個展終了後、寝てばかりいる。何年か前のように、寝床に本をばらまいて、寝心地を悪くして、なんてことはさすがに無理だったし、しなかったが。映画三島VS全共闘をまたやっているそうなので、どうしようか、と思っているが、行かないままになりそうである。討論内容には興味がないし、おそらく嬉しくてたまらない三島の表情が見たかっただけであり、もし学生達に万が一襲いかかられ殺されても、それも有りだな、と目を耀かせていたに違いなく、そんな所しか興味がない。 三島が亡くなる直前まで篠山紀信に男の死を撮らせていた事を知った時の嬉しさは、三島の研究家はいくらでもいるが、その文学についてはともかく、私こそが最も三島個人を平岡公威を理解している、とうぬぼれた。非常にピンポイントではあるけれども。篠山紀信は、男の死について、三島がすべてシチュエーションを考え、ただ撮らされているようでつまらなかった、といっている。おそらく逆に被写体に徹した細江英公の薔薇刑が頭にあったに違いなく、男の死の次に三島に提案すべき次回作の構想がすでにあったはずだ。三島に死なれて相当なショックであったようだが、その半分は次回作が不可能になったことへのショックだつたろう。写真の最大の欠点は被写体が無いと撮れない事である。いや被写体のピークを見抜く天才が、三島の本気に気付かなかつたショックかもしれない。 10月に出版されればインタビューの際に幻となった次回作について漏らすのではないか?その構想は薔薇刑を超えていないとならず、私としては、五十年後に発表という大外しをしてしまったが、さすが篠山紀信だ、と密かに感服してみたい。