明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



寒い。布団から出ず携帯でタウン誌の原稿を書く。明日は家から出ずに寒山と拾得の頭部の別バージョン制作の予定。 一つくらい髭のある寒山拾得があっても、と思うのだが、名品の中には見当たらない。それがたとえ爺さん風であっでも。腹の中に何もない、幼児性の表現だろう。同時に不気味に見える笑いの由来でもあるだろう。 横尾忠則さんの国立博物館での『寒山百得展』は百もの寒山拾得を描いたからだそうである。私も気持ち的には、そのぐらい描き倒したいようなモチーフである。しかし用いる手法が手法なので、そうも行かない。私の生来の性格、面倒臭がりからして、まさか粘土をちびちびちまちまと練り付けて行くような事になるとはまったく考えもしなかった。思い通りには行かないものである。18で入った工芸学校、リンゴを作る課題で、私を含めたど素人集団は、まずリンゴ大の粘土を丸めようとする。そうではなく芯を想像しながらやるのだ、とちびちびと。それからずっとその調子である。



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一休宗純は、堺の街を朱鞘の大太刀を持って歩き回ったという。理由を聞かれた一休「これは木刀で人を斬れない。今どきの僧と同じで、見かけは立派でも役に立たない」その太刀は、佐々木小次郎どころの長さでない、太刀を傍に椅子に座る一休像が何点か残されている。竹竿にシャレコウベといい、人騒がせな風狂僧である。〝大人向け”の一休を作りたい私としては、こちらもやってみたい。しかしシャレコウベを枕に酔い潰れさせた私としては、ただ残された絵画の立体化などは、例によって写真になるのだから面白くはない。 例えば褌姿であぐらをかき、肘には脇息、傍に酒器、後ろに朱鞘。 3点目のこれで一休のやり残しを無くすとするならば、背後に寝乱れた女の背中、などあしらいたいところである。詰め込み過ぎならば、同じ一休に、背景だけ赤鞘と寝乱れた女の二種、というのも一興かもしれない。ここまでやれたら、一休はもう良いだろう。



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