出しており、それぞれの枝に1羽、全部で9羽の霊鳥が留まっています。枝先には果実がなり、樹の下層には頭を下に向けた1頭の龍が這っています。

3番目の写真は青銅人頭像です。
青銅製の頭部および頸部で構成された人頭像は、様々に異なる造形物が数多く出土しています。

4番目の写真は青銅戴冠縦目仮面です。
大きな耳と突出した眼を具えた神の頭部をかたどった仮面で、額から真上に向けて伸張する長大な額飾り(冠)を有します。日本語名は「青銅戴冠縦目仮面」です。殷代晩期のもので、幅78cm、高さ82.5cm。1986年に二号祭祀杭より出土しました。

5番目の写真は青銅大鳥頭です。
鷲の頭部をかたどった高さ40.3cmの祭具です。
写真では分かりませんが、これらの出土品には少数ながら彝族の文字に似た記号のような文字が刻まれているのです。

6番目の写真は現在の彝族が用いている祈祷書の文字です。、
この彝族の文字の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/masaki1234512345/64566442.html です。

さて現在の彝族(イ族)とはどういう民族なのでしょうか?
彝族は中国の少数民族の一つです。2010年の第6次全国人口統計では人口は871万人で、中国政府が公認する56の民族の中で7番目に多いそうです。以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E6%97%8F からの抜粋です。

7番目の写真は民族衣裳を纏ったイ族女性です。
イ族(彝族)は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住しています。南詔王国を建国した烏蛮族が先祖だと言われています。
精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導します。
雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もいますが、それらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族なのかは、明確には分別できていません。
雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており、人は黒イ(貴族)と白イ(平民)に分けられています。
使用言語は彝語ですが、彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持っています。
現在の中国では彝族の自治州が雲南省に沢山あり、四川省や貴州省の各地にもあります。

さて冒頭に書いた4000年ほど前にあった古蜀という国と現在のイ族(彝族)の関係ですが、私の想像では古蜀が他の国に滅ぼされた時、古蜀人の一部が険しい山中に逃げ、そこに定住して彝族の一部になったということです。
いきなり話が飛びますが日本でも平家の落人が山間の村落に住み着いたのと同じような事情があったのでしょう。

これは趣味ですからこれから古蜀人と現在の彝族の関係をいろいろ調べ楽しんでいきたいと思っています。
もっと確かなことが分りましたなら又ご報告しようと思います。
雑な想像ですが、中国の南部の雲南省や西部の四川省の僻地にいる少数民族の一部は滅亡した数多くの中国の王朝の避難民の一部だったとも想像出来ます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)