ずっと不思議だったのが、自信家でもないのに独学我流者が、一度入った物は出て行かない、と学ぶこと、知ることに対し、恐れを抱いていた事である。それは〝草木同様人間も自然物、肝心なものはあらかじめ備わっている“との思いもあり、それが現在の禅的モチーフに繋がった、と良い流れ形に収まったつもりでいたのだが。 昨日のブログを書いていて、知ってしまったことによりブレーキがかかり、快楽を阻害されるのを恐れていたのかもしれないと思った。写真の素人なのに廃れた古典技法オイルプリントにチャレンジし、バレエを一回見て翌年ニジンスキーで個展を開いてしまう一方で、鏑木清方作の圓朝の表情一つで疑心暗鬼に陥いる私は、たとえば臨済義玄は、今からなら絶対作らない。蘭渓道隆、無学祖元も、来年になればそう思う可能性が大きい。ファーストインプレッションで作ってしまえ、と。たとえそうであっても結果が悪かったことは一度もない。 後悔、反省は後でするものである。この調子で行けば、後悔、反省は死んだ後になりそうである。