但馬・因幡・ほうき
錦織 勤 池内 敏(編) 吉川弘文館
5月に隠岐に行こうと思っている。そこで資料を集めている。パンフは隠岐の観光協会から送ってもらった。「島の旅」というガイドブックも買った。もう少し、読み物的なものがほしいと、ブックサービスを探すと「鳥取・米子と隠岐」というのがあったのでそれを取り寄せた。読み始めると郷土史のように詳しい。大体、山陰についてはよく知らないから、地図を見ながらの読書となった。しかし、知らないがゆえにへぇ~と思うことばかりで、すっかりのめりこんでしまった。鳥取の県史と言ったらいいだろうか。
隠岐は島根県である。それをどうしてここに入れたのか、たぶん鳥取県の境港から船が出ているからだろうと、よそ者は勝手に思っている。
隠岐というのは4つの人の住む島と180の小さな島からなる。一番大きな島、島後(どうご)とあとの3島をいっしょにして島前(どうぜん)と呼ぶのだそうだ。島の歴史も古くからある。
「街道・・・」は、豊岡から鳥取までを歩き始める。行政区としては今は兵庫・鳥取ということになる。「街道・・」は隠岐も加わるから、兵庫・鳥取・島根の3県にまたがることになる。
豊岡往来、因幡道と続く。ほぼ国道9号線にそっているようだ。先ずは、その街道沿いにある町や村の成り立ち、支配層の履歴、神社仏閣、名所旧跡など、さまざまな詳しい説明がある。
地理的に興味を持ったのは、山陰と山陽との関わりだ。関東の人間には中国山脈が屋根のように中央を走っているから、山陰と山陽との往来は少なかったろうと思っていたら、古来から山陰に入るには峠を越えて山陽から入っていたのだった。たまたま隠岐からの帰りに米子から倉敷に抜けようかと時刻表を調べたら、すこぶる電車の便がいいことにきがついた。意外だった。本を読んでなるほどと納得した。昔からの往来の所以なのだろう。
山陰からの人や物は、この山脈を越えて山陽に出て、畿内へ向かっていく。山陽側は河川交通が発達していた。河川はならだかで水量豊かであった。非常に古い時代から河川水運が上流まで通じていたから、山越えをしてもこちらの方が便利だったようである。とかくよそ者は山陰という言葉でひとくくりにしてしまいがちだが、関東と言っても地方には個別の文化があり、ひとくくりは出来ないように、山陰もまた地域それぞれに独特の歴史、文化を展開してきたのだ。 国道9号線は車で走ったことはあるのだが、いかんせん時が経ったので、断片的にしか覚えていない。この本を読んだので、再度本を頼りにゆっくり訪ねてみたいと思っている。
それとはじめて気がついたのだが、山を「せん」と読むようである。大山(だいせん)蒜山(ひるぜん)という地名は知っている。行ったこともある。しかし地図を眺めていると、やたらと「せん」というルビに気がつく。氷ノ山(ひょうのせん)、扇の山(おうぎのせん)など。
鳥取を過ぎ、砂丘を越えて、米子に向かう道はほうき道。ほうきという文字が変換できない。ほうきの国、地名もあるのだが、どうしても変換できないのである。PCも現代っ子なのかもしれない。
白兎海岸の近くに湖山池というのがある。子どもの頃、この池の伝説を読んだことがある。長者の広いたんぼに田植えをしていたが、日没前におわりそうもなかった。そこで長者は太陽に向かって、扇をふって太陽を沈まないようにさせ、田植えを終わらせることができた。翌朝目を覚ますと、長者の田んぼは池になっていた、というような話であった。
この街道には興味をそそる遺跡がずいぶんある。初めて知ったのだが、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)などはたずねて見たい遺跡の一つである。弥生時代のムラの遺跡である。 まだ解明途中のようだが、興味をそそることこの上なしの遺跡である。
明治になって島根県に併合された鳥取を視察に来た山県有朋は鳥取藩士たちの窮乏に心を痛め、その結果、藩士たちの福島県や北海道への開拓移住が行われた。もちろん海外への移住も行われた。以前、徳島藩の洲本の藩士たちが北海道へ移住した苦労の歴史は読んだことがある。
鳥取といえば有名な青ナシ「二十世紀ナシ」は松戸のナシを改良したものだったのだ。
隠岐をちょっとまとめておこう。
隠岐は縄文時代から本州と往来があった。それは隠岐産の黒曜石が山陰各地の遺跡から発掘されていることからわかる。律令時代には隠岐国が置かれ、中世、鎌倉期には守護として佐々木氏が、南北朝期には40年ほど、山名氏の領地であったが、その後また佐々木氏の支配になった。
関が原の戦い後、松江藩、その後から幕末までは天領(幕府の直轄地)であったが、実質的には松江藩の預かり地として松江藩が支配していた。江戸時代の隠岐は、北前船の寄港地として栄えた。
隠岐騒動が起きたのは1868年、島後の島民が松江藩に対して抗議し、郡代を追放、自治政府をつくった。ただしこの自治政府は81日間で、松江藩兵300人の攻勢にあって敗れ去った。これにより隠岐は鳥取藩に管轄がえとなった。島前は一貫して松江藩に同調する動きをみせた。それは島前の代官に不満はなく、島前の島民は騒動を起こす必要性はなかったという。
隠岐は1871年、鳥取に移管されたが、1876年、鳥取県を併合した島根県に入る。1881年、鳥取県は再び県として置かれたが、隠岐は島根県にとどめられた。といってもことはすんなりいった訳ではない。
さて美保関には中世を通して関所が置かれていた。山陰の重要な港は美保関、小浜浦、長浜浦であった。隠岐船は美保関港に入るたびに関役を払っていた。どうも隠岐の船だけに納入義務があったようである。ということは美保関にとって隠岐船は重要であったといえる。たしかに膨大な関役が上納されている。隠岐の物産の豊かさが伺える。 物産とは、鮑であった。
江戸時代には唐貿易の輸出品として俵物(干なまこ、干あわび、ふかひれ)の主産地になった。増産が求められ、よそからの海士の導入が図られたが、かえって乱獲による資源減少で、1806年には中止になった。
「牧畑」という独特の農牧の仕方は注目されてきた。
山陰線が鳥取まで開通したのは1908年、開通式で原敬鉄道院総裁の挨拶で、「裏日本交通実現の端緒」と発言。ここから「裏日本」という対比語が使われるようになった。かつでは日本海側はむしろ表であったのだが。
1892年8月、ラフカディオ・ハーンが隠岐に渡っている。「ほうきから隠岐へ」という著書があり、その内容はおもしろい。 境港と隠岐が汽船で結ばれたのは1885年2月のこと。隠岐4郡町村連絡会が汽船の購入を提案し、反対が強く実現は危ぶまれたが、焼火(たくひ)神社の神主の尽力で実現された。
この船でハーンは隠岐に渡ったのである。船に乗るときハーンは洋服から和服に着替えた。
ハーンには「西郷(島後の港町)は驚きであった。」家屋は明るく、「青い屋根瓦」は色鮮やかであった。 「フライド・ポテトつきのビフテキかローストチキン」を注文してもよいと言われたが断った。そんなことをしなくても「食事はびっくりするほどいいし、珍しいくらい変化に富んで」いた。 ハーンはすこぶる隠岐が気に入った。ただひとつ、はじめて島を訪れた外国人みたさに島人がひっきりなしに訪れる以外は。 「後ろ髪ひかれるような思いで」島を後にしている。 島では「どこまでも伸びていく文明の圧力からのがれているという喜び」や「人間生活の万事が人工づくめな領域をこえて、本当の自己を知る喜び」が感じられ、「わたくしは隠岐が好きになった」と記している。