明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



コロナ禍は、子供の頃に夢想した、王様に石の塔に幽閉され、ここで好きなことだけをしておれ、という機会を良くも悪くも私にもたらせたようである。単なる古典的説話として描くつもりでいた寒山拾得から、禅モチーフに寄って来てしまっているのも、おそらく偶然ではなく、理由があるに違いない。そう思うと自分の外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想という、その遙か昔、頭に浮かんだイメージにこだわりを見せた幼いあの頃から今に至る流れを最近考えないでいられないのも、妙な予感を感じてしまう。 今回どういう訳だか第一作となるであろう臨済義玄像の完成を前に、禅は不立文字というわけで、曽我蛇足の残した肖像画と私のへそ下三寸の判断のみで完成に向かうか、江戸川乱歩作品を読まずして乱歩像の完成はないように、義玄の残した『臨済録』を読むべきか、読まざるべきか。ちょっとしたきっかけで進行方向に変更が起きるものだから、人生も第三コーナーに差し掛かるとうかつなことは出来ない。

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