明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



田村写真の田村さんに、寒山拾得展のプリントを何点かお願いした。いずれ東京以外で展示出来ないか、と考えている。最初期のジャズ、ブルースシリーズで岡山と京都で展示したくらいで、後はせいぜい神奈川止まり、一度やったらそれっきりで来た。写真家など、結構同じ物を何年にも渡り、あちこちで展示しているのを知り、たまたま都合が合って来てくれた人だけに見せて終わりとは、とずっと思っていた。口の悪い連中に言わせると酔狂な物好きは東京にしかいないだろ? 手漉き和紙の用紙が急な値上がりで、簡単には使い難くなった。田村写真で仕入れてもらった用紙は、私しか使わないだろうから、この際、三島由紀夫のプリントもお願いしておいた。 寒山拾得を手掛けるようになり、以来、座禅一つ未経験の私ではあるけれど、横尾忠則さんのツイッターにはとみに一々ごもっとも。と思えている。その横尾さんの寒山拾得が9月に国立博物館で披露されるという。それに合わせて寒山拾得の歴史的名品も公開とのこと。10年単位で美術館に足を運んでいないが、これは行かずにはおれないだろう。また三島の篠山紀信『男の死』は本来三島由紀夫と横尾忠則さんの2人の写真集として企画されていた。

寒山百得展

 
 


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写るところしか作っていない作品は、一カットの写真作品のために作られているので、それ以上の作品は生まれようがない。特に使い回し不可の、特定のポーズをしていたらなおさらである。独学無手勝流の私は、前面を作り、ひっくり返して後面を作る、という特技?がある。それはかつて前面に集中してほとんど出来てしまい、我にかえって背面を作るなんて、恥ずかしいことを繰り返していたせいである。なので冷酷なくらい、撮影時、ほんの数度も振ることが出来ないくらい背面を作らず、それでも背面を作り足して問題は起きない。上半身だけで、と作っていたら欲が出て来て下半身を作り足した、なんてこともあった。書いていて、自慢にもならないことを、と思うのだが、一眼であるカメラで撮り、初めて成り立つ手法も生んだ。あらかじめ遠近感を強調して作ってあり、普通に作られた被写体では生まれない効果を生んだ。 という訳で、鯉にまたがった琴高仙人など、他に使いようのない作品の、首だけ引っこ抜いて、身体部分は廃棄処分とした。

 



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