後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「伊豆七島の大島、利島、新島、三宅島、御蔵島の風景写真」

2024年03月19日 | 写真
伊豆七島とは大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の七島のこです。今日は大島、利島、新島、三宅島、御蔵島の写真を順々にお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。
1番目の写真は大島です。
2番目の写真は利島です。
3番目の写真は新島です。
4番目の写真は三宅島です。
5番目の写真は御蔵島です。


「八丈島フリージア祭りと 島への独り旅の思い出」

2024年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝の新聞に八丈島フリージア祭りが3月23日の土曜日から4月7日の日曜日まで行われると出ていました。八丈島フリージア祭りは春を告げる季節の風物詩です。そこで八丈島のフリージア畑の風景の写真をお送り致します。
1番目の写真は八丈富士の麓に広がっているフリージア畑です。
2番目の写真はフリージア畑に観光客が自由に入っている様子です。
3番目の写真は観光客が自由にフリージアの花を摘み取っている様子です。フリージアの花は無料です。自由に摘み取って持ち帰って良いのです。
詳しくは、http://www.infiorata88.com/freesia2016/ をご覧ください。

この八丈島に私は2009年の1月28日から4日間訪問しました。そして八丈島のいろいろな所を巡ったのです。八丈島は意外に大きくてそれぞれの集落には独特の風習が残っているのです。興味深い島なのです。
毎年、八丈島フリージア祭りについて書いています。書く度に暖かい島の風物を思い出し、とても懐かしいのです。
八丈島へは竹芝桟橋から毎日、船旅を楽しめる客船が出ています。羽田から毎日飛行機もあります。島には洒落たホテルや民宿が沢山あります。
それでは2枚の写真で八丈島の風景を示します。
3番目の写真は八丈島の中央の平野と八丈富士です。写真の上の方向が北です。写真の左部分に飛行場が写っています。右の海岸には集落があります。

5番目の写真は八丈島の中央にある東京都立の植物公園です。
公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。

さて八丈島の東南部に10万年前に噴火で出来た三原山があります。北西には1万年前に出来た八丈富士があります。そして西の海上には八丈富士の弟のような急峻な火山が突き出ています。
この3つの山が近過ぎず、遠う過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmで東京の千代田区、港区、新宿区、中央区などの合計位の大きさだそうです。
八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。
伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。
八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
そして忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来たばかりの島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。

今日は八丈島フリージア祭りをご案内しまいた、そして私の 島への独り旅の思い出書きました。
八丈島は楽しい島ですので、機会があれば是非お出かけになってみて下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「春のオランダのチューリップ畑の風景」

2024年03月18日 | ブログ
「春のオランダのチューリップ畑の風景」

オランダと言えばチューリップ、と言えるほど国の代表となっているチューリップの花です。

春の3月~5月にかけてシーズンを迎え色とりどりの美しいチューリップが咲き誇ります。そんなオランダの春のチューリップ畑の風景をお送り致します。

写真の出典は、https://www.his-j.com/tabi/michikusa/flower/tulip.html などです。





「春のオランダのチューリップ畑の風景」

2024年03月18日 | 写真

オランダと言えばチューリップ、と言えるほど国の代表となっているチューリップの花です。春の3月~5月にかけてシーズンを迎え色とりどりの美しいチューリップが咲き誇ります。そんなオランダの春のチューリップ畑の風景をお送り致します。

写真の出典は、https://do-cca.com/2019/04/13/11497/ です。


「5000年前の人類最古の楔形文字」

2024年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
人類がはじめての文字は中近東の楔形文字でした。約5000年前の文字です。最古の漢字は3300年前の中国の「殷王朝」の甲骨文字です。 ですから中近東の楔形文字は漢字より約2000年も古いのです。驚きです。そこで楔形文字のことを以下にご紹介致します。次の文献の要約です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%A5%94%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97 )
古代ペルシア楔形文字は、古代ペルシア語を記すためにアケメネス朝で使用された文字です。紀元前6世紀から紀元前4世紀までの碑文が幾つかあります。
古代ペルシア楔形文字の筆画はきわめて単純で、横棒・縦棒・「く」の字型 の3種類の筆画の組み合わせからなります。
楔形文字の文章の一例を示します。
1番目の写真は楔形文字の文章の一例です。左から右へと読みます。
このような文字は粘土板に刻まれていました。
粘土板の乾燥しきっていない表面に、葦でできた尖ったペンで刻みこんだのです。こういう時は直線的な文字が刻みやすいのでクサビ方なのです。 
次に楔形文字の天女冥界往還記と現代語訳の対訳を示します。
2番目の写真はに楔形文字の文章とその現代語訳です。
この対訳の図の出典は、https://gihyo.jp/dev/serial/01/technical_field/0004 です。

以上は人類がはじめての文字の中近東の楔形文字の概略です。もっと勉強して続きを書く予定です。

「日本語の書き方の不思議、万葉仮名、ひらがな、カタカナの発明」

2024年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
日本語の書き方を私は非常に不思議だと思います。なにせ漢字と平仮名とカタカナを混じえて書くのです。こんな国は世界中に無いと思います。
今日はどうしてそうなったか経緯を書いてみたいと思います。
さて万葉仮名(まんようがな)は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことです。『萬葉集』での和歌の表記に用いられたのでた万葉仮名といいます。
「波奈」(花)、「也麻」(山)のように、漢字をその字の意味に関係無く日本語の読み方の表記のために用いるのが万葉仮名なのです。
『古事記』や『日本書紀』は漢文が主体ですが、歌謡や訓注などに同様の表記が用いられており、これも万葉仮名と呼びます。
平安時代に入っても「新撰万葉集」(893年、913年)では万葉仮名が用いられていました。しかし、やがて平仮名・片仮名が万葉仮名に代って広く用いられるようになったのです。女流文学はひらがなが主に用いられています。
平仮名は万葉仮名の草書体化が進められ、独立した字体と化したものです。一方、片仮名は万葉仮名の一部を用い、音を表す記号として生まれたものと言われています。
日本語の書き方の発達の歴史を考えてみると漢字という表意文字を中国から輸入して、それを万葉仮名とう表音文字にしたことが画期的でした。
そして万葉仮名からひらがなとカタカナを作ったのです。
現在の日本語の表記には表意文字の漢字と表音文字のひらがなをまじえて使っています。考えてみると不思議な書き方です。世界中でそんな書き方をしている国は非常に少ないのです。
国内最古の万葉仮名は、5世紀の稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣であります。辛亥年(471年)の製作として、第21代雄略天皇の名「獲加多支鹵(わかたける)大王」がそれです。
ですから万葉仮名は日本で5世紀頃に作られたのです。万葉集の時代に作られたのではないのです。
現代でも地名や人名(特に女性名)などで漢字の意味を離れ、音を使って書き表す例が多くあります。これは万葉仮名と同じなのです。例えば札幌や稚内のような北海道の地名はアイヌ語を万葉仮名のように書いたものです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/.../%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%AE... をご覧下さい。

今日は万葉仮名、ひらがな、カタカナのような日本語の書き方の発達の歴史の概略を書きました。漢字という表意文字を中国から輸入して、それを万葉仮名という表音文字にしたことが画期的でした。じつに不思議な書き方です。

今日の挿絵代わりの写真は小金井公園の春の花壇の写真です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





「無宗教も仏教も神道も、そしてキリスト教も良い!」

2024年03月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。毎週、日曜日には宗教に関する簡単な記事を書いています。
私は宗教が好きです。しかし狂信的にはならないようにしています。
無宗教も良い、仏教も神道も良い、そしてキリスト教も良い。イスラム教も良い。これが私の本音です。

日本には科学的、合理的に考える人が多いので無宗教の人が半数以上いるようです。しかし人々は優しく、清潔で、住みやすい国です。ですから私は無宗教でも良いと思っています。
仏教も良いものです。特に鎌倉時代以後に出来た禅宗系の宗派が好きです。
祖父が曹洞宗のお寺の住職をしていたので、幼少のころから観音経や般若心経を唱えていました。本堂の祭壇の裏ではよく遊んだものです。
神道もなじみ深いものです。当時住んでいた仙台市の山の上の愛宕神社へは元朝参りによく行きました。そして広と々した境内は子供の頃の遊び場でした。
そしてキリスト教も良いものです。中年になってからカトリックの洗礼を受けました。家内も一緒に受けました。それ以来50年くらい、毎週、日曜日は家内とミサに行きます。

カトリックになってから仏教や神道のこと、そして全ての宗教のことが理解できるようになりました。愚かな私は、すべての物事を比較して考えないと理解出来ないのです。
例えば仏教とキリスト教は世界宗教という点で共通しています。神道は道教やヒンズー教と同じように一つの民族だけの「民族宗教」です。
世界宗教とはどんな国の人々にも国籍に関係なく納得出来る教えが中心になっています。仏教の教えの、「この世ははかない。栄枯盛衰は世のならい」という教えは全ての人類に共感される教えです。これと同じ教えがカトリックにもあります。
仏教には神が出て来ません。しかし、お釈迦さまを神のように尊敬すれば良いのです。そういう信仰も人それぞれで良いと思います。
ついでに説明すればユダヤ教徒だったイエス様が、この民族宗教を根底から変革して国籍に関係なく全ての人々が納得するような教えに変えたのです。
新約聖書によく登場するサマリヤ人とは全ての外国人を意味すると考えると、いかにイエス様が外国人を大切にし、愛したかがご理解出来ると思います。
下にこの記事の挿絵代わりに北海道のトラピスト修道院の写真を示します。
修道院は東南アジアに普及している小乗仏教の僧院と比較すると似ています。
こんなことを考えると宗教の違いによる対立や戦争が如何にバカバカしいものかが実感できます。ですからこそ狂信がいけないのです。絶対に狂信的になってはいけないのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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添付した写真は北海道のトラピスト修道院を2012年に撮ったものです。
詳しくは、「北海道の生活の厳しさと雄大な自然(1)トラピスト修道院の自給自足の厳しさ」(2012年06月21日 掲載記事)ご覧ください。
抜粋をお送りします。
・・・この寒冷の地に戒律が厳しい自給自足の修道院を作った人がいたのです。フランスの戒律の厳しいことで有名な厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が1896年、明治29年に津軽海峡を見降ろす丘の上に来ました。石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。
場所は函館の西、30Kmほどの所にある渡島当別駅のそばです。不便な所なので観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。今回は車だったので、函館に泊った4日間に4回も訪問しました。修道院というものに心が惹かれたのです。周囲の景観も素晴らしかったのです。
この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部ですが、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。
生産される乳製品の一部を外部へ売り、衣服や光熱費をねん出します。その製品はトラピスト・バターやトラピスト・クッキーとして現在でこそ有名ですが、昔は苦しい生活が続いたそうです。現在の修道士は外国人も居ますが、殆ど日本人男性です。
修道院の見学は女性禁止で、男子のみ往復ハガキで申請すれば可能です。・・・

1番目の写真はは修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。

2番目の写真は修道院の遠景です。
正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。小さなレンガ造りの建物が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。

3番目の写真は修道院の裏にある牧舎です。
修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。

4番目の写真は駐車場から修道院正面の入り口まで続く杉並木です。杉並木の終わりは正面入り口まで登坂になっています。


「カトリック関口教会の四旬節第5主日のミサの動画配信」

2024年03月17日 | 日記
今日のカトリック関口教会の四旬節第5主日ミサの動画配信です。

四旬節第5主日ミサ、
 https://www.youtube.com/watch?v=S5p3VTYjhjA

カトリック東京カテドラル関口教会 主任司祭:天本昭好
関口教会は1900年に正式に小教区として設立されました。1918年に大司教館が移転し、1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。
戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂されました。



「雑木林に囲まれた私の小屋の風景」

2024年03月16日 | 写真
人生の中で私は自慢出来るたった一つのことがあります。それは山梨県の甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋を持っていることです。
1974年に作ってから50年間も通っています。
春夏秋冬、その小屋の周囲の自然を眺め自然に魅了されてきたのです。
特に2016年には11月の紅葉の美しい時に行きました。周囲の雑木林が晩秋の色になっていました。
そんな雑木林に囲まれた私の小屋の写真を示します。
 

息子夫婦と三人の孫が林の道で遊んでいます。