後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「都立水元公園のバードサンクチュアリにて」

2024年03月25日 | 写真
数年前6月のある日、10時に家を出発しました。東京外環道路の西端の大泉から入り東端の南三郷を出て都立水元公園へ行きました。1時間30分のドライブでした。
この季節はゴイサギやシラサギやカワウがバードサンクチュアリに集まる季節です。水辺の新緑が美しかったです。
駐車場からバードサンクチュアリまでの往復3・0Kmくらい歩きました。
家内が撮った写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。







「感動的な水元公園の思い出」

2024年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の財産は楽しかった昔の思い出です。それらを思い出してブログに書いていると再び若かった時のあれやこれやを思い出します。それにして妻はいつも一緒でした。
昨年まで運転免許を持っていた頃は車を走らせてあちこちの公園へ行きました。東京の公園、埼玉の公園、神奈川の公園はあらかた行っています。特に東京の公園はほとんど全てに行きました。同じ所に何度も行きました。妻はいつも一緒に行きました。
そのいろいろな公園のなかで私が一番感動している公園は葛飾区と埼玉県の境界になっている広大な水郷を利用した水元公園です。
広さが約30万坪ととてつもなく広いのです。広大な池が広がり、ショウブや睡蓮が一面に咲いています。池の向こうには緑豊かな林があり、そこは埼玉県三郷市の公園になっています。
この公園の素晴らしさは池だけではありません。鬱蒼とした森があり、バードサンクチュリアがあります。深い森を抜けると広大な芝生の広場があり、小川が流れ、端には高いポプラの並木があります。
ある時は「ハナショウブ園」から左の方へ歩きました。広大な池に沿って、北端の「バードサンクチュリア」まで行きました。そこから中央広場のへりを歩いて、メタセコイヤの森を抜けて、駐車場まで帰って来ました。公園の半分くらいしか歩きませんでした。しかし、それだけで2時間かかりました。
私が何故この公園に感動するか書いてみます。
広いのです。水が豊かです。森が鬱蒼としています。芝生の広場が圧倒的です。その中の小川が楽しげに流れています。ポプラ並木がロマンチックです。そして私にとって一番重要な駐車場が広くて料金も適正です。これらもろもろのものが見事に配置してあるのです。歩いていて次から次へと場面が変わるのです。
この公園を設計した人々が楽しみながら何年もかけて作ってきた様子が目に浮かびます。作った人々の心が温かいのです。夢があるのです。
ですから私はこの公園が東京で一番感動的な公園と思っています。
家内が撮ってきた写真を歩いた順に示します。 
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1番目の写真は駐車場からすぐのハナショウブ園です。
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2番目の写真はハナショウブ園の先にある広大な池です。この池にそって向こうの森まで歩きます。写真には写っていませんが、右の方は三郷市の公園の森が広がっています。川風がさわやかです。
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3番目の写真は三郷市の公園の森です。この森の中の涼しい道を楽しみながら何処までも歩いて行きます。
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4番目の写真はバードサンクチリアにある野鳥の観察用の小屋の窓からの長めです。このような窓が幾つかついています。望遠鏡を持った若者が熱心に観察していました。
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5番目の写真は森を南の方向に抜けた所にある大きな中央広場です。エンジン付きの芝刈り機で草刈りをしている人がいました。芝の匂いが夏が近いことを教えていました。
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6番目の写真はこの中央広場の南側にあるバーベキュー広場です。
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7番目の写真はメタセコイヤの森です。そこを抜けると駐車場に帰ってきます。
なお、この公園には涼亭という和食のレストランと簡単な食事が出す店とがあります。
書いてみるとこの感動的な公園の素晴らしさをすべて説明できません。実際に歩いてみないと分からないのです。四季折々、いつでも感動します。
この公園には4度も行来ました。妻も感銘していました。

今日は私が一番感動している葛飾区と埼玉県の境界にある広大な水郷を利用した水元公園をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

「冬の風物詩、シベリアから飛来する白鳥の写真をお楽しみ下さい」

2024年03月24日 | 写真
冬の風物詩の一つにシベリアから飛来する美しい白鳥の姿があります。
全国の湖や川に飛来しますが今日は群馬県の館林市の「多々良沼」の白鳥の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.tatebayashi-matome.info/entry/tatarahakucho です。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。



「春に野山に咲く一人静、紫華鬘、十二単、野菊の花々」

2024年03月24日 | 写真
もうすぐ4月になります。春爛漫の4月です。すると野山も春の草花が満開になります。そんな草花の中から、比較的珍しく美しい野草を四種類紹介します。
写真の出典は、森林インストラクターの駄賀恒男さんのブログ、http://0845.boo.jp/shimanami/archives/188 です。

1番目の写真は一人静です。

2番目の写真は紫華鬘です。

3番目の写真は十二単です。

4番目の写真は野菊です。

「聖イグナチオ教会の今日の 『受難の主日ミサ』の風景の写真」

2024年03月24日 | 写真
今日の 『受難の主日(枝の主日)ミサ』 はインターネットであずかりました。
今日のミサは枝の主日のミサなので、教会の外で棕櫚の枝を手に持って行列を作って教会へ入るところからミサ始まります。
そんな『受難の主日ミサ』の風景の写真をお送り致します。聖イグナチオ教会の
ミサ風景です。

「聖イグナチオ教会の今日の 『受難の主日ミサ』の動画配信」

2024年03月24日 | 日記
聖イグナチオ教会の10 AM 『受難の主日(枝の主日)ミサ』の動画配信は、
https://www.youtube.com/watch?v=NFXah25vvcs です。

写真で示した「聖イグナチオ教会」のこと:

イエズス会の創立者であったイグナチオ・デ・ロヨラの名から命名された「聖イグナチオ教会」では、日曜にミサが執り行われ、さまざまな国の人たちが集まります。
現在の聖堂は、1999年(平成11年)に建設されました。正式には「カトリック麹町教会」といいます。
戦後いち早く新たな教会として聖イグナチオ教会の建設が計画され、1949年(昭和24年)に現在の場所に竣工しました。


聖堂の中心には、イエスと弟子たちが囲んだ「最後の晩餐」の食卓である祭壇が置かれ、聖堂を囲む12本の柱はキリストの教会を支える12人の使徒たちを表しています。

「江戸時代や明治時代の雰囲気が漂う小石川植物園」

2024年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
四季の流れに従って公園や植物園では季節の花が咲き、樹木が美しいたたずまいを見せてくれます。そんな風景が好きで暇さえあれば公園や植物園をめぐり歩いてきました。
小金井公園、武蔵野公園、野川公園、小宮公園、光が丘公園、善福寺池公園、石神井公園、昭和記念公園、神代植物公園、郷土の森博物館公園、上野公園、新宿御苑、そして広大な水元公園などなど随分といろいろな公園を散策しました。そしてその都度花々や樹木の写真を撮ってネットの上でご紹介してきました。写真を少しだけトリミングしたり説明文を書いているとそれぞれの公園の楽しさがよみがえって来て再度楽しめるのです。
ところで少し趣の変わった小石川植物園をご紹介したいと思います。江戸時代や明治時代の雰囲気が残っている地味で静かな植物園です。
明治維新の後で明治政府は、江戸幕府の薬草園を東京大学の付属植物園にしました。それが小石川植物園として公園のように一般に開放されています。文京区の東洋大学の傍にあります。
明治、大正の文学作品に時々出て来る植物園です。
例えば、寺田寅彦の随筆に小石川植物園が出てきます。子供とドングリの実を拾いながら亡くなった妻を偲ぶ場面が出て来ます。去年は妻も一緒に楽しくドングリを拾ったのに、その妻は病死してしまい、今は居ない。ドングリを一個一個拾いながら若い妻の面影を偲んでいる場面です。
有名な植物園なので一度行って見たいと思いつつ月日が流れてしまいました。それである時に小石川植物園を散策したのです。
そうしたら小石川植物園は淋しく古い感じがする所なのです。小石川養生所のあった所のせいかも知れません。
その上、江戸時代の御薬園や明治時代の植物学研究所の雰囲気が残っているようです。
薬草園なので花が植えてありません。植物学研究所の庭のような配置で畑や池が配置してあります。歩く路も楽しい回遊式でありません。
そういう意味では小石川植物園は江戸時代や明治時代の時代性を残している文化遺産なのです。それも貴重なことだと納得しながら散策しました。
春の花が咲く頃や新緑の頃に訪れればまた違った印象になる筈と考えながら散歩しました。ある冬の植物園の思い出です。
下に3枚の小石川植物園の写真を掲載いたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「縦社会の崩壊は日本の社会を激しく変えた」

2024年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の社会風潮は時代によって大きく変ってきました。しかし日本に住んでいる我々は普段その変化を意識していません。私はその変化を考えることは重要だと思います。毎日が新鮮な気持ちで楽しく過ごせます。

今日は1990年頃の日本の縦社会の崩壊が社会を激しく変えたことを書いてみたいと思います。それは日本の社会の大きな変化の一つでした。日本の縦社会が崩壊し、横社会になったのです。

「縦社会」と「横社会」の概念は文化人類学者の中根ちえ女史が言い出した概念です。

この日本の縦社会が1990年の前後に起きたバブル経済の崩壊によって急激に崩壊してしまったのです。

当時、サラリーマンをしていた人々は縦社会の崩壊を強く実感した筈です。

それまでは大会社が数多くの子会社を傘下に従え君臨していたのです。大会社の命令は絶対的で子会社は親会社の指示通りに動いていたのです。

大会社の人が飲食店や酒場に行くと非常に大切にされ、子会社の人々はそうではなかったのです。東京の有名な幼稚園への入学には父親が大会社の課長以上でなければいけませんでした。

会社の中では上司の職務命令は、絶対で下の人は質問すら許されないのです。

その身分制度は昔の軍隊の階級による服従文化がそのまま日本の社会に残存していたのです。

ところがバブル経済の崩壊で、親会社が貧乏になり傘下の子会社の面倒をみることが出来なくなったのです。親会社と子会社の縦の関係は一朝にして崩壊してしまったのです。

子会社は親会社を離れ、独自に製品の販路を世界に求めなければ生き残れなかったのです。これで日本の小さな会社が強く独立するようになったのです。

同時に会社の中の上下の人間関係も崩壊し、上司はあくまでも部下を納得させる説明責任が要求されるようになったのです。

雇用の契約も終身雇用から個人の能力に従った期間限定の雇用契約に少しずつ変っていきました。

この変化が伝統的な「男尊女卑」の思想も消し去ったのです。

女性でもその才能によって差別されず優遇されるようになったのです。結婚して子供が出来て職場を辞めた女性でも才能さえあれば会社へ復帰できるのです。

その上、ボランティア活動や趣味の集まりで、人々は会社の中の縦の関係とは別の横の人間との絆を大切にするようになったのです。縦社会から横社会への変化したのです。そこには一切の上下関係がありません。

戦前の日本では女性は働かないで家庭を守るべきという考えが強かったのです。もちろん例外的に活躍する人もいましたが、彼女たちは「職業婦人」と呼ばれ特殊な人々と考えらていました。
江戸時代や明治時代の男尊女卑の思想が強く生き残っていて、才能ある女性も差別され不遇な時代でした。
男尊女卑の考えが変わりはじめたのは1964年の東京オリンピックの頃からでした。その頃から経済の急速な成長が始まります。すると結婚した後でも次第に女性が同じ会社で働き続けるようになったのです。それ以前は結婚すると「寿(ことぶき)退職」と称して会社を辞めさせられるのが普通でした。
「良家の子女は結婚したら外では働かない」という思想が完全に消えてしまうには随分と時間がかかったのです。
それだけに現在の日本で、女性が大活躍しているのを見ると隔世の感に打たれます。

しかし日本は現在でもまだまだ男女差別が残っています。欧米の国々に比較すると日本と韓国は女性の社長、部長、課長の数が非常に少ないのも事実です。楽観は禁物です。

今日は戦後もかなり経った1990年頃の日本の縦社会の崩壊について書きました。縦社会から横社会への変化したのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人 

今日の挿絵代わりの写真は小平市にある東京都立薬用植物園で私が撮った花の写真です。以前によく行った植物園です。
 
1番目の写真は珍しい青色のケシの花です。この薬草園だけで栽培している自慢の花です。
 
2番目の写真は薬草のジキタリスの花です。
 
3番目の写真は美しい色のペチュニアです。
 
4番目の写真はラベンダーです。香が良かったです。

 5番目の写真はウスベニタチアオイです。色合いが柔らかく優しそうなたたずまいです。


「何故か郷愁を誘う農家の写真」

2024年03月22日 | 写真
戦前に生まれた私は少年の頃に藁ぶきの農家をたくさん見した。疎開先の農家も藁ぶき屋根でした。それで藁ぶきの農家を見ると郷愁で胸があつくなります。
それにしても藁ぶきの農家は少なくなりました。時代の流れです。嗚呼。

はじめの2枚の写真は小金井公園で昨日、私が撮りました。あとの写真はインターネットからお借りしました。

「私の小屋がある山梨県の北杜市の風景」

2024年03月21日 | 写真
私の小屋がある山梨県の北杜市の風景写真をお送り致します。

1番目の写真は北杜市の真原地区の桜並木です。後ろは甲斐駒岳です。

2番目の写真は甲斐駒岳の近景です。私の小屋はこの甲斐駒岳の麓にあります。

3番目の写真は北杜市の畑作地域です。

4番目の写真は北杜市の清里の駅前通りです。

写真はインターネットからお借りしました。

「夢と現実は違う!、田舎暮らしの厳しい現実」

2024年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
人間はいろいろな夢を持ちます。理想を夢みます。楽しい憧れも持ちます。それはそれで良いことですが現実は厳しいものです。夢と現実は違います。
今日は一つの例として田舎暮らしへの憧れについて書きたいと思います。
都会に住んでいる多くの人は何となく田舎暮らしに憧れています。しかし憧れているだけなら良いのですが、その現実は非常に厳しいものです。
私も憧れて、50年ほど前に山梨県、北杜市の甲斐駒岳山麓の森の中に小さな小屋を作りました。
本格的に移住するつもりは無く、週末に時々一泊か二泊だけして帰って来ます。80歳過ぎてからは山小屋に泊まるのは厳し過ぎるように感じて、近くのホテルや温泉旅館に泊まりました。その場所は四季折々自然の景観が素晴らしいのです。空気も新鮮で鹿や猿も棲んでいます。その場所の風景写真を3枚お送り致します。
1番目の写真は桃と甲斐駒岳 の南の尾根です。小屋の近所には桃畑があります。
2番目の写真は小屋の近くの開拓地です。土地が痩せていて稲作が出来ません。
3番目の写真は甲斐駒岳と小屋の近くの桜と水仙です。
これらの写真のように風景はとても良い所です。空気も新鮮で気持ちの良い場所です。
それで私の山小屋の周囲には都会から移住して田舎暮らしをしている人が沢山います。
私自身は移住はしませんでしたが、50年以上通っていると移住してきた人々とも仲良くなりました。友人も出来ました。そして彼らの生活ぶりを詳しく観察したり、移住後の苦労話を何度も聞きました。
結論を先に書けば、「夢と現実は違う」ということになります。現実は非常に厳しいものなのです。
下の2枚の写真に都会から完全に移住して来た人々の家の写真を示します。

4番目の写真は都会から移住して来た人の住宅地です。後ろの山は八ヶ岳です。
   
5番目の写真は特に親しかった移住して来た人の家です。夫婦で幸せそうでした。訪問して詳しく体験談を聞きました。稲作もして自給自足をして暮していました。

さてこれらの写真のように美しい自然の中で暮らしていると皆が幸福そうです。しかし現実的な苦労がいろいろあるのです。
このいろいろな苦労を2つの場合に分けて簡潔に書いてみたいと思います。
(1)田舎暮らしで農業をしようとして移住する場合
(2)それを全くしないで別荘に引っ越してきて田舎暮らしをする場合
この2つの移住の仕方があります。分けて考えてみます。

まず移住後、農業をする場合に挫折しないための条件を列挙いたします。
以下の条件の全てが満足されていなければ、移住し農業をすべきでないと思います。とにかく田舎暮らしは厳しいものなのです。
(1)夫婦揃って田舎暮らしが好きで、夫婦がそれぞれ車の運転が出来る。
(2)夫は稲作や農作業が大好きで、自給自足のための米や野菜を作れる。
(3)奥さんも農作業が好きで、自分の意見を持っているが夫に同調する。
(4)自宅の中は完全に都会風で、日常の生活が清潔で便利に出来ている。
(5)近くにスーパーや病院があるような立地条件になっている。
(6)ゴミ収集や健康診断などの市役所のサービスに不平不満を感じない。
(7)村落の地区の区費を毎月出して共同作業に参加する決心をしている。
私はいろいろな人に会って移住にまつわる問題を聞きました。以上はその結論なのです。
ですから地元の不動産業者が移住希望者の相談を本気で受ける時は以上の条件がそろっている場合だけだそうです。そうでない場合は不幸な結果に終わるので相談に乗らないそうです。
私の訪問した不動産業者は地元を愛していて、本当に定住して農業をしてくれる人だけに家を売り、その後の面倒もよく見ていると言っていました。
一方、移住した人に聞くと、上の7つの条件のうち(6)と(7)が一番の鬼門で、苦労していると言います。

全国そうでしょうが農村や漁村では地方自治体の行政は集落ごとに設定した地区の区長に任せます。地区の区長が中心になった自治組合が市役所と交渉してゴミ集めや自治体のバスの停留所の場所や巡回頻度を決めます。
農村や漁村では市役所ではなく区長が重要なのです。
区長は交代しますが、本来の住民がします。移住者は区長になれません。
この仕組みを深く理解し、上手に対応出来る場合は田舎暮らしが成功するのです。
例えば移住後に農作業を楽しもうとしたら、まず区長に相談するのが良いのです。すると農機具を無料で貸してくれる農家を紹介してくれることもあるそうです。

さて次に農作業を一切しないで別荘に引っ越して田舎暮らしを続ける場合を考えてみましょう。
単に別荘に転居して、住民票だけは田舎の自治体へ提出して、都会から引っ越す人も多いものです。その別荘地に隣接する村落の地区の組合いには加入しないで独自の生活をするのです。
このような移住の仕方のほうが問題が少なく、かえって良いようです。
私の森の奥の小屋の近所にもこのように農業をしないで、貯金だけで生活して別荘に住み込んでいる人が数人ほど居ました。
大体は奥さんは都会にいて自分だけが別荘に住んでいます。
住民票は北杜市へ提出し、住民税も北杜市へ支払います。しかし地区の組合に入っていなのでゴミ集めなどの行政サービスはほとんど無いようです。しかし市民なので北杜市の市営の温泉センターは格安で入浴できます。
地区の組合に入っていないので面倒な共同作業に出る必要がありません。ですから地元の人々とは没交渉です。
見ているとその方が両方にとって良いようです。
従って無理に農業をする田舎暮らしをするより、別荘に住むだけをお薦めします。
住民票を田舎へ動かしても都会の家はそのまま残して置きます。
高齢になって病気になったら病院施設の完備している都会へ戻ったほうが良いのです。実際に私の小屋の近所の人も病気になって都会へ戻った人が何人もいます。
いずれの場合もまず近所の人々と仲良くなり、その土地の習慣を重んじることが大切です。
さて皆様は田舎暮らしにどのようなご考えをお持ちでしょうか?

今日は都会の人が田舎暮らしをする場合に心掛けてべきことを書きました。具体的に書きました。都会の人が田舎暮らしを楽しむように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「雪の白樺林の風景」

2024年03月20日 | 写真
白樺林の風景は私の若い頃から憧れの風景でした。山林の中の私の小屋の付近にも白樺林があります。
白樺林の風景を見ると何故かロマンチックな気分になります。
そんな風景写真をお送り致します。
写真はインターネットからお借りしました。