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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツにある迷信や俗信」

2023年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、私共は欧米の文化を尊敬し、急いで取り入れて来ました。なるべく早急に欧米と肩を並べられるような近代国家になるように頑張って来ました。特に科学技術は富国強兵へ直結しているので国をあげてその教育と輸入に邁進したのです。

江戸時代まで信じられていた迷信や俗信は徹底的に排斥され合理的な考え方だけを尊重したのです。

そのせいで欧米には迷信や俗信が存在しないような教育をして来ました。その結果、多くの日本人は欧米には迷信や俗信が存在しないと思っています。特にキリスト教はそれ以外の信心を禁じていますので迷信は存在しにくくなりました。

しかし同じ人間同士、彼等も迷信を信じ、俗信を大切にしているのも事実です。迷信や俗信を馬鹿にしないでそれを研究するとその国の文化の奥の方が分かるのです。特に文学作品を深く理解するためにはその欧米人が当然知っている迷信や俗信を知っている必要があります。

お互いに知っている事は書く必要が無く、そのヒントだけを書いて省略するのが文学作品の常です。

欧米の文学作品をより深く理解するために迷信や俗信を調べて出版された本があります。

谷口幸男、福嶋正純、福居和彦 共著、「ヨーロッパの森から」ードイツ民族誌 (NHKブック397、日本放送昭和56年8月20日第一版発行)という本です。

50年くらい前に読んだ本ですが、今、読んでも古くなっていません。書いた3人はドイツ文学者です。従ってドイツの迷信や俗信を沢山集めて紹介しています。表題の、「ヨーロッパの森から」は適切ではなく、「ドイツの迷信、俗信」を表題にして、その副題としてつける方が良いと思いました。

以下にその幾つかをご紹介いたします。バカバカしいと思う前にその迷信を信じたい人の優しい心、悪を憎む心、人の世のはかなさを嘆く心を想像して下さい。

(1)死んだ人がヒキガエルになる

チロル地方などでは死んだ人はヒキガエルになるという迷信があるといます。人々はヒキガエルを見ると恐れ、そして同情の念を持ち、決していじめないのです。特に11月2日の万霊節のころになるとカエル類が現れると大切にしたといいます。

人は死んで空遠くの天国へ行ってしまい、二度と遺族の前に現れない。亡くなった人を慕う遺族としては、カエルになってでも会いに来てくれないかと思うのです。

毎年、孫にクリスマスプレゼントをあげていた優しいお爺さんが死ぬ前に言う、「私は間もなく死んで行くが、カエルになって復活祭の後、春になったら庭にでてくるからね」と。この言葉を聞いた孫はきっと一生忘れないと思います。家の庭に棲みついているヒキガエルが春に出て来ると、亡くなったお爺さんとの楽しい思い出が蘇ってくるのです。いそがしい仕事の旅先で、偶然見たヒキガエルで一瞬仕事疲れが消えてしまいます。そんな事が想像できる楽しい俗信です。

(2)樫の木は病を治す

密着した2本の樫の木が上の方で癒着して一本の樫の大木になる事があるそうです。根もとでは2本の幹の間に隙間が出来て人がすり抜けることが出来るものもあるそうです。その間を病人がすり抜けると直ってしまうという迷信がドイツの全域にあるそうです。すり抜けた人は小銭をお賽銭として樫の巨木の樹皮に差し込んで行くと言います。

神経痛のひどいお婆さんが優しい孫娘に手を引かれて村はずれの樫の巨木へ行く光景が想像されます。孫娘の母親がこの迷信を子供たちへ教えたのでしょう。

神経痛は治ったでしょうか?お婆さんは治らないと言い、何度も孫娘に手を引かれて樫の木の所へ行きます。孫の手を握って散歩するのが楽しかったのかも知れません。そんな事を想像させる楽しい迷信ですね。

(3)モミの木は神の住居

モミの木をゲルマン人は早くから崇拝していました。特別の神へ捧げられたわけではないが、樫の巨木の無い地方では、モミの木に神々の住居があったという俗信があるのです。巨木に神様が宿ると信じるのは人類共通なのです。

私が昔、ドイツに住んでいた時度々見た光景です。新しい家の棟上げ式の時、一番高い屋根の骨組みの上に青々としたモミの木が立っていました。やがて完成するその家に住む家族の幸運を願ったものです。悪魔が寄り付かないようにするのです。

欧米でクリスマスの時モミの木に飾りつけをするのはその木が神聖な樹だからです。ですから欧米人はモミの木を見ると楽しかった子供の頃を一瞬思い出すのです。そんな事を想像しながらドイツのモミの木の林を散歩した頃をフッと思い出しました。モミの木はドイツトウヒと言いました。ここまで書いて来ましたら、日本の樹木にも楽しい想い出を連想させるものが沢山ある事に気が付きました。貴方は松竹梅という言葉からどのような楽しいことを連想されるでしょうか?

最後に小泉 直さんの「英米の俗信」という研究をご紹介致します。https://core.ac.uk/download/147573514.pdf に掲載されています。この研究では実に多数の迷信が紹介されいます。英米にこんなに沢山の迷信がさるとは驚きです。

迷信や俗信を馬鹿にしないでそれを研究するとその国の文化の奥の方が分かるのです。
添付の写真はモミの樹々とヒキガエルです。 

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘



「現在のギリシャの風景写真と経済力」

2023年12月23日 | 写真
ギリシャの経済 は、その名目国内総生産(GDP)が年間194.851億ドルであり、世界で46番目の規模です。また、購買力平価では年間288.245億ドルと、世界で54番目の規模です。 2015年時点で、ギリシャは欧州連合(EU)の加盟国28カ国中第15位の経済規模です。
 

「キリスト教以前の西洋の宗教(2)ギリシャの多神教」

2023年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
現在のヨーロッパは一神教のキリスト教が優勢ですがそれ以前は多神教でした。北方の民族の宗教については、「キリスト教以前の西洋の宗教(1)バイキングの多神教」という記事で説明しました。
今日はヨーロッパ文化で重要な役割をしてきたギリシャも多神教だったことを書きたいと思います。人間の素朴な宗教心は多神教なのです。
さてギリシャの多神教を説明します。
古代ギリシア人は、ギリシア神話のオリュンポス十二神やその他の神々を信仰していました。神々には序列があり、主神ゼウスが他の全ての神々を支配する王とされていました。 
古代ギリシアの宗教には、預言者も、教典も、教会もありませんでした。古代ギリシア人たちは、彼ら自身の経験から、神々によって「信心の報い」たる幸運、あるいは不運がもたらされると信じていたのです。
そうして古代ギリシア人たちは大きな神話体系を持っていました。いわゆるギリシャ神話です。その大半を占めるのは、神々の物語と、人間との関わり、英雄についての伝承です。
この神話こそ現在のヨーロッパ文化に大きな影響を与えました。演劇や詩、歴史、旅行記などの文学作品へ影響を与えたのです。
さらに神殿などの建築物の装飾、陶器に描かれた絵などに、様々なものを通して現代のヨーロッパに伝わったのです。 
ヨーロッパの源流はギリシャ神話と言われたりするのは自然のことです。
さて神々をもう少し詳しく書きます。
神々の中には、自然の事物や現象を司る者と、抽象的な概念を司る者がいます。前者としては、天空神で雷を司るゼウス、海と地震を司るポセイドーンなどが、後者の例としては、愛を司るアプロディーテー、正義を司るディケーなどがいます。太陽神ヘーリオスのように、単一の事物を司る神々もいれば、光明、芸術、医術などを司るアポローンのように、幅広い分野を司る神々もいた。 
神々は人間臭かったのです。神々は人間のように振る舞い、人間に恵みを与えるだけではなく、時には詐欺や窃盗、大量殺戮などの罪も犯させたのです。また、人間と互いに影響しあい、時には人間との間に子を為すこともあったのです。神々同士も敵対するときは、相手を打ち負かそうとしたのです。
結論を言えばギリシャの宗教は実に原始的な多神教だったのです。大雑把 に言えば日本の八百万の神のような世界だったのです。
しかしギリシャ神話は現在のヨーロッパ文化に大きな影響を与えました。その意味でギリシャ文化こそ偉大だったと評価することも可能です。しかし宗教は原始的で多神教でした。

今日は「キリスト教以前の西洋の宗教」の(2)としてギリシャの多神教について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ここでギリシャの宗教に関連する写真を示します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99 です。

1番目の写真はアテナイのアクロポリスにあるパルテノン神殿です。 

2番目の写真はゼウスの大理石像です。ローマ時代の模刻です。バチカン美術館所蔵。 

3番目の写真はエペソスのアルテミス像です。胸部に多数の卵形の装飾をつけており、一般に「多数の乳房を持つ女神像」と紹介されています。 

4番目の写真はケリュネイアの鹿を捕えるヘーラクレースです。アッティカ黒像式のアンフォラです。紀元前530年から520年頃。 

「キリスト教以前の西洋の宗教(1)バイキングの多神教」

2023年12月22日 | アート・文化
多神教と北欧神話を信仰していたのは、ゲルマン系に属するデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、アイスランドの4カ国である。

これらの国では、キリスト教が入ってくる紀元後1000年前後まで、いろいろな神々を深く信仰していた。このキリスト教化する前の時代は、「異教時代」の時代として扱われるようになった。

ヴァイキングの生活は、神々への信仰と非常に深く結びついていた。ほかの宗教における「司祭」は存在せず、日々の祭祀は地域の代表者や家長が執り行う。

また各家庭には信じる神がまつられ、ことある毎に祈りを捧げたとされている。このように、彼らヴァイキングにとっては信仰=生活であり、切っても切り離せないものだったのだろう。

北欧神話を信じていた人々は、スカンディナヴィア半島の周辺に広く住んでいた。そのため、彼らの住む住居は森林の多い地域では木造、石が豊富に取れるところでは石造りと、地域によってばらつきがあった。

ただ、もっとも多く見られたのは、船をひっくり返したような湾曲した屋根を持つ「ロングハウス」という形式の住居だ。元々彼らは、本当に船をひっくり返して住んでいたと言われている。

人々はロングハウスという家に住んでいた..

ロングハウスの中には、部屋と呼べるものはほとんどなく、入り口を入るとすぐ「スカーリ」と呼ばれる広間があった。スカーリの中央には炊事や家事を行う土間と炉があり、部屋の壁には2列のベンチがもうけられている。

そのベンチには、家長や客人が座る高座があり、高座の柱には「トール」などその家が信じる神の像が彫られていた。

寫眞はスカンディナヴィア半島の海、ロングハウスの外観とその構造図です。

詳しくは、https://www.phantaporta.com/2017/06/blog-post03.html をご覧ください。
 

「信州の安曇野の道祖神の寫眞」

2023年12月22日 | 写真
安曇野の道祖神は村の守り神として村の中心、道の辻、三叉路に立っています。 村人たちが五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄を祈願するもっとも身近な神です。具体的な男女像です。信州の安曇地方の独特の信仰です。ローカル文化です。 


「庚申塔とキリスト教のことなど」

2023年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

もう2日で楽しいクリスマスです。家族がそろって皆でクリスマスケーキやご馳走を食べます。楽しい年中行事です。

それはそれとして、私はよく散歩をします。すると道端に庚申塔があります。よく花が供えてある不思議な祠です。興味があります。
そこで今日は庚申塔のことなどを書いてみたいと思います。
庚申塔は中国の道教の古い信仰です。古くから日本に広まり、現在でも花などを供えて拝んでいる人々がいるのです。不思議です。

既に10世紀ごろには盛んだったようで、庚申の夜眠らないでいる人々の様子が「枕草子」、「大鏡」などに書いてあります。江戸時代には全国の農村などで大流行しました。

そして米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食や歓談をして過ごす楽しい集まりになっていきました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。

このように庚申塔信仰は人々の幸福を守る一種の宗教として栄えたのです。

写真は私の住んでいる小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に立っている1794年に建てられた庚申塔です。

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道教と言えば横浜の中華街の関羽廟を思いつく方々が多いと思いますが、この関羽廟へも日本人が多数参拝して太い線香を供えて家内安全、商売繁盛などを熱心に祈っています。

ところで一方、最近このブログでは以下のように日本にあるキリスト教の諸宗派の相違を比較しながら簡単にご紹介しました。

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(1)カトリック、日本正教(ロシア正教)、聖公会、プロテスタント諸宗派

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(2)幕末にロシア正教を日本へ伝承したニコライ

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(3)アメリカのプロテスタント教会、バプテスト教会

日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(4)イエス様の肉を食べるカトリック

上の記事を書きながらそれぞれの宗派の違いは鮮明に理解できました。

そこで次に、私はどの宗派が優れていて、どの宗派が劣っているか考えてみました。

しかし考え始めて間もなく、優劣について考えることは全く無意味である、無駄な行為であるという事に気が付きました。そしてこの結論を確信するようになったのです。

宗教は、簡単に言ってしまえば、信ずる人を幸福にするものです。

従ってどの位幸福になれるかという問題は宗派の優劣よりも、信ずる人の主観的な考え方で決まるのです。

例えばキリスト教のある宗派が非常に精緻で高度な教義を持っていたとします。しかし、それを信じる人が理解できなければ全く無駄になります。

そしてたとえ理解できたとしても、いつも周囲の人に不満をもっているような人は絶対に幸福になれません。

それぐらいなら道端の庚申塔に花を供え、周囲の人々の健康を祈り、いつもニコニコしている方が幸福な状態と断言できます。

ですから私は庚申塔信仰とキリスト教信仰には優劣が無いと考えています。

しかし一方、下の写真をご覧下さい。以前に函館で自分で撮影したカトリック函館教会の内部の様子の写真です。

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円柱に支えられた天井の形と、淡い空色が美しい造形美を見せています。そして奥の祭壇にある金色に輝く彫刻や装飾が天国を暗示しています。内装が一つの芸術作品になっています。ですから、一見、カトリックは優れていて、他の宗派や宗教は劣っているように見えます。

しかしそれは宗教装飾の比較と、芸術性の優劣であって、信仰の対象としての優劣ではないのです。信仰の強弱は他人からは分りません。神様だけが分かるのです。

この考え方に従うとキリスト教のいろいろな宗派の信仰も庚申塔の信仰も優劣が無いと考えざるを得ません。

しかし世の中には原始宗教と高等宗教という言葉があります。一般には前者が劣っていて、後者が優れていると言われています。この優劣判断では両者の教義の精密さや体系化の程度を比較、判定した優劣判断です。

信仰の対象としての優劣の判断ではないのです。

このように私は考えています。

従って、私は日本に伝統的にある庚申塔や馬頭観音や道祖神に対する信仰に非常に興味があります。

素人の宗教に関する雑談ですので学問的な研究ではありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「雪の雑木林の美しさ」

2023年12月21日 | 写真

山梨、北杜市の山林の中の小屋へよく行ってました。しかし今年の2月に運転免除を返上したのでもう行けません。車でないと行けない山林の中なのです。ある年は特に雪が深くてスノータイヤを付けた車でも山道の途中までしか上がれませんでした。

そこから小屋まで、雪の雑木林の美しさを撮りながら、ゆっくりと登って行きました。身軽な家内は荷物をすべて背負ってはるか前の方へ行ってしまいました。

雪の雑木林をよく見るといろいろな美しさがあることに気が付きました。近景も遠景も美しいものです。林のなかには鹿や兎の足跡が沢山ついています。特に兎は雪と戯れたように足跡があちこちへ向いています。鹿は一直線に雑木林を横切っています。猪は雪が嫌いなのか足跡が見えません。

雪道を登っていると鈴木牧之の「北越雪譜」を思い出します。雪国の苦難の生活が描かれた江戸時代の名著です。その雪の苦労は現在の豪雪地帯ではあまり変わっていないのです。しかし深雪に悩む人々も晴れた日には、その雪景色に感動すると思います。

雪の雑木林の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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「国宝の茶室、如庵と待庵、そして茶道は日本人の誇り」

2023年12月21日 | 写真
国宝の茶室をご紹介致します。国宝の茶室は2つあります。如庵と待庵です。
いずれも質素で小さい建物です。それなのに国宝になっているのは茶道の奥深い精神文化のためなのです。
それでは如庵の写真を示します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/如庵 です。
1番目の写真は現在愛知県犬山市にある如庵の外観です。
2番目の写真は如庵の有名な篠竹の「有楽窓」です。
この2枚の写真からは分からない如庵の間取りは、http://blog.livedoor.jp/iwasakiyasushi/archives/52070682.html に掲載されています。
この間取りはその後の日本の各地に作られた茶室の基本的な間取りになっています。
その後、全国の各地に写しの茶席が作られるようになりました。
一例を示します。

3番目の写真は宮城県の柴田町の茶室「如心庵」です。(http://www.skbk.or.jp/spot/view/kyodokan.html )
愛知県にある国宝茶室「如庵」を模写した本格茶室です。

現在、国宝の如庵は、愛知県犬山市の有楽苑にあります。
如庵は元和4年(1618年)に、織田信長の弟・織田有楽斎によって、京都・建仁寺の塔頭・正伝院が再興された際に建造された茶室です。それが後に神奈川県の大磯町に移築してありました。
それを昭和47年(1972年)に、名古屋鉄道によって神奈川県の大磯町から現在地に移築されたのです。
国宝指定は昭和26年(1951年)です。
この如庵という名称は、一説によれば庵主織田有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたといわれています。
間取りや構成は次の通りです。
杮葺き入母屋風の妻を正面に向け千利休の待庵とも違った瀟洒な構え、二畳半台目の向切りの茶室です。篠竹を打ち詰めた「有楽窓」が有名です。
この「如庵」と違う作りの茶室に草庵茶室があります。
草庵茶室の一例を示します。
4番目の写真は草庵風茶室の例で高台寺の遺芳庵です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/茶道 です。

さて次に国宝の妙喜庵の茶室、待庵の写真を示します。写真の出典は、https://kotobank.jp/word/待庵 です。
5番目の写真は待庵の外観です。
6番目の写真も待庵の外観です。
7番目の写真は待庵の窓とにじり口です。
この茶室、待庵は京都府大山崎町にあります。東福寺の末寺妙喜庵にあります。
現存する最古の茶室で、1582(天正10)年に豊臣秀吉の命によって千利休が作ったと伝えられています。
隅に炉が切られた2畳の間と半畳程度の床、板敷き付きの1畳の次の間、1畳の勝手の間からなっています。
この茶室の詳しい説明は、https://kotobank.jp/word/待庵  に出ていますので省略します。

少し長くなりましたので終りとします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「大名茶人の不昧公と茶室の寫眞」

2023年12月21日 | 写真
 歴代の松江藩主の中で、松江藩中興の祖とされるのが、大名茶人として名高い松平家7代藩主の松平治郷(1751~1818年)です。「不昧公」の名で今も多くの人に親しまれています。
不昧公と茶室の寫眞をお送り致します。

詳しくは、https://ww2.sanin-chuo.co.jp/special/ocha/fumaikou.php をご覧ください。


「お正月に賑わう神社と縄文時代に出来た神道の原型」

2023年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
間もなく楽しいお正月がやって来ます。多くの日本人は家族と一緒に神社に行って初詣をします。心が明るくなります。心温まる日本人の年中行事です。
この日本固有の宗教の歴史はとても古く旧石器時代や縄文時代から自然崇拝から始まりました。この自然崇拝のための建物が神社の原型だと言われています。神社の原型は大きな柱や高い櫓のようなものでした。青森、三内丸山縄文遺跡からは巨大な六本柱の櫓の跡が発見されています。
その原型が弥生時代から古墳時代にかけて次第に現在の神社ような建物になったと考えられています。
日本列島に人が住み始めたのは3万年以上前のことです。ですから神道の原型の自然崇拝は3万年以上もあると考えられていかす。
したがって神道は日本人の民族宗教なのです。日本に仏教やキリスト教が入って来ても絶対に消滅しない日本人特有の宗教です。

今日はこの神社や神道の歴史をご紹介したいと思います。
3万年以上前の旧石器時代と続く縄文時代の生活の様子は長野県の井戸尻遺跡の研究によって明らかになっています。
井戸尻遺跡からは畑作農耕に使われた石器の刃の鍬や鎌などが多数発見されています。縄文時代に畑作農耕が普及していたのです。
そして青森、三内丸山縄文遺跡からは巨大な六本柱の櫓跡が発見されています。この建造物は縄文人の宗教行事に使用されたと言われています。
一方、山や大樹・大きな岩など自然のものに神が宿ると崇拝する神道の起源は縄文時代にあるという説もあります。そしてこの自然崇拝のための建物が弥生時代や古墳時代に現在の神社のようになったという説が広く認められています。
ですから日本には約2000年前の弥生時代に起源がある神社が沢山あります。
その一つの実例が東京都府中市にある大国魂神社です。大国魂神社の起源は、第12代景行天皇41年(西暦111年)5月5日大神の託宣に依って造られたものであると言い伝えられています。
景行天皇は実在していませんから景行天皇41年は嘘です。しかし弥生時代の西暦111年頃には起源があったことは信用しても良いと私は思っています。さらに大国魂神社の2Kmくらい西に熊野神社古墳があるのです。
この府中市の近辺は弥生時代や古墳時代から武蔵野の中心として栄えた場所だったのは間違いの無い事です。
出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造に任ぜられ大国魂神社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれています。
その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)ののち、律令国家の武蔵国の国府をこの処に置くようになり国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられたのです。そして大国魂神社の東の隣に国衙が建設され武蔵国の首都になったのです。
そんな古い歴史のある神社なので地方史が趣味の私にとっては興味深い場所です。
以前撮った大国魂神社の写真をお送りします。




さてここで日本にある神社の全体を見てみましょう。
日本にある神社は東京都渋谷区代々木にある神社本庁によって統括されています。神社本庁は「庁」と称していますが政府の行政機関ではなく民間の宗教法人の一つです。
日本において「神道」という言葉が初めて出て来るのは『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であると言われています。
神道は外来の宗教である仏教と日本固有の信仰を区別するため用いられた言葉ですがやがて神仏混交するのです。
日本国内には約85,000の神社が登録されています。その他に登録されていない小さな神社が無数にあるのです。この神社を敬う人は約1億600万人いると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるそうです。初詣の参拝者が多いのもうなずけます。
東京で初詣の多い神社・寺院は明治神宮、浅草寺、増上寺、神田明神、靖国神社、大國魂神社、深大寺、高幡不動などなどです。私の地元には小金井貫井弁天と稲穂神社あります。

以上のように神社や神道は日本人の心の故郷なのです。間もなく神社が賑わう楽しいお正月がやって来ます。初詣の神社を想うと心が暖かくなります。

今日は神社と縄文時代に出来た神道の原型のはなしを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本人の心の故郷のような奈良井、妻籠、馬籠の宿」 

2023年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の心の故郷のような町は何処でしょうか。私のは故郷は仙台ですが都会なので故郷という気分にはなれません。あちこち旅して偶然、「これぞ故郷の町」と感じた町が2か所ありました。一つは「奈良井、妻籠、馬籠の宿」です。二つめは松江でした。
今日は奈良井、妻籠、馬籠の宿の雪景色をご紹介したいと思います。
これらの宿場町は木曽の山の中の中山道にあります。奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿は江戸時代の宿場町がそのまま中山道に保存してあります。
そんな古い宿場町の家並みはシーンとして静かです。時が止まったような風景に魅了されて何度も訪れました。奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿はとても懐かしい曾遊の地なのです。日本人の心の故郷のような町です。
それでは奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿と島崎藤村の生家の雪景色の写真をお送りします。
1番目の写真は雪の奈良井の宿です。写真の出典は、https://riba-kurata.com/winter です。
2番目の写真は妻籠の宿です。宿場の南側に位置する街道には町並みがよく保存されています。雪化粧された家々や石畳が美しいものです。写真の出典は、https://www.jalan.net/news/article/220141/3/ です。
3番目の写真は雪の妻籠宿の夜です。木曽の山の中にある妻籠宿は夜になると急に冷え込みます。この写真は暗い、そして寒い夜の通りを示しています。写真の出典は、https://twitter.com/asumoyama/status/958716519839498240 です。
4番目の写真は積雪した馬籠宿です。写真の出典は、
https://pixta.jp/tags/%E7%A9%8D%E9%9B%AA%20%E9%A6%AC%E7%B1%A0%E5%AE%BF%20%E9%9B%AA%E6%99%AF%E8%89%B2%20%E9%81%93?search_type=1 です。
5番目の写真は積雪の馬籠宿と木曽の山並みの写真です。写真の出典は、
https://pixta.jp/tags/%E7%A9%8D%E9%9B%AA%20%E9%A6%AC%E7%B1%A0%E5%AE%BF%20%E9%9B%AA%20%E5%86%AC です。
6番目の写真は島崎藤村の生家です。藤村記念館になっています。藤村の生家は馬籠宿の本陣でした。幼児からの写真など多数飾られ、原稿や初版本などが展示してあります。家内は素朴な「藤村かるた」を購入しました。
写真の出典は、https://ameblo.jp/ksuigyok/entry-11779207222.html です。

奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿は全て険しい山の谷に沿った中山道の宿場町でした。
京都から下って行くと、中山道は木曽福島の関所の先の峠までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井の峠を越すと日本海へ注ぐ川に沿っています。
その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。
・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。この谿谷けいこくの最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。・・・・

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。
昔の中山道は現在は奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の中に残っているだけなのです。時はどんどん流れ行きますが、そこだけは時が止まっているのです。此処で生活し、古い建物を維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入りました。
新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の宿は頓着しません。人間は何故そんなにいそぐのでしょうか?
妻籠の宿、馬籠の宿と島崎藤村の生家の雪景色の写真を見ながら、そんな想いをします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
島崎藤村の「夜明け前」あらすじ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91%E5%89%8D から引用します。
日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている「夜明け前」のあらすじです。

・・・中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主、青山半蔵は、平田派の国学を学び王政復古に陶酔し、山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。下層の人々への同情心が強い半蔵は新しい時代の到来を待っており、明治維新に希望を持つが、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と、政府による人々への更なる圧迫など半蔵の希望とは違う物で、更に山林の国有化により一切の伐採が禁じられるという仕打ちであった。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また嫁入り前の娘、お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は意を決して上京し、自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動になる。その後、飛騨にある神社の宮司になるが数年で帰郷。半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で四十歳ほどで隠居して、読書をしつつ地元の子供たちに読み書きを教える生活を送ることになったが、次第に酒浸りの生活になっていく。維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちはこの責任は半蔵にあると、半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させ親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。そして半蔵は国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男、和助(作者島崎藤村自身がモデル)が期待に反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれ、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。当初は静かに読書に励んでいたが、次第に獄中で衰弱していき、最後には廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。(終り)