明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



禅宗は不立文字という考え方故、その分視覚的な芸術的作品が残されているということなのだろう。臨済宗開祖、臨済義玄は、曽我蛇足の描いた凄まじい表情の”喝“に感じ、ただそれだけで作ってしまったが、まあ間違ってはいないだろう。 作家シリーズの時は、写真資料だけでは足らず、伝記、評伝の類を読みまくった。しかし、この千年以上前の人物は、蛇足の肖像画にしても、想像で描いた物だろうし、アプローチの仕方は同じ訳にはいかない。ただせめてどんな人物で、どんな言葉を残した人物なのかぐらい知っておかないと、あまりに無責任という気がしなくもないのだが、だからといって、臨済義玄の言葉を集めた『臨済録』を読むことは“考えるな感じろ”の妨げになりはしないか。という一抹の危険を感じているのである。蛇足の肖像画に感じ、作らずにいられなかった。これが全て、では足りないのであろうか。何て考えながら作り進めている。例によって誰に相談出来る話でもなく、今日も金魚をただ眺めるのであった。

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