後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ヨーロッパ文化を想う京王フローラル・ガーデンの花々」

2022年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム
20年ほど前に初めて訪れた時、その花園がヨーロッパ風なので深い感銘を受けました。何故か西洋文化の香りがするのです。日本庭園とは違う美しさを見せています。それ以来四季折々足繁く何度も訪れました。家内もその花園を非常に好きになりました。東京の調布市にある京王フローラル・ガーデンです。
その花々の写真を沢山撮りました。何枚かの写真をお送り致します。





京王フローラルガーデンは特に多数の種類のマグノリアがあることで有名な花園です。
それにしてもこんな見事な花園が昨年に閉園してしまったのです。私共が二十数年間通った夢のように美しい花園でした。妻と一緒にこの花園に遊んだのです。
春にはいろいろなマグノリアが咲きます。春夏秋と季節の草花が色どり、そして冬でも足もとの小径にはパンジーが咲いています。
夏の芝生の原には球体のギガンジュームが咲きます。そしてバラ園には一年中いろいろなバラが咲いています。
この花園は四季折々いつも花が絶えないのです。
京王フローラルガーデンは1956年(昭和31年)に「東京菖蒲園」として後に「京王フローラル・ガーデン」と改名し以来66年間、美しい花々を見せてくれた花園でした。

京王フローラルガーデンについて詳しくは、http://www.keio-ange.info/ をご覧下さい。このような花園はもう現れないと思います。哀惜の情にたえません。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「広い小金井公園と散りかけた梅林の写真です」

2022年03月14日 | 写真
今日は気温が24°Cもあり5月の陽気です。小金井公園へ家内と行ってのんびりして来ました。

広い小金井公園のユリノキの林と散りかけた梅林の写真をお送り致します。
写真をご覧になって皆様ものんびりした気分になって下さい。






「春の花々の写真を撮り、お送り致します」

2022年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年3月になると近所の園芸農家の畑の花々の写真を撮りに行きます。そこは南に向いた坂下の暖かい畑です。毎年行く私の年中行事になっています。
今年も何度も花の様子を見に行きましたが寒さが続いてまだ咲いていません。
そこで去年撮った園芸農家の畑の花々の写真をお送り致します。ミツマタ、コブシ、ミモザ、ユキヤナギ、ボケなどです。









今朝はこれらの写真を眺めていたら脈絡も無く、どういうものか須賀 敦子が書いた「コルシア書店の仲間たち」という本のことを思い出しました。
コルシア書店の仲間たちの人それぞれの悲しみを描いた美しい水彩画のような随筆です。
須賀 敦子さんは1929年に生まれ 1998年に亡くなりました。日本の随筆家そしてイタリア文学者でした。
私は「コルシア書店の仲間たち」を読んだ時の感動を忘れません。 そしてその文章の透明感と淋しさを時々思い出すのです。 ‎
‎ 
‎ さて「コルシア書店の仲間たち」はどういう人々なのでしょうか? ‎
‎ 須賀敦子は明快に書いていませんがこの人々はカトリック左派のイタリア人tたちなのです。 ‎
‎中心人物はミラノの教会の祭壇で共産主義の歌を唄って追放されたトゥロルド神父です。 ‎
‎ コルシア書店の仲間たちはイタリアの伝統的な社会に適合出来ず迷いの日々を送っているのです。 悲しい日々を送っています。 須賀敦子はそんな人々を優しく抱きしめて仲間たちの人間としての淋しさを描いているのです。 ‎
‎ それは美しい水彩画のような珠玉の文学作品です。 ‎
‎ コルシア書店の仲間たちは皆カトリック信者です。 そして書店の経営の費用は全て貴族出身の未婚の老嬢が出しているのです。 この未婚の老嬢にトゥロルド神父たちが女王の如くかしずいているのです。 嗚呼、ヨーロッパの階級社会とはこういうものだとしみじみ理解出来るのです。 ‎
‎ この作品には淋しいことは具体的に一切書いてありません。 しかし何故か読者に寂しさを感じさせるのです。 作者自身が孤独で淋しい人生を送ったのでしょう。 ‎
‎ 須賀敦子は芦屋の裕福な家で育ち、聖心女子大に学び、パリへ留学し、イタリアの神学に興味を持ち、ミラノに定住し、コルシア書店で知り合ったペッピーノというイタリア人と結婚したのです。 ‎
‎ 夫、ペッピーノは若くして亡くなったので‎ 須賀敦子は日本に戻り、いろいろな大学でイタリア語やイタリア文学を教えていました。 晩年になってから書いた「コルシア書店の仲間たち」が評判になり数々の作品が出版されました。 そして69歳で亡くなります。 ‎
‎ ‎ 彼女の人生は決して淋しいものでではありません。 むしろ華やかで知的に輝いていたのです。 淋しい人生ではないのです。 ‎
‎ 私は彼女の作品にある特徴を考えています。 ‎
‎ カトリックの信者だったのにキリスト教のことは一切書いてありません。 ‎
‎ イタリアで結婚したのに新婚生活の楽しさも見当たりません。 ‎ ‎
‎ 日本では大学の講師をしながら、何時もイタリア製の高級な洋服を着て、高価な車に乗っていたそうです。 そして若い男性達を引き連れていたそうです。 
 華やかでしたが淋しかったのです。 ‎彼女はその淋しさを描きませんでした。 ただ読む人が感じるだけです。 ‎
彼女が亡くなってから24年。 もう忘れられた作家と思っていましたら現在でも時々彼女の作品の書評が掲載されています。 ‎

今日は南に向いた坂下の暖かい園芸農家の畑の花々の写真をお送り致しました。そして脈絡も無く須賀 敦子が書いた「コルシア書店の仲間たち」という本を思い出したのでご紹介致しました。
‎ ‎
‎ それはそれとして、‎
‎ 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人)

「午後は菜の花の写真を撮りに三鷹まで行って来ました」

2022年03月13日 | 写真
今日は春の陽気に誘われて、菜の花の写真を撮りに三鷹まで行って来ました。
黄色に咲き誇る菜の花を見て春が来たと実感しました。

家内が走り回りながら写真を撮りました。






「ウクライナの美しい教会の写真です」

2022年03月13日 | 写真
戦乱の続くウクライナを深く理解するのは人々の宗教を知るのも重要です。
そこでウクライナ正教の教会の写真と教会の歴史の説明をお送り致します。

1番目の写真はキエフ最古の教会「ソフィア大聖堂」です。

1037年に建てられたソフィア大聖堂は、現存するキエフ最古の教会です。9世紀~13世紀に東スラヴ最初の統一国家となったキエフ・ルーシの全盛期、ヤロスラフ1世によって建てられました。歴史的価値が評価され、1990年には世界遺産に登録されました。

2番目の写真は聖ミハイル黄金ドーム修道院の内部です。

教会の内部は決して広くはないものの美しさがあります。祭壇は金の装飾が施され、ここにもたくさんの聖人が描かれています。柱や壁一面に描かれたイコンも見事です。

3番目の写真はロシア女帝のために建てられた「アンドレイ教会」です。

1749年に建設を開始したアンドレイ教会は、外装はロシア・バロック様式、内装はロココ様式でつくられています。当時のロシアの女帝・エリザヴェータがキエフの街を訪れたことを記念して建てられました。

4番目の写真はウクライナ正教の総本山「ペチェルースカ大修道院」です。

ソフィア大聖堂とともに、世界遺産に登録されたペチェルースカ大修道院です。ウクライナにおけるウクライナ正教の総本山です。修道院の隣にはドニエプル川が流れています。

5番目の写真はキエフ洞窟大修道院とドニエプル川です。

洞窟大修道院は別名、)キエフ・ペチェールシク大修道院 と言います。
キエフ大公国の時代、1051年にキエフの郊外に建立されました。中世から近世にかけてウクライナの宗教・教育・学問に大きな影響を与え様々な政権と争ってきた修道院でもあります。
一刻でも早く戦乱の収まるのを祈りつつ。

「カトリック教会、2022年3月13日の四旬節第二主日のミサ動画配信」

2022年03月13日 | 日記
ミサの動画配信は以下の通りです。

2022年  3月13日(日) 10時

カトリック関口教会、

聖イグナチオ教会、

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真はウクライナの聖ミハイル黄金ドーム修道院です。
これはウクライナ正教会の修道院です。モンゴル軍やタタール軍の略奪で損害を被ったり、大規模な建て替えが行われたりと、時代によって姿を変えてきました。
しかし、1937年にキエフの街を支配していたソ連が、宗教を弾圧する目的で破壊してしまいます。
今の建物はすべて、ウクライナがソ連から独立して1997年~2000年の間に再建したものです。
澄んだ青と白のコントラストが爽やかで、キエフの街に映える建物です。黄金のドームが輝いています。壁面には、聖人がいくつも描かれています。

「日本の高い山に咲く珍しい花々」

2022年03月13日 | 写真
昨日は、春の到来を告げる野山の花々をご紹介しました。今日は日本の高い山に咲く珍しい花々をご紹介したいと思います。高山植物の花です。
高山植物とは高い場所に生息している植物のことです。北アルプスでは2,500m付近で見られる植物ですが、北海道では平地で見られる場合もあります。
北海道の大雪山や日本アルプスの山々の花々の写真をお送り致します。

1番目の写真は高山植物で有名なチングルマの花です。
写真は克ちゃん (id:arb_takahashi)のブログからお借りしました。(http://arb-takahashi.hatenablog.com/entry/2017/07/29/124508 )
チングルマの自生地の大群落で有名なのは、大雪山旭岳裾合平、秋田駒ヶ岳ムーミン谷、白馬大出原などだそうです。

2番目の写真は高山のリンドウの花です。
写真の出典は、https://pixabay.com/ja/photos/リンドウ-花-almの-774987/ です。

3番目の写真は北海道の大雪山のエゾノツガザクラの花です。
写真の出典は、http://www.sounkyo.com/ezonotugazakura.html です。

続く4番目の写真と5番目の写真の2枚は北海道の大雪山の高山植物の花畑の風景写真です。写真の出典は、https://tabisuke.arukikata.co.jp/album/13771/ と、https://activityjapan.com/publish/plan/26853 などです。
4番目の写真は北海道の大雪山の高山植物の花畑の風景写真です。
5番目の写真も北海道の大雪山の高山植物の花畑の風景写真です。

6番目の写真は「高山植物の女王」と称される小さくも美しいコマクサの花です自然・植物写真家の高橋修さんが撮りました。出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=147 です。

7番目の写真は高山に咲くサギソウ(鷺草)の花です。
写真の出典は、https://s.webry.info/sp/tomujii.at.webry.info/201308/article_7.html です。

今日は日本の高い山に咲く珍しい花々をご紹介致しました。お楽しみ頂けますでしょうか。 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「武蔵野の雑木林と平林寺」

2022年03月12日 | 写真
早春の武蔵野の雑木林の写真を撮ろうと思い平林寺かいわいを彷徨いました。
そうしたら平林寺そのものが武蔵野の雑木林に埋まるようになっているのです。お寺と雑木林が一体になっています。
そんな武蔵野の雑木林と平林寺の今日の風景写真をお送り致します。






平林寺について少し説明をしておきます。
このお寺は埼玉県の新座市の市役所の西隣にあります。東京ドーム9個ぶんの広大な境内があり、そこには武蔵野の雑木林がそのまま保存してあります。昭和天皇がその武蔵野の様子をわざわざ見に行ったことで一層有名になりました。
最後の写真の門を入ると立派な山門があります。築350年の風格のある山門です。江戸時代前期、平林寺が岩槻から移転された際に移築された山門です。埼玉県指定有形文化財(建造物)です。
平林寺の本堂には本尊の釈迦如来坐像と達磨大師坐像等が祀られています。本堂は、江戸末期の火災で焼失した旧堂に近い形で明治期に再建されたものです。
境内の裏には野火止塚(のびとめづか)があります。野火止塚は昔武蔵野に散在していた塚で何のために使われたか不明な不思議な塚です。一説によると野火を見はり、その類焼を防ぐための塚だったと言われています。
平林寺の塚は昔から境内にあったものです。平林寺の境内には昔のままの武蔵野が残っているのです。

さて平林寺は永和元年(1375)、今からおよそ650年ほど前の南北朝時代、武蔵国埼玉郡、現在のさいたま市岩槻区に創建されました。 
徳川家康の関東移転の時に家臣として三河国から共に上京した大河内秀綱が岩槻の平林寺の大檀那となって山門や仏殿等の伽藍の再建を行いました。
秀綱の孫で、松平家の養子となった松平伊豆守信綱も徳川家に仕え、第3代将軍家光、第4代将軍家綱のもとで幕府老中を務めます。
岩槻にあった平林寺は、寛文3年(1663)信綱の遺命によって野火止(のびとめ)に移転されます。この地には、信綱が開削した玉川上水から分水された野火止用水が流れ、平林寺にも平林寺堀が引かれます。
水の利を得た地域一帯は、新田開発が進むと共に江戸近郊の農業生産地として発展したのです。現在はそのあたり一帯は新座市になって、その市役所は平林寺の東の真向かいにあります。
平林寺には自然の武蔵野や野火止塚が保存してあり大変魅力的な散策が楽しめます。秋の晴天の日に是非お出掛け下さい。

有料駐車場は入口の総門の左50mの場所にあります。墓参用の駐車場とは別です。平林寺への入場料は入り口の門で払います。
電車ではJR武蔵野線 の新座駅から徒歩10分くらいで行けます。

「春の到来を告げる野山の花々とその思い出」

2022年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
最近のマスコミにはウクライナの戦乱のニュースが溢れています。心も穏やかでなくなります。こういう時には春の到来を告げる野山の花々のことを考えます。野山に静かに咲いている可憐な花々です。
今日はそんな小さな花々の写真をお送り致します。そして花々にまつわる思い出を少しばかり書き添えたいと思います。花々は皆様よくご存知のクロッカス、フキノトウ、フクジュソウ、ミズババショウ、カタクリの花です。

1番目の写真はクロッカスです(https://hobbytimes.jp/article/20180912e.html  )
1970年の春、ドイツの野原でこんな風景を見て感動したことが忘れられません。

2番目の写真はフキノトウの花です。(https://www.photolibrary.jp/img521/17509_4998648.html )
甲斐駒岳の麓の農家の牧場の縁に並んでいました。1975年の春でした。

3番目の写真はフクジュソウです。(https://www.akita-gt.org/study/90/sanyaso1.html ) 
フクジュソウの花は神代植物公園でよく見かけました。雑木林の下に隠れるように咲いていました。

4番目の写真はミズバショウです。(https://www.photolibrary.jp/img521/17509_4998648.html )
ミズバショウの群生は北海道の網走湖の傍で1990年の春に見ました。一面のミズバショウの花が咲いている光景に息を飲みました。家内も感動して立ち尽くしていました。
 
5番目の写真はカタクリです。(https://www.akita-gt.org/study/90/sanyaso1.html )
甲斐駒岳の麓の私の小屋の周囲の雑木林に静かに咲いています。可憐なので根株ごと東京の自宅の庭に何度か移植しました。土が違うのか自宅の庭では育ちません。姿が消えてしまうのです。

今日は皆様よくご存知のクロッカス、フキノトウ、フクジュソウ、ミズババショウ、カタクリの花の写真をお送り致しました。そして花々にまつわる思い出を少しばかり書き添えました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「島根県益田市の「風の丘広場」の白木蓮の咲く風景」

2022年03月11日 | 写真
島根県益田市の「風の丘広場」の白木蓮の咲く風景です。
私は清楚な白いモクレンの花が好きです。それをネット上で探していたら美しい写真を見つけました。その美しい写真をお送り致します。

4番目の写真の画像内の赤い3つの矢印は蕾の先端を示しています。蕾は北側に反る形になります。よって「磁石の木」とよばれるのです。
出典は、http://masuda.blog.jp/archives/1022737136.html です。







「今年は寒い ! モクレンなどが咲き出していない!」

2022年03月11日 | 写真
今年は寒いようです。 モクレンなどが咲き出していません。

そこで仕方なく去年の今日撮ったモクレン、モモ、ユキヤナギの写真をお送り致します。
写真をお楽しみ頂ければ幸いです。

1番目の写真は近所の園芸農家の白モクレンの梢です。

2番目の写真は白モクレンの全体の写真です。

3番目の写真は園芸農家の紅モクレンの写真です。

4番目の写真は郷土の森博物館公園の桃の花です。

5番目の写真は郷土の森博物館公園のユキヤナギの写真です。

「東京大空襲、そして仙台空襲の体験が忘れられない」

2022年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
最近はウクライナへの暴虐なロシア軍の侵入のことが頭から離れません。そしてそれに関連して過去の戦争のことをいろいろ思い出しています。
その上、今日は東日本大震災の日です。11年前の2011年3月11日(金)に起きた大震災です。2万2000人余の死者が出ました。
しかも昨日の3月10日は東京大空襲の日でした。77年前の3月10日に、アメリカ空軍による大空襲で死者数が10万人以上で、罹災者は100万人を超えたのです。
そして4ケ月後の7月10日には仙台を壊滅した空襲があったのです。私は当時9歳でしたが仙台で凄まじい空襲を体験しました。私にとっては仙台空襲の体験が忘れられません。

今日は「東京大空襲」と「仙台空襲」のことを書きます。そして戦争の悲惨さを忘れないようにしたいと思います。空襲は愚かな人間が起こした人災なのです。再び起きないように忘れるべきではないのです。
東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 です。

1番目の写真は富士山を見下ろしながら飛行するアメリカ軍のB-29です。東京侵入の第一の目印は富士山でした。多量の焼夷弾を日本に落としたのです。

2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、市街地も爆撃されて大きな損害が生じました。焼夷弾でなかったので火の手は上がっていません。

3番目の写真は3月10日未明の大空襲で焦土と化した東京です。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたものです。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。
尚、写真の出典の、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 には焼け野原にある多数の死体の写真など目を覆うような写真が掲載されていますが、ここに転載するのは控えました。

以上の写真で示したようなアメリカ空軍による徹底的な空襲は東京だけでなく全国200市町村に対しておこなわれたのです。
そして当時、私が住んでいた仙台市もアメリカ空軍による空襲で焼け野原になってしまったのです。
東京大空襲の4ケ月後の7月10日に仙台を壊滅したのです。
それをこの目で見て体験したのです。B29爆撃機による無差別絨毯爆撃はすさまじいものでした。
1945年7月10日、仙台市は100機のB29による焼夷弾攻撃で一夜にして焼野原になってしまったのです。
当時はまだ少年だった私は家のあった向山の高台から一面の紅蓮の炎を見下ろしていました。
空には銀色の機体のB29が編隊を組んで縦横無尽に飛びながら束になった焼夷弾をばらまいていました。
夜が明けてから市街地の焼け跡を見におりて行きました。まだ煙が立っていて異臭が鼻を突きます。見回すとあちこちに焼けた死体がころがっています。
その日は一日中、崖下の広瀬川の川原で死体を焼く焚火が絶えませんでした。
幸い私の家の周囲の野山には焼夷弾が数本落ちましたが家を直撃しなかったので焼け残りました。

5番目の写真は焼野原になった仙台市の街の様子です。7月10日の仙台大空襲の後、仙台駅から南町通りの向こうの西公園方面の光景です。
このように焼き尽くされたのは仙台市だけでなく全国の都市が徹底的にやられたのです。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだのです。
1945年8月15日の終戦で全国の空襲は無くなりアメリカ軍に占領されました。
しかし食料難で復興はままなりません。やっと昭和26年のサンフランシスコ講和で日本は独立国になりました。その後の復興はいばらの道でした。食糧難と住宅難が長く続いて苦しい生活でした。
その苦しみから抜け出したのは所謂、「経済の高度成長」のお陰です。

6番目の写真は経済の高度成長後の美しい町並みになった現在の仙台市です。青葉城から私が撮った写真です。

7番目の写真は経済の高度成長後の東京の銀座4丁目です。私が撮った写真です。

今日は昨日の東京大空襲の日にちなんで東京と仙台の空襲のことを書きました。特に仙台空襲は私が体験した悲惨な空襲でした。
現在の若い方々にもご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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「アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧」

戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。

内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、

広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)


「義勇兵志願の韓国の元大尉がウクライナ到着」

2022年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
義勇兵志願の韓国の元大尉がウクライナに到着しました。

https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220308003200882
【ソウル聯合ニュース】ウクライナに侵攻したロシアと戦うウクライナの国際義勇軍に参加するとして元韓国海軍特殊部隊(UDT・SEAL)大尉のイ・グン氏が現地に向かったとされる問題で、韓国外交部の崔泳杉(チェ・ヨンサム)報道官は8日の定例会見で「韓国の国民が、政府の定める事前許可を得ずにウクライナに入国した事実を確認した」と明らかにした。政府は旅券法にのっとり、行政制裁の手続きを進めているという。




「ロシアの侵攻はヨーロッパ人への深刻な打撃を与えている!」

2022年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ロシアのウクライナへの軍事侵攻はヨーロッパ人への深刻な打撃を与えているのです。日本人の想像を越えるような深刻さです。ロシアの軍事侵攻はヨーロッパ人の心を大きな衝撃なのです。
この問題に関する私の2つの記事にに対するフランスからのmotoko Boutdumondeさんのご意見をご紹介いたします。彼女は日本人の「もと子さん」でフランス人と結婚して孫たちもいます。何時も私の記事に対してヨーロッパ人の感じ方や考えを真面目に投稿してくれます。その真摯な態度に私は感銘しています。以下にそのご投稿をご紹介いたします。

(1)後藤 和弘の3月7日 の記事、「ウクライナ情勢の最新報道」にに対して、
Motoko Boutdumonde さんから、
反戦デモはパリでは1万5千人ほどでフランス全国で4万ほどでしたが、プラハで7万人、ベルリンでは10万人も、マドリッドでも4万人ほどいました。近くであれば私も行きたいです。主人はあまり歩けないので、一人で行きます。
でも、ロシアのデモで小学生以下の子供たちまで警察に拘束されたのは日本のメディアで紹介されたでしょうか?だんだんひどくなってきていますね。

1番目の写真はウイーンでのロシアの軍事侵攻に抗議するデモの様子です。

2番目の写真はウクライナの駅で避難民が列車へ殺到している様子です。

(2)後藤 和弘の3月8日 の「ウクライナへ2万人の国際義勇兵、そして『誰がために鐘は鳴る』」に対して、
Motoko Boutdumonde さんから、
こちらからは元軍人とかも行きました。軍隊に入る代わりに行く若者とかもいますが、実戦の経験がないので、手伝いだったら何でもすると言いながらバスでウクライナ方面に向かって行きました。ただこれからは市内でのレジスタンスが求められるとも思います。外人部隊に七百人ほどのウクライナ人がいるのですが、そのうち十人ほどは無断で部隊を去り、ウクライナに駆けつけたようです。戻って来たら軍法会議は免れないのに。外人部隊のウクライナ人には「家族を安全な場所に避難させるためだったら」という条件で休暇を与えてもいますが、現地に行って家族の、避難民の様子を見たらフランスに戻って来ようと思うでしょうか?…

3番目の写真はウクライナへの義勇兵です。ウクライナ人や外国人の義勇兵 がポーランドの国境を越えてウクライナの戦地へ向かっています。
4番目の写真は「外国人義勇兵」としてウクライナへ出国し話題にな った韓国の元大尉、イ・グン さんです。

今日はロシアのウクライナへの軍事侵攻がヨーロッパ人へ深刻な打撃を与えている様子をご紹介致しました。それは日本人の想像を越えるような深刻さです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)