そういえば、子供の頃の僕はたいそう乱暴で、小学2年生頃まは結構手の付けられない腕白坊主だったんです。 汗
幼き日の、得に友達との掴み合い喧嘩等の記憶は割と明確に残っている物で、ざっと頭の中で思い出してみてもかなり浮かんでくる。 あかん・・・
親の話では、常に落ち着きが無く(いまなら多動児の烙印間違いなし)、おまけに情動的、思考=行動 そのものだった事からどうしても友達と諍いを起こす事が多くて、
幼稚園に居たころは、幼なじみの中谷君と二人で暴れていたのを覚えている。 汗
思えば、僕の親は相当粘り強く、そうした行いが”悪い事”であると教えてきてくれた訳だけど、激怒して頭ごなしに、僕を叱った事もたくさん有った。
幾つもあるそうした中で、得に記憶しているのは、二つ。
仲の悪い友達と喧嘩して、相手が逃げた際に背後から後から積み木を投げて頭に直撃させた事と、取っ組み合いで相手の腕に噛みついて縫うほどの怪我をさた事で、その時は烈火のごとく叱られた。
流血し、それにより大人達が慌てふためいているのを、ボォ~!っと見ていた自分の姿も同時に覚えている。
そうした際、帰宅して待っていたのは徹底して叱られたことで、何がいけないのかを叩きこまれ、最後にその友達の家へ親共々出向いて”謝りたくもない”友達の前で何度も頭を下げさせられた。
昨今の様な”ほめて育てる教育”と完全真反対の、感情がふんだんに盛り込まれた至極ダイレクトな育て方。
しかしながら、当時はそれが当たり前で当然だったんです。 だから昔の人は行動的で負けず嫌い、打たれ強いし へこたれない・・・・
得に、乱暴だった僕は本当によく叱られた・・・・
叱るのはまず母親で(当たり前ですが)、 電話なんていう物が無い、貧乏な団地暮らしだった為に親父は帰宅するまで事を知らない。
そして手が付けられないと母親が判断していると、帰宅した親父へすぐ話が飛んでいく。
親父に叱られる確率はだいだい30%程度で、得にお咎めがなかった際には、やたらとホッとしたのを明確に覚えている。
幼心に、母親というのはある程度以上はやらないのを良く解っていて、 親父が怒り顔で出て来た際にはさすがに震えあがったものだ。
そんな僕も、小学校3年生頃には人を傷つけることの重大さを知り、中学生の頃には、自分から手を出す事は皆無。
忍耐と我慢の大切さを覚え、暴力的な衝動を自分でうまく乗り越えるコツも覚えた。
ただ、やられれば必ず反撃するので、向こうから手を出してくれば絶対に殴り合い、掴み合いとなり、当たり前だけどそうした事は何度も有るわけで・・・・
でもね、さすがに高校生にもなるとそうしたことも無くなった。
今のいじめ問題を見ていると、「なんで最低の反撃すら出来ないんだと・・・・」
非暴力という格好つけも良いけれど、 自分の命を断つくらいなら、「まずは相手を半殺しにしてからじゃね~のか?」
いじめの頭をやっているやつの、塾帰りかなんかを狙って、後ろから太ももの真横をバットでぶん殴ればもう立てないから後は素手でやりたい放題、実に簡単な事だ。
おっとと・・・・、これ過激な冗談ですので、マジでとりあわないように、くれぐれも(笑)
僕の子供の頃は、喧嘩なんていうのは当たり前だったし(息子もよくやっていたな~)、不思議なことにその喧嘩が基で仲の良い友達が出来たりもして、
大人の場合は、どうしても恨み辛みが蓄積してなので始末に負えない結果になることが多いけど、子供の頃のそれは”互いの濁り無き感情同士が真正面からぶつけられる”もの。
いわゆる危険だけど、人としての最大のコミュニケーションだったのではないか?と思うんです。
人間にとって、怒りを初めとした負の感情のコントロールをどうするか?というのはいつの時代でも最大の課題であり、押さえきれない感情を負方向から正方向に転換して未来を歩む動力源に切り替えること、それが上手に出来るほど優れた人間性の一つといえる、
そうした物ではないだろうか?
上に書いた事は、学力も同じと僕は考えていて、子供の頃からいくら教育熱心に塾だなんだに我が子を漬け込んだとしても、 反抗期が来ればそうした親の押しつけ?は一気に効を失う。
それゆえ、高校に入ると弾けて放蕩する子が多いのも事実であり(たくさん見てきました)、反対に子供の頃に出来るだけ遊んで、いわゆる直感思考や友達と摩擦を
通じて培う”心の基礎学習”の多かった子ほど、現実的に自立心の強い子に育って伸びる。
それが中学後半から高校生の、いわゆる”けだるい感覚世界で生きている”準大人の年齢にさしかかる頃から、「自分の将来を意識して何をなすか?そしてどうするべきか?」という支点から自発的に模索行動する様に、自らを仕向けていくことになる。
「そうした物なのではないか!?」と思うのだけど、子供の成績=親の喜びになってしまっている親(特に母親)が多すぎるわけで・・・・
かといって反抗期に至らない、小学生までの子育て期にある親御さんにそれを説明したところで受け入れてくれるものでもない。
理由は簡単だ、従順な年齢の子供は親の言うなりであって、それをもって”自分の子育てはうまくいっている”とほぼ99%が誤信しているからだ。
問題は第二次成長期から始まるわけだが、予行演習など出来ない子育ては、やり直しがきかないという難しさがそこに有る。
いま小学校ではクラスの人数を更に減らそうとする方向で進んでいる様だけど、
生徒は人数が多いから適度に息抜きが出来て良いわけであり、人数が少なくなればただただ管理が厳しくなるだけでしかなく、結果としてそれが学力向上に繋がると安易に考えているようだが、僕はそう思わない。
幼少期の管理が厳しければ厳しいほど、 後に返ってくる反動は大きくなり、管理が行き届く分”自分で思考して行動する事は減る”わけだから、基礎的人間性が碌にそだたないままで体だけ成長する事になる。
そして高校入学あたりから大学生になって、下手すれば世の中に出てからその遅れを取り戻すかのように様々な問題を起こしはじめる。
幼い思考なら、同じ”何かをやらかした”でも笑える範囲、大学生ならオレオレ詐欺やレイプなど、これはすでに立派な重犯罪だ。
突き詰めると、幼少期にしっかり叱られる事によって忍耐と我慢の基礎が育ってないわけであり、そこに来て”アホな学者や教育評論家”(*)が喧伝する”ほめて育てたり”なんかして、本来叱らねばならない事を、”無理矢理褒めて代用しよう”等と言う異常な教育まで行き着けば、まともな人間性が育つ事等一切無い。
*左系の人間が極端にこうした教育を推し進めていて、大抵はこの国の伝統や文化等の、昔から守られてきた” よき物”を平然と否定している事が多い。
そのお題目は必ず”新しい”であり、優れた部分までくそみそ一緒に”古い”等と否定して、「新しい何某が今こそ必要だ!」と声だかに叫ぶが、それはあくまでその人間の頭のなかで考えた理屈でしかなく、
同時に”責任無き実験を周りにさせているのだ”という事を、頭に入れて置いたほうがよい。
例えるなら、米国式何とか教育、シュタイナー教育、スエーデン式何とか、その他横文字の入った何々教育を推し進めてくる事は、社会的背景も文化も全く違うところに存在している物を
”新しい”という名の下に日本へ持ってきた物でしか無く、その背後には他人のフンドシで出来るだけ本を売って、”自分がいかに収益を上げるか? 有名になるか?”という薄汚れた皮算用する人間性があるのだということを、
絶対に忘れてはならないわけだ。
まがいなりにも個人で教育研究をしてきた結論として明確に出ている結論は、本来人の持つ純粋な感情(親心)を持って叱るという教育は、子供の成長にとって最大の栄養素であるという事は、間違いない。
最後に、子供を叱る最大のコツを伝授(偉そうに~!爆笑)。
どんなしかり方をするにしても、どんな言葉を投げかけるにしても、心の中で我が子に向かって”進歩しろ-!”と同時に投げかけること。
これは魔法の呪文で、この呪文を心に置いて叱っている時に繰り返していると絶対にやり過ぎることは無い。
当然、虐待なんぞには絶対にならない。
本当だよ! 嘘だとおもったら、実際にやってみてください。 はっきりと分かりますから。