阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

映画「父と暮らせば」  「夕凪の街 桜の国」  今から78年前の今日広島の街で アメリカが使った核兵器が虐殺した人間たちの二つの話

2023年08月06日 | 音楽・絵画・映画・文芸

阿智胡地亭便り#74「映画 父と暮らせば  宮沢りえと役者の力」    2005年1月31日記 

神戸朝日ビルデイングの地下にある映画館に「父と暮らせば」という映画を見に行きました。


ピカの爆風で倒れた屋根の下に父親が埋まり、猛火が迫る中、彼を必死で救おうとして逃げない20歳の娘を叱咤して、逃げさせた父親。
傷ついた父親を見殺しにして自分だけが助かったと自分を責め続ける娘。


うちはしあわせになったらいけんのじゃ」と彼女のセリフにありました。
 
そのシーンを見ると同時に、10年前に神戸のあちこちで同じような目にあった人が沢山いたことが頭に浮かびました。

元々がもう何度も上演された舞台劇の映画化であるということや、出演者がほぼ親子二人だけと言うこともあり、
セリフは一つ一つが長くて緊張感がありました。それを宮沢りえは美津江という役柄の人に成り切って喋りました。
スクリーンの上には美津江しかおらず、宮沢りえはどこにもいませんでした。

映画が始まってすぐに、私の前から俳優そのものは消えて、今このような人達が目の前にいると思って見ていました。
勿論プロデユーサーと監督がいなければ、また原作と脚本がなければ映画は出来ませんが、引き込まれる映画や舞台には
役者の力も本当に大きいと強く思いました。

広島で勤務していたある夏の暑い日に、たまたま通りかかったビルの壁に銅板がはめ込まれているのに気付き、何気なく読んだら、
「この場所の真上560mの高さで原子爆弾が炸裂しました」と書いてありました。思わず青い空を見上げました。
「その瞬間、爆心地の温度は太陽の表面温度6,000度の2倍の12、000度になりました」とも。


声高に言うこともなく、何も押し付けることもない。ただ自分と同じような人たちがあの瞬間まで生きていて死んだ。
そしてその経験を伝えずにまだ生きている人もいることを映像で伝える。映画というメデイアも凄いけど、そのことを全身で
伝えきる役者というのも凄い職業だなあ、そしてあの役柄になりきった宮沢りえという役者は、どうやったらあんなことが出来るのだろうと思いました。


今回見た映画の主演女優は宮沢りえでした。「たそがれ清兵衛」という映画を見てから、彼女はタレントではなく役者だと思うようになっていました。
そして今回「父と暮らせば」の彼女を見て、前よりもっと強く、この人は凄い役者になっていると思いました。

「たそがれ清兵衛」を見た後、彼女の事はそれまでは、芸能三面記事的なことしか知らなかったなあと思いました。
それはリエママと言われている母親のいうままに操られているタレントであるとか、何かのストレスで大痩せしたとかいうようなことです。

「たそがれ清兵衛」での彼女は役に成り切っていて、その役柄の人間そのものがスクリーン上で動いていました。

吉永小百合という映画女優は随分息が長い女優さんですが、彼女はどんな役を演じても、スクリーンに映っているのはやはり吉永小百合です。
しかし宮沢りえはスクリーン上で宮沢りえではなく、その役柄の人でした。

「いい映画だったから、見て来たら」と相方に言われて、「父と暮らせば」という映画を殆ど予備知識がないままに見に行きました。登場人物はたった3人で、
父親役の原田芳雄とその娘の役の宮沢りえ、もう一人大学助手役の浅野忠信という俳優さんでした。 時代と場所の設定は昭和23年の広島市内です。

映画の初めから終わりまで父娘のセリフは、全部広島弁と言うことは事前に聞いていました。広島言葉も私が好きなことを知っているので、
そのこともこの映画を薦めてくれた理由の一つのようでした。たった3年間広島で単身生活をしただけの私の耳ですから、判別能力は大したことは
ありませんが、私には役者の使う広島言葉は何の違和感もなく、広島に生まれ育った人が終始喋っているように思えました。アクセントも、
そしてセリフにはもっと重要だと思うリズムも完璧でした。(最後に流れるクレジットタイトルで確認したら、広島方言指導になんと
3人の人の名前が出ていました。監督がセリフ回しに完璧を期し、役者もそれに応えたなと思いました。)



解説  引用元


原爆投下から3年後の広島を舞台に、生き残ったことへの負い目に苦しみながら生きている娘と、そんな彼女の前に幽霊となって現れた父との心の交流を描いた人間ドラマ。監督は「美しい夏 キリシマ」の黒木和雄。井上ひさしによる同名戯曲を基に、黒木監督と池田眞也が共同で脚色。撮影監督に「Spy Sarge. スパイ・ゾルゲ」の鈴木達夫があたっている。主演は、「たそがれ清兵衛」の宮沢りえと「HARUKO ハルコ」の原田芳雄。第17回日刊スポーツ映画大賞監督賞受賞、エキプ・ド・シネマ発足30周年記念、芸術文化振興基金助成事業、文部科学省選定、厚生労働省社会保障審議会特別推薦、青少年映画審議会推薦、日本PTA全国協議会推薦、日本映画ペンクラブ特別推薦、東京都知事推奨、広島県知事推奨、長崎県知事推奨、長崎県教育映画等審議会特別推薦、日本原水爆被害者団体協議会特別推薦作品。


ストーリー
1948年夏、広島。原爆によって目の前で父・竹造を亡くした美津江は、自分だけが生き残ったことに負い目を感じ、幸せになることを拒絶しながら生きている。そんな彼女の前に、竹造が幽霊となって現れた。実は、美津江が青年・木下に秘かな想いを寄せていることを知る竹造は、ふたりの恋を成就させるべく、あの手この手を使って娘の心を開かせようとするのだが、彼女は頑なにそれを拒み続けるのだった。しかし、やがて美津江は知...

スタッフ
監督
黒木和雄
脚色
黒木和雄
池田眞也
原作
井上ひさし
企画
深田誠剛
キャスト
宮沢りえ  福吉美津江
原田芳雄  福吉竹造
浅野忠信  木下正

父と暮せば(予告)


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2007年08月09日(木)[阿智胡地亭の非日乗]に掲載。

映画「夕凪の街 桜の国」

相方に誘われて「夕凪の街 桜の国」を見ました。
遠い昔の出来事ではなく、いまこの同じ時間を生きている人にも原爆のことはつながっている・・・そのことをこんなに自然に教えてくれる。
黒木和雄監督の映画「父と暮らせば」で印象が残る「うちは幸せになってはいけんのじゃ」という言葉がこの映画にも出てきてドキッとしました。
真の被害者が我が身を責め、ケロイドの残る身を人から異形の人と差別され、人の目の立たない裏通りで生をつなぎ、やがてこの世から姿を消していく。生きた証もなく。
それらのことを加害国に気を遣ってか、見てみない振りしてきた62年間。

映画が終わって、本屋で原作の漫画を買いました。 自分が知らないだけで世にスグレモノは仰山おられる・・ とまたまた思いました。

嬉しい?
十年たったけど 原爆を落とした人は私を見て
「やった!またひとり殺せた」 とちゃんと思うてくれとる? こんな言葉を考えつく作者の[こうの史代]さんとはどんな人でしょうか。
名前を見てふと、代々歴史を語り継ぐということからつけたペンネームかと思いました。
広島という所は凄い漫画家を生んだものですね。

前段と後段のそれぞれのヒロインを演じた麻生久美子、田中麗奈さん、それ以外の出演者も肩に力をいれず、淡々とありのままに映画の中で生きていました。

10数年前、わずか3年間とはいえ自分が住んだことがある広島の街の言葉がスクリーンに流れ、戦争当時と現代の広島の街並みが映る。
漫画が原作の映画かと軽く見ていましたが、今や小説では描けないものを漫画家が表現してくれることがあると知りました。
誘ってくれなかったら見なかったかも知れないけど、今年これまでに見た映画の中ではBESTの映画でした。

8月6日が、今日9日が、それぞれ広島と長崎に62年前 アメリカという国が、人類の上に史上初めて核兵器という大量無差別殺戮爆弾を落とした日です。

この映画は62年が経過したからこそ出来た映画だと思いました。
次の62年やそれ以上をこれから生きるであろう、今年地球上に生を受けた人類の赤ん坊を守るのは自分たちしかいない。映画を見終わった時そう思いました。

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ピカドンで九死に一生を得たコープこうべの元理事長「竹本成徳さん」88歳が亡くなられた    10年前に神戸で竹本さんの原爆体験を伺った。   

2023年08月06日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

神戸新聞シリーズ掲載の わが心の自叙伝 竹本成徳篇 全文のPDF

2020.04.04    神戸新聞  竹本成徳氏死去 コープこうべ理事長など歴任


 生活協同組合コープこうべ(神戸市東灘区)理事長や日本生活協同組合連合会会長などを歴任した竹本成徳(たけもと・しげのり)氏が1日午後3時50分、病気のため死去した。

88歳。広島市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。
 1954(昭和29)年、同志社大法学部卒。同大生活協同組合専務理事を経て、57年に神戸生活協同組合(現コープこうべ)入所。

89年から組合長、93年から2001年には理事長を務め、阪神・淡路大震災からの復旧に陣頭指揮を執った。
 全国の生協が加盟する日本生協連では、93年から03年まで会長を務め、生協活動の発展に尽力した。



2012年7月12日のある講演会のブログから一部抜粋

⇒今回のゲスト講演者は、コープこうべの元理事長、竹本成徳さんでした。
 ご自分の出身地広島における、自らの原爆体験を楠公会館で話されました。爆心地から1000m以内の生存者は推計では1%。
竹本さんはその中の一人だそうです。
 80人ほどの出席者は粛然と声もなく、竹本さんの体験ビデオを観、竹本さんの悲しみと怒りを抑えた講演を聞きました。
平和は黙って待っていても手に入らない。戦争は紛争の解決手段には決してなりえない。核兵器を人間は使うことは絶対にやめるべきだ。
ピカドンで九死に一生を得た80歳の竹本さんは、抑制されながらも信念のこもった強い口調で我々に語りかけました。





講演会場は神戸湊川神社の境内にある楠公会館でした。












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08月05日に目に留まったSNS・メディアの記事

2023年08月06日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文全文に飛びます。

 

 

 

 

 

 

 

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東日本大震災が起こった後、ブログ「阿智胡地亭の非日乗」が掲載したエントリーから   [ 2011年07月03日(日)のブログ ]

2023年08月06日 | 東日本大震災ブログ
2011年07月03日(日)
TBSラジオの番組に小出助教が呼ばれた。6月14日

6月14日 40年前は私は孤立していた。人々は組織にならなければ声すらあげられなかった 小出裕章(TBSラジオ Dig)2011年6月14日(火)、

TBSラジオの「Dig」に、小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)が出演されました。20日程度遅れていますが掲載いたします。

震災から100日以上が過ぎた原発事故を取り巻く状況。冒頭では原子炉内部の状況を推測しています。後半では6.11のでもや集会について感想を述べていらっしゃいます。

(キャプションはこちらから引用)。 

 
 
柏市の親と市役所の話し合いは・・。  ホットスポット問題

☆六年間、流山市に住んで週末は家族で柏市に買い物に行っていた。今も知人が多く住んでいる。何とも言えない思いでこの記事を読んでいる。☆

放射能汚染「ホットスポット」対策 東葛地域 互いの意見かみ合わず
2011年7月3日 東京新聞

 放射性物質汚染が周辺より比較的強い「ホットスポット」であることが分かってきた東葛地区。

放射線量自体は福島市などに比べて低いが、子どもを持つ親たちの危機感は強く、行政への要望活動を進めるほか、避難を考える人まで出ている。

一方、線量計測に乗り出した行政だが、その先の具体策は見えない。両者の温度差はなぜ生まれたのか。 (横山大輔)

 「国の暫定基準値が安全だとは私たちには思えない」。六月二十八日、柏市役所。市内でその月の初め、約一万人の署名を集め提出した親たちのグループが再度、

要望に集まり行政側に意見をぶつけた。小さな子どもを抱えた母親、やりとりをビデオで映し、行政側に厳しい視線を送る父親。「なんとかしてほしい」という強い思いが会議室に渦巻いた。

 同月、東葛六市で発足させた放射線量対策協議会の調査では、流山市での毎時〇・六五マイクロシーベルトを最高に、

柏市でも中十余二第二公園で同〇・五一マイクロシーベルトを計測するなど、市原市にあるモニタリングポストの同〇・〇四四マイクロシーベルト程度と比べ、一桁高い状況だ。

この線量の原因は降り注いだ放射性物質とみられ、外部被ばくだけでなく、風に巻き上げられた放射性物質を体内に取り込む内部被ばくの危険性も指摘されている。

協議会は、国が福島県の学校向けに示した暫定的な目安の同三・八マイクロシーベルトは下回ると結果を説明する。

 親たちの不安は「将来、影響が出るかもしれない」の一言に尽きる。一度に大量に被ばくして起きる急性症状については線量の目安があるが、

低線量では「低ければ低いほどいい」とされているにすぎず、一致した見解がないからだ。

 漠然とした不安だが、要望は具体的だ。農産物の汚染調査が全数対象でないことから「給食の食材は使用前に線量測定して」

「安全が確認されるまで砂場の利用を規制して」「内部被ばくの状況も調べて」と続く。

 一方、応じた柏市側は「今回の問題は国民全体の問題。国が基準をつくってくれないと」とかみ合わない。

ある担当者が「財源にも限りがある。放射線という今までにない災害に対しても、私たちの素人考えで何かをやって少しでも誤れば、後に責任問題になる。

気持ちは分かるが行政の限界」と打ち明けるように自己判断を避け、国や県の基準や専門家の意見を待つばかり。

 行政も親たちの声に押されて模索はしている。東葛六市の連名で六月二十九日、国に安全基準の早期策定と対策の全額負担を求める要望活動を行った。

協議会では得られた計測結果をもとに八日、専門家から意見を聞き、対策を検討する予定だ。

 だが、そんな姿勢に親たちは「典型的なお役所仕事だ。今できることがあるのに」と踏み込んだ対策を取らないことにいらだちを隠さない。

「そんなことをしてる間にも、子どもたちは毎日毎日被ばくしているのに」

 
 
岩手県普代村の広報誌が伝える大震災と復興状況

岩手県の北緯40度の東端に「普代村」があります。

東日本大震災の地震と大津波で大きな被害を受けました。

普代村の広報誌「広報ふだい」を神戸市灘区のOさんから教えて頂きました。

「・・・ところで、こんな記事を見つけましたご覧ください。

岩手県普代村の広報誌です、特に3月号を見てください


地元ならではの、災害のリアルさが表現されています。」

広報ふだい

早速アクセスして広報誌を読んでから返信しました。

「・・ 『広報ふだい』を見ました。特に3月号は一般メディアの写真など足元にも及びませんね。

こんな事態になっても広報誌を発行する人たちがいる・・、そのことに驚きます。日本は凄い人たちがあちこちに多くいることがわかります。

内容を見て既存大手メディアの報道と比較すると、大手マスコミの記事の貧弱さと使命感のなさが浮き彫りになりますね。」

「広報ふだい」へのアクセスをお勧めします。

 
 
佐賀県庁へ抗議メール殺到   佐賀新聞

抗議メール殺到 知事の再稼動「前向き」に対して  
7月2日 佐賀新聞

玄海原発2、3号機の再稼動問題で、古川知事が6月29日に海江田万里経産相と会談後、再稼動に前向きな姿勢を示したことで、

佐賀県庁には連日、懸念や抗議のメール、電話などが相次いでいる。メールは29日から1日までの3日間で600件を超えた。

  内容はほとんどが「再稼動をしないでほしい」「反対だ」など抗議や不安の声という。

29日は202件、30日は299件、1日は102件(午後5時現在)だった。

原子力安全対策課にも電話やファクスで数十件の声が寄せられ、職員は対応に追われている。

 県が原発関連のメール集計を始めた6月9日から7月1日までで計2549件に上る。

 
 
特捜は何でもできる』と検事。 東京地裁は一部調書不採用
☆司法研修所でみんなが学んで、無事に課程を終了した司法試験合格者が判事と検事に任官する。
 
つまり検事も判事も同じ法曹村に所属する仲間で、これまでは裁判所は検察の言い分を殆ど聞いていたような感じがする。

しかし最近は裁判所も司法全体へのくにたみの信頼感低下に危機感を持ち出したようだ。
あるいは検察の行為が野放図になりすぎて、もう見て見ぬ振りが出来なくなったのかもしれない。

数年前まで裁判所がこれだけの数の調書を不採用にすることはありえなかった。

◎元秘書供述調書 「小沢氏へ報告」不採用
2011年7月1日 東京新聞夕刊

 小沢一郎民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐる事件で、政治資金規正法違反(虚偽記入)罪に問われた衆院議員石川知裕被告(38)ら元秘書三人の公判で、
 
東京地裁(登石郁朗裁判長)は六月三十日、検察側が証拠請求していた三人の供述調書計三十八通のうち、十二通を採用しないことを決めた。

 石川被告らが政治資金収支報告書の提出前に虚偽記入について小沢元代表らに報告、了承されたとする調書などが中心。
 
弁護側によると、裁判所は「取り調べ検事による威圧、誘導があり、任意性がない」としているという。

 検察側はこれらの調書を立証の柱にしてきたため、二十日に行われる論告の内容の見直しを迫られるとともに、
 
検察審査会の議決で強制起訴された小沢元代表の裁判にも大きな影響を与えそうだ。

 弁護側によると、調書全体が却下されたのは、石川被告の供述調書十五通のうち十通と、後任の池田光智被告(33)の二十一通のうち二通。
 
二人のほかの調書についても、部分的に却下されたものがある。二人が自らの虚偽記入を認めた部分は採用されたという。

 陸山会の会計責任者だった大久保隆規被告(50)の二通の調書は採用された。

 元秘書三人は、捜査段階で収支報告書の虚偽記入を認めていたとされるが、弁護側は「検事による脅迫や誘導があり、作文」と主張していた。

◎「小沢氏は起訴しない」とウソ 東京地裁が陸山会事件の調書を却下した驚愕の理由

詳細に解説している本文はこちら

◎ついに変わったか こちら
 
 
 
鹿島神宮で起きた不思議なこと (for Coffee break)
一部引用・・

震災から1カ月が経った4月11日の朝、鹿島神宮の神主が1本の電話を受けた。

 「海に大きなお札(ふだ)が流れ着きました。面倒をみてもらえませんか?」

 鹿島灘近くのお年寄りからだった。神主が浜辺に行くと、そのお札は1メートル30センチもあるもので、泥と油にまみれ傷だらけであったが、「諏訪大明神祈祷神璽」と記されている。

 すぐに車に乗せて持ち帰り、きれいに拭いて、しばらくの間お祀りし、後日、元宮である諏訪大社に託すことになった。

 このお札が、岩手県陸前高田市の諏訪神社のものであることが判明したのは6月になってからだった。
 
諏訪神社は山の上の御本殿だけを残して、平地の施設は全て流出してしまい、宮司さんや神職の方々は亡くなっていたことも分かった。

 鹿島神宮では、この諏訪の神を元宮に届ける前夜、応接室に祀っていたお札を拝殿に移したという。
 
諏訪の神に、朝まで鹿島の神とゆっくり語り合ってもらおうという計らいだった。

 実は、鹿島の神と諏訪の神は『古事記』における「国譲り」の逸話の中で力比べをし、鹿島の神(タケミカズチ)が勝利したという関係なのだ。
 
その2人の神様がこういう形で巡り会ったことは実に因縁深い。

 「津波に流され1カ月も漂流してここまで辿り着いたとは、さすがに私の好敵手。これからは日本中の神とともに我が国の復興にあたろうではないか!」

 「ありがとうございます。諏訪の地で傷を癒やして、早く被災地に戻り、東北の人々のために力を尽くす所存です」

全文はこちら
 
 
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