子供を育てるって? いったい何をして、何を施して、どう育てていくか?
現実的、かつ具体的な方法は存在しない。
学校の成績なんぞはどうでもよい僕にとって、子供には 人としてどう有るべきか? 人格こそが子供を豊かな未来へ導くと信じて子供を育ててきたけれど。
多々ある自分の何気ない行動は、知らず知らずのうちに子供の体に染み込んでいることが時々見える。
親の背中とは? 特に父親の姿は、子供にとっては社会を見通す窓のようなもので、
愛情は母親、社会性は父親から、それが現実的男と女、そして夫婦が自然に担う業だ。
そんな中で気が付いたことをいくつか紹介していきたい。
今日はそのひとつ
時折、日曜大工に返信する僕は、大量の材料をホームセンター等で買い込むことがある。
特に長さの異なる木材など各種取り混ぜて、台車に載せてレジへ足を運べば、バーコードの無いそうした品々は
商品のバーコードを記録したクリアファイルなどに集められたブックのバーコードをスキャンさせるか、同時にレジの人は材料の長さなどを確かめて値段をスキャンするかして直接打ち込む。
故に本数を数えることからはじまり、どうしても時間がかかる。
当たり前の事だけれど、長い材木になればレジでいちいちメジャーを使って長さをはかり幅などをそのファイルに照合し、とうぜん、後ろに人が並ぶ。
そうした人たちの手を見れば、防水テープ一本、 木工ボンド1本、 軽い工作用木材数本なんていうことが多々ある。
こうした時僕はどうするか?
答えはとても簡単だ。 レジの途中で区切りを入れさせ、後ろに並んだそうした人たちのレジを先に通す。
今のレジ機は利口で、清算途中の結果を一度退避させ、後ろの人の清算を当然の様にすることができる。
だからだ。
こうしたことは特段珍しいものではなく、気が付けばやっている行動の一つ。
先にレジを通った人たちはみな「有難うございます」といってくれる。
何も言わずに通る人もいる。 その両方に「こちらこそ」と心で呼びかけている。
なぜこうしたことをするか?というなら、人は生きいている限り、自分の時間は自分だけ物でありながら、同時にパブリックなものでも有るからだ。
どうしても時間が無い場合は、そもそも、大量に物は買わに、必要最低限のものだけで済ます。
それが早いからだ。
人は生きている以上、絶対に他人との関わりを絶やすことは出来ない、自分が存在しているのは、自分だけが存在できるからではなく、
知らない間に数多くの人たちが共有しあう時間というものが有るからこそのもので、
そうであるなら、レジを何度も中断して先に後の人を通すことで減る自分の時間は、いうなれば社会に還元しているわけで、
これが偉いわけではなく、美しい行為でもなく、知らない間に多くの人たちからもらっている時を返しているだけの事だ。
又、人として至極当たり前の事だと思っているから。
そんな当然の事に対して、「ありがとう!」といってくれる人、特にその言葉に感謝するけれど、
こうした姿勢を娘も息子も見ながら成長してきた、社会に貢献するとは、莫大な寄付をすることではなく、お金をばら撒くことではない。
日常のほんの些細な一時の中にある。
人と人は、ちいさな気持ちのふれあいの中に幸せを感じる、それが互いに積み重って日常に溢れかえれば幸せという事であり、なくすほど心がすさむ。
子供達は理解してくれているようだ。