明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

  


温像の立ち姿に着手しながら、まだ眉のことを考えている。写真の中で特に眉が太く濃く見えるのが3カット。一つは十代と思しき、写真館で和服で撮影した物。あとの2つは映画の撮影所に取材に訪れた時のものである。屋外の光線でたまたま影ができ、と思いたいところだが、それならば鼻の下に影がないのはおかしいことになる。 他の写真、中でも特に渡辺温といえばかならず使われる、有名な写真の眉は、どちらかというとあっさりしていて、濃い眉といえない。つまり眉を濃くしたら、多くの人には妙にみえてしまう、ということである。しかし温の妹滋子の証言によれば、温は俳優のメル・ファーラーに似ていたという。メル・ファーラーはどちらかといえばくっきりとした眉の持ち主である。 温は二十歳の時にパーマをかけ母親に叱られている。シルクハットをかぶり通勤したお洒落なモダニスト渡辺温は、眉をいじっていた可能性があるのではないか。なくはないだろうが、それはちょっと、という気もする。 これも写真館で撮影された坊主頭の子供時代の写真がある。これはほとんど眉が飛んでしまっている。あるとしたらむしろ足していたのかもしれない。結論としては太くはあるが、光線によっては飛んでしまう程度に濃くはない。 もう良いだろう・・・。

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渡辺温の頭部が完成する。昔のモノクロ写真には眉毛なのか、眉下の影なのか、1カットでは判断出来ない物がよくある。温の写真にも、眉の薄い物と、物凄く太い物がある。女性が眉をいじった効果を考えれば判ることだが面相が大分違って見える。こういった場合、だいたいは影ということになるが、影だと判っていてもイメージが違うので惑わされる。 これから身体全体の制作である。幸い立ち姿は独特の竹久夢二描く女性のようなS字の“休め”の姿勢なことは解かっている。その日たまたまそうしていた、ということは充分考えねばならないが、少ない写真の、さらに少ない立ち姿で2カットあれば、この人はこういう人だった、と判断しても良いだろう。写された瞬間をそのまま鵜呑みにしているようでは生きてる人間は作れないので、写される前後も想像しなくてはならない。写真はその日その時刻、たまたまそうだった、ぐらいに考えたほうが良い。被写体のこう撮られたい、という欲もあれば、しつこいようだが写真技師の“イタズラ”が加えられていることもある。

三島関連で、撮影用の秘策として友人に制作を依頼していた物が完成したとのメール。もうウンザリらしく、早く渡したいとのこと。気持ちは判らないではない。携帯から送られてきた画像を見ると、特徴を生かし上手く撮影していて、それを見る限り秘策は成功するような気がしている。

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一日  


朝起きて昨日のことが夢であれば、と思ったが夢ではなかった。渡辺温像の話である。昨日これは大変と制作を再開していたら、おそらく油汗をかくだけでロクなことはなかったろう。そこをあえてKさんと遅くまで飲んだおかげで、気分は新たになっている。 友人などとは、つい仕事の話になるが、最近、私の撮影現場によく立ち会ってるとはいえ、運送会社を定年まで勤め上げたKさんには興味がないだろうし(みごとに遠慮なく興味なさそうな顔をする)結局私がKさんの女性に関する身振り手振りを交えての話を聞くことに終始する。それも登場人物はだいたい決まっているし、ほとんど同じ話の繰り返しである。それなのにしょっちゅう顔を合わせ、今どうしてます、などと報告しあっている。これもKさんが常に楽しく愉快にしているものだから、こちらも愉快な気分に、ということであろう。

肝心の渡辺温だが、おかげで劇的に改善。渡辺温というと、このたび東京創元社から出た全集にも使われたカットが有名だそうだが、この人も様々な写り方をする。だからむしろそのカットとそれ以外は印象が違う。おそらく写真館で撮影したものだろうが、当時優秀な写真師は修正用の鉛筆一本で渡り歩けたというくらいだが、これがまた曲者で、夏目漱石の有名な写真の鼻筋に疑いを持ち、実はカギ鼻であって、危うく騙されずに済んだことは以前書いた。

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一日  


渡辺温像の制作がなくなったことで重圧が一つ減り、昨日は『白いばら』ということになったわけだが、本日はオキュルスへご挨拶をかね、温像制作断念、その旨を直接お伝えしなければならないと向かう。駅近くでT千穂の女将さんと会い「今晩うかがえると思います」。重圧がなくなり軽やかな私。 何年かぶりの高輪のオキュルスである。オーナーの渡辺東さんに、作るにはディテールが判らない雑誌の写真ではなく、写真を複写させていただいて、機会を改めて制作を、とお話したつもりであった。しかし小学生の頃、優しかった女先生のような東さんの笑顔で画像データの入ったCDを渡され、楽しみにしてます、といわれて作れませんといえるだろうか。私はそれをいいに来たのにいえなかった。プリント作品には温のイメージでシルクハットを使いたかったので、本人の遺品を撮影させていただき、そしてどういうわけか写真データの入ったCDを持って帰った私であった。 さて、じゃあ作るぞ、となかなかそうはいくものではない。一昨日の朝、完成したと思ったら、参考にしていた雑誌より、詳細な映像をネットで見て、一度モチベーションが切れている。こういう時はどうするか。Kさんである。私は制作のことを頭から忘れるためにはKさんと飲むしかないことを知ってしまった。幸いKさんは相棒?の私とここ数日会っていないのでT千穂から都合3軒ハシゴ。スナックのカラオケでKさん十八番の歌3曲も聞いた。リセットはOK。ただ酔いが覚めた明日の私がどう思うか、それは今の私には判らないのである。

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今朝起きた事情から少々気が抜けて実家から帰り、K本の常連のYさんとMさんと待ち合わせた銀座の和光前へ。未だに服部時計店前でとメールが着ていた。 急な雨の中、すぐ近くのモツ焼き屋へ。店名は忘れたが、亀甲宮ことキンミヤ焼酎が出てくるところが良い。三杯までという葡萄液みたいなもので割る焼酎を頼むと、9が焼酎、1が葡萄液という、葡萄はほとんど色を付けただけ、という物が出た。間にチューハイをはさみ三杯。レバ刺しもあった。 次何処行こう、というところで、どういうわけかキャバレーの『白いばら』へ。昭和6年創業というから反ナチス運動とは関係がない。何軒かとなりの青木画廊はお馴染みだが、ここは初めて。というよりキャバレー自体が始めてである。いや数十年前に沖縄で入ったのが、今思うとキャバレーだったかもしれない。席に着くと、えこひいきされたかのような美女が3人。プロのダンサーによるショーもあった。Yさんは生バンドで歌を二回歌っていた。聞いていなかったが、確か小林旭だったような気がする。キャバレーで小林旭というのは気持ちは判る。 本日数ヶ月ぶりに、一切何も制作せずに終った。本日のハイライトは美女3人ということで。

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二日ほど実家に帰り、渡辺温の頭部の仕上げに取り掛かっていた。オキュルスより送っていただいた雑誌の、小さく不鮮明な画像をたよりに制作を続けていたが、資料がないならないで、誰も生前の姿を知らないわけなので、自分なりのイメージを付加して完成させれば良いと思っていた。 ほぼ完成した頭部を持って来て、実家で仕上げの二日目。もうそろそろ良いだろう。今は朝の5時すぎであるから、正確にいえば今日。家に帰って胴体部分の制作に入ろう。そう思ってたまたまネット上の映像を見ていたら、渡辺温の生写真、もしくは複写された写真が写った。それは雑誌に掲載された物と同じカットであったが、顔が1センチもない印刷と違ってちゃんと目鼻がハッキリ写っていた。それは私が想像して制作を続けていた顔とは違っていた。 つまり制作するには、現在ベストの状態ではないということを知ってしまったわけである。印刷物でなく、複写された写真を拝借して作れば、もっと良い渡辺温が作れることは間違いがない。ただ今からでは時間がない。さっきまでようやく頭部が完成したと思っていたばかりなのでなんともいえないが、温像の完成はまたの機会にし、『渡辺温オマージュ展』には、プリント作品2点ということにしたいと思っている。 渡辺温像を期待されていた方がいたら大変申し訳ないが、納得できないものを見ていただくわけにはいかない。それが怖くて連日朝まで制作していた。

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一日  


ツイッターのリツイートの意味が判ったのはつい先日だが、厄介なのがフェイスブックである。なにを思ったかアドレスを携帯にしてしまったのが間違いの元であった。PCのアドレスに変更してみたが、未だに時間かまわず携帯の方に「最近ご利用いただいていないようですが」というメールが来る。携帯ではネットをやらないのだが、PCとの連携がどうやっも上手くいかず、何もできない。リクエストも頂いているようだが申し訳ないと思っている。トラックバックの意味も解からずじまいであるから、元々向いていないのであろう。
『潮騒』の宮田初江をやってもらったAちゃんは、撮り方によって様々な写り方をするので、何人か撮ったように見えやしないか、と思ったが、母親にいわせるとどれもAにしか見えないという。 制作中の渡辺温のように残された写真が少なく、小さく不鮮明な画像で良く似た兄弟がいるせいか、同一人物に見えないカットがある。いくら写真を見ていても迷走するばかりであった。ところがそうこうして別人のようなカットとカットの間に、作るべき顔が現れて来る。こうして頭の中でピントが合うと面白い物で、今度はどれを見ても渡辺温にしか見えない。

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