後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「何故か私は広々とした草原が大好きです」

2024年03月10日 | 写真
こんな広々とした草原が東京都にあるのは奇蹟のようです。近所にあるのです。
今日も行きのんびりと風景を眺めて来ました。
光は春ですが冷たい風が吹いていました。
なお写真の中の月日はカメラの間違いです。


「教養としてのキリスト教・・・復活祭とは?」

2024年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教のことを知れば欧米人の考え方が分かると言います。文学や絵画彫刻や音楽がもっと味わい深くなるとも言います。ですから多くの日本人は教養としてキリスト教を身につけています。
今年は3月31日の日曜日が復活祭です。キリスト教の復活祭です。
そこで復活祭の意味やその重要性について簡単に書いてみたいと思います。
簡単に書いてしまえば復活祭はキリストが十字架にかけられ処刑され、3日後に生き返ったことをお祝いするお祭りです。
キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。12月24日のクリスマスはヨーロッパの原始宗教の冬至祭を踏襲しました。
その一方で復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のクリスチャン関係者だけが祝っています。
復活祭は春の到来を祝うお祭りを踏襲していますので、日本でももっと有名になっても良いと思います。しかし「一旦、死んだ人が生き返る」という不自然さ、不合理さがあるので日本では受け入れらなかったのでしょう。
しかしキリスト教徒にとっては復活祭は一番重要な祭日です。ある意味ではクリスマスよりも非常に重要な祭日です。
その理由はキリスト教信仰の中心をなすのが、キリストが生き返り、その後、天に登って神の右の座に着いたという事実を信じることなのです。そして最後の審判の時が来ると、キリストは再び帰って来ます。そして全ての死者の肉体も蘇り、復活するのです。
復活祭とはイエス自身の生き返りを祝い、全ての死者の生き返りを祈る重要な祭日なのです。
上に書いたことはあまりにも荒唐無稽なことですね。少なくとも大部分の日本人には受け入れられない空想に過ぎません。私も本物の日本人ですから復活祭が日本へ受け入れらなかった事情は痛いほど良く分かります。なにせ仏教にはそんな空想論は皆無なのです。
さてそれはそれとして少し復活祭に関連した写真を見てみましょう。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E7%A5%AD です。
この絵画は生き返ったキリストが弟子たちの中心に立っている光景です。ある弟子は本当に生き返ったキリストなのかと疑って眺めています。トマスはキリストの脇腹の傷跡に指を入れてみて、「これは本物の生き返ったキリストだ!」と納得します。
この絵は欧米人なら誰でも知っています。彼等の心の中にある原風景なのです。
日本人も心の中にいろいろな原風景を持っています。
文化の違いや考え方の違いは心の中にある原風景の影響を受けている場合も多いと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
マルコの福音書 16章 復活したイエス
1 翌日の夕方、安息日が終わると、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、それにサロメの三人は、さっそくイエスの遺体に塗る香料を買い求めました。
2 その翌朝早く、日が昇るとすぐ、女たちは香料を持って墓へ急ぎました。 3 女たちには気にかかることが一つあり、道々、そのことばかり話し合っていました。どうしたら、あの大きな石を入口から取りのけることができるかということでした。 4 それがどうでしょう。墓に着いてみると、あの重い石は動かしてあり、入口が開いているではありませんか。 5 中に入ると、右のほうに白い服を着た青年(天使)が座っています。女たちはびっくりして、息も止まるほどでした。 6 その青年がおもむろに口を開きました。「そんなに驚くことはありません。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのでしょう。あの方はもうここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい。ここが、あの方の納められていた場所です。 7 さあ、行って、ペテロやほかの弟子たちに、『イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前もって言われたとおり、そこでお会いできるのです』と知らせてあげなさい。」
8 婦人たちは震え上がり、転がるようにして墓から逃げ帰りました。そして、あまりの恐ろしさに、この出来事をだれにも話すことができませんでした。
9 〔さて、イエスが復活されたのは日曜日の早朝のことで、最初にイエスにお会いしたのはマグダラのマリヤでした。彼女はかつて、イエスに七つの悪霊を追い出していただいたことがありました。 10-11 マリヤはすぐさま、悲しみに打ちひしがれて泣いている弟子たちのところへ行き、「大変です! イエス様は生きていらっしゃいます。私、実際にお目にかかったのです」と話しました。しかし弟子たちは、マリヤの言うことを信じようとしませんでした。
12 その日の夕方、二人の弟子がエルサレムから田舎へ向かう道を歩いていました。そこへイエスが現れましたが、とっさには、だれだか見分けがつきませんでした。以前とは違った姿をしておられたからです。 13 やっとイエスだとわかると、二人はエルサレムに飛んで帰り、ほかの弟子たちにこの出来事を知らせました。しかし、だれも彼らの言うことを信じませんでした。
14 その後、十一人の弟子たちが食事をしているところにイエスが現れ、彼らの不信仰をとがめられました。「どうして、わたしが復活したと言う者たちの証言を信じなかったのですか。」 15 それから、こう宣言されました。「全世界に出て行きなさい。すべての人々にこの福音を宣べ伝えるのです。 16 信じてバプテスマ(洗礼)を受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 17 信じる人々はわたしの権威によって悪霊を追い出し、新しいことばを語ります。 18 蛇をつかんでも、毒を飲んでも害を受けません。病人に手を置けば病気は治ります。」
19 こう語り終えると、イエスは天に上げられ、神の右の座につかれました。 20 弟子たちは命じられたとおりに出て行き、あらゆる所でこの福音を宣べ伝えました。主が共に働いてくださったので、数々の奇跡が起こり、弟子たちの教えの確かさが証明されました。

「春の風物詩、間もなく咲く小金井桜、江戸時代からの桜の名所」

2024年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
間もなく咲く小金井桜は江戸時代からの桜の名所です。
小金井桜が開花し始めると毎日のように行っては櫻花の美しさに陶然となり見とれています。花見弁当を持っていってゆっくり食べます。
桜が好きなので上野の桜も隅田川の桜も千鳥ヶ淵の桜も勿論見ました。
長野県の高遠の桜も福島の花見山の桜も吉野山の桜も見ました。日本三大桜の神代桜も三春の滝桜も見ました。日本中のいろいろと有名な桜を見ました。
しかし小金井桜が日本一見事な桜だと思います。理由も根拠もありません。たんに自分の住んでいる小金井市にあるだけなので日本一と言っているだけです。
小金井市を東西に貫いて流れている玉川上水堤に初めて桜の木が植えられたのは、元文2年(1737)と言われています。
今日の4枚目の写真ご紹介する、広重の「小金井橋夕照 」が描かれた1835年より凡そ100年くらい前のことです。
広重の版画の以前から、この小金井桜が有名になり多くの版画や案内書が出回ります。
例えば、小金井桜を紹介した名所案内は、「武埜八景」(大久保狭南、寛政9年(1797))や「玉花勝覧」(露庵有左、文化元年(1804))などがあります。
葛飾北斎も「金井橋桜之道標」という一枚刷りの絵地図を描いていたことなども分っています。
そしてさらにその後も、「江戸近郊道しるべ」(村尾下嘉陵、文政2年(1819))「江戸名所花暦」(岡山鳥、文政10年(1827))「江戸名所図会」(長谷川雪旦絵、(1834))などが出版されました。
これらの、代表的な紀行文や名所案内は何れも小金井桜を採り上げているのです。
その詳細は、http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/hiroshige38.html をご覧下さい。
このような江戸時代の出版物を沢山ご紹介したのは、「小金井桜は江戸時代から続く日本一見事な桜の名所だ!」と自慢したいだけなのです。
しかし日本全国にはもっと見事な桜の名所はあるに違いありません。皆様からコメントとしてご投稿頂き、お教え頂けたら嬉しく思います。
さて前置きが長くなりましたが、それでは写真を示します。
1番目の写真から3番目の写真は小金井公園の桜です。

江戸時代の小金井桜は玉川上水の両脇の堤に植えてありました。
現在も堤の上に山桜が並んでいますが、公園内の広い土地に植えられた染井吉野の下に人々が集まります。広いので三々五々敷物を広げて花見をしています。

4番目の写真は江戸東京博物館所蔵の歌川広重の「江戸近郊八景 小金井橋夕照」の写真です。
右端に富士山が描かれていますが、これは本物の富士山です。私が60年前に小金井市に引っ越してきた頃は自宅の2階から富士山が見えたのです。その後。周囲の家が2階建てになってしまい見えなくなりました。
小金井桜はなにせ日本一素晴らしのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「春の風物詩、瀬戸内海のイカナゴの釘煮の思い出」

2024年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
春の風物詩は桃の節句の雛祭り、花見、復活祭、入学式などいろいろありますが地方、地方にも特別なものがあります。
今日は地方 の風物詩の一つとして瀬戸内海のイカナゴ漁をご紹介したいと思います。イカナゴの釘煮の思い出を書きたいと思います。我が人生の小さなエピソードです。
数年前にイカナゴの釘煮をはるばる送ってくださった方がいました。
東京に居ながらにして春の陽に輝く瀬戸内の海の風景が眼前に広がるのです。
友人の鈴木 裕さんの母上と妹さんが精魂込めて煮たものを送って下さいました。
山椒入りのものとショウガ入りのものと2種類が細かな切れ目を入れたハランの葉で分けてパックに丁寧に詰めてあります。解禁早々のまだ幼魚の高級なイカナゴのクギ煮です。
3月になると須磨にお住いの鈴木裕さんが送ってくれたのです。これを食べると、「ああ、今年も春が来た」という温かい気持ちになります。
10年以上にわたって毎年送ってくださる鈴木裕さんと御母上の温かいお気持ちに感動します。

このように瀬戸内海でしかとれない美味しいイカナゴという小魚を大量に丁寧に仕上げて、遠方に住む家族、親類、知人、友人へ送る風習は日本の美しいローカル文化です。瀬戸内海地方の伝統的な輝かし『地方文化』です。この地方文化の恩恵を幸運にも楽しめることで心が豊かになります。

イカナゴは日本各地の沿岸で漁獲される魚です。しかし瀬戸内海のイカナゴは特別に美味しいのです。生育中に食べている餌が違うのです。
瀬戸内海でのイカナゴの解禁日は年によって違いますが、大体2月下旬に解禁になります。
稚魚を瀬戸内沿岸部ではイカナゴ(玉筋魚)、関東ではコウナゴ(小女子)、大阪ではシンコまたはカナギと呼ばれています。
イカナゴは暑さに弱く、6月から晩秋過ぎまで砂に潜って夏眠する珍しい魚です。
関東ではコウナゴの佃煮と同じものが瀬戸内海沿岸ではイカナゴのクギ煮と呼ばれています。
味がどのように違うのか食べ比べてみると歴然と違いが分かります。同じ魚ですが全く味が違うのです。
瀬戸内海沿岸の須磨のイカナゴのクギ煮はかすかにフォアグラのような肝臓の風味がするのです。そして骨を感じさせない柔らかい小魚の食感です。魚の肝臓ではアンコウの肝やカワハギの肝が美味ですが、それらと一脈通じる味がかすかにするのです。これこそイカナゴのクギ煮が絶賛される原因だと断定できます。
断定したといえば大げさですが、交互に東京で売っているコウナゴの佃煮を食べてみると明快に分かるのです。コウナゴにはアンコウの肝やカワハギの肝の美味成分が皆無です。その上、身が固すぎます。魚としての旨さは充分ありますが固すぎるのです。
この違いは餌の違いなのでしょう。

鈴木さんの母上の味付けは上品です。その上、生姜や山椒の香りが程良くてなんとも言えない風味があるのです。料理は作っている人の性格を表わすと言いますが優雅で、その上根気の良い母上のお人柄が偲ばれるのです。
2種類の釘煮の仕切りをお庭の葉蘭でしてあるのですがその細かな切り方が本当に丁寧な事に毎年、感嘆します。
そして鈴木さんの母上はお正月の初詣でのおりに毎年、須磨の海苔もお送り下さいました。このように伝統文化を大切にするご婦人は素晴らしいと初海苔を頂くたびに想います。
その頃は須磨の海苔で家内が恵方巻を巻いてくれました。
イカナゴの釘煮がローカル文化であることは、それにまつわる和歌や俳句や随筆をみるとよく分かります。
毎年、いかなごくぎ煮振興協会が主催してイカナゴの釘煮にまつわる和歌や俳句や随筆を募集しています。
そして優秀な作品へ『いかなごのくぎ煮文学賞』を与えているのです。(http://kugini.jp/contest/index_b2016.html )
第5回目を迎えた文学賞では、過去最多の1410作品が全国43都道府県から寄せられました。

今日は春の風物詩として、瀬戸内海のイカナゴの釘煮の思い出を書きました。我が人生の小さなエピソードですが忘れられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

イカナゴに関する写真をお送りします。
1番目の写真はイカナゴ漁をしている漁船の写真です。
2番目の写真は目の細かい網にイカナゴがビッシリ獲れて、それを船の上に引き上げようとしている光景です。
3番目の写真はとれたイカナゴです。背景に大人の指が写っていますが、イカナゴは指の半分くらいしかない小さな魚です。
4番目の写真は鈴木 裕さんの母上と妹さんが精魂込めて煮た イカナゴの釘煮です。


「美しい瑠璃光寺の五重塔」

2024年03月08日 | ブログ
美しい瑠璃光寺の五重塔の写真をお送り致します。
山口市香山町にある曹洞宗の瑠璃光寺には国宝の五重塔があります。
室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立されました。五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐と奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A0%E7%92%83%E5%85%89%E5%AF%BA 

「日本でもつまらない仏教画が溢れている」

2024年03月08日 | 写真
日本でもつまらない仏教画や仏像が溢れているのです。
日本の仏教画を検索していろいろ調べてみました。そうしたら日本でもつまらない仏教画が溢れているのです。しかし少し感動的な絵画や仏像の写真をお送りいたします。

1番目の写真は国宝の三十三間堂です。
各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に四十手をもつ通形で、中尊同様の造像法で作られています。2番目の写真はhttps://www.sanjusangendo.jp/sta2ば

2番目の写真は掛軸 【上野光明】 雲上観音 です。
https://aucview.aucfan.com/yahoo/1040122886/

3番目の写真は「初心者でも分かる仏画の描き方~」です。- 奥田みき
https://mikisya.com/hbutuga1/

4番目の写真は弥勒菩薩像 半跏思惟像です。
https://seihou8.sakura.ne.jp/shop/001-miroku/index.html

「つまらない宗教画が溢れているヨーロッパ諸国」

2024年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム
以前ヨーロッパ諸国へ何度か行きました。仕事で行ったのですが週末は暇です。美術館にでも行くかと思い訪ねてみました。するとつまらない宗教画が溢れているのです。何故つまらないかというと宗教と美術は別物なのに無理して一緒にしているからです。私はカトリックの信者ですが下手な宗教画に辟易しています。
一般的に宗教画は芸術的でなく、そに上に描かれているもののキリスト教的意味が分からないと全く面白くないのです。
しかし宗教画はヨーロッパ文化にとって非常に重要な分野なのです。ですからこそ美術館に宗教画が満ち溢れているのです。これこそヨーロッパ文化の重要な分野なのです。
そこで今日はヨーロパ諸美術館に溢れている宗教画をご紹介したいと思います。優れた宗教画を選んで5点お送りします。
1番目の写真はフレスコ画フラ・アンジェリコの名作の「受胎告知」(1442年頃)です。
「受胎告知」は、左の大天使ガブリエルが右の聖母マリアに、イエス・キリストの母になることを伝えている新約聖書の場面です。天使はダ・ヴィンチの代表作である受胎告知の宗教画にも登場します。天使(angel)は神々と人間の中間の霊的存在のため宗教画には欠かせない存在です。
16世紀までの宗教画に天使が多いのはキリスト教では天使の存在が信じていたからなのです。現在のカトリックでは受胎告知は信じていますが天使は重要ではありません。
2番目の写真はラファエロ(Raffaello Sanzio)の「牧場の聖母」です。ウィーン美術史美術館に所蔵されています。
赤いドレスと青いローブをまとい、優しく幼子らを見守る聖母マリアが描かれています。聖ヨハネが片膝をつき細長い十字架を支え、幼子キリストはその十字架を握り視線を送っています。ラファエロはそれまでの芸術手法を統合し洗練された優雅な様式を確立しました。
カトリックでは洗者ヨハネが水でイエスに洗礼を授けたと信じられています。この絵には洗者ヨハネとイエスの幼い姿が描かれているのです。
3番目の写真はダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の「最後の晩餐」です。
イタリアのミラノにあるサンタ・マリア教会にある壁画です。この絵では、弟子の裏切りを予言するイエス・キリストと聞いて動揺する弟子たちの様子が写実的に描かれていています。
最後の晩餐でイエスはパンを裂き弟子たちに、「これは私の体」と言って食べさすます。葡萄酒を「これは私の血」と言って飲ませます。現在のカトリックではミサの終り頃に神父が「イエスの体」と言って信者一人一人へパン片を食べさせます。ミサで一番重要な場面です。
4番目の写真はベラスケスの「聖母戴冠」でスペインのプラド美術館にあります。
ベラスケスの代表的な宗教画です。この絵は、復活した聖母が再び昇天し、神と神の子イエスから戴冠を受ける場面を描いたものです。現在のカトリックでは聖母戴冠の話は出てきません。当時のマリア信仰の強さが聖母戴冠感じられる絵です。
5番目の写真はフェルナンドの「聖カタリーナ」でプラド美術館にあります。
聖カタリーナはアレキサンドリアの知事の娘でした。3世紀頃の話です。当時の最高の教育を受けたカタリーナは母親の影響でキリスト教徒になります。ローマ皇帝マクセンティウスがキリスト教を迫害します。聖カタリーナがそれを非難したため逮捕されます。手足を車輪に括り付けて転がされるという拷問にかけられそうになります。しかしカタリーナが車輪に触ると車輪はひとりでに壊れたのです。
彼女は最後に斬首刑になりました。この絵の聖カタリーナの足元に壊れた車輪が描かれています。この絵の重要な部分です。
現在のカトリックではこの聖カタリーナは登場しません。しかしヨーロッパでは有名な話なのでしょう。

今日ご紹介した宗教画の出典の文献は、https://www.religio.jp/religious-painting/ とhttps://tabispain.com/category/arte/atribute/ です。
また写真の説明にはこれら2つの文献を参考にしました。記して感謝の意を表します。

今日はヨーロッパの宗教画をご紹介しました。宗教画はヨーロッパ文化の一つの分野なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ツルゲーネフとドストエフスキーの世界」

2024年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフは 1818年11月9日生まれ 1883年9月3日に没した。
ロシア中部オリョールに、地主貴族の家庭の次男であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%84%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%95#%E8%84%9A%E6%B3%A8

15歳でモスクワ大学教育学部に入学する。1838年から1841年までベルリン大学で哲学や古典語を学ぶ。
1843年、叙事詩『パラーシャ』を発表。その年、夫と子のあるオペラ歌手、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドに一目惚れし、彼女を追ってパリに移り住んだ。それ以後、西欧とロシアを往復する生活が終生続いた。

1847年から雑誌に発表された『猟人日記』で、貧しい農奴の生活を描き、農奴制を批判したことで投獄される。この作品は農奴解放(1861年)に大きな役割を果たした。その後も、1854年の『ムムー』でも地主の下で使われる農奴たちの悲劇と精神の解放を描いている。

一方、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは1821年11月11日に生まれ 1881年2月9日に没した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC#%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC
ロシア帝国の小説家・思想家です。トルストイやツルゲーネフと並び、19世紀後半のロシア小説を代表する文豪でそた。
28歳で空想的社会主義に関係して逮捕されるが、出獄後、代表作である『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などを発表し、「現代の預言書」とまでよばれる文学を創造した。

ドストエフスキーの著作は、世界中で読まれ、170以上の言語に翻訳されている。

ドストエフスキーと日本。

ドストエフスキーの作品が初めて日本に、伝えられたのは内田魯庵が『罪と罰』を英語から重訳したのが始まりである。

ドストエフスキーが日本文学に与えた影響は計り知れない。

作家江戸川乱歩は、ドストエフスキーの作品を繰り返し読み、「スリルの事」というドストエフスキーの作品に関するエッセイも書いている。

映画監督の黒澤明は「ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んでいて、どうしても一度は映画化をやりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタが違うけど、作家として一番好きなのはドストエフスキーですね」と語った。

黒澤は『白痴』を、日本を舞台にした上で映画化している。また『赤ひげ』の「おとよ」は山本周五郎の原作からは離れて、『虐げられた人びと』のネリーをモデルにしている。『死の家の記録』の映画化を企画したこともあった。

小林秀雄は、前中期の代表作に『ドストエフスキイの生活』ほかの作品研究があり、昭和10年代から現在まで重版されている。

手塚治虫は、ドストエフスキーの影響を非常に受けた漫画家である。「ボクの長編の基本は『罪と罰』なんです」と公言していた。手塚治虫は『罪と罰』を初期に漫画化している。

村上春樹は、最も好きな作品の一つとして、『カラマーゾフの兄弟』を挙げている。エッセイ『村上朝日堂の逆襲』では、「ドストエフスキーは、この世に様々な“地獄”が存在することを示した」と書いている。

三島由紀夫は初期作品『仮面の告白』の冒頭で、『カラマーゾフの兄弟』を引用している。
作品中での日本に関する言及としては、『白痴』第一編の終わりの箇所がある。

写真はインターネットからお借りしたシベリアの白樺林です。
 

「日本人を愛したニコライ、そしてレーピンと チ ャイコフスキーを思い出す」

2024年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この度のロシア軍のウクライナへのミサイル攻撃と東部の占領でロシアは世界中の非難を浴び孤立無援です。
その結果、ロシア人は全て悪という風潮です。しかしこれは間違った軽薄な社会風潮です。ロシアの権力者と一般のロシア人個人は別の存在です。違う性格を持っている人々なのです。
今日は良いロシア人として日本に在住したニコライをご紹介します。そして私の大好きな画家のレーピンと作曲家のチ ャイコフスキーも紹介したいと思います。
さてニコライとは神田にニコライ堂を建てたロシア人、ニコライ・カサートキンのことです。彼は終生日本人を愛したのです。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へキリスト教の宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。
日本に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、上野の谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。その中から一つをご紹介します。
1904年と1905年には日露戦争が続きました。戦争勃発とともに在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
日露戦争の間、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
この時、ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、天に帰りました。
ニコライ堂から上野の谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。多くの日本人がニコライの死を悲しんだのです。
明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の写真に見えます。私は葬列と沿道の人々の光景の写真を10枚持っています。ニコライ堂の売店から買って来たのです。
ニコライは明治天皇を尊敬し、深く日本の信者を愛していたのです。日本人を愛すことは「隣人を愛せ」というイエス様の教えなのです。私はニコライの愛は日本民族に対する「深遠な愛の心」だったと信じています。

さてロシアの画家、イリヤー・レーピンをご紹介します。私の胸を打つ感動的な油彩画を描いた画家です。暗い絵ですがロシアの深い芸術性を感じます。
彼は 1844年に ハリコフ近郊 で生まれ、 1930年に亡くなりました。 心理的洞察を描き込んだ写実画が感動的です。私の感動した船曳きの絵を示します。
 1番目の写真は「ヴォルガの船曳き」です。
そして続けてもう3枚の油彩画をお送り致します。
2番目の写真は「クルスク県の復活大祭の十字行」です。
3番目の写真は「トルコのスルタンに手紙を書くザポロ-ジャのコサック」、1880年作です。

 4番目の写真は「思いがけなく」、 1883年 - 1898年作です。
さて最後に作曲家のピョートル・チャイコフスキーを簡略に紹介致します。私の大好きな作曲家です。
チャイコフスキーは1840年5月7日、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師イリヤ・チャイコフスキーの次男として生まれました。 1893年11月6日に没しました。 叙情的で流麗な旋律と華やかなオーケストラ曲で有名です。 
私は若い頃からよく聞きました。懐かしい作品を列挙します。
作品についてはチャイコフスキーの楽曲一覧をご覧ください。
幻想序曲「ロメオとジュリエット」
バレエ音楽「白鳥の湖」 作品20
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
スラヴ行進曲 作品31
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
「四季」- 12の性格的小品 作品37a
弦楽セレナーデ ハ長調 作品48
大序曲「1812年」 作品49
バレエ音楽「眠れる森の美女」 作品66
バレエ音楽「くるみ割り人形」 作品71
交響曲第6番 ロ短調「悲愴」 作品74

今日はここで五嶋みどりさんさんが演奏する チ ャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をお送り致します。
https://www.youtube.com/watch?v=-I5qh7c0QL0 です。
あわせてチャイコフスキー名曲 10選、https://www.youtube.com/watch?v=uti8sOBlV7s もお聞き下さい。

今日は日本人を愛したロシア人、ニコライをご紹介しましました。そしてレーピンの油彩画と チ ャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲などをご紹介しましました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「春の陽射す鎌倉の海の写真」

2024年03月06日 | 写真
数年前のある春の日に鎌倉に遊びに行きました。北鎌倉駅まで行って名物の豊島屋の鳩サブレー、光泉の稲荷ずしを買いました。鎌倉の中心街は車の渋滞で行けませんので、山の上を迂回して長谷寺の脇から海岸通りへやっと出ることが出来ました。
鎌倉海岸の由比ヶ浜と逗子の新宿湾の海岸沿い走りました。帰りは逗子ICから横横自動車道路に乗り、帰って来ました。
春の陽射す鎌倉の海の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。