人形の勉強とか写真の勉強はできるだけしないようにしている。一度入った物は簡単には出て行かない。情報過多の時代、自分で身を守らなければならない。しかし他ジャンルに関しては別の話で、今一番の関心事は日本画である。イメージを絵にするためにはなんでもやってしまう、というところが頼もしい。Ⅰ枚の絵の中に時間経過まで描いてしまうし、自分のイメージのためには形だって変形させてしまう。 私はまことを写す、という意味の写真という言葉を蛇蝎のごとくに嫌ってきた。作品に関していえば、外側のことはどうでも良く、まことを画面から排除する事にひたすらファイトを燃やしている。 額にレンズを向ける念写ができるならば、粘土をこねくり回す必要もないわけだが、被写体まで作るという面倒なことをすることが、感心されるくらいなら呆れられたい私の最大の武器だと自覚している。夜中にこんな馬鹿馬鹿しいことは誰もやるまい、とほくそ笑む時、多量の快感物質がにじみ出すのを感じるのである。これも一種の中毒症状といって良さそうである。 これは単に制作上の話である。別の意味で呆れられても困る。
石塚公昭HP
『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回