『臨済禅法系図』を見ると、誰だか判らない名前が並んでいるが、個性的な顔がいくらでもあるだろう。それは造形上のことだが、そこに様々な歴史的伝説が付随しているだろうし、また伝説だけは伝わっているが、可視化されてないエピソードなど写真のモチーフはいくらでもあるだろう。仏像制作者は現代でもいくらでもいるが、私は人間以外に興味はない。法系図を眺めると、まだ見ぬ手付かずの宝の山に、スコップの先っちょが触れたような気になる。 引っ越しを機に制作にかかわらない本は処分した。以降は制作のための資料以外活字は読んでいない。中学からは美術部にも入らず、もっぱら熱中して来たのは読書だったが、今は読書より面白いことがある。取り入れるより吐き出す時期だということだろう。そのうち資料すら読めない時期も来るだろう。その時は資料を必要としない、原点でもある架空の人物に戻ることになるだろう。その場合、自分の中にある人間の種々相を描くには羅漢図を作り続けて終わるのも良い、と薄々想像しているが、先のことなど所詮薄々である。