明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 




個展終了後、寝てばかりいる。何年か前のように、寝床に本をばらまいて、寝心地を悪くして、なんてことはさすがに無理だったし、しなかったが。映画三島VS全共闘をまたやっているそうなので、どうしようか、と思っているが、行かないままになりそうである。討論内容には興味がないし、おそらく嬉しくてたまらない三島の表情が見たかっただけであり、もし学生達に万が一襲いかかられ殺されても、それも有りだな、と目を耀かせていたに違いなく、そんな所しか興味がない。 三島が亡くなる直前まで篠山紀信に男の死を撮らせていた事を知った時の嬉しさは、三島の研究家はいくらでもいるが、その文学についてはともかく、私こそが最も三島個人を平岡公威を理解している、とうぬぼれた。非常にピンポイントではあるけれども。篠山紀信は、男の死について、三島がすべてシチュエーションを考え、ただ撮らされているようでつまらなかった、といっている。おそらく逆に被写体に徹した細江英公の薔薇刑が頭にあったに違いなく、男の死の次に三島に提案すべき次回作の構想がすでにあったはずだ。三島に死なれて相当なショックであったようだが、その半分は次回作が不可能になったことへのショックだつたろう。写真の最大の欠点は被写体が無いと撮れない事である。いや被写体のピークを見抜く天才が、三島の本気に気付かなかつたショックかもしれない。 10月に出版されればインタビューの際に幻となった次回作について漏らすのではないか?その構想は薔薇刑を超えていないとならず、私としては、五十年後に発表という大外しをしてしまったが、さすが篠山紀信だ、と密かに感服してみたい。



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好機  


私の周囲にも大本営発表を従順にとらえてコロナに対してビビリまくって、自転車を買い、未だに電車に乗らず怯えている人がいる。どうも今後、完全な収束などなく、共存の道しかないようだが。岩礁のウツボのようになってしまっている人は、どんなタイミングで顔を出すつもりなのか。納得するまで自粛していられるのならそれも結構だろう。コロナでは死なないかもしれないけれど、という気がしないでもない。それにしてもコロナ以降、実はこういう人だったのか、と思うことが良くある。 私はというと、何故かコロナに乗じて、今までしたことがなかったことを始めるには絶好の機会だ、という気がしてならない。いい方変えればいドサクサに乗じ、コロナのせいにして、ということにもなろうが、きっかけはなんだってかまう事はない。アマゾンで扇風機を買ったついでに、簡単なキーボードを買ってしまった。モハメド・アリが、対猪木戦の前に、ホテルの部屋にピアノを持ち込み、ブキウキを弾きながら、猪木を挑発していた。これなら私にも出来ると当時やってみたのを思い出した。ジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャードを目標に。

 

Muhammad Ali playing the piano

 

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病気  


ようやくこれから展覧を、といっている方々を尻目に、サッパリしている私である。次は寒山拾得を、とは、なんとなく思っていたが寒山拾得詩集を引っ越し先に持って来なかったくらいであった。やはり大きかったのは、葛飾北斎、松尾芭蕉を石塚式ピクトリアリズム化したことと、さらに三島を椿説弓張月の歌舞伎絵調の中に描くことができたので、ハッキリ口にできた。そういえば、一々陰影を出ないように撮影し、というのが嫌で、飯沢耕太郎さんにネーミングをお願いして3年は経つ、仕方がないので石塚式ピクトリアリズムとした。 もし私に不安があるとしたら、寒山拾得より派手な月に虎図だ風神雷神図だ、いや、いっそのこと、とエスカレートしていってしまう可能性が大いにあることである。その場合は、熱帯魚や糠床同様、当ブログでは、しだいに寒山拾得に言及しなくなり、なかったことにして澄ました顔をして終わる、なんて可能性がなくはない。すでにご近所のトラ猫を猛虎化に成功し、後は龍か、と。 厄介なのは、夜中に猫を虎にしていて“今、地球上で、こんなバカなことをやっているのは私だけだろう”と考えた時、脳内から快感物質が溢れ出てきて酩酊状態になる、という病を持っており、さらに問題なのがその場合、良い悪いについては一切頓着しない、ということである。 椿説男の死は、三島にウケることしか考えなかった、といって来たが、これがまさにこの病が私にいわせていたことである。どう考えてもそんな動機で制作した物を人様にお見せして良いわけがない。ところが、そうして制作した個展が、もっとも結果が良かったのだから、やはり一つくらい病を持つべきだろう。病気は一つじゃないだろ、という向きもあろうが、それはすべて、その病が引き起こす合併症という奴である。

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冷蔵庫の食料もほぼ尽きたし、クリニックにも行かないとならないので、明日には外出しよう。 10月にニューヨークで出版される篠山紀信、男の死だが、死の一週間前、企画者と出版契約を済ませたタクシー車中、三島は、右翼の奴等今に見ていろ、ともらした。右翼を自称する三島の尻馬に乗るだけの連中、その他。中曽根康弘など、政治家、その他訳知り顔の連中に対し、魚屋やヤクザや体操選手の死という、三島本人以外には無意味な(意味がないほど効果的)死を演じて見せ、ザマアミロ、と頭から冷水を浴びせかけてやるつもりだったはずである。それが二の矢であり、三島好みの悲劇を演出した死後の締めとなるはずだったろう。つまりあの事件直後でなければ意味がない。私はそれに対し、ずっと繰り返して来たように三島の無念を想う。 私の周囲の人間は三島と男の死について10年以上こだわって来た私が、ようやくあれが見られる、と喜こんでいると考えているようだが、まったく違う。今頃になってなんてことをしてくれる、と思っている。何しろ、つい先日まで三島にウケるためだけに制作をして来た私は、おそらく少ない情報から推察するに、三島以外には無意味な死が羅列されており、このことに関しては誰よりもわかっているつもりの私としては、三島が喜んでいるところは見たい。だがしかし、三島の思い描いた効果の全くない50年後の公開を考えると私には直視できる気がしない。 被写体のピークを見極める天才篠山紀信、なのになんて大外れなことをやらかしくれる、というのが私の正直なところである。

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次は何故寒山拾得なのか?ふげん社での飯沢耕太郎さんとのトークショーでも、自分でも良くわからないと答えている。ところが私はすでに知っていた。それが判ったのは本日早朝である。ブログはその日のことはできるだけその日にアップしたいが、どうしても翌日の午前中に書くことがある。そこで何気なく“画題からシャッターチャンスまで、すべて自身の中に在ることを寒山拾得で証明してみたい。”とスラッと書いて、あれ? 私は常々、人間も草木と同じ自然物てあるから、様々なことがすべて備わっており、下手な頭を使わず、胸に手を当ててその声に耳を澄ませていればよく、見聞を拡げるため外の世界に旅に出る必要もない。私は、その声を一度たりとも聞き逃したことはない。そんなことを書くたび、出不精、怠け者の言い訳のようになってしまうのだが。友人との回覧文を書いていた時のペンネームは、武松亭礼二、つまり無精でレイジーであった。それはともかく。 何気なく寒山拾得たる理由をポロッと書いて、なんだ知ってるじゃないか?と。既存の実在した人や事を素材に表現するのはもう充分だろう。それが表層の、程度に難がある頭にいわせると作りたい作家がいなくなってきた。となるのかもしれない。 そういえば何度となく書いて来たが、幼い私は夢見ていた。どこかの王様に石の塔に幽閉され、算数や宿題なんてやらないで良いからここに一生おれ。そこには色鉛筆やクレヨン、画用紙が尽きることなく、図書室まである。ステイホームが苦にならないはずである。つまり私は生まれながらに秘密を知っていたことになりはしないか?単なる好きなコトしかしたくないただの怠け者と判別が付きにくいのが残念ではあるけれども。

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コロナ騒動の中、2度も3度も足を運んで頂いた方もいて、更に見たこともない未発表写真など見せていただく機会などもあった。個展という形で公開するつもりでいながら、実は観ていただく方のことなど眼中になく、50年前に亡くなった人物にウケたい、という妄想の元制作を続けるという。私にしても少々特殊な個展となった。制作中は私と三島の二人の世界と言って良かったが、篠山紀信氏撮影の薔薇十字社版男の死が撮影から50年を経てニューヨークで出版されるより4ヶ月早く珍説、異説版男の死を発表することができたのは、明らかにそんな私に対する三島からの褒美であることは100%間違いない。私には判る。それはひとえに集客を望めない状況で、延期でなく決行を選択していただいたふげん社のおかげといってよく、それは社長が、少女時代に三島についてびっしりと書いた大学ノートが、遠因となっている気がする。 ここ数年来試みて来た私の大リーグボール3号こと石塚式ピクトリアリズムも、今回で手法的には完成の域に達したといっていいだろう。といっても陰影を出さずに撮影し、切り抜いて貼るだけだが。これでなんの躊躇もなく、頭の中のイメージを取り出せることを私は知ってしまった。 不思議な連鎖は、私にはお馴染ではあったが、今回は格別であった。篠山版男の死出版の影に怯えて急いだ2011年の男の死展。それも出版の可能性がないと知らされ没後50年も気付かず開いた会期中に篠山版の11月出版を知る。次の個展は寒山拾得、といったら、ふげん社は、拾得は実は普賢菩薩である、という普賢から来ている、という。これでは、他の画廊でやったらバチが当たる、という所でニ年後の個展が決まった。これはひょっとして、と数えてみたらきりがいいにも程がある私の個展デビュー40周年である。ここまでくると、はるか上空の客観的な存在を信じそうになるが、決してそうではなく、画題からシャッターチャンスまで、すべて自身の中に在ることを寒山拾得で証明してみたい。 いつだったか、この個展が終わるまでは、クリニックをサボらず交通事故に気をつけよう、と書いたが、とりあえず今後二年間、サボらず気を付けたい。

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私の人間の好みは一言でいって過剰な人間である。それは様々な意味であり、通常サイズからはみ出した存在。やり過ぎ、大き過ぎ等々。今は東大関係者でも簡単には見られないという標本室に出かけたのは、巨人力士、出羽ヶ嶽 文治郎の骨格標本を観に行ったのであった。亡くなった後、奥さんがアワアワしているうちに東大に運ばれ解剖されたそうだが、なのにぞんざいに扱われ、いつか段ボールに入った馬の骨のような物が出てきた、と報道された。しかしそれは見られず、代わりに別の意味の巨人、杉山茂丸の骨格を観ることになった。 私が小学生になり図書室に入り浸り、伝記、人物伝の類を読み漁ったのも、そこらに転がっている普通サイズの大人達に早くもうんざりしていたからであった。おかげで未だに人間以上に興味深い物はない。子供の私が残念だったのは、偉人伝など、全て現場を目撃した人が書いていると思い込んでいたので、私がいくら桜の木を折ったところで見ていて書いてくれる人がいなけりゃしょうがない、とがっかりしていた。 それにすっかり騙されてしまったのは、人が誰もやれないことをするのが偉い人だ、というのは、少なくとも日本では違うだろう。せいぜい家元のように2、30人の上に君臨するくらいが程が良いようである。 という訳で、三島由紀夫である。これ以上過剰という言葉が似合う人物はいない。やり過ぎる人がいなくなったら世の中は全くつまらない。サイズ的には三島は小さかったけれども。
明日いよいよ最終日です。








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道程  


個展は明日、明後日までである。良い悪いを別にすれば、他所では観ることができない景色が並んでいることだけは確かであろう。何しろ私の眉間にレンズを当てる念写の試みであるから、誰も見たことがないのは当然である。そして2年後には写真展のタイトルに有るまじき寒山拾得展である。 初個展から38年。人形を作り始めてからは40年であろう。私に誇れる事があるとするならば、モチーフも含めて作品の変わり様である。 陶芸家を目指していた頃、二十歳で岐阜の山にある製陶工場に努めた。周囲には若者などおらず、技術もなければ何もない。目指す道のあまりの遠さに酔っ払ってあぜ道に落ちたりしていた。翌日工場に行くとみんな知っていた。 あの頃の私に、ふげん社の作品を、私の人生上の最突端だと見せたらどう思うだろう。まず写真嫌いのメカ音痴、信じないだろう、しかし幼い頃からの無類の伝記、人物伝好き。人物のラインナップに私らしさを見るかもしれない。少し信じ始める。工芸学校で石膏デッサンなど二十枚くらいしかやったことがないし、何かを見ながら作るなど子供の頃から苦手である。そう思うとよくやった、と多少感心し始めるかもしれない。だがしかし、ここまで来るのに約40年かかったのだ、と私は言い出せるだろうか。憐れになって言い出せないかもしれない。激昂して私をあぜ道に叩き落とす恐れもある。 子供の頃、何故年寄りはあとちょっとで死んじゃうのに、平気で八百屋に買い物行ったりできるんだろう?と思っていた。まあ、急に年取った訳でもなく、その道程を知っているから納得している訳である。 何も二十歳の私の前に急に現れ、わざわむごい仕打ちをすることもないだろう。



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一日  


私の三島由紀夫の最古の記憶はというと、テレビのスタジオで三島と中村メイコが並んでいる。右に三島。モノクロテレビであったが、グレーのスーツを着ているように見えた。ここからは怪しいのだが、二人は遠い親戚だという。そんな話は聞いたことがないから、捏造された記憶であろう。 やり終えてしまった今、三島について書くべきことがない。何しろ制作開始から十年以上思い続けたモチーフである。完成してしまえば、あれだけ三島三島言っていたのに背中を向けて煙草一服の私である。もっとも、この性格のおかげで次に向かえるのだが。 椿説男の死の会場で寒山拾得の図版など眺めていると、背中に妙な気配を感じるが、だから会期が終わるまで、せめて作り始めませんよ。と気配に対し。 つい先日まで、洗濯物を干していても、私と洗濯物の間には三島が挟まって、三島越しに洗濯物を見ている始末で、三島という存在に覆われて生活している状態であった。終わったからといってすぐに作り始めることはできないだろう。本当に終了感が湧いて来るのはもしかすると10月にニューヨークで出版されるという篠山紀信版男の死を初めて目にする時かもしれない。最も、さすがにその頃になると、薄っすらと寒山拾得越しに世の中が見え始めていることであろう。 今回も先日ユーチューブで歌って踊っているのを見たばかりの今拓哉さんと岩崎宏美さん夫妻に来て頂いた。車で犬を連れてきたので、交代で。相変わらず宏美さんは歌声と会話が同じ声である。いつでも被写体になりますよ。こういうのは無理だけど。とゲンセンカン主人の半裸の女を。 2年後にふげん社で個展をということに。帰宅後計算してみたら、初個展から40周年ということになる。まったく誰だよこんな絵図を書いているのは。









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私が小学生の時に、百科事典ブームがあった。私の家にも小学館の事典が来たのだが、小学校から中学にかけて、それを一往復は読んだ、端から順番に読むのが面白かった。母はしょっちゅう私がそれを読んでいたことを覚えている。それを見て寒天を買ってきてもらい、牛乳を使った和菓子を作ったこともある。特に印象が残っているのはシャンソンの項が妙に詳しかったことと、別巻の美術で、シュールレアリズムを知った。何か懐かしさのような物を感じたのを覚えているが、その体験から、子供にこそストレートに感じさせるものがあると思う。それともう一つ、ボディビルの項に載っていたのが三島の上半身で、子供心に異様に感じた。貧弱だったし。 これは後年知ったのだが、その事典を編集したのが、戦後の短歌を演出した名編集者中井英夫なのであった。虚無への供物には三島をモデルにしたと思しき人物も出てくる。私は中井も作ったが、ご丁寧にも若い時代と晩年の二種類作った。私を夢中にさせた理由がこれでわかった。 ジヨン・ネイスンの『三島由紀夫ーある評伝』(新潮社)に“小学館の百科事典の編集部が、「ボディビル」の項目に載せる写真にポーズしてくれないかと依頼してきた。三島は友人の久保に、それを人生でいちばんうれしかった瞬間の一つだと語った。書斎の三島の背後に並んでいるのが、あの百科事典かもしれない。
※最終日まで2時以降会場におります。



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奇縁  


三島ともなると数々の偶然を招く。没後何周年の度に篠山版男の死出版の影に怯え、2011年にギャラリーオキユルスにて三島へのオマージュ展男の死を開催したものの全てを出し切れず。そして今回の個展である。実は数年前、篠山版は、三島の奥さんとの約束で出ることはない、と確かな情報を得ていた。それが今回の椿説男の死の会場で、ニューヨークで10月に出版されることを知るとは。もしふげん社が会期延長をしていたなら。私にすればコロナで人が来ないなどとは比べることの出来ない大打撃を被るところであった。 本日帰り際に、ふげん社社長の、少女時代の三島についてびっしりと書かれた大学ノートを拝見した。内容はというと、怖くて?読むことが出来なかったが、このノートがそもそもふげん社で私が椿説男の死を開催する遠因になっていたことは間違いない。そして4ヶ月とはいえ、篠山版男の死より先に発表出来たのは、三島本人にウケることだけを何年間も考えてきた私への、三島からの褒美だと解釈している。そしてこうしたことは連鎖するものであり、男の死をすでに卒業した私からすれば、寒山と拾得が実は普賢菩薩、文殊菩薩の化身であり、そこからふげん社が名付けられたという奇縁の方がすでに大きくなっている。 数々のヘマ失態を犯してきた私だが、はるか上空の棚から降って来るぼた餅を取り落としたことはただの一度もない。拾い損ねているようでは何も引き寄せることは出来ないのはいうまでもないだろう。


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