帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

義家先生

2007年01月31日 | Weblog

私はこのヤンキー先生という人物が好きだ、夜回り先生も同様。
なぜかといえば、どちらも子供の未来ということについて自分なりに行動してきた人物であるからだ。
子供は機械ではなく、調子が悪いから測定器を接続してメンテナンスできるようなものではない。
生きている存在、そう人間であるということ。

子供の恐ろしさは、それが未来への存在でも有るということで、そこには接する人物の大きさ、すなわち人としての重さというものがどうしても問題となる。

学校の先生ですばらしい先生は、常に偏差値とは無縁であって、どこの大学を出たとか、高校時代にどこぞの進学校にいたとかとはまったく関係なく。

いうなればそれまでどう生きてきたかということが最大のもので、また教員になって以降子供達とどう向かい合ってきたかというものこそがとても大事なのだと私はおもう。
すくなくとも私の回りに多数存在する友人でもある先生はそれぞれがそれなりとしてあるものの、残念ながらそうでない先生もいる。

悲しいかな人は自分の経験があってこそ他人の心を思いことができるわけで、
もと荒れていた義家先生がその人間性の中に子供達をひきつける能力があるのはそれが彼という生き様のなかにあるわけだ。


最近マスコミが次の餌食としてこのヤンキー先生の足払いをかける地固めをしているのを見るにつけ。
つくづくマスコミはくだらない存在(真剣にかつどうしているマスコミ除く)なのだと再々認識する。

報道はあくまでも人間の頭にはいった情報を伝えるだけであるから、その情報にはすくならずともその人間の経験がおりなす思考というフィルターを通り抜けるものであるがゆえに、100%正確であるはずもない。

ましてや視聴率や売り上げという絶対条件があるところほど、原型をゆがませるものであって、そうしてゆがんだ情報を鵜呑みにして、さらに自分の知りえる偏見がさらにものごとを面白おかしく捕らえさせている。

こうしてみると、人という生き物はつねに何がしかの加工情報をうけとり、そこにきてさらに自分の中で二次加工を施し、自分の納得できる情報に整理して記憶という形をとりながら頭の仲に収納されるのだということがわかる。

一番正しい情報は、現実に自分の目でみて、耳で聞いて、舌で味わい、寒さ暑さを肌で感じることであるが。

こうしたことが素直に出来るのは子供であって、大人ではそれが難しい。
その自分がすでに出来なくなっていることが出来ている子供。 そして得ている情報というものを性格に分析するには、自分の経験則もさることながら、頭の中にある余分なフィルターを如何に取り払うかということが重要なのだが、
みなさんはどうであろうか・・・・・・

ちなみに、私のことを言わせてもらえれば、今もって未熟、とてもではないがすべての子達の心の中を見渡せる力などなく、なおも研鑽を積まねばならないのだと常に自分のしりを鞭で叩いているというのが正解だろうか。