後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「美味しいものは時代によって変わって行く!」

2024年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
長く生きていると日本人の食べ物へ対する趣向の急速な変化に驚きます。
突然、個人的なことで恐縮ですが、私には男の孫が3人います。家内とよく旅にでたので孫のために美味しい食べ物をお土産に買って、意気揚々と帰って来ます。前の家に住んでいるので電話でお土産を取りに来るように言います。
次の日に、「どうだった?美味しかったろう?」と聞くと、「まあまあ」と変な返事をします。後で前の家に行ってみるとお土産が残してあります。
祖父、祖母が買って来たので礼儀上味を見ただけの様子です。
そこで愕然と悟ります。「美味しいものは時代によって変わって行くのだ!」と。
現在の子供が美味しいと思うのはマックやケンタッキーのようなファストフードやピザやスパゲティのようなイタリアンなのでしょう。
そこで孫に評判の悪かった食べ物を3品選んで以下に記します。これを見れば日本の食文化の変遷を実感出来ると思います。
その3品とは霞ヶ浦の小魚の佃煮と北海道のスルメと横浜の崎陽軒の昔風なシウマイです。
(1)霞ヶ浦の沖宿の小魚や小エビの佃煮
以前に霞ヶ浦で23年間ヨットをしていました。船を出して、沖にある沖宿という漁港に時々寄りました。そしてその漁村にある佃煮屋さんへ小魚や小エビの佃煮をお土産に買います。
その佃煮専門店には、ワカサギ、小ブナ、ハゼのような小魚、小エビなどの佃煮が種類別に、少しずつ味付けを違えて、昔風のガラスケースに並べてあるのです。分別しない小魚、小エビ類を一緒に佃煮にしたものもあります。
家に佃煮を持ち帰って、半分を孫たちへお土産としてあげます。あとの半分は自分の家用です。
それを肴にして冷たいビールを飲みます。すると子供のころに食べた佃煮の美味しかったことを思い出し実に楽しい気分になります。
思えば、昔、肉や卵が貴重で入手できず、佃煮でご飯を何杯も食べていたものでした。そして、その時代、木の折に入った佃煮の詰め合わせが贈答用としてもてはやされていたことを思い出しました。
家内も毎年霞ヶ浦の佃煮を贈ってくれた人のことを懐かしそうに話しだします。

1番目の写真は「沖宿」へ行くため岸へ向っているヨットの写真です。

2番目の写真は「沖宿」の村落のある岸です。

孫たちに佃煮の感想を聞くと、また「まあ、まあ」と例の調子で、曖昧です。美味しくなかったのかとしつこく聞くと、「まずくはなかったよ」と白状します。
評判が悪いようですが何度も佃煮をオミヤゲにしました。孫たちもすり込み効果でそのうち好きになると思ったからです。結果は惨敗でした。前の家は朝はパン食が多いようです。パンと佃煮は相性が悪いのです。その上母親の料理だけを美味しいと信じている様子です。
それでも私は自分用にと、佃煮を時々買います。
佃煮を買うたびにセピア色の写真を見るような郷愁を覚え、楽しいのです。
佃煮を買っては自分でも食べ残し、また買うのは郷愁を買っているのです。私は最後まで佃煮を買う運命にあるのです。
(2)北海道のスルメや魚の干物
北海道へ行くと昔よく食べたスルメやニシンやタラの干物を売っています。
終戦後の食糧難のころよく食べたものばかりです。スルメは七輪の火にあぶって裂いて食べるのです。その濃厚な味は感動的でした。体に力がみなぎってきました。
そしてカラカラに干したニシンやタラは鋏で切って水でもどして野菜類と一緒に煮るのです。肉類がなかなか食べられなかった戦後はそのニシンやタラの身がめっぽう美味しかったのです。からからに干し上げなければ鉄道便で本州まで送れなかったのです。
北海道に行くとそのような海産物が山のように積んで売っています。途端に嬉しくなってお土産に買いました。
結果は最悪でした。孫たちは小田原や伊豆の生乾きのアジやエボダイやキスの干物なら食べるのです。カラカラなスルメや干物は敬遠です。「猫跨ぎの魚」という表現がありますが、カラカラの干物は「孫跨ぎ」だったのです。
(3)横浜、崎陽軒の昔風のシウマイ
昔風のシウマイは真空パックでないので主に横浜にある崎陽軒の販売所で売っています。全国に流通しているのは真空パックです。
真空パックのものは高級ですが真空にするので硬くしまってしまい食べにくいのです。それにひきかえ「昔風のシウマイ」は傷みやすいのですが、ふんわりとして美味しいのです。戦前のレシピのままですので、味は文字通り昔の懐かしい味です。買うとき、「昔風のシウマイ」と大きな声で言います。言わないと真空パックのものを売ろうとします。そして、「今売れ筋はシューマイ弁当です」などと余計な雑音を発します。

3番目の写真は横浜、崎陽軒の昔風のシウマイです。
横浜に行くたびに昔風のシウマイを必ず買って来ます。家内も昔人間なので大変喜びます。
先日、孫達へ一箱上げました。感想は、例によって「まあまあ」です。その上、残しているのです。
結論は、美味しいものは時代によって変わって行くという重大な真理です。

この真理は世界中に普遍的に適用できます。しかしその変化の速度の大きい国と非常に遅い国があるようです。その変化速度はその国の文化の性質によるのです。それは大きなテーマになりますので今日はこの辺で終わりといたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「戦前の仙台市の風景」

2024年12月21日 | 写真
戦前の仙台市の風景です。私は昭和11年に仙台で生まれました。
懐かしい戦前の仙台市の風景です。
1番目の写真は戦前の仙台駅と市電です。
2番目の写真は東一番町の藤崎デパートです。
3番目の写真は戦前の馬車と市電です。
4番目の写真は戦前の公会堂です。

「幻のように消えてしまった懐かしい昔の風景」

2024年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前から戦後にかけての日本の風景は幾つか幻のように消えてしまいました。1964年の東京オリンピック以後の経済の高度成長が日本の風景をすっかり変えてしまったのです。特に都会とその郊外の風景は大きく変わったのです。
戦前生まれの高齢者にとっては昔のままの日本の風景が懐かしいはずです。幻のように消えてしまった昔の風景です。

そこで今日は懐かしい昔の風景の写真を示したいと思います。私と家内の生まれ育った仙台と鎌倉の昔の風景です。
インターネットで昔の風景写真を根気良く探し、見つけた8枚の写真をお送りいたします。

1,私が1948年に卒業した仙台市向山小学校の昔の写真
仙台の向山小学校の学区は青葉城址から続く八木山の丘陵地にある住宅地域です。東は愛宕橋、西はお霊屋下橋までです。
学校周辺には、赤松等の自然林が残っており緑が多く自然環境に恵まれています。学校からは仙台市の中心街が一望できます。天気の良い日は遠く太平洋まで望むことができます。
近くには発達障害児の収容施設があり昭和天皇も行幸なさいました。
1番目の写真は私が通っていた当時の向山小学校の表玄関です。写真の出典は、
https://www.sendai-c.ed.jp/~mkaiyama/school.html です。
この校舎は1979年に鉄筋コンクリートの立派な校舎に改築されました。写真の校舎は現在は存在しますん。
2番目の写真は当時の向山小学校の運動場側から見た昇降口です。運動場には松の大木と奉安殿がありました。

2,八木山吊り橋の写真
青葉山と八木山の間に広瀬川支流が形成した仙台市の名所「竜ノ口渓谷」があります。その標高差70mの断崖絶壁に八木山吊り橋が架かっています。
1931年(昭和6年)に第二師団の軍用道路の吊り橋として開通したものです。
3番目の写真は八木山吊り橋です。私の子供の頃何度も渡り青葉城跡に遊びに行った懐かしい吊り橋です。
(写真の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/jxsdes4/diary/201011240000/)

3、鹿落坂(ししおちざか)
仙台の伊達政宗の時代よりはるかに古い坂が鹿落坂です。(https://www.hirosegawa-net.com/?p=625 )
そもそも鹿落坂を経て川を渡る道筋は城下町仙台の誕生以前から昔の東街道としてありました。 元禄年間に書かれた地誌『仙台鹿の子』には、「鹿落坂は越路観音下の坂なり 古よりの細街道にてある故此坂口より鹿とも里へ下り出る故鹿下り坂といへるを今世俗はししおち坂といふなり 此処は昔の東街道にて此道の外仙台西南の山より出入りの路なし」とあります。
私の家は向山にあったので朝夕この坂を通って片平町の東北大学に通ったものです。
4番目の写真は昭和9年に拡幅工事後の鹿落ち坂です。やっと自動車が通れるようになりました。
5番目の写真はお霊屋下橋と鹿落ち坂の遠景です。右の山は経ヶ峰で伊達政宗の霊廟がある山です。

 (4)家内が生まれ育った鎌倉の昔の写真
家内は昭和12年に鎌倉で生まれ昭和20年夏まで住んでいました。鎌倉のカトリック系の幼稚園と御成小学校に行きました。
自宅は長谷寺、鎌倉大仏、加賀藩主の別荘に囲まれた地区にありました。住宅地を少し歩くとすぐに由比ヶ浜に出ます。よく水着にケープを羽織ったまま通って海水浴をしたそうです。
6番目の写真は由比ヶ浜沿いの道路を江の島方向に行った海岸の風景です。終戦後数年後の海岸道路の写真です。海岸道路は現在、舗装道路になり家が建ち並んでいます。
7番目の写真は昔の由比ヶ浜の海水浴の様子です。
8番目の写真は終戦後数年後の鎌倉駅です。鎌倉は空襲に遭わなかったので駅舎は戦前のものです。

今日は昔の仙台と鎌倉の風景写真を示しました。それぞれ私と家内の生まれ育った場所です。写真を眺めているといろいろなことを思い出します。人間の一生は長いものです。しかしすべては邯鄲の夢でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)