明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒山拾得がスムーズに出来ていたなら作らなかったであろう三人の仙人だが、結局全て作ることにした。カエルじみた蝦蟇仙人の顔を見ていたら、作って撮影したくなってきた。あまりに妙な顔である。頭に巨大な三本脚のガマガエルを頭に載せてるし。なんでこんなに大きくしたのか、頭に乗せたのか。前年まで長年写真見ながら実在した人を作って来た反動が、こんなところにも出ていたのかもしれない。一つには、有名な絵師がオリジナルだと思っていたら、大体写したり参考にした前例作品がほとんどに在り、そのことにもウンザリし始めていた。せっかく無責任?に創作出来るモチーフである。 開始前は歴史ある禅画のモチーフ、人形作って写真作品にする、という〝奇手”で充分。大人しく末席に、と考えていたが、末席に大人しく座るには、独学我流のならず者の出自がそうはさせず。達磨大師が、ここに新たな大師像を創作する面白さも見出せず、僅かにマックス・ローチのレコードジャケットのように〝だるまさんが転んだ”調に振り向かせたに留まった。全ての始まり、禅宗の開祖となれば、それも良いだろうと。



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今月中に仙人三人を含み11体全てを着彩、完成に持って行く。その後は、新たに制作するのは寒山と拾得、虎と豊干が寄り添い眠る『四睡図』のみとする。いくら作りたくても背中の火焔をかたわらに下ろして滝に打たれる不動明王など作ってはならない。今月中にそれが果たされたなら、5月以降は『四睡図』以外は撮影のみとし、亭主と半裸のカミさん或いは子供が夕顔棚の下でゴザを敷いてくつろぐ『夕顔棚納涼図』などに手を染めてはならない。  実景の撮影に南房総へも行きたい。『貝の穴に河童の居る事』でも使った。今回は海は必要ないけれど。陰影の出にくい梅雨時が都合が良い。 石塚式ピクトリアリズムの良い所は、陰影が出ないよう撮影した物を切り抜いて配するだけ、といえばだけなので、あっちこっちと、順次撮影しては、貼り付けて行けば良い。昨日も書いたが、被写体の出来が露わになる手法なので、写真を始める前のただ人形作っていた頃に戻ったような心持ちがする。朝ドラ、カムカムエブリバディではないが、このモチーフ制作に入り、人生一周したかのような〝回収”具合に驚くばかりである。個展予定のふげん社は、拾得が実は普賢菩薩の化身から来ているそうである。カムカムならありそうな話だが、こんなことは、策がないから金魚を眺めていよう、なんて人間にしか起きないことを私は知っている。



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