後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「冬の西洋の花の写真」

2024年12月24日 | 写真
冬の西洋の花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://shikinobi.com/shikinohana_huyu です。
1番目の写真は八重咲きのクリスマスローズです。
2番目の写真はメキシコが原産のポインセチアです。和名はショウジョウボク(猩々木)です。
3番目の写真はヨーロッパが原産の葉牡丹(はぼたん)です。日本には江戸時代に食用としてやってきたのが最初です。
4番目の写真はアフリカ・ヨーロッパが原産のエリカです。エリカ属には740種があるといわれています。

「キリスト教が日本では神道や仏教の影響で排他的でなくなる」

2024年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は欧米のキリスト教と日本のキリスト教はどのように違うかということを考えてみたいと思います。
まず同じ花でも植えた場所によって違ってしまうということを考えてみましょう。
日本の楚々とした花でも、西洋に移植すると派手な色の洋花になることがあります。
育つ場所の土壌と気候によって、花々は同じ種類のものでも変わるのです。樹木の場合は材質も変わります。それは自然なことです。自然現象として当然です。
明治維新以来、日本は西洋文化を輸入して来ました。しかし日本の文化的土壌はヨーロッパと違います。輸入した文化が日本に入ってくると変化するのが当然です。
宗教も例外ではありません。
佛教の場合でも、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムに伝わった仏教は出家を重視した戒律の厳しい上座仏教になり、中国、朝鮮、日本に伝わったものは在家でも成仏出来る柔軟な大乗仏教になりました。
同じようにキリスト教も日本に移植されると変化します。
日本古来の文化的土壌にあう部分は育ち、合わない部分は衰えます。
人間の営みも自然現象の一部と考えれば当然です。

1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父は順応主義でした。
それでは日本のキリスト教はどのように変化したのでしょうか?
いろいろな変化がありますが、とりあえず次の2つだけを取り上げてみたいと思います。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くために、キリスト教の排他性を弱める。
欧米のキリスト教では先祖崇拝がありません。故人の記念ととして墓はありますが「先祖代々の墓」は存在しません。先祖が子孫を守るとは信じていないのです。人を愛し、守ってくれるのは神様なのです。イエス様なのです。先祖にはそんのような力はありません。
そして日本のキリスト教には排他性が無いのです。仏教が排他的でないように排他性が無いのです。
上の二つの相違は私が1971年に洗礼を受けて以来46年間にわたってカトリックのミサへ出席し、説教を聞いた経験から得た体験的結論です。
50年余、カトリックの神父様達の説教を聞きましたが先祖崇拝を否定したり、仏教を攻撃した説教は一度も聞いたためしが無いのです。
日本の数多くのキリスト教徒は「先祖代々の墓」を大切にしています。もっとも最近は先祖代々の墓を止める人も多いようですが。
キリスト教だけが良くて仏教は悪いとは思っていません。多くのキリスト教徒は仏教も良いと思っているのです。

さて、それでは日本の仏教的文化土壌とはどのようなものでしょうか?
多くの無宗教の日本人でも幼い頃から「孫悟空」の絵本を読み、そしてテレビのアニメを見て育ちます。そうして大人になって、その話は唐時代にインドに行って仏教の経典を持ち帰ってきた玄奘三蔵法師がモデルになっていることを知ります。
玄奘三蔵法師は粗末な衣服以外身につけないで、言葉も不自由な異国を旅したのです。危害を加えられたことも無く、各地の王に大歓迎されたのです。
それは玄奘三蔵法師の人格が抜群に良かったからです。その上、玄奘三蔵法師の仏教に対する篤い信仰心が異国の人々へ感動を与えたからです。その玄奘三蔵法師の像は日本の各地のお寺にあります。日本人は玄奘三蔵法師に慣れ親しんでいるのです。無宗教の日本人も慣れ親しんでいます。
その上、日本人ならお遍路さんの同行二人という言葉を知っています。二人とは弘法大師と自分自身のことですね。
日本の仏教文化的な土壌を説明するための実例は枚挙にいとまがありません。
その中からもう一つだけ書かせて下さい。
日本人は無宗教でも京都や奈良のお寺へ観光に行きます。修学旅行でも行きます。そして知らず知らずのうちに仏教の歴史や教えになじむのです。

日本人なら諸行無常という言葉を知っています。動物を意味もなく殺してはいけないと知っています。南無阿弥陀仏という言葉を知っています。色即是空という言葉を知っています。人生は修行だという言い方も知っています。
みんな、みんなお釈迦様の教えたことです。
仏教を信じない無宗教の日本人も、このお釈迦様の教えの海の中に暮らしているのです。
そして信じない人々も困った時には、上に書いたお釈迦様の教えをフッと思い出すのです。
これこそが日本の仏教的文化土壌の実態なのです。
この土壌にキリスト教が根着くためには、その排他性を捨てなければなりません。自然なことです。

よく日本のインテリはお釈迦さまは神の啓示を受けなかったから仏教は宗教でない。ですから排斥しないのだと説明します。これはトンデモナイ間違いです。
誤解を恐れずに書けば、日本のクリスチャンは仏教も好きなのです。好きなものを排斥する筈がありません。

以上は欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違いなのです。

今日の挿し絵代わりの写真はドイツのカトリック教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。

2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。

3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。

「今日はクリスマスイブ、キリスト教を伝えたザビエルの日本での活躍」

2024年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はクリスマスイブです。考えるとキリスト教を日本へ最初に伝えたのはザビエルです。1649年のことでした。それ以来キリスト教は少しずつ日本の社会に影響を与えてきました。
現在、日本のキリスト教の信者の総数は人口のわずか1,1%で191万人です。数は僅かですが現代の日本社会の精神文化の基盤文化の一つとして重要です。キリスト教は日本人の考え方に深い大きな影響を与えているのです。
その影響は、ショーン・アンダーソン著の「キリスト教の日本に対する影響 」に詳しく書いてあります。(https://core.ac.uk/download/pdf/197303702.pdf)
1549年に日本に来たザビエルは、本国へ手紙を送りました。
「この国の人々は今まで発見された中で最高の国民であり、彼らより優れている人種は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心が強く、何より名誉を重んじます」

今日はフランシスコ・ザビエルが日本に残した足跡をたどってみます。
https://adelante.jp/noticias/blog/francisco-javier-en-japon/ に掲載されている資料を参考しました。
ザビエルは1506年にナバラ王国のハビエル城で5人兄弟の末っ子として生れました。当時、ナバラ王国はスペインとフランスとの間の紛争地で戦乱が続く激動の時代でした。
19歳でパリ大学に留学します。哲学を専攻します。大学でイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、その影響で聖職者を目指すようになります。
そして、ロヨラ、ザビエルを含む7人でイエズス会を創立したのです。イエズス会は以後、世界での宣教活動を進めました。一方この頃、ヨーロッパでマルティン・ルターがカトリック教会に対する抗議文を書いたことを発端に、プロテスタントが急速に勢力を持ち始めていました。宗教改革の時代だったのです。
カトリックの勢力を維持拡大するため、ポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け、イエズス会の他の宣教師とともにザビエルはインドのゴアへ向かいます。ゴアやマラッカなどで活動を続ける中、ザビエルは弥次郎という日本人に出会います。弥次郎から日本の話しを聞いて興味を持ったザビエルらは、弥次郎の導きで鹿児島に上陸します。宣教師として1549年に鹿児島に上陸したのです。

鹿児島では領主の島津貴久に許可を得て布教を開始します。
その後、キリスト教を迫害する動きが鹿児島で生まれたため、1550年長崎からポルトガル船に乗って平戸に移住します。そして、さらなる信者の獲得のため、山口を経由して、布教と天皇への謁見のため京都に向かいます。
しかし、戦乱で都は荒れ果て、天皇との謁見も叶わず、失意の中、1551年に山口に戻ります。そこで中国地方を支配していた有力な大名の大内義隆から布教の許可を得て、廃寺であった大道寺を拠点として活動を始めます。山口では毎日町の中心の井戸の近くで説教をしたそうです。
ザビエルが山口に滞在したのはわずか半年ほどでしたが、その半年で500人以上もの信者を獲得しました。山口での活動が軌道に乗り始めたので、ポルトガル船で豊後(大分)に向かい、大分で活動を始めます。
しかし日本での布教には日本に影響の強い中国での布教が不可欠と考えたザビエルらは1552年インドのゴアに戻り、そこから中国に向かいます。しかし中国の鎖国政策で入国できず、上川島で入国の機会を待つうちにザビエルは病気のため同年47歳で亡くなりました。
ザビエルが山口にいたのは半年ほどだけでしたが、山口に与えた影響は大きかったようです。
ザビエルの来日、400周年を記念として、1952年に山口サビエル記念聖堂が建てられています。1991年に火事で消失したものの、イエズス会や信者、一般市民の援助を受けて1998年に再建されています。従って山口には立派なサビエル記念聖堂があるのです。
さらにザビエルらの布教の拠点となった大道寺の跡地には聖サビエル記念公園が作られています。そして毎年11月3日には山口スペインフィエスタが開かれ、ザビエルと大内氏の大きな人形が登場したり、スペインにまつわるイベントや屋台が楽しめるそうです。

また、京都に来た際にザビエルらが立ち寄った大阪の堺にもザビエル公園があります。ザビエルらを手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡に作られた公園で、公園開設がザビエル来航400年の年だったためザビエルの名が着けられたそうです。
ザビエルが日本に滞在したのは2年半ほどだけでした。しかしこの短い期間に、鹿児島、平戸、山口、京都、山口、大分と移動して布教活動を精力的に続けたのです。
その後インドに戻り、すぐに中国での布教へ向かったエネルギーとキリスト教への信仰心には驚くべきものです。
ザビエルは傑出した人でした。日本に深い影響を与えた西洋人の一人でした。ザビエルは, 1506年に生まれ 1552年に亡くなりました。享年46歳でした。長生きしたらもう一度日本に来て日本の土になったことでしょう。嗚呼。

今日の挿絵代わりの写真は以前に訪れた五島列島の教会の写真です。教会の写真の出典は、
https://www.welcomekyushu.jp/article/?mode=detail&id=93 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)