阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

セロリの苗定植本格化 八ケ岳山麓 Nagano Nippo Web 2019年3月9日

2019年03月09日 | 諏訪便り

春を迎えてセロリの定植が本格化するハウス内=8日、茅野市上北久保

春の訪れとともに、八ケ岳山麓の野菜を代表するセロリの苗定植が本格化している。栽培農家のハウスでは昨年12月の種まき後、約25センチまで育った苗が次々に植え付けられ、緑色の列がハウス内に広がった。ハウス栽培のセロリは露地栽培に先駆け、5月半ばには初出荷される計画だ。

茅野市玉川上北久保のセロリ農家、矢島敬一さん(64)は、8、9日の2日間で広さ11アールのハウスに苗4000ポットを植え付ける計画。妻の淳美さん、長男の照敏さん(36)、従業員の計6人で作業し、苗をポットから畑へ次々と植え替えた。矢島さんは「春ものは実が柔らかい。温度管理に気を付けて、消費者から喜ばれるセロリを育てたい」と話した。

JA信州諏訪によると、茅野市、富士見町、原村のセロリ農家は64人で、露地物を含めたJA信州諏訪全体の今季の出荷目標は約83万ケース(10キロ入り)。このうち、南部センター(茅野市)に出荷する同市玉川と宮川の農家16人はハウス栽培専門で、春と秋で5万ケースの出荷を目指す。記事引用ここまで。

◎茅野市玉川は旧諏訪郡玉川村。母の里だ。スピードスケートの小平奈緒さんは隣の村で生まれ育った人だ。 従兄の一人はセロリの専業農家だった。

セロリ栽培・日本はじめて物語  こんなことがあった その4

       (原文は2003.7.14に作成)

戦前、日本では野菜のセロリ(celery/和名・オランダ三つ葉)は殆ど知られていませんでした。

☆ 日本が太平洋戦争に敗けた後、米軍(英、豪州軍も)が日本各地に占領軍として数多く駐留しました。昭和20年の占領初年から、この8月15日で丸58年が経過し、彼らは名前が変わって同盟軍として58年経つ今も、継続して駐留してくれています??

 占領軍のトップであるゼネラルマッカーサー始め米軍将兵は生の野菜をサラダで常食するのでその材料の調達が毎日毎日必要でした。

しかし日本に新鮮な野菜はありましたが、生で食べる事が出来る野菜は調達出来ませんでした。

なぜなら、当時の日本では、殆どの野菜農家は日本列島太古からの伝統リサイクル黄金肥料(早い話が人糞肥料)もかなり使っているのがわかったからです。

 戦前の日本では今の中国、台湾人と同じで野菜を生で食する習慣は一般家庭では殆どありませんでしたし、日本人は昔から低コストで資源の有効活用をしていたのです。

 止むなく占領軍の調達部は日本政府に命じ、清潔な環境で化学肥料のみを用いて野菜を作らせるようにしました。

米軍調達部”野菜栽培Cord”で作らせた野菜の中には、ジャガ芋、ニンジン、キャベツ、玉葱、などに交じって彼らの好物ではあるが、それまで日本ではあまり栽培された事が無い種類がいくつかありました。

   その一つにセロリがありました。

当時の農林省は、アメリカ本国でセロリを栽培している土地の気候風土を調べたところ、寒冷地が適地であり、朝夕と昼間の気温差が大きく、カラッとして湿度が低い土地に良質のセロリが育つという事がわかり、北海道や長野県で試験栽培しました。

 長野県で栽培されたのは八ヶ岳の麓の高地で、現在の茅野市や今ペンション村で知られる原村あたりがその中心です。

色々と試行錯誤の結果、アメリカで取れるセロリ並みの品質のものが出来るようになり、苗の生育、成長途中、取入れ、洗浄、梱包、輸送と米軍検査部門の厳密な検査にパスし関東、中京地区の米軍駐屯地へ出荷されるようになりました。その輸送箱にはわざわざ「清浄野菜」というラベルが貼られて出荷されました。

日本の普通の八百屋(日本にスーパーが出現する10数年前の時代です)で売られて、我々の親や我々が日々食した野菜は、彼らにとっては清浄ではなかったのですね。

☆ 中学校の夏休みに母の里の八ヶ岳山麓の地区へ四日市から遊びに行って、始めてセロリに 出会ったとき、セロリが積んである土間へ入ると、あの独特の匂いが漢方薬の匂いのようだと思いました。ただしその後長い間セロリは四日市の家の近くの八百屋では見かけませんでした。

そして時代が下って、セロリも徐々に人に知られるようになり、関西でも万博以降マーケットにも少しづつ出回るようになり、今ではどこのスーパーでも売られている野菜になりました。

茅野の私の母方の従兄はもう何十年もセロリ専業農家をやっていますし、また諏訪地方ではセロリは、ごく普通のポピュラーな野菜として味噌汁の具や、漬物にも使われてよく食べられています。

 洗ってマヨネーズをつけて一本そのままバリバリ食べるのと、漬物にしたセロリの浅漬けは私の大好物の一つです。

諏訪・茅野地区は寒天や凍豆腐(高野豆腐)の産地でもあるほどの寒冷地なので、お米の単位あたりの収穫量は良くない土地ですが、セロリは東京という大消費地へ出荷が出来る夏季の有利な近郊野菜として栽培が長く続いています。恐らく今でもセロリの出荷額では日本の中では長野県がトップだろうとおもいます。

*最初に農林省から試験栽培を言われた農協の一つの組合長をしていた母の兄である伯父と一緒に、日本で最初にレタス栽培導入に携わり、今も専業でレタスを作っている従兄から今回の前半の話を聞いて構成。

 ♪ところで昭和20年代後半の朝日新聞に連載された「ブロンディ」というアメリカ家庭漫画があり、亭主のダグウッドが会社で弁当を食べる場面で、紙袋からパンとは別に、白くて長いものを出してかぶりついている場面がよくあり、あれはなんだろうと長年思っていたのですが、あるとき「ひょっとしてセロリじゃないか」と思い当りましたがどうなんでしょうか。

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明治時代中頃に創業された三重県四日市市の「村上時雨店」がこの3月で廃業される。

2019年03月09日 | 食べる飲む

尼崎市の塚口小学校から四日市の納屋小学校に6年生で転校し、同級になった友人大佛(おさらぎ)さん(現在は奈良県在住)の情報では
彼の実家のお隣の村上時雨店さんが3月末で閉店されるそうです。
 「村上時雨店」さんは近くにある「太白永餅」と並んでJR四日市駅近辺の老舗で、
明治中頃の創業で、百余年続いた名店です。
 ご主人が他界後、奥さんが社長になり跡継ぎがいないので、お姉さん等の親戚の方が
サポートして頑張って営業を続けて来られたそうです。
しかし、関係者全員が70歳を超える高齢になり、継続が難しくなったようです。
四日市市の「本町通り」も、花月堂和菓子店、大和屋うどん店、魚太魚店など次々と店を閉じて
寂しくなっているとのことです。
 阿智胡地亭は昭和33年(1958年)の八月に四日市から神戸に転居して以来、中学の同窓会があれば
参加し、村上時雨店に寄って買い物をしてきました。いつまでも四日市にあって欲しいと思う店でした。
2017年10月19日掲載エントリーから一部引用
 小学校から四日市駅方面へ

駅に渡る踏切の手前に村上時雨店があります。5年前の同窓会の時も寄って店の方とお喋りをしました。中学の同級生のことを よく知っておられるので話が楽しい。
 
富山の鱒ずしと同じで大手の名の通ったブランドより、こういう地元のお客さん相手の添加物を使わない店の商品は一味も二味も違います。
あいかたも四日市に行ったらとこの店の味を待っているのでわずかだが購入しました。今回も少しおまけしてもらって嬉しかった。
前回の記事
 

村上時雨店のほぼ対面にある下里薬局の野村君も納屋小学校時代からの友人です。同窓会にも元気な姿を見せてくれました。

店を出て駅方面に歩くとあたりの寂れようが信じられないほどでした。自分が知っている四日市駅周辺の賑わいは半世紀以上前の事ですが
近鉄四日市駅が出来てからは町の中心が全く変わったことを実感しました。それにしてもあたりの荒廃ぶりは恐ろしいほどです。

閑散としているJR四日市駅。59年前殷賑を極めていたこの駅から家族5人は知り合いに送られて神戸に移りました。


2012年3月16日掲載エントリーから一部引用
 同じく納屋小学校の同級生の清水くんに、中納屋町の旧蔵町あたりであちこち現在の四日市を案内してもらったクラウンから下してもらい、
旧納屋小学校の横を通ってJR四日市駅方面に歩きました。
途中に「村上時雨店」があります。
住んでいた昭和30年代当時から『時雨蛤(しぐれはまぐり)』と言えば「村上」さんです。

店に入って「中学の同窓会で神戸から来ました。こちらの時雨を買って来るように家人に言われているので寄りました」と女店員に話しました。
すると奥から女主人が出てきて楽しい会話がはじまりました。私の同級生の名前を何人か出すと彼女もよく知っていました。店は明治の中ごろに始めたそうです。
 「またいつか来るのでお店を続けてください」と言うと、「品質と味のレベルを維持するのに、材料の入手が難しくて大変です」とのことでした。
話しているうちに旧知の人のようになり、気持ちだけですがとサービスしてもらいました。わずかな時間でもこんな会話をするといい思い出になります。





コメント (2)
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ゴーン氏保釈が、検察、日産、マスコミに与える“重大な影響”   元特捜部検事 郷原信郎弁護士

2019年03月09日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・一連の検察不祥事などを契機に、検察の取調べが可視化されたことなどで、従来の特捜部の捜査手法であった「供述調書中心主義」が見直され、従来のような、脅し・すかしによって検察官の意に沿う供述調書に署名させるという従来の特捜検察の捜査手法はとれなくなった。しかし、それは逆に、検察が身柄拘束の継続によって被告人の無罪主張を封じ込めようとする「人質司法」の悪用に一層拍車をかけている。公判で無罪主張する可能性がある被告人の保釈に強硬に反対し続け、長期勾留で体調不良を訴え釈放を懇願する被告人側に、自白を内容とする書面を作成して提出することを要求し、その書面を公判で提出させて公訴事実を争わせないようにするというやり方で、無罪主張を封じ込めた事件もある(【“人質司法の蟻地獄”に引きずり込まれた起業家】)。


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