何度か書いたことがあるが、最初に浮かんだ画は一瞬で固定されてしまい、向きはおろか、構図もほぼ決まってしまう。そこから変えようと思ってもまず動かすことができない。他の可能性もあったのではないか、と思う事もあるが、だからといって変えようと思っても、最初のイメージを超える事はない。良いんだか悪いんだか。 先日書いた棚からぼた餅のようにイメージが浮かぶ時、それについて考えていた、という前触れもなく、いきなり来るので表層の脳とは別に丹田のあたりに別に書き手がいるのではないか、と考えたりする。寝ている間には誰でも経験する事であろう。あの短い間にいったい自分のどこの部分が、あんな突拍子もないシナリオを書いているのか。シナリオもキャステイングも演技も、ほぼ同時になされているのであろう。たいしたものである。しかし考えるのが丹田だろうとなんだろうと、結局自分の中に無い物は出てこない訳で、出来てみれば結局私らしいということになる。 夢でいえば私の場合、キャステイング、シチュエーションは突拍子なくても、私自身はいかにも私がいいそうなことや、やりそうなことしかしない。つまりスーパースターの横に立っていることはあっても私自身がスーパースターになることはない。
拙著にも載せたK本の猫モッコの若かりし頃の写真。持って行ったら女将さんが冷蔵庫のドアに磁石で貼ってくれた。
石塚公昭HP
『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第6回