明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



錦糸町駅から鎌倉に向かう。先月、鎌倉で食事会があり、その道中でスマホをなくして面倒なことになった。結局スマホは出てこず。 車中つらつら考えるに、現在手掛けている世界では、例えば袖口から金色の龍が現れようと「そんな訳ないだろ。」などとは誰もいわない。それも何百年、千年と伝わって来たエピソードであり、講釈師や戦前の教科書の与太話とは趣きはだいぶ違う。 鎌倉五山第一位の建長寺に到着。門をくぐるだけで歴史の圧力に圧倒された。道端にはあの歌に出てくる〝さざれ石“まであるし。ポケットには開山蘭渓道隆の首。広大な敷地には写真として画になる風景だらけだが、被写体を作って臨んだ私からすれば、写真として画になれば良いという話ではない。戦災、天災で建立当時の物は国宝の鐘と蘭渓道隆手植えのビャクシンの巨樹だけだそうだが、七百数十年経って巨樹に変化したビャクシンの前に蘭渓道隆師を立たせてこそ、被写体制作者冥利に尽きるというものである。本日の目的はビャクシンの巨樹のみ。 火災などの有事の際に投げ込んで寺宝を守ったという池を眺めしばし陶然とす。



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臨済宗開祖『臨済義玄』の修正。着彩を残し終わった。いわゆる〝怒目憤拳“怒りに満ちた表情に左拳を握り締めている。口は喝!と発しているのだろう。 開祖なのに何故だか肖像を検索してもほとんど出てこない。立体に至っては中国のへんな胸像くらいである。中国の検索エンジンでも同様であった。 知られているのは中国のある僧が注文して描かせた肖像画が日本に渡り、大徳寺周辺から流布していった物である。オリジナルはおそらく残っていないのだろう。下手くそな物も混ざるうち、私が参考にしたのは一休宗純が賛を書き、弟子の曽我蛇足が描いた物である。立体化したものの、あまりにも無いので、臨済義玄が私の肖像は残すな、と言い残していたのではないか?と思うくらいで、だとしたら、悪いのは私ではなく曽我蛇足であり、一休和尚である。 切断された女の脚を風船に結んで、浅草寺上空を飛ばした時も思った。「私じゃない!乱歩が『盲獣』にそう書いてるんだから。」



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今まで写る部分しか作らなかった一休和尚、展示を考えたおかげで思ったより時間がかかった。面倒かけさせられた分、タダでは済まさない、とばかりに、何処からでも撮れるのだから、バストアップや、横からとか撮っておこうと考えている。バリエーションを増やすため、笠は固定せず、手に持たせたり背中に背負わせたり試したい。本来展示だけを考えていた竹竿にシャレコウベも、今作っている雲水姿の方が似合うので撮っておきたいし、撮影用の朱塗りの大太刀は、構図を考え、腰に差すのではなく、当初の予定通り手に持たせることにした。瓢箪や笠、竹竿や大太刀など要素が多く、しかも大きさを変えて作り直したりしたので、二転三転してようやく。明日には草鞋を履かせたい。 ゴジラを観に行きたいのだが、なかなか出かけられない。最近の怪獣は大き過ぎで怖さが自然災害の怖さである。現代兵器に合わせて巨大化したのだろうが、大魔神やサンダ対ガイラの怖さがない。時代を過去に設定するしかない、と思っていたし三丁目の夕日のゴジラが良かったので期待しているのだが。たまには気分転換も、といわれるが、そもそも転換などしたくないのである。



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先日日本橋まで行って検査をしたが、CDのデータを送られ、要再検査となり、来週また行かなくてはならない。何も出ないはずがない、と思いながら良い気分ではない。しかし万が一のことあれば、長期的な夢など持っていなくて良かった、と思うことだろう。 作りたい物がサメの歯のように、常に出番を待っている私は、それが仇になり、あれが作りたかった、これも作れば良かった、と死の床で後悔に身を捩りながら死んで行くのは決まっている、と昔から嫌でしょうがなかった。しかしここ数年、先のことなど考えず、ちょっと先に作るものだけ考えていれば、途中挫折の可能性が低くなる、と思い付いて以来、気分は軽くなった。いたずらに、いつかこんな物を作ろうなんて妄想してはならない。始めるならすぐである。なので今作っている物が完成するまで、賞金首のリストを眺めるリー・ヴァン・クリーフのような顔して『臨済禅法系図』を眺めてはならない。



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一休和尚、とっくに草履履かせて着彩を残すのみという予定だったが、肩にかけた本物の小さな瓢箪の形が気になり出し、背中に背負うはずだった笠を手に持たせることにしたり、そうなると笠の大きさ形が合わない気がする。傘を一回り大きくすることにし、今までの笠を型にして上に粘土を貼り付けて作り直した。失敗した時は、悔し過ぎるので、失敗して良かったと思うまでやる。 高校の夏休みのバイトで安全靴を履いて鉄材運びをやったが、痩せたジジイがヒョイヒョイやってるのに、まったく歯が立たない。ようやくコツを掴み出した時には夏休みは終わった。その時、なんとなく人生も〝夏休みのアルバイトの如し慣れた頃に終わる“ような予感がしたのを覚えている。本日もある作業をやっているうちに慣れて来て、完成したのにやり直すことになった。 一方の制作人生では、人と比較することことがないので、幸い夏休みのシジイのような存在は現れず、面壁するのみである。ジジイといっても今の私より二十は歳下であったろうけれど。



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『臨済禅法系図』を見ると、誰だか判らない名前が並んでいるが、個性的な顔がいくらでもあるだろう。それは造形上のことだが、そこに様々な歴史的伝説が付随しているだろうし、また伝説だけは伝わっているが、可視化されてないエピソードなど写真のモチーフはいくらでもあるだろう。仏像制作者は現代でもいくらでもいるが、私は人間以外に興味はない。法系図を眺めると、まだ見ぬ手付かずの宝の山に、スコップの先っちょが触れたような気になる。 引っ越しを機に制作にかかわらない本は処分した。以降は制作のための資料以外活字は読んでいない。中学からは美術部にも入らず、もっぱら熱中して来たのは読書だったが、今は読書より面白いことがある。取り入れるより吐き出す時期だということだろう。そのうち資料すら読めない時期も来るだろう。その時は資料を必要としない、原点でもある架空の人物に戻ることになるだろう。その場合、自分の中にある人間の種々相を描くには羅漢図を作り続けて終わるのも良い、と薄々想像しているが、先のことなど所詮薄々である。



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架空のミュージシャンから始まり、実際したミュージシャン、実在した作家のシリーズと移行して来たが、幼い頃から写生など、目の前の物を見ながら何かを描いたり作ったりを嫌って来た私としては、過去の人物を、写真を参考に作るということは、私らしさを失うことになる、と思い込んでいた。当初の架空のミュージシャンシリーズは、未だにあのシリーズが良かったという方がおられるし、テレビ出演もしばしばあった。まさに童貞でなければ成せない作品であり、実在した人物を写真を参考に作ることは、私にとって、童貞を失うに等しい覚悟であった。その代わりに、写真を始めたこともあり、その人物に対する解釈を表現する面白さを手に入れた。 写真を参考にするのは頭部だけで、あとは好きにやらしてもらって来た。人物制作の8割は頭部制作に費やすが、紙幣に人物像が使われるのは万人にとって人の顔が最も微妙な異変に気がつく物だからで、花鳥風月ではそうは行かない。



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『臨済禅法系図』なる物を見た。臨済義玄から始まる禅僧の一覧である。たった数人てがけただけで、ラインナップだバランスだといっていたのが恥ずかしくなった。 制作に充分な解像度を持った頂相をと思うとどうしても臨済宗ということになる。残された高僧の肖像は皆個性的である。人間の顔貌は時代と共に変化するが、昨日日本から長い顔がいなくなった、と書いたが例えば作家の顔にしても受賞作家一覧など見れば明らかだが、ほんのわずかな年月で個性が薄くなっている。文学研究者はいくらでもいるが、その顔を穴の開くほど見続けた私からすると、そう思う。 法系図を眺めながら、小学校の図書室と出会い、伝記、偉人伝に夢中になった私の原点について思い出す。また私が最初にブルースをモチーフにした人形を作り出したのは、高校の時にブルースブームが起こりこの雑誌でプロレスラーみたいな芸名のジャズマンとは異なるツラ魂を持った男達の一覧に打たれたからであった。



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栄西とおそらく面識がある同時期の僧は有名な木像がある。何故栄西にはリアルな像がないのか不思議で仕方がない。記憶を高める修行のために頭が12センチ伸びたという伝承があるのを知ったが、栄西の実際の頭の印象から生まれた伝説なのだろうか?小学生の時、山崎ペッタというあだ名の同級生がいて、先生が赤ん坊の時、横向きにばかり寝ていたのだろう、といった。ドーナツ枕はまだなかったのか。今ならありえない教師の発言だが、色黒の生徒に〝石炭“というあだ名が付くような時代の話である。 江戸、明治生まれに散見された長い顔が日本人から失われて久しい。以前作った〝劇聖“九代目市川團十郎だが、最初に見た外国人の描いた石版画は、こんな長い顔がある訳ない、ふざけるな、と思った。なので何があるか判らない。 伝承は無視は出来ないが、残された像だと、頭頂部が平らすぎる。作るなら微妙に丸めたい。頭の形は重要である。ついでにいえば、額の複雑な曲面をないがしろにすると、その人にはなり難い。



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一休宗純の笠の仕上げ。後は草鞋を履かせればおおよそ完成である。雲水姿で竹竿にシャレコウベの一休、これが小学4年の時にイメージした一休和尚である。とにかく汚いという印象であった。印象といえば、なんといっても横目でこちらを見る一休の肖像画である。 一作目では正装でシャレコウベだったが、その一カットで一休は終わるつもりだったので、そのコントラストが面白いと思っていた。写真作品としては、こちらは朱塗りの大太刀を腰に差す予定である。横に乞食や夜鷹を配するつもりだったが、やはりくどいだろう。思いとどまる。犬も考えたが室町時代の犬といえば弓で射る競技が流行ったり、食用になったり、犬にはなかなか受難の時代だったようである。 久しぶりに人形もちゃんと展示したい、と考えているので写らない背後も作っているので随分時間がかかってしまった。写真作品だけを考えるなら今後も写るところだけで、被写体制作と撮影の二刀流のメリットを生かしたい。 風狂といえば一休宗純であるが、平面から立体化し、それをわざわざ陰影のない平面的な写真作品にする訳で、作者の方は酔狂ではないか、といわれそうだが〝感心されるくらいなら呆れられる方がマシ“な私であった。



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作家シリーズ第1回目の『夜の夢こそまこと』(98')は、江戸川乱歩、稲垣足穂、澁澤龍彦、谷崎潤一郎、村山槐多、泉鏡花、永井荷風というラインナップだったが、乱歩と足穂、禿げ頭が2人いたので、内田百閒を避けた。後年、あの顔が泣きべそかいている顔を作りたくなって『ノラや』を実物の猫を使って作品化を考えたことがあった。手持ちの夏目漱石にも役を与えて登場させることまで考えていたが、構想だけで終わった。 作業机の上に臨済義玄義玄、蘭渓道隆、無学祖元、一休宗純と並ぶと、やはり栄西が、という気がしてくる。栄西の頭は修行のために伸びたことになっていることが判ったし、渡来僧である蘭渓道隆自身が、自ら栄西の後身だと任じていたらしいからである。禿げ頭といい伸びた頭といい、ラインナップ決めるのに頭は肝心ということか。



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雲水姿の一休和尚は、酒の入った瓢箪を肩に掛け背中に網代傘なるものを背負っている。松尾芭蕉で一度作ったが、今回は卓上ロクロで回転させながら作ることにした。思えば陶芸家を目指したのは工芸学校含めおよそ4年間であったが、その経験が生かされたわずかな機会である。そう思って指折り数えると。 昔写真家の吉田ルイ子さんのお宅で飲み会があった時、蕎麦打ちをやる方がいて、蕎麦粉を練る時に、試しに粘土の要領で菊練りというのを試させてもらった。それは粘土を混ぜるだけでなく、空気を抜くためのものだが、同じように出来た。 馴染みの飲み屋でレコードプレーヤーを出して来てレコードをかけようとなったが、ドーナツ版に必要な、なんと言ったか真ん中のアダプターがない、というのでかけるたびに、私が指でツンツンと芯出ししてターンテーブルの真ん中にレコードを配した。岐阜の製陶工場で皿の絵付けのために散々やった。改めて考えると、今日を含めてたった3回しかない、という寒々しい結果となった。まあ粘土と出会った、ということで良しとしたい。もっともそのおかげで、写真作品制作の98〜99パーセントは被写体制作に費やしている。



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臨済宗の高僧の詳細な肖像を残す、という習慣がいつからなのかは判らないが、日本に禅をもたらせた栄西の頭がどう考えても実際の形の訳がない、円筒形の臼状で、それも、作るに至っていない大きな理由の一つであった。頭を意図的に変形させた古代ペルーではあるまいし。 しかし浄土宗の法然頭ではないが、特徴的な形は、何か高僧の能力を象徴しているかのようでもある。すると栄西の場合は、記憶力を高める修行の結果、四寸ほど頭が伸びた、という伝承があるらしい。 夏目漱石が写真師に、鷲鼻を修正させたのは許さなかった私だが、たとえ伝説だろうと、公式に?伝わっている、と判れば異を唱える気はさらさらない。風狂僧のイメージで、一休和尚にシャレコウベ枕に寝させてしまった私だが、顔に関しては事実にこだわりたいところである。



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一日  


スマホ、なんとかアドレス帳は回復。メールも3週間ぶり。消えた物も多かった。ムカつくことばかりだが、スマホをなくした私がそもそも悪い。ここ何年もほとんどこちらから電話することないし、掛けて来る人もわずかなので、驚くほどそちらは困らなかった。 ニュースで鎌倉の建長寺で、数日寺宝を公開しているらしく蘭渓道隆の肖像画が映って驚く。こんな時はこんなものである。出不精の私は人だらけの鎌倉に行く訳がない。近々、蘭渓道隆手植えのビャクシンの大樹を撮りに建長寺に行くが、陰影のない曇天日に行くことにしている。撮れないのなら無いと一緒だが。落ち着きがなく歩きっ放しの上野動物園の虎は、これはいつ来ても一緒だ、と無理やり分解して『四睡図』のために寝かしつけた。どうもネコ科には苦労させられる。幼い頃『ジャングルブック』を読んで、猛獣が人間の目を怖がる、というのを真に受けて、虎、ライオンを睨み回ったものだが、いずれも相手にされなかった。 連休は関係ないけど晴天らしいし粘土もある。酒も飲みたい。



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日本画では着衣の皺を衣紋線というらしい。作者の特徴が出るようだが、私の作品にも特徴があるだろう。ジャズ、ブルースシリーズの頃からやり方は一緒で、着衣の皺なんて、写真、実物など参考にしたこともないし、当然事実とは違う。これで特徴がないはずがない。ジャズマンのスーツだろうと禅師の法衣だろうと一緒である。頭部に時間をかけるが、着衣はそれに対してザックリと行く。これが陰影をなくす手法になり、日本画のように見えることに貢献しているだろう。 かつての絵画主義写真、ビクトリアリズ写真は、西洋画が手本であったのに対し、日本的絵画主義写真といっている。かつてそんなピクトリアリズム写真などなかったからで、それは廃れた技法オイルプリントを経験したから余計に運命的に感じる。もちろんこの手法ありきで寒山拾得に至っているのはいうまでもない。とはいえ今述べた技術的なことはすべて、たまたまそうなった、と私自身思い込んでいるのだが、書いていると、そんな都合よく事が運ぶことなどあり得ない。なので、ヘソ下三寸の丹田辺りに、表層の脳よりマシな、もう一人の私が居る、ということにしているが、いずれにしても間違いないのは〝考えるな感じろ”の賜物であることである。

 



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