帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

僕が子供に教えてきた事の片鱗   妬み

2011年12月11日 | 研究-教育・育児

生活をしていると、人は自分の持つあらゆる欲望に気がつくことがあります。

簡単な物なら買い物に行ってこんなカッコいい洋服があった、街を歩いていると最新型の車が止まっている。

僕だと 1400CC の 最新型Kawasaki 何て言うのがそうですね。 (笑) 

それ以外にも、高価でとてもではないが食べられない寿司や高級料理、 でかい土地に大きな家等々。

 

でも、別段そうした物は、そしてそれを持っている人を目にしても特段その人間に「いいな~」と思う程度の感情しかない。

その人間との距離があるからだ。

 

ところが・・・・・・、これが隣の家だったりすると、いきなり激しい嫉妬と妬みを生み出す人間というのがいる。

 

例を上げると、隣の家が真新しい車を買ったりしたとたんにこの行動を始める輩というのがいるわけだ。 

 

次のような事は割とどこでも当たり前のように有ることだと思うのだけど、相手が少しでも自分より良いと妬ましくて妬ましくて収まらないわけで。

新車買った隣人に対して素直に、「格好いい車だな~」と受け入れられず、そうした場合、たいてい妬む人間はその事とは全く関係ないことを引き合いに出しながら、

例えるなら、たまたま車の頭が駐車スペースから少しだけ道路に出ていたり、洗車のために車を多少出していたりしただけで。

公共の場を占拠しているだ、道路が汚れるだ、迷惑だと。   イチャモン付けてきたりする。

まあいうなれば自分は善人でお前は悪人だという、妬みの裏返しの、自分を相手より高い立場に置いて満足するという 擬せい行動を始めるわけで。

 

それでもって自分はどうかというなら、平然と道路に半分車だして洗車したり、供達の自転車がいく台も乱雑に駐めていてもほったらかし、

他にも自分の敷地に植えた木の枝が濛々と生い茂り隣家に伸び放題だろうがまったく気にしない。

 

こういう事っていうのは、割とあるもめ事の発端でもあるある訳だけど。

この場合イチャモン付けられている側が大人であれば、素直にすいませんと対処し、 こうした事がしばらく続いたとしても妬み側はそれにより何度か

優越感を得ていうるうちにだんだんと収まってくる。

ところが、イチャモン付けられている側が大人でないと大変な事になって、感情的になって互いに応酬しはじめると、自体は最悪な方向に進む。 

 

まあ、大抵は妬まれる側は、相手が一度そうした性癖をもっていることが分かると、先回りしてそれに応じた謙虚な行動をして出来る限り穏便に回避する物なのだけれど、

妬む側は自分の愚かさを分からずに、唯々自分の感情のままやっているわけですから、こうした関係は隣人同士という関係が解消され無い以上、ほぼサドンデス状態で、

何か新しい変化があるためにぶり返す。

 

こまるんだよね~ 

 

本当に みっともない事 のなのだけれど、こうした人間は第三者からみても極力不快を感じるわけで、当事者でなくても、妬む人間に対して次第に距離を置くようになる。

次は自分だとハッキリ分かるからだ。

 

こうした人間は会社ではどうなのか? というならほとんど出世とは無縁で、上司から駄目人間扱いされ、同僚から嫌がられ、部下からは嫌われる。

当たり前の事だけれど、こうした人間性は普段の生活にある、あらゆる出来事にも同じ行動を取るわけですから、

同僚が自分より早く昇進した、同じ会社で自分はつらい部署、同僚は楽(に見える)部署だったりと、妬む為のネタならふんだんにあり

特に会社組織ともなればいくらでもある。

 

この”人を妬む”という、人として 最も愚かで醜い気持ち” というを僕はほとんど持ったことが無い。

もちろん僕も人間ですから、幼い頃は立派に有ったとは思うが・・・・・

 

これは僕の親が僕自身をそう育ててくれたおかげであるのですが、物事をどうとらえ、どう明日の自分に対する糧に出来るということだと思う。

 

例えると、友達がフェラーリを持っていたとする、他にも知り合いが大型キャンピングカーを持っていたりする。

当然自分の持っている軽自動車やBクラスキャンパーでは差が有りすぎ、話にならない。

 

でも、僕には妬みというのが全く沸かない、それどころが素直にその差を認め、なおかつ積極的に話をして、どうやったら同じ事が出来るのか

どう努力したらなしえるのかを笑顔と軽いトーク、そしてどんな人なのかを学ばせて貰いながら、今の自分に持っていない何かを気づかせて

もらうようにしてる。

 

なぜなら、結局今存在している差は、僕の生き方とその人の生きたかの差にあり、差が有るのならその人のどこに優れた面があり、

どうすれば自分もそうした人間に近くなれるかを勉強させてもわうわけだ。

 

他にもそうした何かを成すために自分と場合により家族をギセイにしているのが分かったりする事もある(*この場合、学ぶ物は無いが)

 

人は生まれながらにその持ち有る能力に大差はない、差が有るとするなら、その差の分だけ相手の何かが優れているわけで、その違いを

よく研究しその差分を埋める努力をすれば、時間はかかろうとも必ずその立場になれるわけだ。

 

自分の中にある足らない部分を、優れた人から学びつつ、欠点を次々埋めていく事で自分を進歩させる。   これが僕の考え方だ。

 

妬んでも、何の進歩はなく、ただひたすら惨めなだけだということ。

 

そうしてこれまで生きてきた僕だけれど、この考え方は息子と娘を育てていく過程でしつこいほど繰り返して教えて受け継がせている。

息子の方は一時期こうした自分を厳しく制御せねばならない考え方を親の価値観の押しつけとして捕えた時もあったけれど(反抗期)、

今はしっかり理解をしてくれているようだ。

 

娘はほとんど抵抗もなく素直なこともあって、ほぼダイレクトに受け継いでいるので、その結果が今年の夏のワールドカップの結果だと思う。

 

何にせよ、妬み性の性分が直らない親に育てられてしまった子供は可愛そうだ。  いくら優れた能力があろうとも、どんなに高学歴であろうとも

人としての学習がほとんど出来ない以上、人間性に向上はないからだ。

優れた進歩のノウハウを得られず、余計なことに余計なエネルギーを消費するだけでそこから先には歩めない。

 

社会に出て、人を妬む人間、差を進歩に生かせる人間、未来にどんな差が出てくるかは誰にでも分かる事だと僕は思う。