明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



私の世代は妖怪、怪獣ブームの洗礼をまともに受けている。受けるには適切な年齢で適切な洗礼を受けたといえるであろう。始めて映画館で観た『キングコング対ゴジラ』はどちらがゴジラだか知らなかったが、ねだったわりに、キングコングの顔のアップで父の背中にかくれ、しばらくどこへ逃げてもキングコングと目が合ってしまう悪夢に悩まされた。生まれた時から、こんな感じだったような気がしている私にも、可愛らしい時代があった、と想い出せる数少ない記憶である。小学生になると映画館は同級生だらけ。舞台に何故だかムシロが敷いてあった。そこに寝転がって『大魔神』を観てみたら近すぎて判らなかった。妖怪映画も封切られ。まさにブームであった。先日書いた、親戚の子が遊びにきて父に連れて行ってもらった『薮の中の黒猫』も怪談映画だ、と私がねだったのは間違いがないだろう。『四谷怪談』など18禁だったのが悔しかった。 漫画でいえば、それはもう水木しげるなわけである。鬼太郎はゲゲゲより墓場のほうが好みであったが。 子供が妙な物に出くわし、「今のはきっと○○に違いない」。とかブツブツいいながら一人、細密に描かれた田舎道を歩いている場面などは無性にひかれた。 水木作品には始終、画面にモヤのような物が漂っている。異界にはあれが漂っていなくてはならない。只今神社の境内に漂わせてみたが、誰かが焚き火をしているような感じになってしまい、やり直したら今度は昔のアメリカのTV漫画の、ごちそうの香りが漂っているようで、さてどうしたもんだろう。とこれを書いている。 何度かブログに載せているので改めて載せないが、昔、靖国神社の通りを隔てた画廊で撮影した写真には、画面中に白いモヤが尾をひいて漂い、中にはホップしているものまで写っていた。カメラ内蔵のフラッシュが発光したホンの一瞬である。たまたまそんな物が現れても、あまりにもスピードが早く、人間には目視できないのではないかと思ってみたりした。

去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




踊りの師匠の丸髷は、鏡花の時代の挿絵をみると、ちょっと雰囲気が違う。調整してみたらぐっと良くなった。髪型は時代により様々である。櫛、笄はネットオークションで落札しておいた物がある。モニターでみても良い物だと判ったので、どうせ落ちるわけがない、とそのまま飲みにいってしまったが、帰ったら落札していた。これでお礼をいわれてはまったく申し訳ない品で、ベッコウに漆に金彩などの櫛と笄がいくつも届いた。いくつも届いたところで、たった一日の物語である。櫛はともかく、髷の中から頭を出す笄はそう取り替える物でもなさそうである。 河童の三郎は鎮守の社の姫神に、腕を折った人間どもへの仇討ちを願い出る。そこでまず用件を聞くのが柳田國男演ずる、禰宜姿の翁である。今の所、ただ突っ立っている翁しかないので、かがんで三郎の話を聞く翁を作ることにした。 娘の尻を触ろうとした三郎は、見つかりそうになりマテ貝の穴に隠れる。そうとも知らない人間が、貝を掘り出そうとしてステッキで穴を突く。翁もいうが、それで仇討ちとは道理がとおらない話である。しかし翁はあくまで三郎に愛情深く接し、一応姫神に伺ってみようということになる。 三郎はマテ貝の穴に入るくらいだから、小さい方にはいくらでも変われるが、普段の大きさは90センチ程度である。この場面はひれ伏す子犬に接する老人。そんな場面をイメージしている。私は柳田が、盟友鏡花のこの作品に対し、「河童を馬鹿にしてござる」と評していたのを知っている。それを承知で出演いただくのであるから、ここは一つ、それに見合う場面にしたいところである。

それにしてもつくづく思うが、手前勝手な理由で喜んだり腹を立てたり、三郎と身も心もそっくりな人物が近所にいる。違いをあえてあげるならば、執着箇所が尻より胸であることくらいであろう。先日の夜、飲んだ別れ際の信号待ち。何かぐずぐずいっている。要約すると、自分の置かれている状況の問題点は、女性が自分に焼きもちをやくせいだ。ということのようである。一度鎮守の杜の姫神様に相談したほうが良かろう。私はこの男の頭頂部に金ダライが直撃する様を想像していた。

去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )