後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」

2024年12月26日 | 日記
今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まででした。
晴天でしたが寒かったです。
撮って来ました写真をお送り致します。

「小金井公園での新春凧揚げ大会の写真」

2024年12月26日 | 写真
小金井公園での新春凧揚げ大会の写真をお送り致します。
小金井公園では毎年1月中旬に新春凧揚げ大会があります。
以前の大会の写真をお送り致します。
出典は、https://koganei-kanko.jp/maron/archives/8113 です。

「ドイツでの凧揚げの思い出」

2024年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツでの凧揚げの思い出です。
ドイツには1969年から1年余住んでいました。子供がいたので凧揚げをしました。その凧は洋凧の「ゲイラカイト」でした。

それまで当然だと思っていた和凧の四角とは異なる三角の形状でした。
このゲイラカイト、とにかく飛んだのです。日本の凧はなんだったのかと思うほど、圧倒的な飛行力を持っていたのです。

ビニールとプラスチックのフレームという軽量なボディは、ひとたび風をつかむと、あっという間に雲に届くほど飛び上がりました。
写真は「ゲイラカイト」の写真です。
 

「凧揚げの歴史」

2024年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
凧揚げの歴史については、https://kitediy.com/?p=469 に実に詳しい解説が掲載されています。
その冒頭だけを以下に示します。

「凧が発明された時期ははっきりしていないが、紀元前の中国書物「事物紀源」に「韓信が凧を使って相手の城までの距離を測り、トンネルを掘って侵入して相手を攻め落とした」とあり、この頃には既に凧が存在したことが分かる。

いずれにしても、凧の発祥の地は中国であることが定説となっており、それが日本や欧州や米国にまで伝えられ、それぞれの特徴ある発展を遂げた。

日本には、中国から直接渡来したもの、沖縄を経由してもたらされたもの、朝鮮半島を経由して伝わったものなどがある。

代表的な日本の凧といえば、四角形の江戸凧であり、江戸を中心に発達し、庶民の遊びとして定着していた。」

写真は和凧です。
 

「タイの国際凧揚げ大会」

2024年12月26日 | 写真
タイの国際凧揚げ大会の写真をお送り致します。
大きいものやデザイン性の高いもなど多種多様な凧で空が彩られます。タイの伝統的な凧”チュラー”や”パクパウ”を見ることができるかもしれません。
その写真をお送り致します。写真の出典は下記です。7https://www.istockphoto.com/jp/search/2/image-film?phrase=%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%87%A7%E6%8F%9A%E3%81%92%E5%A4%A7%E4%BC%9A
 

「山林と小屋の雪景色の写真」

2024年12月25日 | 写真

2014年の2月14日は大雪でした。山梨県は50年ぶりの大雪で甲府市内でも積雪が1m位までになりました。

小生が趣味として通っている甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋の付近も深い雪です。その様子は近所の山荘に独り住んでいる木内正夫さんのブログに出ていました。

大雪の日から10日も経過した後にその雪景色を見に行ってきました。小屋から1.5Kmほど下の松尾さんの家の前に車を駐車させてもらい、そこから杖をついて徒歩で登りました。往復3Kmほどの雪中の散歩でした。

その折に撮った雪に埋もれる山林と小屋の写真をお送りいたします。新鮮な空気の雪の雑木林を散策している気分で写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。  

この地域は標高約900mの寒冷地です。気温が低いので雪が融けにくい地域です。たぶん3月末頃までの根雪になるでしょう。

山林の中の小屋の大雪は懐かしいので当時の写真を掲載いたしました。 


「ドイツ、フィンランド、アメリカ、イギリスの美しい雪景色」

2024年12月25日 | 写真
ドイツ、フィンランド、アメリカ、イギリスの美しい雪景色の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://karapaia.com/archives/52183333.html です。
1番目の写真はドイツ、バイエルンです。
2番目の写真はフィンランド、Kuusaankoski, Laukaa です。
3番目の写真はアメリカ、ニューヨーク州、スカネアトレスです。
4番目の写真はイギリス、ロンドン近郊のリッチモンドパークです。

「奥多摩に咲く花々の写真」

2024年12月25日 | 写真
数年前に奥多摩の山に咲く花々の写真を撮りに行きました。青梅から御岳駅そばの国際フィッシングセンターにかけて山沿いに車を入れて、山に咲く花々を探して写真を撮りました。曇天だったので鮮明な写真にはなりませんでしたが、お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

「私のゴッドファーザーの思い出」

2024年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
映画の『ゴッドファーザー』は、1972年に公開されたアメリカ映画です。監督はフランシス・フォード・コッポラでした。
家族の愛と絆、義理と人情、忠誠と裏切り、金と権力などが交錯するなかで揺れ動く人生の機微や人間社会の模様をイタリア系移民の裏社会を通して描き出した映画でした。私は映画に描かれた愛と人間の絆に感動しました。
当時多くの日本人もこの映画を絶賛していました。私の忘れえない映画です。
それ以来、ゴッドファーザーという言葉を知りました。

そこで今日はカトリック宗派におけるゴッドファザーと神父の役割について具体的な実例を用いて説明しようと思います。
ゴッドファザーは日本語では代父と言います。男性が洗礼を受ける時の付添人であり洗礼の証人でもあります。女性が洗礼を受ける場合はゴッドマザー、代母が付添います。
1971年に私は洗礼を受けました。カトリック立川教会の塚本金明神父さまから受けました。そのときの代父、ゴッドファーザーは山本大二郎氏でした。
山本氏は東京のある大学の教授をしていた化学者でした。多くの専門書を書かれた学者でした。
この代父の山本氏の趣味は奥多摩の花の写真を撮ることでした。その写真を毎年、年賀状につけて送ってくださっていました。山本氏が1982年に講談社から出版した「奥多摩の花」という本の表紙を示します。
1番目の写真は山本氏の「奥多摩の花」という本の表紙です。
偶然のことですが山本大二郎氏のご子息の山本量太郎氏が2000年に私どもの小金井教会の主任司祭として着任なさったのです。
山本量太郎神父さまは2010年まで10年間、小金井教会の主任司祭をして、その後はカトリック関口教会の主任司祭になりました。現在は成城教会の司祭です。
その彼が2015年の11月23日の小金井教会40周年記念ミサに来てくださったのです。

2番目の写真は聖なるパンを信者に渡してる山本量太郎神父さまです。

3番目の写真は関口教会で山本神父司式によるある結婚式の写真です。

4番目の写真はカトリック成城教会です。
私どもは2019年の10月13日に成城教会の山本量太郎司祭のミサに参加しました。
山本神父はお茶目で親しみやすい神父でした。以下のお言葉をご覧下さい。

・・・ところで私は、司祭になって今年で38年になります。区切りとなるような年数には達していませんが、それでも自分の叙階記念日がやってくると、司祭にしていただいた日のことを思い出します。1977年11月3日、文化の日、その日は確か木曜日でしたが、私はここ東京カテドラルの大聖堂で白柳大司教さま(当時)から、岩崎尚師(故人)、門馬邦男師とともに司祭に叙階されました。そして、三日後の日曜日、出身教会の立川教会で初ミサがあり、お祝いの席には、その前年まで立川教会の主任司祭を長く務められた塚本金明神父さまも来てくださいました。
塚本神父さまからその時いただいたお言葉が今でも忘れられません。神父さまはこうおっしゃったのです。
「山本君、君は学生の頃、パチンコが大好きだったね。もしかしたら、自分でもうまいと思っていたのではないかな。でもね、パチンコが本当に上手だったのは神さまなんだよ。神さまは、君という玉をはじいて司祭という穴に見事入れたんだからね」。
その時は正直なところみんなの前で旧悪をあばくようなことを言わなくてもいいのにと思いましたが、年を経るほどにありがたさを強く感じるようになりました。・・・以下省略。

今日説明したかったことはカトリックの代父、ゴッドファーザーと神父の役割の重要性を指摘したかったのです。そして名作映画の題名の「ゴッドファーザー」の意味を説明したかったのです。
この代父、ゴッドファーザーと神父はプロテスタント系のキリスト教では重要視されていません。
ロシア正教やイギリスの聖公会のような伝統的な宗派では重要な存在なのです。
プロテスタント系の新しい宗派では神やキリストと人間との直接的な関係を重要視するのでゴッドファーザーや神父のような介在人を重要視しなのです。一言でキリスト教徒と言っても違いもあるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「冬の西洋の花の写真」

2024年12月24日 | 写真
冬の西洋の花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://shikinobi.com/shikinohana_huyu です。
1番目の写真は八重咲きのクリスマスローズです。
2番目の写真はメキシコが原産のポインセチアです。和名はショウジョウボク(猩々木)です。
3番目の写真はヨーロッパが原産の葉牡丹(はぼたん)です。日本には江戸時代に食用としてやってきたのが最初です。
4番目の写真はアフリカ・ヨーロッパが原産のエリカです。エリカ属には740種があるといわれています。

「キリスト教が日本では神道や仏教の影響で排他的でなくなる」

2024年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は欧米のキリスト教と日本のキリスト教はどのように違うかということを考えてみたいと思います。
まず同じ花でも植えた場所によって違ってしまうということを考えてみましょう。
日本の楚々とした花でも、西洋に移植すると派手な色の洋花になることがあります。
育つ場所の土壌と気候によって、花々は同じ種類のものでも変わるのです。樹木の場合は材質も変わります。それは自然なことです。自然現象として当然です。
明治維新以来、日本は西洋文化を輸入して来ました。しかし日本の文化的土壌はヨーロッパと違います。輸入した文化が日本に入ってくると変化するのが当然です。
宗教も例外ではありません。
佛教の場合でも、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムに伝わった仏教は出家を重視した戒律の厳しい上座仏教になり、中国、朝鮮、日本に伝わったものは在家でも成仏出来る柔軟な大乗仏教になりました。
同じようにキリスト教も日本に移植されると変化します。
日本古来の文化的土壌にあう部分は育ち、合わない部分は衰えます。
人間の営みも自然現象の一部と考えれば当然です。

1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父は順応主義でした。
それでは日本のキリスト教はどのように変化したのでしょうか?
いろいろな変化がありますが、とりあえず次の2つだけを取り上げてみたいと思います。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くために、キリスト教の排他性を弱める。
欧米のキリスト教では先祖崇拝がありません。故人の記念ととして墓はありますが「先祖代々の墓」は存在しません。先祖が子孫を守るとは信じていないのです。人を愛し、守ってくれるのは神様なのです。イエス様なのです。先祖にはそんのような力はありません。
そして日本のキリスト教には排他性が無いのです。仏教が排他的でないように排他性が無いのです。
上の二つの相違は私が1971年に洗礼を受けて以来46年間にわたってカトリックのミサへ出席し、説教を聞いた経験から得た体験的結論です。
50年余、カトリックの神父様達の説教を聞きましたが先祖崇拝を否定したり、仏教を攻撃した説教は一度も聞いたためしが無いのです。
日本の数多くのキリスト教徒は「先祖代々の墓」を大切にしています。もっとも最近は先祖代々の墓を止める人も多いようですが。
キリスト教だけが良くて仏教は悪いとは思っていません。多くのキリスト教徒は仏教も良いと思っているのです。

さて、それでは日本の仏教的文化土壌とはどのようなものでしょうか?
多くの無宗教の日本人でも幼い頃から「孫悟空」の絵本を読み、そしてテレビのアニメを見て育ちます。そうして大人になって、その話は唐時代にインドに行って仏教の経典を持ち帰ってきた玄奘三蔵法師がモデルになっていることを知ります。
玄奘三蔵法師は粗末な衣服以外身につけないで、言葉も不自由な異国を旅したのです。危害を加えられたことも無く、各地の王に大歓迎されたのです。
それは玄奘三蔵法師の人格が抜群に良かったからです。その上、玄奘三蔵法師の仏教に対する篤い信仰心が異国の人々へ感動を与えたからです。その玄奘三蔵法師の像は日本の各地のお寺にあります。日本人は玄奘三蔵法師に慣れ親しんでいるのです。無宗教の日本人も慣れ親しんでいます。
その上、日本人ならお遍路さんの同行二人という言葉を知っています。二人とは弘法大師と自分自身のことですね。
日本の仏教文化的な土壌を説明するための実例は枚挙にいとまがありません。
その中からもう一つだけ書かせて下さい。
日本人は無宗教でも京都や奈良のお寺へ観光に行きます。修学旅行でも行きます。そして知らず知らずのうちに仏教の歴史や教えになじむのです。

日本人なら諸行無常という言葉を知っています。動物を意味もなく殺してはいけないと知っています。南無阿弥陀仏という言葉を知っています。色即是空という言葉を知っています。人生は修行だという言い方も知っています。
みんな、みんなお釈迦様の教えたことです。
仏教を信じない無宗教の日本人も、このお釈迦様の教えの海の中に暮らしているのです。
そして信じない人々も困った時には、上に書いたお釈迦様の教えをフッと思い出すのです。
これこそが日本の仏教的文化土壌の実態なのです。
この土壌にキリスト教が根着くためには、その排他性を捨てなければなりません。自然なことです。

よく日本のインテリはお釈迦さまは神の啓示を受けなかったから仏教は宗教でない。ですから排斥しないのだと説明します。これはトンデモナイ間違いです。
誤解を恐れずに書けば、日本のクリスチャンは仏教も好きなのです。好きなものを排斥する筈がありません。

以上は欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違いなのです。

今日の挿し絵代わりの写真はドイツのカトリック教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。

2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。

3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。

「今日はクリスマスイブ、キリスト教を伝えたザビエルの日本での活躍」

2024年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はクリスマスイブです。考えるとキリスト教を日本へ最初に伝えたのはザビエルです。1649年のことでした。それ以来キリスト教は少しずつ日本の社会に影響を与えてきました。
現在、日本のキリスト教の信者の総数は人口のわずか1,1%で191万人です。数は僅かですが現代の日本社会の精神文化の基盤文化の一つとして重要です。キリスト教は日本人の考え方に深い大きな影響を与えているのです。
その影響は、ショーン・アンダーソン著の「キリスト教の日本に対する影響 」に詳しく書いてあります。(https://core.ac.uk/download/pdf/197303702.pdf)
1549年に日本に来たザビエルは、本国へ手紙を送りました。
「この国の人々は今まで発見された中で最高の国民であり、彼らより優れている人種は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心が強く、何より名誉を重んじます」

今日はフランシスコ・ザビエルが日本に残した足跡をたどってみます。
https://adelante.jp/noticias/blog/francisco-javier-en-japon/ に掲載されている資料を参考しました。
ザビエルは1506年にナバラ王国のハビエル城で5人兄弟の末っ子として生れました。当時、ナバラ王国はスペインとフランスとの間の紛争地で戦乱が続く激動の時代でした。
19歳でパリ大学に留学します。哲学を専攻します。大学でイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、その影響で聖職者を目指すようになります。
そして、ロヨラ、ザビエルを含む7人でイエズス会を創立したのです。イエズス会は以後、世界での宣教活動を進めました。一方この頃、ヨーロッパでマルティン・ルターがカトリック教会に対する抗議文を書いたことを発端に、プロテスタントが急速に勢力を持ち始めていました。宗教改革の時代だったのです。
カトリックの勢力を維持拡大するため、ポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け、イエズス会の他の宣教師とともにザビエルはインドのゴアへ向かいます。ゴアやマラッカなどで活動を続ける中、ザビエルは弥次郎という日本人に出会います。弥次郎から日本の話しを聞いて興味を持ったザビエルらは、弥次郎の導きで鹿児島に上陸します。宣教師として1549年に鹿児島に上陸したのです。

鹿児島では領主の島津貴久に許可を得て布教を開始します。
その後、キリスト教を迫害する動きが鹿児島で生まれたため、1550年長崎からポルトガル船に乗って平戸に移住します。そして、さらなる信者の獲得のため、山口を経由して、布教と天皇への謁見のため京都に向かいます。
しかし、戦乱で都は荒れ果て、天皇との謁見も叶わず、失意の中、1551年に山口に戻ります。そこで中国地方を支配していた有力な大名の大内義隆から布教の許可を得て、廃寺であった大道寺を拠点として活動を始めます。山口では毎日町の中心の井戸の近くで説教をしたそうです。
ザビエルが山口に滞在したのはわずか半年ほどでしたが、その半年で500人以上もの信者を獲得しました。山口での活動が軌道に乗り始めたので、ポルトガル船で豊後(大分)に向かい、大分で活動を始めます。
しかし日本での布教には日本に影響の強い中国での布教が不可欠と考えたザビエルらは1552年インドのゴアに戻り、そこから中国に向かいます。しかし中国の鎖国政策で入国できず、上川島で入国の機会を待つうちにザビエルは病気のため同年47歳で亡くなりました。
ザビエルが山口にいたのは半年ほどだけでしたが、山口に与えた影響は大きかったようです。
ザビエルの来日、400周年を記念として、1952年に山口サビエル記念聖堂が建てられています。1991年に火事で消失したものの、イエズス会や信者、一般市民の援助を受けて1998年に再建されています。従って山口には立派なサビエル記念聖堂があるのです。
さらにザビエルらの布教の拠点となった大道寺の跡地には聖サビエル記念公園が作られています。そして毎年11月3日には山口スペインフィエスタが開かれ、ザビエルと大内氏の大きな人形が登場したり、スペインにまつわるイベントや屋台が楽しめるそうです。

また、京都に来た際にザビエルらが立ち寄った大阪の堺にもザビエル公園があります。ザビエルらを手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡に作られた公園で、公園開設がザビエル来航400年の年だったためザビエルの名が着けられたそうです。
ザビエルが日本に滞在したのは2年半ほどだけでした。しかしこの短い期間に、鹿児島、平戸、山口、京都、山口、大分と移動して布教活動を精力的に続けたのです。
その後インドに戻り、すぐに中国での布教へ向かったエネルギーとキリスト教への信仰心には驚くべきものです。
ザビエルは傑出した人でした。日本に深い影響を与えた西洋人の一人でした。ザビエルは, 1506年に生まれ 1552年に亡くなりました。享年46歳でした。長生きしたらもう一度日本に来て日本の土になったことでしょう。嗚呼。

今日の挿絵代わりの写真は以前に訪れた五島列島の教会の写真です。教会の写真の出典は、
https://www.welcomekyushu.jp/article/?mode=detail&id=93 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「東京のカトリック関口教会のクリスマスミサのご案内」

2024年12月23日 | 日記
クリスマスミサのご案内をお送り致します。

主の降誕(クリスマス)のミサについて
12月24日(火) 
17:00
司式:アンドレア・レンボ補佐司教

 19:30
司式:小池亮太神父

22:00
司式:菊地功枢機卿

12月25日(水)
10:00
司式:菊地功枢機卿
写真は東京のカトリック関口教会です。



「軽井沢高原教会 の星降る森のクリスマスの写真」

2024年12月23日 | 写真
軽井沢高原教会では12月25日から数えて4週間前の日曜日から12月24日まで光でクリスマスを祝うイベントを開催します。
今年のテーマは「prism(プリズム)」です。このイベントがプリズムのように、訪れる人たちの心や未来が輝くきっかけになりますように・・・
イエス・キリストの生誕を待ち望む大切な期間です。
詳しくは、7https://www.blestoncourt.com/season/christmas-karuizawachurch/ 
をご覧ください。


「日本が貧しかった頃はクリスマスの習慣など無かった」

2024年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
師走になりました。楽しいクリスマスも近づいて来ました。楽しいお正月も来ます。
今日は日本が貧しかった戦前、戦後の頃はクリスマスの習慣について書いてみようと思います。クリスマスの習慣など無かったことを書いてみたいと思います。ささやかな歴史小話です。
その頃はお正月だけが楽しかったのでのです。美味しいお節料理、餅つき、お雑煮、お汁粉、凧あげ、橇滑り、コマ回し、羽根つきなどなどの楽しかった思い出が沢山あります。着物を着て元朝詣りに行った思い出やお年玉を貰った時の嬉しさなども思い出します。
その頃の日本はどのようだったのでしょうか。そこで貧しかった昭和時代の農村と都会の写真をお送りします。その時代は都会も特に農村も生活は貧しかったのです。若い日本人はこの事実を知りません。
日本がまだ貧しかった頃の農家と都会の様子を示す写真をご覧下さい。

1番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の麓の農村の風景です。写真の出典は、
https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E8%BE%B2%E6%9D%91%E9%A2%A8%E6%99%AF です。
昭和45年、1970年頃までは農民は茅葺の農家に住んでいたのです。藁ぶきの家でエアコンや冷蔵庫も無く囲炉裏だけが中心にありました。囲炉裏が唯一の暖房であり三食の料理は囲炉裏に吊るした大鍋一つでしました。
2番目の写真も茅葺の農家の前面です。私が疎開した宮城県の農家はこのような家に農家でした。3ケ月間だけ住んでいました。囲炉裏の煙がけむくて毎日泣いていたことが忘れられません。白米のご飯はありましたが毎日田圃で捕ったドジョウ汁だけでした。
3番目の写真は戦前の東京の風景写真です。自動車はアメリカから輸入したタクシーだけで自家用車はありませんでした。自家用車が普及したのは昭和40年、1965年以後の頃でした。。
4番目の写真も昭和40年前後の東京の花電車の写真です。当時は都電や市電が人々の交通手段でした。都電が主役だったので花電車など作って祝ったのです。まさしく都電が花形でした。しかしこの後の時代に都電は消えてしまったのです。自家用車が溢れ都電が邪魔になったのです。

終戦後の昭和の貧しい生活ではクリスマスを祝う家庭は殆どありませんでした。
ですから老人にはクリスマスの思い出はありません。高齢者にとってはクリスマスの楽しい思い出など皆無なのです。
この話を家内にしたら彼女の家では戦前から家でクリスマスを祝っていたそうです。鎌倉に住んでいて、彼女の父がハイカラだったので横浜のホテル等へも行ったようです。
ですから日本人でも西洋文化が好きな人は戦前からクリスマスを祝っていたのです。しかしその人数は例外的に少数だったのです。

今日は終戦まで日本にクリスマスを祝う習慣が無かったことを説明しました。その代わりお正月は盛大に祝い楽しかったのです。

時代によって社会習慣が変わるのです。時の流れは川の水のようにとどまりません。やがて今年も暮れて新しい年がやって来ます。新しい年が幸多いものとなりますように期待しましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)