





明治維新以来、私共は欧米の文化を尊敬し、急いで取り入れて来ました。なるべく早急に欧米と肩を並べられるような近代国家になるように頑張って来ました。特に科学技術は富国強兵へ直結しているので国をあげてその教育と輸入に邁進したのです。
江戸時代まで信じられていた迷信や俗信は徹底的に排斥され合理的な考え方だけを尊重したのです。
そのせいで欧米には迷信や俗信が存在しないような教育をして来ました。その結果、多くの日本人は欧米には迷信や俗信が存在しないと思っています。特にキリスト教はそれ以外の信心を禁じていますので迷信は存在しにくくなりました。
しかし同じ人間同士、彼等も迷信を信じ、俗信を大切にしているのも事実です。迷信や俗信を馬鹿にしないでそれを研究するとその国の文化の奥の方が分かるのです。特に文学作品を深く理解するためにはその欧米人が当然知っている迷信や俗信を知っている必要があります。
お互いに知っている事は書く必要が無く、そのヒントだけを書いて省略するのが文学作品の常です。
欧米の文学作品をより深く理解するために迷信や俗信を調べて出版された本があります。
谷口幸男、福嶋正純、福居和彦 共著、「ヨーロッパの森から」ードイツ民族誌 (NHKブック397、日本放送昭和56年8月20日第一版発行)という本です。
50年くらい前に読んだ本ですが、今、読んでも古くなっていません。書いた3人はドイツ文学者です。従ってドイツの迷信や俗信を沢山集めて紹介しています。表題の、「ヨーロッパの森から」は適切ではなく、「ドイツの迷信、俗信」を表題にして、その副題としてつける方が良いと思いました。
以下にその幾つかをご紹介いたします。バカバカしいと思う前にその迷信を信じたい人の優しい心、悪を憎む心、人の世のはかなさを嘆く心を想像して下さい。
(1)死んだ人がヒキガエルになる
チロル地方などでは死んだ人はヒキガエルになるという迷信があるといます。人々はヒキガエルを見ると恐れ、そして同情の念を持ち、決していじめないのです。特に11月2日の万霊節のころになるとカエル類が現れると大切にしたといいます。
人は死んで空遠くの天国へ行ってしまい、二度と遺族の前に現れない。亡くなった人を慕う遺族としては、カエルになってでも会いに来てくれないかと思うのです。
毎年、孫にクリスマスプレゼントをあげていた優しいお爺さんが死ぬ前に言う、「私は間もなく死んで行くが、カエルになって復活祭の後、春になったら庭にでてくるからね」と。この言葉を聞いた孫はきっと一生忘れないと思います。家の庭に棲みついているヒキガエルが春に出て来ると、亡くなったお爺さんとの楽しい思い出が蘇ってくるのです。いそがしい仕事の旅先で、偶然見たヒキガエルで一瞬仕事疲れが消えてしまいます。そんな事が想像できる楽しい俗信です。
(2)樫の木は病を治す
密着した2本の樫の木が上の方で癒着して一本の樫の大木になる事があるそうです。根もとでは2本の幹の間に隙間が出来て人がすり抜けることが出来るものもあるそうです。その間を病人がすり抜けると直ってしまうという迷信がドイツの全域にあるそうです。すり抜けた人は小銭をお賽銭として樫の巨木の樹皮に差し込んで行くと言います。
神経痛のひどいお婆さんが優しい孫娘に手を引かれて村はずれの樫の巨木へ行く光景が想像されます。孫娘の母親がこの迷信を子供たちへ教えたのでしょう。
神経痛は治ったでしょうか?お婆さんは治らないと言い、何度も孫娘に手を引かれて樫の木の所へ行きます。孫の手を握って散歩するのが楽しかったのかも知れません。そんな事を想像させる楽しい迷信ですね。
(3)モミの木は神の住居
モミの木をゲルマン人は早くから崇拝していました。特別の神へ捧げられたわけではないが、樫の巨木の無い地方では、モミの木に神々の住居があったという俗信があるのです。巨木に神様が宿ると信じるのは人類共通なのです。
私が昔、ドイツに住んでいた時度々見た光景です。新しい家の棟上げ式の時、一番高い屋根の骨組みの上に青々としたモミの木が立っていました。やがて完成するその家に住む家族の幸運を願ったものです。悪魔が寄り付かないようにするのです。
欧米でクリスマスの時モミの木に飾りつけをするのはその木が神聖な樹だからです。ですから欧米人はモミの木を見ると楽しかった子供の頃を一瞬思い出すのです。そんな事を想像しながらドイツのモミの木の林を散歩した頃をフッと思い出しました。モミの木はドイツトウヒと言いました。ここまで書いて来ましたら、日本の樹木にも楽しい想い出を連想させるものが沢山ある事に気が付きました。貴方は松竹梅という言葉からどのような楽しいことを連想されるでしょうか?
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘
もう2日で楽しいクリスマスです。家族がそろって皆でクリスマスケーキやご馳走を食べます。楽しい年中行事です。
既に10世紀ごろには盛んだったようで、庚申の夜眠らないでいる人々の様子が「枕草子」、「大鏡」などに書いてあります。江戸時代には全国の農村などで大流行しました。
そして米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食や歓談をして過ごす楽しい集まりになっていきました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。
このように庚申塔信仰は人々の幸福を守る一種の宗教として栄えたのです。
写真は私の住んでいる小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に立っている1794年に建てられた庚申塔です。
道教と言えば横浜の中華街の関羽廟を思いつく方々が多いと思いますが、この関羽廟へも日本人が多数参拝して太い線香を供えて家内安全、商売繁盛などを熱心に祈っています。
ところで一方、最近このブログでは以下のように日本にあるキリスト教の諸宗派の相違を比較しながら簡単にご紹介しました。
日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(1)カトリック、日本正教(ロシア正教)、聖公会、プロテスタント諸宗派
日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(2)幕末にロシア正教を日本へ伝承したニコライ
日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(3)アメリカのプロテスタント教会、バプテスト教会
日本に来たキリスト教諸宗派早わかり(4)イエス様の肉を食べるカトリック
上の記事を書きながらそれぞれの宗派の違いは鮮明に理解できました。
そこで次に、私はどの宗派が優れていて、どの宗派が劣っているか考えてみました。
しかし考え始めて間もなく、優劣について考えることは全く無意味である、無駄な行為であるという事に気が付きました。そしてこの結論を確信するようになったのです。
宗教は、簡単に言ってしまえば、信ずる人を幸福にするものです。
従ってどの位幸福になれるかという問題は宗派の優劣よりも、信ずる人の主観的な考え方で決まるのです。
例えばキリスト教のある宗派が非常に精緻で高度な教義を持っていたとします。しかし、それを信じる人が理解できなければ全く無駄になります。
そしてたとえ理解できたとしても、いつも周囲の人に不満をもっているような人は絶対に幸福になれません。
それぐらいなら道端の庚申塔に花を供え、周囲の人々の健康を祈り、いつもニコニコしている方が幸福な状態と断言できます。
ですから私は庚申塔信仰とキリスト教信仰には優劣が無いと考えています。
しかし一方、下の写真をご覧下さい。以前に函館で自分で撮影したカトリック函館教会の内部の様子の写真です。
円柱に支えられた天井の形と、淡い空色が美しい造形美を見せています。そして奥の祭壇にある金色に輝く彫刻や装飾が天国を暗示しています。内装が一つの芸術作品になっています。ですから、一見、カトリックは優れていて、他の宗派や宗教は劣っているように見えます。
しかしそれは宗教装飾の比較と、芸術性の優劣であって、信仰の対象としての優劣ではないのです。信仰の強弱は他人からは分りません。神様だけが分かるのです。
この考え方に従うとキリスト教のいろいろな宗派の信仰も庚申塔の信仰も優劣が無いと考えざるを得ません。
しかし世の中には原始宗教と高等宗教という言葉があります。一般には前者が劣っていて、後者が優れていると言われています。この優劣判断では両者の教義の精密さや体系化の程度を比較、判定した優劣判断です。
信仰の対象としての優劣の判断ではないのです。
このように私は考えています。
従って、私は日本に伝統的にある庚申塔や馬頭観音や道祖神に対する信仰に非常に興味があります。
素人の宗教に関する雑談ですので学問的な研究ではありません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
山梨、北杜市の山林の中の小屋へよく行ってました。しかし今年の2月に運転免除を返上したのでもう行けません。車でないと行けない山林の中なのです。ある年は特に雪が深くてスノータイヤを付けた車でも山道の途中までしか上がれませんでした。
そこから小屋まで、雪の雑木林の美しさを撮りながら、ゆっくりと登って行きました。身軽な家内は荷物をすべて背負ってはるか前の方へ行ってしまいました。
雪の雑木林をよく見るといろいろな美しさがあることに気が付きました。近景も遠景も美しいものです。林のなかには鹿や兎の足跡が沢山ついています。特に兎は雪と戯れたように足跡があちこちへ向いています。鹿は一直線に雑木林を横切っています。猪は雪が嫌いなのか足跡が見えません。
雪道を登っていると鈴木牧之の「北越雪譜」を思い出します。雪国の苦難の生活が描かれた江戸時代の名著です。その雪の苦労は現在の豪雪地帯ではあまり変わっていないのです。しかし深雪に悩む人々も晴れた日には、その雪景色に感動すると思います。
雪の雑木林の写真をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)