明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



人像、人形、ヒトガタの私の考える究極は頂相、あるいは頂相彫刻だと考えるに至った。寺の開山を刻んだ作品には、リアルといっても、生き人形にありがちな、木を見て森を見ず的な物はない。そこまで判っていて、千年数百年、歴史あるモチーフに対し、独学我流、無手勝流、ついでに坐禅一つしたことない私に何が出来るのか。いやだからこそ、今時、七百数十年前の坊様作って陶然としているのである。 小学校入学で図書室に出会い、伝記、偉人伝に夢中になり、始業のチャイムが鳴っているのに図書室から出て来ず騒ぎを起こし、百科事典の頂相彫刻を飽きず眺めた鍵っ子の私が、ここに至り〝やっと会えたね“なんて安っぽい恋愛ドラマのようなことを感じている。 高所を好まない私にはゾッとする恐ろしい写真がある。一人宇宙空間に浮かぶ宇宙飛行士である。煙と同様高い所に登りたがる、こんな変わり者を見るたび、こうしないと見えない景色、得られない快楽があるのだろう、とは思うのである。



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先日母がベッドから落ちて入院し、退院というので行くと、鼻をぶつけていたようだが、特にどうということなく。病院とホームが棟続きなので、わざわざ出かけてロビーからロビーまで、数メールの間だけ。ストレッチャーに寝かされたまま「何でベッドから降りようとしたんだよ?」「お金が落ちてたから拾うと思って。」相変わらずふざけたことを言っている。人気者なんだといっていたが、ホームのロビーでは職員達に笑顔で手を振られていた。数ヶ月前の転院時は話しかけてもぼーっと黙って、これは長くないな、と思ったのだが。どうしたことか。アメリカ在住の妹には「お前も長生きするかもしれないから覚悟した方がいいぞ。」と 先日メールした。北野武の『首』でも観て帰ろうかと思ったが、2時間ほど間があるし、こうはしていられないと帰宅。 無学祖元の袖から顔を出す龍は来日前の宗時代のエピソードで、中国では龍は5本指だが、龍を連れて「我が国へ教えを伝えよ。」と現れたのは鶴岡八幡の神なので、日本の龍ということで3本指にしたが、円覚寺の坐像の背もたれの龍が何本指か調べてみたい。



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達磨大師のイメージというと熟成されたモチーフで『慧可断臂図』で振り返った〝見返り達磨“を作ったものの、私ならではの達磨大師など浮かばなかったので断念していたのだが。禅宗の開祖である。寒山と拾得の間に配することも出来るし、臨済義玄と並べることも可能である。 古今亭志ん生をデジタル処理でなく、どこまでリアルに出来るかやって見たことがある。人形を撮ったミュージシャンの写真作品が、実写に間違われて、嫌気がさしてまことを写すという写真にあらがい続けることになったくらいなので、ちょっとした悪戯のつもりであったが、案の定、老人に巨大な太鼓を担がせたのに関わらず。私はただのカメラマンとなってしまった。考えてみれば、実写に見まごう物を作っておきながら、なんで私が粘土で作った物だと判ってくれない、と不満を感じるのはおかしな話ではあるのだが。筆の勢いのままに、散々禅画のモチーフになって来た達磨大師を私が作るのであれば。さすがに実写に見える心配はないだろう。

知人の開店祝いに、店内を背景に制作

 



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ルクセンブルクの現代美術ビエンナーレで、写真家の作品を左右反転した絵画が受賞し、写真家が盗作で訴えたが〝写真の独創性が不十分だった“として訴えを退ける判決が下された。訴えた方はとんだヤブ蛇で、不名誉な判決を受ける羽目に。昔、ジャズ系の絵を描いてる画家がネタ切れで、写真を反転するしかない、とこぼすのを聞いたことがあるが、人間の顔は左右対象ではなく、著名人がモチーフなので上手く行かなかったろう。私の場合は様々な写真を参考に立体を作る。作ってしまえば誰も撮ったことがない角度からも撮れるので問題はない。 訴えられた画家は、すべて承知の上でやっていることだろうし、あえて独創性に欠ける写真家の作品を選んだのであろう。 写真の弱点は、無い物は撮れないことである。どんな技術、手法を駆使しようと一番エラいのは被写体だと考えている。なので私がルールブックだ、といいたいがために、わざわざ被写体から作っている。



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先日、検査で慢性膵炎の疑いが晴れた日のブログで、チーズケーキを食べながら、これは暮れから正月、何か面白い物でも作らないと間尺に合わない、と考えたのが資料など必要としないキャラクター達磨大師である。歴史上の人物は、こういう人であった、といわれているなら、可能な限り実像に迫りたいが、こだわるほど頭部の制作自体は楽しいことはない。 面壁坐禅中の達磨大師の表情を描くために『慧可断臂図』(えかだんぴず)で雪舟は真横を向かせた。そこで私は、次の刹那、達磨大師に弟子入りするため、自ら左腕を切断した慧可の思いに気づいて振り返った達磨大師を作ったが、あれ以上に、私ならではの達磨大師は思い付かず断念していた。昇龍図を断念したのも同じ理由による。そこでより実在感のある達磨大師はどうだろう?臨済宗の開祖を作ってしまったのなら禅宗の開祖も。



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蘭渓道隆や無学祖元の七百数十年前は、今は坐禅の時、袈裟を着けない臨済宗はどうだったのか、臨済宗の関係者の方に聞いていただき、当時は臨済宗も袈裟を着けていた、とお答えいただいた。やはり。 初個展の時、私が作ったピアノの鍵盤の数を女の子が数えているのを見てゾッとして以来(適当だった)出来るだけの事はして来た。九代目團十郎を作った時は、今年亡くなられた義太夫三味線の鶴澤寛也さんに紹介いただいた国立劇場で十二代目や海老蔵丈を撮影している方にメールで質問したら、十二代目に電話で聞いていただいてしまったこともある。 これで躊躇することはなくなった。二人の袈裟を作り始めたい。 時代はずっと後だが、見せ物として発展した生き人形という世界がある。圧倒的な作品もあるが、中にはリアルな死体になっている物も散見する。木を見て森を見ずといえば良いか。禅宗の頂相彫刻との違いが良く判った。何のために作られたか。これは大きい。



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頂相で描かれるのは、絵も彫刻も、袈裟を着けて曲彔(きょくろく)という椅子に座り沓は脱いで揃えて置かれる。すでに在る物作っても仕方がない。ありそうでない坐禅姿にしたのだが、壁を背にする対面坐禅である臨済宗も。江戸時代以前は壁に向かう面壁坐禅だった、と知ると、坐禅の時に、袈裟を着けない臨済宗も、七百数十年前もそうだったのか?という気にもなる。臨済宗関係の方に聞いていただいているが、明らかになるまで制作はストップしている。すでに在る物と違い、存在しない物を作るには覚悟を要する。 蘭渓道隆は、死後に制作された肖像画、彫像よりも生前描かれた国宝の坐像がもっとも実像に近いと判断したのだが、建長寺の重文の木像も、頭の形が違うし、全体的に骨太である。しかしもっとも特徴的なのは、より細い顎と、小さく垂れた目と、目と目の間が離れていることである。それは肖像画にしかない特徴である。斜め45度の肖像画を立体化して、それを正面に向けてこそ、その特徴を表に出せる。



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禅宗では、仏像などの偶像、経典よりも師の人格が法として尊ばれ、師との精神的結びつきが重要とされ、ある境地に達した証、免許証として師の肖像画が与えられる。それは師そのものが迫真の描写を持って描かれでいなければならず、敬意を払い頂相と呼ばれる。また立体である頂相彫刻は、その多くは寺の開山の姿が刻まれる。 昨日書いた、鍵っ子だった私が飽きずに眺めた百科事典の高僧の頂相、頂相彫刻の数々は、西洋の芸術とは明らかに出自、次元が違うのは子供にも明らかで、人像、ヒトガタの究極表現として私に刻まれた気がする。 現在制作している蘭渓道隆と無学祖元祖元は昨年までは名前も知らず、ひょんなことから頂相を参考に作ることになったが、たまたまと思っていたのは私だけで、数年前から陰影を排除した制作を続け、それでなくては手がけることはなかったであろう『寒山拾得』に至り、ある方向に歩みを進めたのは間違いない。 そして何より、面壁坐禅こそしたことはないが、制作を通じて昔から思い続けた、まことは外側になく自分の中に在り、なのでレンズを外側に向けず眉間にあてる〝念写“が理想。は、禅でいうところの〝心外無物“に通じるのではないか、と薄々感じてはいたが、ここに来て確信に変わりつつある。

 



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最近頂相を眺めていると、これもまた小学生時代を思い出す。昭和40年代、百科事典ブームがあり、我が家にも届いたが、私はそれを独占。小学〜中学にかけ往復読んだ。中井英夫が監修したものだと後年知る。ボディビルの項には三島由紀夫の貧弱な上半身。これを中井に依頼された時は、こんな嬉しいことはなかった、と三島はいっている。シャンソンの項が妙に詳細だった。燕の巣が食材になるのもこれで知り、母に寒天を買ってきてもらい、和菓子を作った。私にはワンダランズの入り口であった。別巻には東洋、西洋美術、などがあり、小学生に郷愁のような物さえ感じさせたシュルレアリズム絵画と日本の頂相彫刻が最も印象的であった。頂相彫刻のリアリズム表現は、ミケランジェロなどの西洋彫刻とは観点が違うのは子供にも明らかで、私の好みは間違いなくこちらで、飽きずに眺めた鍵っ子の私であった。 作家シリーズから寒山拾得に転向して以来、ブログでも度々書いているが、私の設計図は幼い頃すでに描かれていたのは明らかであり、頂相相手に日々過ごしながら、それを改めて感じている。



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クリニックへ。CT検査で慢性膵炎の疑いということで先日、再検査でMRIを受けた。二十代の頃、一年の禁酒の後の日本酒で、二日酔いを一度しただけなので、肝臓には絶対の自信があったが、アルコールの影響が出るのは肝臓だけに限らないことを知った。しかし結果、特に問題はなかった。 長年恐れていたのが、死の床であれを作れば良かった、これを何故作らなかった、と後悔で身を捩り苦しむことだったが、長い目標予定を持たなければ、途中挫折の可能性が低くなる。というグッドアイデアを思いついたが、これが思いの外効果があった。とりあえずの目標は目の前の作りかけ3体だけなので、後悔のしようがない。これが仮に大ネタが頭にあったら穏やかではいられなかったかもしれない。 さて、MRIのおかげでダイエットのため、甘い物を頭に浮かべないよう欲望と戦う女子高生の如き目にあった。これは、ただで済ます訳には行かない。暮れから正月にかけて、それに見合う快楽を味わえる物を作ろう。帰りに喫茶店でチーズケーキを食べながら。



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まことを写すという写真という用語に対し、まことなど写してなるものか、と長年あらがい続けて来た。夜の夢こそまことたる江戸川乱歩チルドレンからすると、あくまでマコトは己の中にこそ在る。 96年、SPACE YUIで、ギャラリーでの初めてのジャズ、ブルースシリーズの写真を展示した時のこと、某男性ファッション誌の編集者が、被写体の人形が目の前に置かれているのに写真はミュージシャンを撮った実写と間違えた。相当なオッチョコチョイだが、その時の、殴られたような違和感は忘れられない。 であればと一年後、作家シリーズに転向し、これなら大丈夫、と思ったらなかなかそうも行かず、長い旅路の末、陰影を排除することにより、まことなど欠片もない、とようやく丁種不合格を得たのではないか?不合格ののち、後ろから追いかけて来やしないか、心配する父親に手を引かれ、徴兵検査所から走り去った三島由紀夫ではないが〝ここまで来ればもう大丈夫“。七百数十年前の人物の頭を撫でながら遠くを見る目の私であった。



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最近クリスタル製スカルなどのオーパーツが、後年作られた物であることが判明している。三葉虫を踏んだサンダル跡の化石などあった気もするが。風狂の絵師といえば浮かぶのは曽我蕭白だが、蕭白の作品に、広角レンズで覗いたとしか思えない作品がある。どういうことなんだか判らないが、頭がイカレてた、ということにしている。無学祖元に剣を向けるモンゴル兵は、日本画的構図は最初から浮かんでいたが、この手法、このモチーフで、写真的構図で撮るのも有りではないか。そもそもカメラで撮ってる写真だし。それよりも、蘭渓道隆と無学祖元を人間大に拡大するつもりで、何度やっても、そこまで作った覚えがない何かが立ち昇って来て、私こそが見たくて仕方がない。参考にした無学祖元坐像は60センチぐらいだし、お二人とも人間大になるのは七百数十年ぶりかもしれない。ここに至れば、私がやらなければ見る機会がないこと以外やりたくない。存命中の人物をあまり作って来なかったのは、肖像権のこともあるが、生きてるなら誰かが撮れば良いと思うからである。



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日本におけ臨済宗の開祖栄西は、デフォルメされた肖像しかない。考えてみたら師の迫真の肖像を残す臨済宗も、栄西が初めて持ち込んだので、中国で描かせていなければ残っていなくても不思議はない。 記憶に関する修行していて頭が伸びたことになっているが、長く伝わって来た伝承を、解剖学的に、などと私如きがいうのは野暮というものである。かといって、修行の末に頭が伸びたは良しとしよう。しかしながらあれでは頭の周囲の伸びに、頭頂部が付いていっていないので、まるでボリス・カーロフ演ずるところのフランケンシュタインの如き真っ平である。私が作ることになったら、伝承通り伸ばしはするけれど、不自然な平具合はいくらなんでも。最初にあの頭を制作した人物も、おそらく本人に会った訳でなく、伝承を元に制作したに違いない。私にも40年以上やって来た渡世上、譲れないことはある。

 



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臨済宗では坐禅する時、袈裟は着けないそうだが、果たして七百数十年前もそうだったのか?その坐禅も今は対面坐禅だが、江戸時代前までは面壁だったと知ると、袈裟はどうだったのか?確かめられず、蘭渓道隆と無学祖元の仕上げにずっと入れずにいる。そこで臨済宗の関係者をご存知の方に聞いていただくことに。こういうことをいい加減にすると台無しである。 日蓮は建長寺を燃やし、蘭渓道隆の首を刎ね、由比ヶ浜に晒してしまえと攻撃したようだが、捕らえられ、文永八年九月、竜ノ口で斬首となるところ雷鳴が轟き、刀が折れ、という話に聞き覚えがあったが、蘭渓道隆が命乞いをして日蓮は助かり、建長寺にしばらくいたという。様々知って来ると、それに伴い作り難くなることが多いが、怖いもの知らずで作ってしまって後悔したことは一度もないので、見る前に飛んでしまえ、後悔反省は死んだ後にしよう。という話を次号の『タウン誌深川』に入稿したばかりである。



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今月は臨済義玄、蘭渓道隆、無学祖元、元寇の兵士、一休宗純を一斉に着彩に入る予定である。 写真がなかった時代の肖像画を元に制作している訳だが。それには、長らく続けて来た二次元の、時に不鮮明な写真を立体化して来たことなしには出来なかっただろう。その挙げ句が、陰影のない東洋日本の絵画を立体化、つまり何ヶ月かかけて陰影を与え、なのにわざわざ陰影を排除し写真化する。こう書いてみると、面倒くさがりが服を着ているような私に、何か仏罰でも当たっているかのようだが、独学我流である私の感性と、この工程を経て初めて起こる化学変化とでもいうべき物があると思える。 陰影を排除することによって得られるだろう、と期待した自由は、袖から金色の龍が顔を出してこそ発揮される。この手法あってこそ、このモチーフである。〝鳥が選んだ枝、枝が待っていた鳥” 河井寛次郎

 

 



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