後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏の風物詩、あちこちに蓮の花が咲く風景」

2024年07月23日 | 写真

蓮の花の咲く景色は夏の風物詩です。お寺の境内、各地の城のお堀や一面に広がる蓮根畑に咲いています。
夏の陽に輝く白い花が風に揺れている光景は心に刻み込まれています。私は霞ヶ浦でヨットをしていたので周囲に広がる蓮根畑の白い花が忘れられません。そして同級生の大泉君と一緒に見た小田原城の堀に咲く花は背景の天守閣の風景とともに忘れません。
その上家内と一緒に行った行田の蓮の公園に一面に咲いていた蓮の花には感動したものです。
そこで今日はこれら3ケ所の蓮の花の写真をお送り致します。

1番目の写真は霞ヶ浦の蓮根畑の写真です。2008年の夏に撮ったものです。

2番目の写真は小田原城の堀に咲く蓮の花です。観賞用の花なので種々の色の花が咲いています。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_14206ac2102085649/ です。

3番目の写真も小田原城の堀に咲く蓮の花です。花の背景には白壁の小田原城がありピンク色の蓮の花を引き立てています。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_14206ac2102085649/ です。

4番目の写真は行田の蓮の公園に一面に咲いていた蓮の花です。出典は、https://www.go2park.net/photo/kodaihasu_flower.html です。


観賞用の蓮は美しいピンクなのです。そして蓮根畑の蓮の花は純白なのです。
それはさておき蓮は何故お寺の境内にあるのでしょうか?明快な説明は次の本にあります。
稲垣栄洋著「なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 」、幻冬舎の新書、2015年出版、(https://www.gentosha.jp/article/3402/ )
それによると、ハスは不浄である泥の中から茎を伸ばし清浄な花を咲かせるので仏教が理想とする在り方なのです。極楽浄土に最もふさわしい花なのです。

蓮の臺(ウテナ)という言葉もあります。ですから仏像はハスの花の上に座っているのです。
その上この本では仏教のさまざまな教義が植物に喩えて説かれ、寺や墓のまわりも仏教が尊ぶ植物で溢れている理由を分かり易く説明してあります。
例えば『法華経』というお経があります。これは「華の法の経」と書きます。蓮華にたとえられる経典という意味です。つまり、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という教義を中心にしたお経とも言えるのです。
稲垣栄洋著「なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 」の本は興味深い内容なのです。
この本は大乗仏教を分かり易く説明した優れた入門書なのです。稲垣 栄洋さんは1968年生まれの植物学者で静岡大学教授です。是非、ご覧下さい。


「美しい蓮の花と施餓鬼供養のはなし」

2024年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、毎年、7月になると小金井市の真蔵院の蓮の花が美しく咲きます。ピンクや白い大輪の花が本堂の周りを埋めています。金色の蕊が風に揺れています。もう何十年もここに来て蓮の花の写真を撮り続けています。
それでは自分が撮った写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。





毎年、7月に感謝しながら蓮の花の写真を撮っています。
このお寺の住職さんとはお会いしたことがありません。しかし、どうぞ花の写真を撮って下さいと歓迎しているようです。山門の前に駐車場も用意し、境内も掃き清めてあり静かな場所です。本堂の裏には小金井公園の見事な雑木林が続き借景になっています。
本堂前には、何時も真言宗豊山派の広報誌の「光明」という冊子が置いてあります。毎回持ち帰り読むことにしています。
このお寺の住職さんは座禅会などもしていて真面目に、静かにお釈迦さまの教えを弘めようとしています。秘かに尊敬したくなるような僧侶に違いありません。
今回頂いてきた「光明」に毎年お盆のころにお寺で行う施餓鬼会について簡単な説明があったのでご紹介します。
飢えた鬼たちに食べ物を与えるのが何故仏教と関係があるのでしょうか ?

「光明」の説明によると、施餓鬼会では先祖様や亡くなった方を供養をします。塔婆を立てたり墓参りをします。
信徒たちもお坊さんと一緒に飢えた鬼たちが食べ物が得られるように祈ります。鬼に施しをする儀式なのです。
餓鬼に施すと功徳を積んだ積んだことになります。この功徳が亡くなった方へめぐり(回向)、供養するのです。
簡単に言うと、餓鬼に食べ物を与えるー功徳を積むー回向するーそれが先祖の供養になるという考えなのです。
この施餓鬼はお釈迦様の弟子の一人の阿難と餓鬼との会話がもとになってます。

・・・ある夜、阿難尊者が座禅をしていると、それはそれは恐ろしい形相の餓鬼が現れ、こう言いました。「お前の命はあと三日でなくなる。死後はお前も私と同じ餓鬼道に墜ちて悶え苦しむだろう。そうなりたくなければ、三日以内にすべての餓鬼の飢えを癒しなさい。」

餓鬼の数は無限にいます。困り果てた阿難尊者はお釈迦様に相談されました。するとお釈迦様は陀羅尼というお経を阿難尊者に授け、「この陀羅尼を唱えながら、ひとつまみの食べ物を施すと、それが無量の食べ物となり、無数の餓鬼を施すことになります。そうすれば、その功徳によってあなたも救われますよ。」と教えられました。そして、そのお教えのとおりに供養すると、数多の食べ物で多くの餓鬼を救うことができ、阿難尊者の寿命も延びたといわれています。

これが施餓鬼会の由来です。・・・

昨日は、夏風に吹かれながら蓮の花の構図をあれこれ考えながらゆっくり写真を撮りました。そしてはるか幼い頃に見た祖父の姿や施餓鬼会の光景を懐かしく思い出していました。鳴り物の響きがよみがえって来ます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
真言宗豊山派寺院の真蔵院は、慈眼山普門寺と号します。真蔵院の創建年代は不詳ながら、御嶽山世尊寺の塔頭だったといいます。関野新田を開発した勘左衛門の父甚五左衛門(享保16年1731年没、法名真蔵院勇寛義鋭)を開基として、延享2年(1745)当地へ移転、秀典(宝暦12年1762年寂)が開山したといいます。多摩八十八ヶ所霊場31番です。(http://www.tesshow.jp/tama/koganeikokbunji/temple_koganei_shinzo.html)


「今年もお盆が来て精霊流し をします」

2024年07月22日 | 写真
今年もお盆が来て精霊流し をします。
お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日
に行う場合もあります。
お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。
ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。
迎え火と同様に、ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。
お盆の風物詩は「精霊流し」です。
有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。
十五日夜、亡くなった人の霊を精霊船に乗せて西方浄土に送る行事です。
写真は「精霊流し」の風景です。夏の風物詩です。

「チベット仏教の風景」

2024年07月22日 | 写真

チベット仏教の風景の写真をお送りいたします。写真はインターンットからお借りしました。

チベット仏教は7世紀以来、チベットで独自に発展した仏教で、現在もチベット民衆に根強く続いている。
 インドで起こった仏教の中で、北伝仏教とも言われる大乗仏教が、7世紀ごろ、チベット(吐蕃)に伝わりソンツェン=ガンポ王の保護を受け、チベット固有の土着宗教であるボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達し、チベット仏教となった。

吐蕃王朝は衰退したが、チベット仏教はその後モンゴルやネパールにも広がった。特にモンゴル帝国ではフビライなど歴代のハンがチベット仏教を保護したため、チベット仏教はモンゴルにも定着した。

現在もチベットを中心に、内モンゴル、ネパール、ブータンなどに信者がひろがっている。17世紀からはチベット仏教の教主としてダライ=ラマの権威が確立し、その転生による継承は現在に至っていが、チベットが清朝の滅亡後は一時独立を宣言したものの、中華人民共和国に編入されたため、チベットの政治的独立と共にチベット仏教のあり方も大きな転機を迎えています。


「『仏教』を分かりやすく書いた資料の紹介」

2024年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

欧米人とビールを飲んで雑談していると、よく仏教とはどんな宗教ですかと聞かれます。仏教の教義はどのようなものですかと聞られます。答えに戸惑う問いです。困った質問です。仏教の全体を分かり易く説明することは容易ではありません。

そこで今日は『仏教』を分かりやすく説明しようと思います。分かりやすい資料をご紹介したいと思います。

さて日本ではお盆になると墓参りをします。春、秋のお彼岸にも墓地の掃除をして先祖の供養をします。みな仏教の風習です。
私は仏教のことが好きでよく仏教に関連した記事を書いています。そんな場合参考にしている資料があります。
それは『仏教へのいざない』というホームページ、(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/01.html )です。
大変分り易く仏教全体のことを過不足無く説明した優れた文献です。東京大学仏教青年会が作った文献資料です。
この『仏教へのいざない』というホームページをかいつまんでご紹介したいと思います。
まず目次をご覧下さい。

第01回ブッダの悟りから仏教へ

第02回 原始仏典とは何か
第03回 原始仏典を読む
第04回 原始仏教の様相
第05回 大乗仏教の発生
第06回 龍樹の思想
第07回 大乗仏教の展開
第08回 密教の世界
第09回 インド仏教の滅亡と再興
第10回 ガンダーラ仏教の隆盛
第11回 シルクロードの仏教
第12回 玄奘三蔵の旅
第13回 チベット仏教の形成
第14回 ダライ・ラマの誕生
第15回 中国に伝わった仏教
第16回 中国仏教の広がり
第17回 漢訳仏典を読む
第18回 隋・唐の仏教
第19回 宋代から清代まで
第20回 朝鮮半島への伝来
第21回 朝鮮仏教の展開
第22回 戦後の東アジア仏教
第23回 南伝仏教とは何か
第24回 スリランカの仏教
第25回 タイの仏教
第26回 ミャンマーの仏教
第27回 日本への仏教伝来
第28回 旅する僧侶たち
第29回 南伝仏教との出会い
第30回 日本仏教のゆくえ

第01回「ブッダの悟りから仏教へ」の書き出しはこんな具合です。
・・・仏教はブッダ(仏陀・仏)の教えに由来する。ブッダは「悟った人」の意で一般名詞に近く、特定の一人に限らない。その中でも歴史的に実在し、仏教の開祖とされるのは、紀元前五または四世紀にインドに現れた人物で、本名はゴータマ・シッダールタ(シッダッタ)と言い、そこからしばしばゴータマ・ブッダとも呼ばれる。その出身の種族はシャーキャ(釈迦)族で、そこからシャーキャ・ムニ(釈迦牟尼。釈迦族の聖者)、あるいは釈尊とも呼ばれる。また、如来・世尊などとも呼ばれる。その伝記は伝説的な色彩に彩られているが、北インドの王族の出身で、出生の地は現在のネパール南部のルンビニーであったという。世俗の生活に満足できずに出家し、はじめは当時の修行者の常として厳しい苦行を行った。しかし、それでは悟りは得られず、二九歳、あるは三五歳の頃、苦行を捨ててブッダガヤーの菩提樹のもとで禅定に入って悟りを開いた。・・・

そして第30回の「日本仏教のゆくえ」にはこんなことが書いてあります。


・・・日本の仏教は、アジアの中でも随分と異色のところが多い。第一に、僧侶の肉食妻帯。厳格な地域では一般の信者でも精進料理しか食べないのに、 僧衣を着た坊さんが平気で肉を食べているのは、随分と異様に見えるようだ。第二に、葬式仏教。仏教寺院というとふつうには墓地があり、僧侶のいちばんの仕事は墓地の管理をして、 葬式や法要をすることだと思われている。これも他の仏教国には見られない。第三に、神仏習合。神社でもお寺でも同じように参詣して手を合わせる。 二つの宗教をかけ持ちしているようで、日本人はきわめていい加減だ、ということになる。このように、日本の仏教のあり方は外から見ると相当に奇妙で、しばしば顰蹙を買うことになる。・・・

否定でも惰性でもなく、仏教がそのような近代的な人間観に疑問を突きつけることが可能とすれば、まず葬式や墓地の見直しから出発しなければならないのではないだろうか。
神仏習合にしても、日本に仏教が伝来して以来の長い経緯を持つもので、それが二つの別々の宗教に分けられたのは、明治の神仏分離によるきわめて人為的で無理な政策によるものであった。 日本のみならず、東アジアにおいては仏教は単独の宗教ではなく、儒教や道教などと交流しながら発展してきている。 とりわけ日本の神仏習合は、神仏が緊密な構造を構成していて、近代に外から持ち込まれた宗教観で切り分けることはできない。
 このように、日本の仏教のあり方はそれなりの必然性をもって展開してきているのであり、他の地域の仏教と違っているからといって、単純に否定的に見る必要はない。 しかしまた、過去の仏教の形態がそのまま惰性的に未来に続いていくというわけでもない。・・・

私は仏教に関するいろいろな本を読んできました。しかしこの電子化された文献資料ほと客観的に、そして公平に仏教を説明した資料は見たことがありません。
以下はこれを参考にして書いた記事です。
「愛と文化は国境を越える(4)日本文化の基礎を作った玄奘三蔵法師のインドへの旅」、2014年08月29日掲載。
「聖徳太子の師は朝鮮の慧慈・・・朝鮮仏教の日本への深い影響」、2014年08月30日掲載。
以下にこれら2つの記事で示した写真と図表をお送りいたします。

1番目の写真は玄奘三蔵法師のインドへの旅の道程です。彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。

2番目の写真は玄奘三蔵法師の遺骨があるという埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の入り口です。私が2009年の9月に訪ねて撮った写真です。遺骨は偽物かもしれません。しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打ったのです。

3番目の写真は慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てた玄奘塔と玄奘三蔵法師の像の写真を示します。この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。

4番目の写真は埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の周囲の風景です。

5番目の写真は三国時代の朝鮮半島と日本への仏教伝来を示す表です。日本に仏教が伝来したのは日本書記によると552年、欽明天皇の時、百済から伝わったということになっています。しかし538年という説も有力です。そうして朝鮮半島出身の慧慈(えじ)が聖徳太子の師になっていたのです。

6番目の写真は朝鮮の仏教の変化を示す表です。676年に朝鮮半島を統一した新羅は、仏教文化を花咲かせました。
新羅王朝も後半の九世紀になると、中国仏教の動向をうけて禅が盛んになりはじめるのです。中国に求法した禅僧たちは新羅に帰国すると、山を根拠地として教えを広めていったのです。それら九つの山で活動した禅の流れを「九山禅門」と総称します。

7番目の写真は韓国・慶尚南道にある世界遺産に登録されている海印寺の伽藍全景です。802年の創建で、13世紀半ば制作の「高麗八万大蔵経」の版木が1398年以来、所蔵されています。伽藍は1817年の再建されています。

日本の学校では遣隋使や遣唐使だけを強調して教えています。盲目になっても日本へ渡来した中国僧、鑑真のことを教えます。
聖徳太子の師が朝鮮の慧慈であったことや、朝鮮仏教が日本へ深い影響を与えたことを教えません。公平を欠いています。これは日本人が伝統的に朝鮮半島を軽視する精神文化を持っていたためです。

今日は『仏教へのいざない』という優れたホームページをご紹介致しました。そしてこの資料にもとずいて玄奘三蔵法師のインドへの旅と朝鮮の仏教にまつわる写真や図表を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「フィリピンのミアガオ教会の写真」

2024年07月21日 | 写真

パナイ島イロイロ市の西方にあるミアガオ市にあるローマ・カトリック教会で、イロイロの人気観光スポットの一つです。「サントトマスデヴィラヌエバ教会」としても知られています。

1797年に建てられ、要塞としての役割も果たしていた場所でもあります。

バロック様式に中国・フィリピンの様式が混ざった他に類を見ない教会で、その古い構造と歴史から「フィリピンのバロック様式教会群」のひとつとして、1993年12月11日、マニラのサンアグスチン教会とともにユネスコ世界遺産に登録されました。
https://philippinetravel.jp/miag-ao-church/


「東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの動画配信」

2024年07月21日 | 日記

東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの動画配信です。

https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/

写真はイグナチオ教会です。

聖イグナチオ教会
〒102-0083 東京都千代田区麹町6-5-1
JR中央線(麹町出口)/東京メトロ 丸の内線・南北線(赤坂出口) 四ツ谷駅下車(徒歩1分 上智大学手前)
教会受付(受付時間: 9:00~19:00):
 電話 03-3263-4584
 ファクシミリ 03-3263-4585


「欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違い」

2024年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する軽い記事を書くことにしています。
今日は欧米のキリスト教と日本のキリスト教はどのように違うかということを考えてみたいと思います。
まず同じ花でも植えた場所によって違ってしまうということを考えてみます。
日本の楚々とした花でも西洋に移植すると派手な色の洋花になります。
育つ場所の土壌と気候によって、花々は同じ種類のものでも変わるのです。樹木の場合は材質も変わります。それは自然なことです。自然現象として当然です。
明治維新以来、日本は西洋文化を輸入して来ました。しかし日本の文化的土壌はヨーロッパと違います。輸入した文化が日本に入ってくると大きく変化するのが当然です。
宗教も例外ではありません。
佛教の場合もミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムに伝わった仏教は出家を重視した戒律の厳しい上座仏教になり、中国、朝鮮、日本に伝わったものは在家でも成仏出来る柔軟な大乗仏教になりました。
同じようにキリスト教も日本に移植されると変化します。
日本古来の文化的土壌にあう部分は力強く育ち、合わない部分は衰えます。
人間の営みも自然現象の一部と考えれば当然です。

1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父は順応主義でした。
それでは日本のキリスト教はどのように変化したのでしょうか?
いろいろな変化がありますが、とりあえず次の2つだけを取り上げてみたいと思います。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。
欧米のキリスト教では先祖崇拝がありません。故人の記念ととして墓はありますが「先祖代々の墓」は存在しません。先祖が子孫を守るとは信じていないのです。人を愛し、守ってくれるのは神様なのです。イエス様なのです。先祖にはそんのような力はありません。
上の二つの相違は私が1971年に洗礼を受けて以来、カトリックのミサへ出席し、説教を聞いた経験から得た体験的結論です。
長い間カトリックの神父様達の説教を聞きましたが先祖崇拝を否定したり、仏教を攻撃した説教は一度も聞いたためしが無いのです。
日本の数多くのキリスト教徒は「先祖代々の墓」を大切にしています。
キリスト教だけが良くて仏教は悪いとは思っていません。多くのキリスト教徒は仏教も良いと思っているのです。

さて、それでは日本の仏教的文化土壌とはどのようなものでしょうか?
多くの無宗教の日本人でも幼い頃から「孫悟空」の絵本を読み、そしてテレビのアニメを見て育ちます。そうして大人になって、その話は唐時代にインドに行って仏教の経典を持ち帰ってきた玄奘三蔵法師がモデルになっていることを知ります。
玄奘三蔵法師は粗末な衣服以外身につけないで言葉も不自由な異国を旅したのです。危害を加えられたことも無く、各地の王に大歓迎されたのです。
それは玄奘三蔵法師の人格が抜群に良かったからです。その上、玄奘三蔵法師の仏教に対する篤い信仰心が異国の人々へ感動を与えたからです。その玄奘三蔵法師の像は各地にあります。

日本の仏教文化的な土壌を説明するための実例は枚挙にいとまがありません。
その中からもう一つだけ書かせて下さい。
日本人は無宗教でも京都や奈良のお寺へ観光に行きます。修学旅行でも行きます。そして知らず知らずのうちに仏教の歴史や教えになじむのです。

日本人なら諸行無常という言葉を知っています。動物を意味もなく殺してはいけないと知っています。南無阿弥陀仏という言葉を知っています。色即是空という言葉を知っています。人生は修行だという言い方も知っています。
みんな、みんなお釈迦様の教えたことです。

仏教を信じない、無宗教の日本人もこのお釈迦様の教えの海の中に暮らしているのです。
そして信じない人々も困った時には、上に書いたお釈迦様の教えをフッと思い出すのです。
これこそが日本の仏教的文化土壌の実態なのです。
この土壌にキリスト教が根着くためには、その排他性を捨てなければなりません。自然なことです。

よく日本のインテリはお釈迦さまは神の啓示を受けなかったから仏教は宗教でない。ですから排斥しないのだと説明します。これはトンデモナイ間違いです。
誤解を恐れずに書けば、日本のクリスチャンは仏教も好きなのです。好きなものを排斥する筈がありません。
以上は欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違いなのです。今日は下記の2つの違いだけを書きました。

(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。


今日の挿し絵代わりの写真は昨年、遥かな五島列島で訪問した青砂ケ浦天主堂です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は青砂ケ浦天主堂です。


「夏になると妻が思い出す群馬県の下仁田小学校」

2024年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
夏になると妻が思い出すのは群馬県の下仁田小学校のことです。それは小さい、小さい昭和の歴史の一駒です。
昭和20年7月頃、当時海軍の文官だった家内の父は、鎌倉の海水浴場にアメリカの上陸用舟艇が砂浜につき海兵隊が襲って来ると予想したそうです。
当時、家内の一家は鎌倉に住んでいました。まだ少女だった妻は鎌倉の御成小学校に行っていました。
そして1945年の夏に妻の一家は、群馬県の山の中のネギで有名な下仁田町に疎開しました。終戦後も進駐軍の横暴を恐れて昭和22年夏まで山国にひそんでいました。
下仁田国民学校に転校した家内は海浜の生活から山里の生活に変わり、毎日が新鮮で楽しかったそうです。
しかしそこは米が一切採れず、麦と芋と野菜しか採れない山里でした。
ある地主の家に疎開したのですが、その家の毎日の主食はオキリコミでした。小麦粉を練って薄く伸ばし、それを味噌汁に入れて食べるのです。苦しい生活でしたが子供だった妻は頓着せず、学校の同級生とともに野山を駆けて遊び回っていたそうです。
特に学校の傍を流れれる鏑川(カブラ川)は格好の川遊びの場所で、家内は流され溺れかかったことがあったそうです。
その下仁田小学校の同級会が数年前にありました。家内を関越道路と信濃道路を経由して車で送って行ったのです。そんな様子を写真に従ってご説明いたします。
1番目の写真は昭和22年(1947年)に撮った下仁田小学校4年2組の家内の同級生達の集合写真です。小さくてよく見えませんが、当時の小学生は貧し気な身なりながら希望に溢れた活き活きした表情をしていたことに驚きます。この集合写真に写っている幾人かがの数年前の同級会に集まったのです。茫々、79年後の同級会です。
2番目の写真は現在も同じ場所にある下仁田小学校の校門と校舎の写真です。裏の方へ回ってみると清潔そうな給食センターが建っています。毎日栄養士が考え、美味しい給食を子供達が食べているのです。終戦前後は小麦粉か芋が主食でした。
3番目の写真は家内が溺れかかった鏑川の深みです。この上流の浅瀬で遊んでいましたお転婆の家内が遊びに夢中になり過ぎて流されたようです。3歳上の姉がこの岩の上から跳びこんで助けてくれました。ここは現在、青岩公園になっています。
4番目の写真は家内の一家が疎開していた家の隣の清泉寺です。このお寺の境内は家内の遊び場でした。当時は神社やお寺の境内は子供達が走り回る遊び場でした。
5番目の写真は下仁田町にある妙義山の写真です。
同級会をしている間、私自身は暇です。そこで下仁田町ジオパークを見物して時を過ごしました。古代の地層が露出し興味深い地形になっています。風穴などもありました。
 
下仁田町は山に囲まれた静かな町です。特産品は美味しい下仁田ネギとコンニャクです。それから奥の神津牧場のジャージー種の牛の乳製品です。
 
このように79年経過しても家内を暖かく迎えてくれる下仁田の人々に感謝しています。下仁田を私の故郷のように想うこともあります。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏になると感動する冷蔵庫と冷凍技術の進歩」

2024年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、夏になると感動することがあります。冷蔵庫と冷凍技術の進歩です。戦後の日本の技術革新の成果です。おかげで私どもの暮らし方が随分と変わりました。
戦前に家庭の冷蔵庫と言えば断熱材の木で出来た箱で中の上の段に大きな氷を入れ下の段に食品を入れておきました。しかし戦後、冷凍技術が次第に進歩して安価な冷蔵庫が出来るようになったのです。
気体を圧縮して急に膨張させると温度が下がる原理を利用したのです。しかし気体を圧縮すれば温度が上がります。温度が上がった部分を外気で冷やし、温度が下がった部分を冷蔵に利用するのです。文章で書けば簡単そうですが、温度が上がった部分と下がった部分を分離するのが技術的に難しいのです。この困難を克服したのが現在の家庭用の冷蔵庫です。
中の上の段は氷が出来る氷室なっていて下が食品を冷蔵するスペースになっています。
上の段の氷が出来る氷室を大きく作り車に積んだものが冷凍車です。列車に積んだものが冷凍貨物列車です。
従って野菜や魚肉を新鮮なまま遠方から近所のスーパーや商店まで届けることが出来るのです。
一例として近所のある鮮魚店に並んでいる活きの良い魚の写真を示します。写真は小金井の駅前の魚屋で自分で撮ったものです。
このような写真を撮りなが私が愕然としました。ひどく驚いたのです。終戦後の魚屋は大変臭かったのです。魚の腐った臭いがフンプンとしていました。それが驚いたことにまったく無臭なのです。無臭なので隣には肉や野菜が何事も無かったように静かに並んでいます。感動します。
こんな事情なので私の趣味は魚屋で活きの良い魚の姿を眺めることになりました。活きの良い魚の姿を見ると何故か幸せな気分になるのです。
戦前、戦後に塩釜漁港に近い仙台で育ったせいでイワシやニシンを毎日のように食べたせいです。イワシやニシンは塩着けで活きが悪いものでした。氷が無くて塩着けしか出来なかったのです。当時は肉が貴重で魚しか食べれなかったのです。
ですからこそ活きの良いいろいろな魚の姿を眺めると感動してしまうのです。

この私の趣味は幼い頃に魚をあまり食べなかった家内には理解しにくい趣味です。家内は利尻コンブや三陸のワカメを買って喜んでいます。
趣味ですから外国に行っても魚屋を見に行きます。圧巻はバンクーバーやシアトルの魚市場、フィッシャーマンズ・ワーフでした。売り場の規模が大きくて種々の魚が無造作に並んでいるのです。感動ものです。
アメリカではキャット・フィッシュというナマズを何度も食べました。白身で上品な味です。キングサーモンもよく食べました。
ドイツに住んでいた頃は、淡水のマスやドイツ鯉やウナギもよく食べました。水桶に生きたまま売っているのです。ニシンやキングサーモンも美味しかったです。
 
それにしても日本で売っている魚の全てが活きが良いのです。冷凍運送技術の驚異的進歩が活の良さを保っているのです。技術の進歩に感慨無量です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)