明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先日の叔父の四十九日には、父の葬儀以来顔を合わせる親類ばかりであったが、私がすっかり太ったので気がつかない人もいた。父の亡くなった直後にタバコを止め(父が亡くなった事とは関係ないが)以来10年で10キロは増加した。それに貢献したのはタバコともう一つ、4年続いた『中央公論Adagio』であろう。隔月とはいえ、締め切りが続く仕事は、半年ほど続いた地元誌のエッセイ以外は始めてである。それまでは自分の好きな人物ばかり作ってきたが、これはそうはいかない。興味のない人もいれば大嫌いな人もいる。つまり自分の中にデータの蓄積のない人を作るわけで、多少は知ったかぶりをできるくらいに伝記や著作を読むことになる。それまで二ヶ月に一体、撮影別が余裕をもって作れるペースであったのが、さらに資料やロケ場所も自分で探さなければならない。 制作に入ると出歩かなくなる。出かけていても、今家にいたら上手くいっていたのではないか、という気分に苛まれてしまうのである。特に楽しいことは、何かが減ってしまうような気になり避ける。実際、制作が上手く進むとやっぱり今日は遊びに行かなくて良かった。とホッとするのである。もともと出不精なところに、さらに外出することがなくなる。これは私がストイックに制作に打ち込んでいる。ということではない。単に制作者としての自分に自信がないからである。今までなんとかやってきたではないか。締め切りがある仕事でも一度も間に合わなかったことはなかったろう。そういい聞かせ。あとは使える時間をつぎ込む以外、対処法がない。 ところで先日入稿をすませた某企業社長の自伝用作品である。一月ほどの制作時間の開始一日目。20分ほどで止めてしまった。何故そう思うのか根拠不明だが、もう今日はこれで良い、という気がした。今までの私には考えられないことである。翌日も1時間ほどだったろう。それがしばらく続いた。たびたび書いているが、表層の脳より多少ましな自分がどこかにおり、そうせずにいられない時は、何故そうするのか判らなくても、そちらに任せた方が結果が良い。私の場合、もう頭部が完成した。といった翌日には、いやまだだった。ということを繰り返すことは、長い間ブログやそれ以前の身辺雑記をご覧の方はご存知であろう。しかし今回一度も危機がなかったとはいえないが、後戻りはせずに終わった。これは制作者としての自分を、そろそろ信じて良い。という前兆ではないのか?調子に乗る気にはまだなれないが。

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