何時もの朝筋トレ、ベンチプレスで持ち上げていたバーベルをハンガーへ落とすと、クニクニッ!と左の指先を触ってみる。
先端の皮膚が硬くなって、そこが何となく痒くなるんです。
娘にギターを教えているうちに段々と はまり込んでしまって、このところ新しい曲の練習なんかをしたりもして・・・ えへへ
*この重さになると腕が悲鳴を上げ、胸に付けるくらいまで降ろす事は出来ません、さすがに・・・・
自分は14の時に初めてギターを手にして、18才くらいまでやっていたんだけど、まあ、単なる格好つけ。
いわゆる「もてるのではないか?」という至極浅い思考の下で”女の子に対するアピール”としてやっていた物なので、対して上手くもなかったし、どちらかというと下手な部類
ぎゃはははは! だっせ~!
でもね、いつの間にやら弾くことも無くなり、やがて家庭を持って以降は、弦からすっかり遠ざかっていた。
ところが、娘がアコースティックギターを買い、教えてくれと言うので再び手にして以降は、部屋の中にあるとついつい・・・・
僕はハーモニカとギターを組みあわせた曲が好きで、特に吉田拓郎や長渕の曲なんかが好み。
当時はまだ長渕剛も軽薄な曲ばかりだったので、もっぱら拓郎だったな~。
そういえばつい最近、我慢出来ずに、ブルースハーモニカを一つ(C調)買ってしまい、久々に吹いてみたんだけど・・・・・
体で覚えた物というのはあんがい忘れない物らしく、割とすぐに綺麗なハーモニーを出せるようになった。 やったね! と ニコニコ
そうそう、それで思い出したけど、僕は小さい頃から”男だから”とか”男らしい”という言葉が大好きで、それはおそらく幼稚園位から始終口にしてきた。
でもね~、小学生くらいで「男云々・・・」なんて口にすると、女の子達から「バッカじゃない!」と嘲笑され、下手すると「気持ちわるい!」とまで言われてしまって 汗汗
まあ、小学生程度では男女差なんか存在しないし、下手すると女の子の方が成長早くて大きいし、勝ち気だったりもする。
昨今は、男女平等という観点から、本来有るはずの”性差”、すなわち将来必ず両性にもたらされる、消滅させる事が絶対に出来ない能力差や、思考の差等を全く教えないから、
だから、そうした小学生程度の閉鎖的空間では、”男”という言葉を表に出すと、変質者的な感覚で見られてもおかしくないわけだ。
子供の頃、家へ帰ると、丁度夕方のテレビ再放送の時間で、森田健作の、”俺は男だ!”というドラマを見ていたんだけど、それが大好きで。
夢中になって見ていたのを思い出すな~・・・・、いつの間にやら時は流れて、男女の能力が逆転しだす中学、そして高校へ。
さすがに小学時代に気持ちわるいと言われて半トラウマになっていたその言葉は封印してしまったけど、「でもね、それはずっと心の中に有って、僕の屋台骨であり続けた。」
それは今でも変わらずにそうなんだけれど、 若い頃から 男らしさ=自分の持つ能力をひたすら研鑽する事、 として生きて来た原動力でもあった訳だけど、 再びギターを手にしたりすると、記憶が一瞬にして高校生時代へ飛んでいく。
今くらいの年齢になると、”男らしさ”という言葉を出したとて、女性達から変な目で見られたりもしないし(至極若い子は知りませんが 笑)、そう考えると、 民法第一章第二条に詠われてる 両性の本質的平等 というのは、結果として大人にならねば理解し得ない物でしかないのかな? なんて思ったりする。
本質的平等とは、性差を強引に消滅させて糞味噌一緒にする物ではなく、単に社会におけるチャンスと可能性を平等にすると言う意味でしか無いわけだが、そうであるなら”男らしい”とは、 思考の方向をそれに争う角度に向ける物ではなく、あたかも風を孕んだセイルの様に、両性の違いに対する揚力となる物なのではないか?
それは女性とて全く同じであって、もし上記の本質的平等というのが 純白の絹の様な物であるとしたなら、それを豊かに彩る、様々な色素のような物でははないのか?と、 そう思うんです僕は。
らしさを否定したがる人間というのは少なからず存在しているけど(ほぼ99%左翼の人間)、純白の絹は非常に綺麗ではあれども、そればかりでは誰も見向きをしなくなり、必ず色彩を求めるようになる。
同様に、らしさの無い社会というものが、如何に無機質であるとも言え、殺伐とした世界にいったいどんな楽しさがあるのだろうか?
そう考えてしまうわけです。
やっぱ、変かな~ ? 俺