明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



フランケンシュタイン博士は自分が作り出した怪物に感激して思わずそう叫んだのではなかったか。 携帯に届いた友人からのメールには孤独死という単語が含まれたメッセージが2通あった。それが心配だ、と80過ぎた母親に持たされたのが私の携帯電話である。私は生きている。二十歳の工芸の専門学校卒業間際。女の子と名残り惜しさに二人で酒を飲んでいたら、居留守を使った私の部屋を、インスタントラーメンと酒ばかりで倒れているかもしれない、と心配した同じ陶芸科の年上の友人二人に雨戸をこじ開けられてしまった。現在岩手で陶芸作家のN君は昨年暮れに、高校時代から大事にしていた志賀直哉本をせんべい汁とともに送ってくれた。まだまだ復興には程遠いときく。三重県で陶芸家のN君は、かつて伝統工芸展で朝日新聞社賞を取り、日曜美術館でトップに紹介されていたが、先日、エロサイトから数十万の請求が来て、どうすれば良いだろうと相談の電話があった。ご丁寧に先方に問い合わせしてしまったらしい。以後無視するようにいっておいた。というわけで私は生きている。 昨年暮れに、愛用のパソコンがおかしくなり、それから連続して色々あり、しまいには癇癪起こして某機械の電源コードを引っこ抜いてしまったり。 ネットカフェの会員証も見当たらない有様で、これだけブログの間を空けた覚えがない。おかげで半月ほど『注ぎ殺しのT』さんをサラシ物にしてしまった。 さらに昨晩携帯を壊し、本日は私には似合うはずもない真っ赤な代替え機である。ついにここまできたか。 昨年暮れから我が家のマシン類はあきらかに呪われている。 というところで会員証が出てきた。またネットカフェ通いになろうが、とりあえず更新をするつもりである。ついでにこの間、数日分のブログの更新を。

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以前、高所にいる夢を見てあわてて目が覚めることが頻繁にあった。たいてい海の上の橋か、陸なら高圧線の鉄塔のようなところに上がっていた。たいてい寝入りばなで、危なかった。と思いながらホッとしてすぐ寝るのだが。 今日の夢は違った。 周囲百五十メートルほどの広場にいる。赤茶けた土にところどころ雑草が生えている。外国の子供達が女の先生とお遊戯をしている。雲一つない良い天気だ。背伸びをしたとたん、そこがとてつもなく異常に高いビルの屋上だ、ということに気付いた。あわてて下に降りようとするが降り口が見当たらない。近くに作業着姿の男が立っている。見覚えがないが私の知り合いらしい。「高さが足りないからアンテナを立てたよ」。と指差す。すると横に太い円柱。高さは数百メートルはあり、長過ぎて数十メートルはしなっている。見ると男が一人途中にぶら下がっている。なんてことだ。あんな高い所でゆらゆら揺れている。何か作業をしているのであろうか。私は恐ろしくなり彼に向かって叫んだ。「そんなことはーーーー寝かせてやれェーーーーッ」。恐怖で目が覚めると、あきらかに心臓がドキドキしているのが判った。高所は好まないが、はしごが登れないわけではなく、高所で下を覗きこんで不愉快な程度である。 それにしても、垂直の山にへばり付いているような登山家は、なぜ変態よばわりされないのか、昔から不思議でしょうがない。なんだか不公平ではないか。私が変態呼ばわりされているわけではないが。

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この作品は、ほとんど全編にわたり梅雨の曇天でしかも夕暮れ時である。気分としては鏡花作品でもあるし、多少煙っていても月の一つも浮かべたい所であるがしかたがない。しかしその日の昼間は晴天で、印旛沼あたりに住む河童の三郎が海辺へやってきて日向ぼっこをしていて事が起こる。が本作について堀辰雄が本作に対し「なんと色っぽいのだろう」という友人がいると書いている。もしどこか色っぽいシーンがあるとしたら、現代人の野暮な私の目から見ると、娘の着物のすそから覗くふくらはぎくらいしか思い当たらない。書かれた昭和6年という時代を考えれば、なかなかの光景であったろう。好色な河童はそのおかげで怪我をすることになる。それに全体像が見えてくると、全編にわたる曇天の中に、娘の裾から覗く裏地の赤が際立って効いている気がしてきた。赤色といえば他には漁師の赤フンドシと、彼らが捕らえた巨大魚がしたたらす血が出てくるが。白いふくらはぎとセットになった娘の裾は、唯一陽を浴び、海面の反射を受け輝く赤である。もう1カット増やすことにした。

せっかく泉鏡花像が手元にあるのに出番がない。いつもは主人公を作者にやってもらっていたので、本来は人間側のリーダーである笛吹きの芸人をやってもらうべきであったが、数カットならともかく、今回は人間との共演場面が多い。動きもなく質感も違う人形では長丁場は持たないと判断し、異界の住人以外は生身の人間にやってもらうことにした。残る可能性は姫神に仕える翁であったが、異界の人物が眼鏡をかけているのはどうかということもあったし、河童といえば過去に制作した柳田國男があった。(柳田のヒゲも、異界の住人にしては形が少々俗っぽくはあるが)。これで鏡花登場の場面はないはずであったが、一つ役があるのを見落としていた。作中、話のポイントとなる巨大魚イシナギの、大きさの表現に筆者として悩む鏡花である。

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ミミズクは2カット木に止まらせた。前作とは比べ物にならない出来である。あと1カット作って女性の顔を合成する予定。ミミズクが泊まる杉の木だが、以前杉だと思って撮影していたら杉でなかったことがある。どんな植物でも枯らしてみせる植物音痴の私だが、近所の神社にはあんな紛らわしいものは生やしていまい。撮りに行くことにする。 本日、ようやく冒頭の河童が石段を上がって行く背景を、2転3転のあげく。いや5転はしただろう。良い石段が各シーンに使われて行き、後ろ姿の小さな河童ごしに見えるには絶妙の角度の1カットを見つけた。 河童の三郎は、このままでは姫神様に失礼だ、と。カカシのボロを剥いで着ている。それがまだ決まっていない。粘土で行くか布でいくか。鏡花は布地に模様があれば、たとえカカシだろうと書くのではないか。よって無地ということだけは決めている。 ここへ来て細かいデイテールを追い込んでいる。なぜあの頃、この程度で喜んでいた。と呆れるばかりで時間ばかりかかるが、おかげである場面だけが目立つ、ということがなくなってきて、各場面が共鳴してきている気がする。

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某神社は百段はあろうかという石段を上がり鳥居をくぐる。作中では鳥居はなく、杉の古木が生えている。忠実に現場を描写する鏡花であるから、当時は鳥居の場所は違っていたのであろう。作中のままだとしたら、今は家が立ち並んだあたりにポツリとあったのかもしれない。私は街自体を消し、荒れた水田と畑で覆った。 現場は石段を上りきると、右に折れ、さらにだらだらとした石段があった。左の崖側には紫陽花が群生していて、ここのカットを使うことは最初に決めていた。陰鬱に写る東ドイツ製レンズのおかげで紫陽花が妖しい。しかし鏡花はここを“坂”と書いており、石段とは書いていない。鏡花は目に見えない物をあれだけ描きながら、見える物に関しては律儀である。しかたがない。鏡花が坂と書けば石段ではない。石段は後に作られた物であろう。紫陽花はどうしても削除しがたく、別の所から山道を持ってきて合成し、紫陽花を生かした。   私は作品として風景を撮るのは本来好きではない。良い日に良い場所にいました。それを証明しているに過ぎないように思えるからである。もちろんそういうものではないのだが。しかし今回、様々な風景をでっち上げてみて、そんなカットに限り愛着が湧いた。なにしろ探したってどこにもない風景である。写真は本来光画と訳すべきで、まことを写すという意味の写真という言葉が嫌いなことは何度もいっている。まことなど扱ってたまるか、と画面からまことを排除することにファイトを燃やしている。鏡花のおかげで頭の中に浮かんだ風景をねつ造するのが楽しくなってきた。 坂を突き当たると急な角度でさらに折れ、再び石段がある。ここでようやく境内が見える。最初の石段と違い、二つ目の石段は、6、7段程度の物である。鏡花はその長さ、段数は書いていない。もっと長い石段だと思わせたかったのかもしれない。異界の社は近づきがたく在るべきである。少なくとも私はそう思い込んで2つ目の石段を見て拍子抜けした。だったら再び長い石段と書いてしまえばいいものを鏡花は書かない。私がここに持ってきた石段は、実際よりはるかに長い石段で、なぜこれだけ放っておいた、というくらい雑草が茂っている。おかげでこの先にアンタッチャブルな存在が生息している雰囲気が実際より出ただろう。

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『貝の穴に河童が居る事』には異界の妖怪が登場するが。蛇なら蛇、カラスならカラスのままだが、唯一違うのが女の顔をしたミミズクである。千里眼で、離れた旅館に滞在する芸人三人の情報を異界の森にもたらす。上野動物園の金網越しのミミズクで1カット作ったのだが、けっこう重要な役どころでセリフも多い。これでは使い物にならない、と作り直すことにした。数ヶ月、ミミズクの撮影場所を検索していたら、近所に『鳥のいるカフェ』ができてしまった。これでいつでも撮れる。あとは撮りたくなるのを待つだけである。周囲では何故はやく撮りにいかないといぶかる向きもあったが、撮りたくなって撮ると違いがでるのである。食べ物が空腹で食べると美味しいのと原理は同じである。ショーウインドウには鷹と世界最大クラスになるというミミズクがいる。メスなのでオスはさらに大きいと訊いたかもしれない。しかし撮ってみると、兵隊の位でいうと私よりよっぽど貫禄があり、女顔のミミズクにはちょっと怖い。結局店内の椅子につながれた小さいミミズクを撮影した。これがやたら可愛い。長年飼った熱帯魚も全滅して久しい。撮りながら欲しくなってしまった。天気の良い日にもう一度撮らせてもらうことにしたが、空腹で撮ったものだから、やはり出来が良く、本日の撮影で間に合ってしまいそうである。問題はこれをどう女顔にするかである。申し訳ないくらい顔を潰して合成することになるだろう。

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画像を合成する場合、後で何があるか判らないので、画像を統合せずに、ある程度経った時点で統合して1カットにすべきであろう。しかし私の場合、これで大丈夫。と思った時点で、未練がましく保存しているのが嫌で、良いと思った時点で、未練を断ち切るように統合してしまう。部屋の中と違って作品に関しては整理好きである。 しかし今回のように長丁場で制作していると、開始当初と考え方、技術、見え方が変わってくる。読み違えに後で気付くことも出てくる。 本日は人間の登場人物が全員集合する初登場のシーンである。長い砂浜を旅館の番頭に先導され、芸人三人組とタクシーの運転手。これは随分前に完成し、良いでしょう、とばかりに、自慢気に出演者の皆さんの携帯に送ったりしたものであったが、数ヶ月前に、この連中が、海辺の岩があるところを歩いていることに気がついた。しかしまあ良いだろう、とやり過ごしていたのだが、鏡花はコツコツなどと、足音まで書いている。本日諦めてもう一度。 自分が切り貼りして統合した作品を、自ら切り抜くほど情けない作業はない。前回はどこまでも続くような砂浜であったが、今回は岩だらけのところを抜けて、砂浜に出たあたりの風景を選んだ。これなら良いだろう。 画面手前に、足跡がある。おそらく私の足跡であろう。消す前にそれを利用し、砂に履物がめり込んだようにした。これでいう事なし。もう後悔などするわけがない。懲りずにとっとと1枚に統合してしまう私であった。

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