後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日のミサも関口教会からの動画配信で与かりました」

2020年05月17日 | インポート
東京大司教区の本部は文京区の関口にある東京カテドラル聖マリア大聖堂です。
丹下健三設計の近代的な芸術作品です。宗教的な伝統を感じさせない作品です。
カトリックの伝統的な建築を一切忘れこの建物を芸術的に鑑賞すると、なかなかの傑作です。
今日はまずこの建物の写真を示します。出典は、Wikipedeaの「関口教会」です。

日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし、https://www.youtube.com/watch?v=0K_pDzKv-jg で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの主日のミサに動画配信でミサに与かります。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。
今日の動画配信のミサの写真を3枚お送りいたします。






それにしても自宅でミサにあずかれるとは、インターネットは素晴らしく多様な機能を持っているのですね。
これも現代の奇跡です。

「コロナ問題のお陰で菊地功大司教の人間的魅力を発見できた」

2020年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
私どもは東京大司教区のカトリック小金井教会に属します。現在の大司教はタルチシオ菊地功様です。大司教はめったに小金井教会のミサの司式にめったにいらっしゃいませません。
ですから2017年に東京大司教になられてからお会いすることはありませんでした。
ところがコロナ問題で全てのミサが無くなり、その代わり東京大司教区本部の関口教会の菊地功大司教が司式するミサの動画配信で毎週ミサにあずかっています。
おかげで菊地功大司教様のお説教を聞き、大司教様と一緒に祈っています。
すると菊地功大司教様の素晴らしい人間的魅力が発見できたのです。
コロナ問題のお陰で大司教の人間的魅力を発見したのです。
説教が理路整然として実に明快なのです。イエス様の愛を感じさせます。そしてフランシスコ教皇のことを毎週お話しします。
名説教です。頭脳明晰なお方です。何より人としての温かさに溢れておられるのです。
すっかり感心して私は菊地功大司教様のことをいろいろい調べました。
そうしたらFace Book に「司教の日記」という題で毎日のように日記や評論を発表されていたのです。
アドレスは、https://www.facebook.com/bpisaomemo/ です。
またブログも書いておられます。そのブログのアドレスは、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/ です。
ブログのほうの、「司教の日記」のブログ記事へのコメントはFacebookのページから送れます。

このようにFace Bookやブログを活用する聖職者は非常に珍しいのです。これも菊地功大司教の気さくな人間性です。
カトリックの聖職者は信者の世話を親身になってしますが、信者以外の人とはあまり接触がありなせん。
しかしFace Bookやブログを活用すれば信者以外の何万人、いや何十万人という人と交流出来るのです。
そうです。菊地功大司教様はカトリック教会を開放しているのです。
是非、大司教様の温かい気持ちの溢れたFacebookのページやブログをご覧ください。
最後に大司教様の略歴を示します。
菊地功大司教様の洗礼名は「タルチシオ」です。 1958年11月1日に岩手県宮古市に生まれました。南山高等学校男子部を経て南山大学文学部神学科卒業します。
1986年3月15日に南山教会(愛知県名古屋市)で司祭に叙階されました。同年から1994年まで西アフリカのガーナに宣教師として派遣され、現地の小教区で主任司祭として司牧活動を行います。
帰国後は名古屋教区で神学生養成担当をし、1999年からは神言会日本管区長を務めています。
2004年5月14日、教皇ヨハネ・パウロ2世より新潟司教に任命され、司教に叙階されました。
2017年10月25日、ペトロ岡田武夫東京大司教の引退に伴い、教皇フランシスコより9代目の東京大司教に任命され現在に至っています。菊地功大司教様の3枚の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「我々の先祖の縄文の人の暮し方と食べ物」

2020年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の旧石器時代は4万年前から12000年前までの28000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。勿論この時代区分は日本の地方、地方によって異なります。
縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていた約12000年間です。土器や石器は使っていました。
簡単な農業も行っていました。
青森県の縄文時代の三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅がありましたした。

1番目の写真は青森県の三内丸山遺跡の復元展示場です。(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)
ここには食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。
それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたのです。
三内丸山遺跡からは実に多彩な出土品も出ているのです。
そして他にも青森県の全域には数多くの縄文遺跡が発見されています。しかしこの青森県の縄文文化はその後の縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
写真の左下に写っている巨大な木柱を組んだ建造物は祭祀用の祈祷檀のようです。その後ろに続く大きな藁屋根の家は祭祀にも使ったでしょうが、この領地の権力者(王とも言える)の住居、すなはち宮殿と考えられます。この大きな家の左上にある3軒の高床式の建物は食材の貯蔵庫と言われています。
そしてこの3軒の貯蔵庫の後ろには比較的大きな竪穴式の住居が見えます。権力者に仕える家臣の家でしょうか。その左遠方には小さな竪穴式の住居も見えます。そして墓地はこれらの住居よりは離れて作られていました。

それでは彼等はどんな暮らしをしていたのでしょうか?
資料は幾つもありましたが、玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが圧倒的に優れていました。そのURLは、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.htmlです。
多賀先生のHPは神奈川県にある羽根尾遺跡から出土した多数の土器、食料にした魚やイルカ、そして鹿や猪の骨から当時の生活の様子を学問的に推定しているのです。
多賀先生の研究の誠実な様子は、縄文時代のタイムカプセル・羽根尾遺跡、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/haneo/ をご覧頂くと納得がいきます。
このHPでは縄文人の生活を、(1)海浜に近い場所に住んでいる場合、と (2)八ヶ岳山麓のように海から遠い内陸部に住んでいる場合の2つに分類して縄文人の暮らし方を説明しています。
この2つの場所の食べ物の違いは海の魚貝類とイルカやクジラが有るか無いかの違いだけです。そこで以下に内陸部の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。

2番目の写真は縄文人が土器を作っている様子です。八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。
土器の生産を仕事にしていた人々がこの2番目の写真のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのしょう。

3番目の写真は縄文人がイノシシを仕留めた様子です。
現在でも八ヶ岳山麓には猪は多すぎるくらい棲んでいます。
山で追い詰めて、弓矢や槍で仕留めた猪はその場で解体し、肉と内臓と毛皮を背負って帰りました。毛皮は後でゆっくりなめして、敷物にしたり服に仕立てます。

4番目の写真は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。
漆塗りの跡のついた生活用具は全国の縄文遺跡から出土します。八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。

5番目の写真の絵は秋の終わり頃冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。
この絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭です。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。
肌着としては麻や柔らかい植物の繊維で織った着物を身につけます。その上に鹿や猪のよくなめした毛皮の外套を着ます。
足には毛皮製の靴を履いています。
野獣を獲る棍棒か槍を持って山野を走り回って鹿や猪を獲っていたのでしょう。鹿や猪は一度落とし穴に落としてから仕留めていたようです。

具体的に食べていたものは内陸部の縄文人の食物の一覧表は次のとうりです。
「穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・えごま・緑豆
「野菜類」 ごぼう・のびる・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・みょうが・しょうが・うど・たら・ふき
「果実類」くり・やまぶどう・きいちご・あけび・さるなし・またたび
(平野・山村の部)
鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類
しじみ・たにし,などの淡水の貝類
「肉類」 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥
「調味料・他」 醤(ひしお)・塩・甘草(かんぞう)・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび

それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。当時は日本全国の縄文人の人口は26万人しか居なかった事実がこの豊かな食糧の最大の原因だったのかも知れません。

このような縄文人の生活の様子を見ると親しみを感じます。いろいろ想像してみると彼らの家族生活の感情は現在と変わらないようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「江戸時代の庚申塔と石灯篭の写真を撮りに行く」

2020年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
私どもは縁あって1964年から東京の小金井市に住んでいます。愛着もあり、折にふれてこの地の歴史を調べています。
ここ小金井には1万5千年以上前の縄文時代から人が住んでいました。その後はあまり人が増えませんでしたが江戸幕府の直轄になって新田が盛んに開発されて住む人が急に増えました。
明治維新後に小金井村、貫井村、貫井新田、小金井新田、梶野新田、関野新田などが合併して新しい小金井村になりました。その後、現在のJR中央線の前身の鉄道が出来てから大きな町になったのです。
現在の小金井市は江戸時代の新田開発と鉄道の建設のお陰で出来た町です。
ですから現在の小金井市には縄文時代の土器と江戸時代の遺物や遺跡が少しあります。しかし江戸時代のものは時代の流れで消滅して行きます。
私はそれらを写真に撮り、この欄に掲載して来ました。江戸時代からある小金井神社、貫井弁天、稲穂神社などの写真です。そして江戸初期に出来た玉川上水とそれから分水した小金井分水路の写真も掲載して来ました。

この続きとして昨日は江戸時代の庚申塔と石灯篭の写真を撮りに行きました。
江戸時代の庚申塔と石灯篭はほとんど消滅してしまいましたが古い小金井街道に沿った大松の木の下の稲荷神社にわずかに保存してあります。

1番目の写真は大松木下之稲荷神社です。とても小さな神社です。

2番目の写真は大松木下之稲荷神社の鳥居の中の右手にある2つの江戸時代の庚申塔です。
右の黒い庚申塔の年号は不明ですが石の劣化から江戸初期以前のものと考えられます。左の庚申塔は寛政4年、1792年に建てられたものです。地元の上山谷講中が建てたもので、青面金剛が彫ってあります。鬼と猿を青面金剛の足もとに彫った江戸後期の典型的な庚申塔です。

3番目の写真は稲荷神社の中にある2つの江戸時代の石灯篭です。
右の黒い石灯篭は享和2年、1802年建立のものです。榛名大権現と大山大権現と刻まれていて、当時の山岳信仰で寄進した石灯篭であることが分かります。
左の白っぽい石灯篭の年号は不明ですが前澤村や貫井村や梶野新田などの「籠細工講中」が寄進したものです。籠細工の組合が寄進したものは大変珍しいもので他にはありません。

現在の小金井市には江戸時代の庚申塔は非常に少なく私の知るかぎりはここに紹介した2つと、もう一つだけです。もう一つとは、小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に1794年に建てられた庚申塔のです。(詳しくは、「日本人に忘れられた道教の庚申信仰、その一」、2016年11月09日 掲載をご覧下さい) 他は消滅したのでしょう。
そこで心配になり大松木下之稲荷神社の近くにある白龍の大ケヤキの写真を撮りに行きました。

4番目の写真は保存木の白龍の大ケヤキです。大正時代この辺は栗林だけが広がる寂しい農村でした。ここに住んでいた朝倉市威の妻、ミヤがある夜に白龍の夢を見ます。そこで白龍を祀った祠を建て一本のケヤキを植えたのです。それでこのケヤキを白龍のキヤキと言います。
しかし写真が示すように高層マンションが隣接してケヤキの木を圧迫しています。

5番目の写真は白龍の大ケヤキの根本の写真です。3方から建物が迫っていて地面が見えません。その上前面は小金井街道の歩道の敷石で固められ雨水も浸み込めません。こんな状態では早晩枯れてしまうでしょう。残念なことですが仕方ないのです。

時代の流れとともに古いものは皆消滅して行きます。こんな古いものにこだわるのは老人だけなのでしょう。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「興味深い朝鮮の歴史と文化(5)客観的に考えた朝鮮併合の歴史」

2020年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は少し重い内容の記事を書きますので、まず始めに花々の写真をご覧下さい。昨日、三鷹市の花と緑の広場で撮って来ました。









花の写真を見ると人間は穏やかに気持ちになります。そんな気分で以下をお読み頂ければ幸いです。

日本による1910年から1945年までの朝鮮併合を客観的に考えるためには、日本人と韓国人の歴史観を公平に書くことが最も重要です。

韓国人は現在の韓国は1919年の上海の亡命政府から始まったと考えています。現在の韓国の憲法にそう明記してあるからです。
一方、日本人は隣の大韓民国は1945年の日本の敗戦によって生まれた新しい国だと理解しています。
しかし韓国人は日本の朝鮮併合に反対して、上海に1919年に作った大韓民国臨時政府が現在の大韓民国のはじまりだという教育を受けます。韓国の学校では次のような憲法の冒頭に書いてある通り教えているのです。
・・・悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、、、以下省略。
ここに出て来る3・1運動とは韓国人なら誰でも知っている1919年の朝鮮独立運動のことです。
これは韓国人の歴史認識です。これは冷厳な事実です。
以下に1919年の韓国の臨時政府が出来る歴史的な経緯をご紹介いたします。
三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、朝鮮や中国の各地で亡命政府の樹立のための準備が進められていました。
当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結し、彼らは臨時議政院を設立します。そして李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言したのです。この李承晩は戦後に韓国の初代大統領になります。
同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されましたが、やがて上海の臨時政府に統合されました。
1919年9月に統合された上海の臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧、申圭植、盧伯麟が国務総理代理を引き受けます。
国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出しました。
一方、大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局にあり、海外には朝鮮併合に反対する居留民団組職がありました。
連通府と交通局は朝鮮北西地方で結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が活動していました。
また、この時期に大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会なども大韓民国臨時政府との関係で活動したのです。
居留民団組職は上海などの中国本土に存在し、アメリカとメキシコ、フランスでは大韓人国民会の組職が活動していました。そして満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が活動していました。
戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団とアメリカの大韓人国民会と国本土に点在する光復軍とが活発でした。
(上記は、http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国臨時政府 より抜粋、転載しました)

なお三・一運動は1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動です。独立万歳運動や万歳事件とも呼ばれています。現在の韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。
以上が現在の韓国人が理解している朝鮮併合にまつわる歴史です。

一方日本人は朝鮮併合は彼等の希望で平和的になされたものだという理解です。従って日本の学校では朝鮮の独立運動や亡命政府のことは一切教えていません。
日本側の認識では、1910年(明治43年)に韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印されたのです。これにより日本は大韓帝国を併合し朝鮮半島を領有しました。
1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対する敗戦に伴って朝鮮半島の実効支配を喪失し、日本による朝鮮半島の領有は終了します。これが日本側の朝鮮併合の歴史認識です。
もっとも伊藤博文が朝鮮独立運動家の安重根によって1909年にハルビン駅頭で暗殺されたことは学校で教わります。

このように朝鮮併合の歴史観は日本と韓国で大きく異なるのです。
それにしても朝鮮併合は日本にとって大きな負の遺産となりました。朝鮮民族にとっては歴史的に大きな悲劇になりました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、旧小金井村の豪農の大木の写真を撮りに行く」

2020年05月13日 | 日記
東京の西の郊外は武蔵野の大地が広がり江戸時代には新田開発で豊かな農地になりました。そしてあちこちに豪農の家が散在するようになりました。その家が奇跡のよう残っていて亭々とした大木に囲まれて、道路からはよく見えません。畑地は植え込みになり、栃の木やオガタマ、コニファー、シャクナゲなどがあります。
今日はその農家の大木を撮りに行きました。写真をお楽しみください。












「コロナ感染に弱い欧米諸国とアーミッシュ村の生活」

2020年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
欧米の文明はコロナ感染に弱いようです。それで思いつくのは欧米の近代文明を一切拒否して暮らしているアーミッシュの人々の村のコロナ感染はどうなっているでしょうか?
欧米の近代文明は便利な通勤電車や地下鉄を作りました。多数の大衆を集めるイベントも作りました。コロナ感染に弱い文明です。

今日は欧米の近代文明とコロナ感染蔓延の関係を考えてみたいと思います。そして欧米の近代文明を一切拒否して暮らしているアーミッシュの人々の暮らしぶりをご紹介したいと思います。
(1)欧米の文明圏にコロナ感染者数が多い事実
昨日までの国別感染者数です。括弧内は死者数です。
アメリカ    134万7936人(8万684人)
ロシア      23万2243人(2116人)
イギリス     22万4332人(3万2141人)
スペイン     22万7436人(2万6744人)
イタリア     21万9814人(3万739人)
フランス     13万9519人(2万6643人)
ドイツ      17万2626人(7661人)

以上に対してアジア諸国は次のようになっています。
タイ           3018人(36人)
ベトナム           288人(0人)
マレーシア         6742人(109人)
インドネシア       1万4749人(1007人)
台湾              440人(7人)
韓国           1万936人(258人)
日本           1万6048人(678人)
中国本土         8万2919人(4633人)

以上の国別感染者数をその国の人口で割った数字を考えてみましょう。
するとアジア諸国は人口が多いのでその数字、すなわち人口一人当たりの感染者数は非常に小さくなります。中国本土の8万2919人を13憶人という人口で割れば非常に小さくなります。
従って人口一人当たりの感染者数は欧米の文明圏が圧倒的にアジア諸国より多くなります。

(2)何故人口一人当たりの感染者数が欧米で圧倒的に多いか?
コロナウイリスが生物学的に白人に感染しやすいのかも知れません。
そして欧米の近代文明が作った通勤電車や地下鉄が感染を増やしたのかもしれません。また多数の大衆を集めるスポーツイベント、コンサート、映画館、クラブなどもあります。
その上欧米人は何かというとハグやキスをします。
このような欧米文明はコロナ感染に弱い文明なのかもしれません。
しかし真の原因は今後の学問的な研究を待つ必要があります。

(3)欧米の近代文明を一切拒否したアーミッシュの人々の暮らしぶり
アーミッシュの人々の村はオハイオ州やペンシルバニア州に散在しています。
その人々は自動車や電気を使わず馬車とランプの生活をしています。家電製品は一切使いません。農耕は馬です。乳牛を飼い、養蜂もしています。
独自のスーパーマーケットで買い物をしますが商売は禁止なのでスーパーの経営者は普通のアメリカ人です。ア-ミッシュはアメリカの市民権を持っています。ですから徴兵には応じます。しかし前線ではなく期間を長くし後方勤務につきます。
私は1989年ころ何度か訪れてその質素な暮らしぶりに感動しました。
アーミッシュの人々は欧米の近代文明を一切拒否した生活です。ですから人口一人当たりの感染者数は欧米の文明圏より圧倒的に少ない筈です。特に人口密度の小さい農村地帯なので感染者数はゼロではないかと考えられます。
そんなアーミッシュの人々の村の風景写真をお送りいたします。写真の出典は、The Huffington Post:http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/12/amish-life_n_6313752.html などです。









今回の新型コロナウイリスの世界中の感染は近代文明の弱さを明らかにしました。人々は近代文明を考えなおしています。
正解は分かりませんが世界の文化が変わるような予感がいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「私のアイヌの友人への追憶と惜別」

2020年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
老人になると妙に昔のことが懐かしなります。少年の頃のことをありありと思い出します。私は本物の老人になったのです。
今日は小学校の頃のある一つの思い出を書きたいと思います。

5年生の時、私にはアイヌ人の友人がいました。この事は以前にも書きました。また今日も書くのは彼を忘れたくないからです。彼に対する哀惜の気持ちが書かせるのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。そこへアイヌ人一家が移住して来たのです。私の家の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。84歳になった現在でも、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、私は仙台市の郊外の向山という所に住んでいました。小学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が移住して来たのです。その一家には同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。
トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏があり、炊事や食事をしています。建坪が10坪くらいの小さな家でした。
父親は白い顔に黒い大きな目で豊かな黒髪に黒髭でした。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。

1番目の写真は1904年に撮った北海道のアイヌの人々の写真です。私の付き合っていたアイヌ一家の主人はこの写真の右から3人目のような風貌でした。妻は右端の女性のように見えました。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない静かな人々でした。

私が仲良くなった少年は学校に来ません。遊びに行くと、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が、息子と仲良くしている和人の私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。

夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、開拓の彼の家へ行きました。無い。何も無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家にはなにか事情があったのでしょう。さよならも言わないで消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一度の出来事でありました。70年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
惜別の念にかられて私はのちに調べてみました。
戦後に日本共産党が北海道で困窮しているアイヌ村落の人々を助けるために東北地方への移住を斡旋したというのです。
しかしそれは無責任な移住斡旋でした。移住後の就職も斡旋しないで生活の世話もしませんでした。
こんな事情で私の友人一家も住み慣れた北海道に帰ったのでしょう。

北海道に旅をする度にこのアイヌの友人のことを思い出します。そして、あちこちにあるアイヌ民族の博物館を見ます。
昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老の博物館を訪問しました。旭川の郊外にある民族博物館などにも行行ました。
他にも北海道大学の付属植物園の中にあるアイヌ博物館や函館市のアイヌ文化博物館も見ました。
その結果、第二次大戦の終戦まで北海道にはアイヌ人達だけの村落が沢山あったことが分かったのです。
私の友人の一家もその北海道のアイヌ人村落から仙台の郊外の雑木林へ移住して来たのです。

2番目の写真と3番目の写真は白老の博物館の写真です。

北海道へ帰った友人のその後の一生はどうだったのでしょうか。私は時々想像しています。
そして何の根拠も無く北海道の漁村でつつましく暮らしていると思っています。そしてロマンチックな帆船を使った北海シマエビ漁をしていると想像しています。
続く4番目と5番目の写真は野付湾で北海シマエビをとる打瀬帆舟の風景です。野付半島は北海道の東部にあります。




私は祈っています。アイヌの友人が写真のように美しい風景のなかで幸せに暮らしていることを。

今日は私のアイヌの友人への追憶と惜別を書きました。それは私の人生にとってとても重要なことです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「興味深い朝鮮の歴史と文化(4)ゆたかな文学作品」

2020年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
朝鮮には古くから文学作品や歴史書があったのです。日本に古事記や日本書紀、万葉集があったのと同じです。
これを知れば日本人は韓国に親近感を感じるはずです。これこそ友好関係を築く第一歩です。
はじめに韓国の古典文学を概観してみます。萬葉集や源氏物語に相当する文学作品をご紹介します。そして最後に韓国人なら誰でも知っている「春香伝」や「帝釈本解」などの小説のあらすじなどを箇条書きにしてご紹介します。

(1)朝鮮の文学作品の概観とその時代区分
朝鮮の古典についていろいろ調べましたら次の研究論文が明快な概説だと感心しましたので、その概要を示します。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子著(http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf )
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し,韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を朝鮮の碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の関係から、以下のように6つの時代に別けています。
古代前期、後期,中世前期、後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。

碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
さて、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音とも併用されたのです。
私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来、漢詩も読んでいます。

(2)春香伝とは、そしてその粗筋
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と貴族の両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子の李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘の成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の南原府使としての任期が終わり、李夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。
新たに南原府に赴任した卞府使は、成春香の美貌を聞きつけて我が物としようとすます。
しかし成春香は李夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は成春香を拷問し投獄します。
都に帰った李夢龍は科挙に合格して官吏となり南原に再び行きます。そして成夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し成春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。
韓国人なら誰でも知っている話です。
「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D

(3)「帝釈本解」のあらすじ
ある裕福な家に1 人の娘がいて,大切に扱われていました。ある日両親は娘を置いて出かけ、娘は一人家で留守番をしていたのです。
そのとき修行僧が尋ねてきて布施米を請います。娘は米を袋に入れるが,穴が開いていてなかなか米がたまらない。そうこうしているうちに夜遅くなり修行僧は娘の家に一晩泊まることになります。
そして修行僧が帰った後、両親が娘がはらんだことを知ったのです。両親は激怒し、娘を家から追い出します。
娘は修行僧を訪ねて行き,そのまま修行僧と一緒に住みつき3 人の息子を生みます。修行僧は全て自分の息子であることを確認するためにいろいろな試練を課し、しまいに父子関係を認めたのです。
このような内容は父母の承諾もなしに妊娠し追い出される点や,息子と父親との出会いと親子関係の確認が行われる点で、李圭報(1169-1241)の『東国李相国集』などに共通しています。

韓国にも高尚な古典文学だけでなく、こんな男女の愛のものがたりあるのです。それは高尚な万葉集の他に井原西鶴の人情話があるのと同じことです。

今日の挿絵代わりの写真は韓国の本、「春香伝」の表紙です。
写真の出店は、https://ja.wikipedia.org/wiki/春香伝 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のミサも関口教会からの動画配信で与かる」

2020年05月10日 | うんちく・小ネタ
東京大司教区の本部は文京区にある関口教会にあります。この
教会の正式名称は東京カテドラル聖マリア大聖堂と言いますが通称、関口教会と呼んでいます。
丹下健三設計の近代的な芸術作品です。宗教的な伝統を感じさせない吃驚するような作品です。
カトリックの伝統的な建築を一切忘れこの建物を芸術的に鑑賞すると、なかなかの傑作です。
今日はまずこの建物の写真を示します。出典は、Wikipedeaの「関口教会」です。





この教会の建物に吃驚した土井枢機卿にまつわるエピソードです。
設計案を最終的に決めるのはカトリック東京大司教である土井辰雄枢機卿であり、必ずしも推薦された案を採用しなくてもよいと決められていました。
彼は「私は皆さんが選んだものを神様の御意思として受けます。私は委員の皆さんを信頼しています」と語り一切設計案を見ませんでした。
白柳誠一神父(のちの東京大司教・枢機卿)が模型や青写真を見るように頼んだのですが、「いいんです」と言って微笑して見ません。ところが、後で実際に建築プランや模型を見て、一瞬大変驚いたというエピソードが残っています。

それはさておき、日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかしhttps://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw/videos とhttps://www.youtube.com/watch?v=khS2uYS1F6Q で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの主日のミサに動画配信でミサに与かります。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===追加の写真です====================
今日の動画配信のミサの写真を追加いたします。



「嗚呼、ふる里は消えてしまった!」

2020年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前に生まれた人は現在75歳以上です。高齢化のせいで、日本で一番人口が多い世代は65~69歳ですので、そのすこし上の75歳以上の割合は日本の人口のかなりの部分を構成しています。

今日はこの戦前生まれの人々のふる里が消えてしまったという悲しみを書きたいと思います。
生まれた場所は変わらず存在していますが、幼いころ見た風景が完全に消えてしまったのです。世の移り変わりの速さに驚きます。
故郷を離れた人々が久しぶりに帰省してみると故郷の風景の変貌ぶりに驚く筈です。故郷の風景が消失しまったのです。
私は戦前に仙台で生まれ、戦後にそこで育ったので、仙台に行く度に故郷が消えてしまったような気分になります。
我がふるさと、仙台が見知らぬ白い街になってしまったのです。
あれは確か2010年の10月のことでした。久しぶり仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回ったのです。
ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンが存続していましたが、後は全て消えてしまったようです。消えてしまったふるさとの街を歩く寂寥感が身に沁みます。

1番目の写真に青葉城跡の高台から見た仙台の風景を示します。
この白いビルの並ぶ風景は見知らぬ風景です。以前の仙台は杜の都と呼ばれていました。大きな街路樹や庭木が昔風の家々を覆っていました。その緑の間から赤レンガの県庁のビルや裁判所のビルが見えるだけでした。
街の風景が変わっただけではありません。子供の頃遊んだ秘密の場所がすっかり変わってしまっていたのです。
昔住んでいた家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。
戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。そのうち戦災で廟が焼失しました。
その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。
そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。
その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。
それが久し振りに行って見たら、金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。

2番目の写真が立派に改装された瑞鳳殿の写真です。そしてこの瑞鳳殿は仙台観光の目玉らしく、観光客がゾロゾロと歩いています。
私は何故か悲しくなり、中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったような気分になってしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽なことは判っています。
家内だけが一人の観光客になって気楽に中に入って楽しそうに見物しています。
しかし一方、自然の景色だけは変わらないで残っている場所もありました。

3番目の写真は旧一銭橋から見た青葉城方面の風景です。川原に樹木が茂っている風景やその向こうの青葉山は昔のままです。右手の白い住宅は60年前もあった公務員住宅でした。
変わったものは風景だけではありません。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。
この昔の仙台の名産品は、笹蒲鉾以外、全部消えてしまいました。
最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。
老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か、「それは違う」とつぶやきます。
牛タンは美味しいものです。それは知っています。しかし私は仙台では絶対に食べないようにしています。老人の頑固です。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。名産品が変わっていくことが何故か淋しいものです。
そして人々も忙しく変わって行きます。風景も名産品も変わってしまった仙台は私のふるさとは違う気分です。
大袈裟に言えば私の故郷は完全に消失してしまったのです。これも輪廻転生なのでしょうか。
しかし自然の景観だけは何時までも同じです。

こんなことを感じる人が多いので故郷の風景をいつまでも残そうとした場所があります。八王子市の旧恩方村にある「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園です。
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・」という歌詞を作った中村雨紅の出身地です。

『夕焼小焼』
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろ
烏と一緒に帰りましょ
この童謡は野口雨情の弟子の中村雨紅が故郷恩方の風景を歌ったものです。

4番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」の中にある水車小屋の風景です。

5番目の写真は江戸時代の甲州街道の裏街道の口留番所あとの碑です。番所跡の碑と松姫の碑とが並んでいます。武田信玄が娘の一人、松姫を恩方村の豪族に嫁がせ国境の守りとした歴史があるのです。

ここは日本人のふる里の原風景です。故郷でよく歌った「夕焼け小焼け」の作詞者の生まれた旧恩方村の山の風景が昔のまま残っています。
さて皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのような故郷の思い出をお持ちでしょうか?沢山思い出があると存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料============
中村雨紅(なかむら うこう、1897年- 1972年)は、詩人・童謡作家である。本名は、井宮吉(たかい みやきち)だが、出版物など一般的には高井宮吉と記される。東京府南多摩郡恩方(おんがた)村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。
1909年(明治42年)上恩方尋常小学校(現・恩方第二小学校)を卒業し、1911年(明治44年)恩方村報恩高等小学校を卒業して、1916年(大正5年)東京府青山師範学校卒業後、その年に東京北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師になる。
1917年(大正6年)おばの家である中村家の養子となる(1923年解消)。
1921年(大正10年)高井宮のペンネームで童謡『お星さん』などが児童文芸雑誌『金の船』に掲載される。1923年(大正12年)『夕焼小焼』を発表。同年、漢学者本城問亭の次女千代子と結婚。1924年(大正13年)長男・喬が生まれる。1926年(大正15年)日本大学高等師範部を卒業後、神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教師となる。1927年(昭和2年)長女・緑が生まれる。この間、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称する。1949年(昭和24年)教師を退職。1971年(昭和46年)神奈川県立厚木病院に入院、翌年5月6日逝去。享年75。八王子市上恩方町・宮尾神社南、井丹雄墓所内に埋葬。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85)

「今日の日記、サレジオ学園の鐘楼と教会の写真を撮りに行く」

2020年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
近所にサレジオ学園があります。鐘楼と教会とそれを囲む樹々が西洋風の風景を見せてくれています。
以前にこの教会のミサに出ていたことがあり、懐かしい所です。
今日は快晴なので鮮明な写真になりました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









===参考資料=============================
「日本のサレジオ会宣教の先駆者、チマッティ神父のお墓詣りに行きました」
2017年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来て宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
日本人を愛し、サレジオ会の日本人が第二次大戦で徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。

「興味深い朝鮮の歴史と文化(3)卓越した磁器焼成と美しい白磁」

2020年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は柿右衛門が磁器に赤絵の焼き付けに成功したことを学校の教科書で習ったことを憶えていると思います。それは1646年のことでした。
それ以前、秀吉の朝鮮出兵まで日本では、磁器の焼成ができず土器を焼いた須恵器という器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、じしゃくとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。

それはさておき日本で現在でも尊重されている朝鮮本土の李朝白磁の歴史を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。
しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。
さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html  です。

1番目の写真は李朝初期の白磁壺です。

2番目は李朝初期の白磁皿です。

3番目は初期の白磁徳利です。

4番目は李朝中期の貝文大徳利です。

5番目は李朝後期の大白磁徳利です。

さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?
この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。以下は彼の2008年6月発表の研究論文(http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/imari.pdf)からの抜粋です。
佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、次の秀吉による朝鮮半島への出兵でした。  
  ・文禄の役(1592 ~ 94)
  ・慶長の役(1597 ~ 98)
 この文禄・慶長の出兵により、数多くの朝鮮人がわが国へ渡って来たのです。そのなかに陶工達がいました。
 もともと朝鮮半島での戦は恩賞としての領地を与えられぬ戦です。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり、諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策でした。
 彼らは付き従った諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の焼造をはじめたのです。それらは後に、唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる窯業地帯を形成させていったのです。     
なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
その陶工らは、松浦・佐賀・多久・武雄、平戸・諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いたのです。
やがて有田西部の乱橋に移住した李参平は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石を発見します。
上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させました。これこそが我が国で初めて磁器が焼成された新しい技術革新でした。
そして正保三年(1646)、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め販売の制度を確立しました。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。

現在、日本の陶磁器生産技術は世界でも一流で生産される陶磁器の品質は非常に高く評価されています。
この原因は上記のように李氏朝鮮からの技術者の導入にあったのです。李氏朝鮮のお陰だったのです。それは輝かしい朝鮮文化の一つでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。
現在の14代の陶芸家のホームページは下記をご覧くださ。
http://toso-lesanpei.com/owner/index.html
・・・ 十四代金ヶ江三兵衛の挨拶・・・・
草創期の有田焼から感じる陶工たちの想いと技術を蘇らせ、李参平の子孫として日々精進しております。
そして、その作陶活動から韓日文化交流の架け橋のひとつになりたいと思います。 ・・・以下省略

「今日の新緑の散歩道の風景写真です」

2020年05月07日 | 写真
今日は昨日の雷雨とうって変わって朝から快晴で、太陽の光が新緑にキラキラと輝いています。
午後から近くの公園に散歩に行きました。散歩道を覆う樹々の写真を撮りながら散策して来ました。道には人影がなく緑の巨木の梢が風に揺れていました。今日は快晴ですが風の強い日です。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









「興味深い朝鮮の歴史と文化(2)佛教の曹渓宗と原始宗教」

2020年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載記事では朝鮮の歴史と文化を書いていますが、今日は朝鮮の佛教をご紹介いたします。
韓国の佛教の90%は曹渓宗です。日本の曹洞宗のような禅宗ですが日本より戒律が厳しい宗派です。その曹渓宗に朝鮮古来の原始宗教が混淆したのが韓国の佛教です。

それではこの韓国の佛教の実態を見てみましょう。
韓国と日本の大きな違いは宗教に対する考え方の違いと言えます。韓国の宗教は 無宗教;43.3%、キリスト教 ;31.6% 、仏教 ;24.2% です。日本では無宗教の人が多く、仏教離れが進行している一方、キリスト教の信者は常に3%以下を推移しています。
この24.2%の韓国人が信仰している仏教は中国の道教の北斗七星の妙見信仰や風水と習合しています。日本の神仏混淆と同じようですが内容が異なります。 韓国では佛教に複雑に原始宗教が混淆しています。

それでは韓国のお寺やお墓の実態を示す写真をお送りします。

1番目の写真は韓国の11の世界文化遺産の一つの海印寺の山門の写真です。
写真の出典は、http://www.seoulnavi.com/special/5003998 です。

2番目の写真はお寺の本尊様へお経を詠んできる僧侶と一般信者の写真です。
写真の出典は、http://gree.jp/dong_hun/blog/entry/595258319 です。

3番目の写真は韓国の三大祈祷院の普門寺の本堂の内部の写真です。
写真の出典は、 http://www.hikorea.jp/tour/tour_view.php?topinfo_tcode=TB1320394145  です。

4番目の写真は韓国の墓地の写真です。写真の出典は、http://seoul2.blog97.fc2.com/blog-date-200908.html です。
韓国ではお墓には生花ではなく造花を捧げるのです。韓国では豊かな人は墓地用の山を買い、この山を一族又は家の共有の墓地とするのが昔の風習でした。しかし最近では企業が共同墓地を開発して分譲しています。この4番目の写真は共同墓地です。

5番目の写真は韓国の土葬の写真です。穴を掘って遺体を埋め、その跡に土を盛り上げ、誰の墓であるかが分かるように墓標を建てます。写真の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Bochi.htm です。

さて韓国の仏教は三国時代(4世紀から7世紀)に中国から入ってきました。仏教は新羅(668年-935年)や高麗(918年-1392年)の時代に最も優勢で文化的影響力を持っていたのです。儒教も同様に中国から初期に伝わりましたが儒教は朝鮮李朝樹立までは仏教の下の立場に置かれていました。
仏教は韓国の東部の嶺南地方や江原道では伝統的に強力であり、そこでは現在でも人口の半数以上が仏教徒となっているそうです。
韓国の仏教には様々な「宗派」が存在します。しかし、圧倒的大多数(90%程)の寺は曹渓宗に所属しています。
曹渓宗は禅の伝統と他宗派との習合で出来た宗派です。韓国で最も古く有名な寺、例えば仏国寺や梵魚寺は曹渓宗です。
ソウル中心部の曹渓寺がその総本山です。その他、韓国の仏教に関しては末尾の参考資料に説明があります。

仏教信者は仏教と混淆したシャーマニズムの一種の「三聖閣」とを結び付けて信仰しています。この「三聖閣」は仏教の寺院の奥に存在しています。「三聖閣」には「山神」や「七星神」や「独聖」が祀ってあります。簡単に言えば韓国の山岳信仰ですね。日本の神社とお寺の混淆と同じようなものです。
以上のように書くと韓国の佛教と日本の佛教は同じように見えますが、次のように決定的に違う事があるのです。

(1)韓国の僧侶と修行者は絶対に結婚しない。もし結婚すれば僧侶や修行者の資格を失う。
(2)韓国の僧侶と修行者は殺生戒を厳密に守る。日本の僧侶や修行者は肉や魚を食べる。韓国では絶対に食べない。
(3)韓国の僧侶と修行者は仏教のその他の戒律を厳しく守る。
私はこの違いは非常に大きな違いだと思っています。自分で戒律を守ることが出来ないので、何故か韓国の仏教が本物のように感じています。

今日は韓国の佛教の実態の一端をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料====================
(1)朝鮮の仏教:
韓国には円仏教などの仏教系新宗教が存在し、立正佼成会、真如苑、創価学会、霊友会の日本の宗教法人の拠点も存在します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 
(2)韓国の仏教:http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/bukkyo.htm
韓国の寺院は寺院後方、大雄殿より高いところに「三聖閣」という殿閣を置くことが多い。韓国の山岳信仰と融合したものである。何を主体に祀るかで山神閣、七星閣、独聖閣などと言う場合もある。いずれも仏教以外のとこ ろから韓国仏教に融合したものである。 三聖閣という場合は、「山神」、「七星神」、「独聖」を祀り、建物は正面4本の柱、側が2本の柱で囲まれた建物となる。
山神は韓国土俗の「山神霊」が変化したもので18世紀末から19世紀初めにかけて発生した信仰である。山神は護法転身の結果、人格神の山神、化身の虎とし て現れるという。山神に対しては無病長寿、子孫繁栄を祈願する。山神図は虎と子供を率いて手に長寿などの象徴を載せることが多い。
七星は北斗七星のことで、人間の幸福と寿命を象徴する。北斗七星に対する民間信仰が融合したもの。元々は国の兵乱、天災地変が起きたときや、それを予防す るために祭祀をしていたことに始まる。七星図の本尊は熾盛光如来で、北極星を意味する。手に金輪を持つことが多い。脇侍菩薩は日光菩薩と月光菩薩である。このような七星図は16世紀 末にすでに現れている。
独聖は那般尊者ともいわれ、釈迦が出征する前に天泰山で一人12縁起の真理を悟り、聖人の地位に上ったとされる。または16羅漢の一人、賓頭路頗羅堕を指すともされる。因縁の理致を悟った衆生に福を与えるということで信仰される。 絵は天泰山の中に座り、白く長いまつげで、錫杖、念仏を持っている姿で描かれることが多い。(韓国仏教文化事典、仏教文化研究院編より)