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ブータン・ネパール

2005-05-14 13:31:47 | 旅行記 アジア

onbu
おんぶ・なつかしい姿

2002年10月16日(水)

6時38分で小田原へ。7時8分のひかりで大阪へ。はるかに乗り継いで、関空へ。

今回のメンバーは。1998年、2000年と同行したお馴染みのN さん、Hさん、Mさんご夫妻、そして新たに加わったAさんと私の6人。Mさんの連れ合いのミスターはブータン旅行の後はヒマラヤ・トレッキングに一人で向かう。ミスターはトレッキングは3回目だ。

私物はいつものようにカメラバッグと背負うことも引くことも出来るザック。中身はスウェーター、着替えが下着とブラウスとソックス。薄い寝間着上下。洗面用具。薬と裁縫道具の入った小さなバッグ。スリッパ(今回は使うことがなかった)。ノートパソコン。クリアケースに入れた筆記用具とメモ帳、折り紙、スティックのり、計算機と電子辞書。文庫本が2冊。ティッシュとミニ・タオルが4枚。ザックの半分は鉛のケースに入れたポジフィルム50本。コートもいつものゴルフジャケット。ポケットには帽子、マスク、ミニ・タオルが入っている。

先ずは前もって送っておいた荷物の受け取り。そして機内持ち込み以外の荷物を預ける。風の旅行社からは今年の8月30日からネパールはダブルビザはなくなり、シングルとマルチだけになり、シングルビザ2回とることになりますと聞いていたが、ロイヤルネパールの受付の女性に確認すると、ダブルビザがあるというので、そのつもりでビサ票を一枚しかもらわずに行く。しかしこれはまちがいだった。旅行社の方が情報が正しく、ダブルビザはなくなっていた。初めてザックを機内持ち込みにせず預け、下へお土産のカステラを買いに行く。

飛行機は定刻に出発。瀬戸内海を飛び、海へ出る。

遠くに島影が見える。どうも中国のどこからしい。空路がわからないので、どう飛んでいるのか見当がつかない。これで3回目だと言うのに。

上海で下ろされる。カメラバッグを置いてきたのがちょっと心配。1時間ほどここでぶらぶらしなければならない。

再び機内に。雲が出て下界は見えない。頭が痛い。薬を預けてしまったので、我慢している。

カトマンドゥ到着。40分ほど遅れたが、40分では遅れたうちには入らないと言いながら、ビザのところに並ぶ。ビザ票は関空でもらって書き込んであるので、入国票を書いて30ドル払って、写真をホチキスでとめてもらい、ビザを貼ってもらう。

外に出ると、スザータのマスターの秦さんが待っていてくれた。
目印に赤いうちわを振りますなんてメールして置いたが、うちわを持ったNさんがあとから来たので、その必要もなく、すぐわかった。

飛行場からはパタンのスザータのほうが近い。スザータへの道がきれいになっている。そういえば、空港内もきれいになって、しかも明るくなっていた。

スザータは秦さんが経営するペンションである。アットホームで安心と和美さんから紹介されて、お願いしたのだが、とてもきれいなペンションだ。今回はこのスザータが私たちの基本宿、我が家となる。

ともかく挨拶をし、各自部屋に落ち着く。私とHさんは3階のシングルルーム。NさんとAさんは2階のツウィンルーム。M夫妻は4階のツウィンルーム。まずは荷物を部屋の置いて、下にいく。ここに預かってもらうもの、明日ブータンへ持って行くものを分ける。ここのシーちゃんへのお土産も渡す。シーちゃんは4歳になるこの家の息子。本当はシッタルタというのだが、略してシーちゃんと呼んでいる。なつっこくて、可愛い子だ。奥さんはチョリさんといって日本語の上手なネパール人だ。他にネコのマイケルと犬のタイソン。

明日は12時にはここを出る。車の手配などを頼む。

10月17日(木)

ぐっすり眠ったのだが、早く寝たので夜中何度も目を覚ました。カーテンをちょっと引いて外を見ると、オリオンが美しく光っていた。こっちが西だ。次に目をさますと、カノープスが高く上っている。
薄明が次第に赤く変わっていく。日の出だ。東側は見えないから赤く染まる空しか見えない。小鳥の声がにぎやか。カラスやはとの声も聞こえる。

7時過ぎNさんたちがHさんの部屋に来て、にぎやかにおしゃべりするのを聞いた。そして階段を上っていくので、私も寝間着のまま、のそのそ起きだしていく。階段の窓から朝日を斜めに受けたヒマラヤが見える。ブラボー。ラッキー!屋上へ上り、さっそく写真を撮っている。すぐそばを黒白のセキレイに似たケリー(migpie robin)が飛ぶ。

8時朝食。野菜いっぱいのトマト味のリゾットが美味しかった。

9時半、この前は雨だったので、パタンのダーバ-スクエアの見学に歩いて行く。スザータからダーバースクエアまで歩いて15分ぐらい。スクエアへの入場料は一人200ルピー 。ダサインのお祭りなので、にぎやか。人々は着飾って歩いている。物売りは相変わらず多いが、物乞いする子どもたちの数がぐっと減った。

全体として、町もきれいになっている。掃除をしている人の姿も見た。最後にゴールデンテンプルによって戻ってくる。ゴールデン・テンプルの拝観料は250ルピー。

12時スザータ出発。空港使用料880ルピーを支払ってから荷物チェックを受け、預ける荷物に紐をかけてもらう。そしてチェックインをすまし、荷物を預け、二階の発着場へ向かう。14:40分カトマンドゥ発。席は自由。ヒマラヤは進行方向左手になる。そこで、左手に席は取ったのだが、だんだんと雲が出て、下界はまったく見えず。

パロ空港に着く。ドアが開き、階段を下り、空港事務所まで歩く。空港ビルは伝統的な建物をした趣のある建物だ。入国ビザを書き、ビザ申請書を見せ、ビザ代20ドルを支払い、入国持込のカメラ2台とPCを申告する。申告書の黄色い紙は帰りに必要なのでとっておく。イミグレイションを 通り、外に出ると、風の旅行社のガイドと運転手が待っていた。
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二人のガイド

ガイドはチョンソ君、ドライバーはニマさん。二人とも若い。チョンソ君は26歳、ニマ君(ニマはゾンカ語で太陽だそうだ)22歳。するとチョンソ君がNさんの息子に似ていると言うので、彼女の息子の名で陽佑(ようすけ)と呼ぶことにする。

構内から出て先ず感じたのは、空気が美味しいこと!とはいえ単に物質的な空気が澄んでいるというのではなく、なにかゆったりとした温かみを感じたのだ。私の直感、first impressionというべきだろうか。

ティンプーまでの道はパロ川に沿って曲がりくねった道を行く。1時間半はかかる。Yさんから急遽国王の電話回線がおかしくなり、その仕事が入り、迎えにいけなくなったと言う手紙が届いていた。

薄暗くなる山道をティンプー目指して車はくねくねくねった道を川沿いに走る。この川はパロ川。川をゾンカ語ではチューというのだそうだ。だからパロ川はパロ・チュー。焼酎だ、アルチューだと騒いでいる。

左手に僧院が見える。17世紀に、あの僧院を立てた人がパロ・チューに鎖の橋を何本もかけた。その橋は今はひとつだけしか残っていないが、その人が建てた僧院や尼寺は残っている。

6時半ごろホテル・ウォンチュクに着く。4階建ての建物。

ロビーでお茶を飲む。ロビーはけっこう寒い。だから熱いお茶はうれしい。ゴ姿のガイドの二人は寒い寒いとぼやいている。ひざ小僧までのハイソックスをはいているが、スカートみたいに下があいているので寒いらしい。
「ブータンの90%の若者はゴを着たくないと思っている」と彼らは言う。
「じゃぁ、どんな格好がしたいの?」と聞くと、
「ジーンズで革ジャンを着て、バイクをとばしたい」のだという。若者はどこも同じだ。でも彼らにはゴがよく似合う。チョンソ君はゴを着ないで罰金を3回も払ったと言う。違反金は一回300ヌルタムだとか。300ヌルタムというのは空港使用料と同じ額だ。1ヌルタム=2.6円

お茶を飲んでいるとYさんから電話が入った。そこでYさんの荷物を部屋に上げるのは重いので、出来れば今取りに来て欲しいと頼む。彼は近くのホテルに滞在しているというので来るのを待つ。10分ぐらいでYさん到着。YさんはNTTの職員で、JICAからの要請でブータンテレコムの仕事を指導するために派遣されている技術者である。

人との縁は不思議なもので、たまたまわが町でADSLにしようとNTTに交渉し、署名集めをした。その手前、いち早く私もADSLにした。その担当がSさんで、そのSさんがメンバーのNさんと同級生、ADSL接続でNさん宅にきたので、ブータン行きを話すと同僚がブータンに行っているとアドレスをくれたのが、Yさんと私のメル友の始まり。ブータンに知り合いがいるなんんて心強い限り。「どうせ行くのだから、必要なものはお届けしますよ」ということで味噌、しょうゆなどの日本の食品を届ける役を買って出たのだった。荷物運びは慣れている。今回もネパールに届ける荷物も持ってきている。Yさんへの荷物を渡し、明日の約束をして、荷物が重いのでニマが車で送って行く。楽しそうな人だ。

部屋に荷物を置きに行く。4階だが、エレベーターはない。トレッキングだと言いながらあがる。部屋は広く、ゆったりしている。窓の正面からは山が見え、途中にホテルらしき大きな建物。すぐ下の道向こうにはサッカー場。サッカー場付属の小さな建物も伝統的なスタイル。ほとんどの建物が意識的に伝統的なつくり。おほ、まちづくりは日本より進んでいる。

夕食はブターン料理。白いご飯。野菜の炒め物。ソバをリングに固く焼き、具がかけてあるもの。エマ・ダツィ、チーズと唐辛子の炒め物、などなどが並ぶ。唐辛子は辛いが、味は美味しい。ハーハー言いながらも、これは癖になりそうだと食べる。これでもレストランの料理は外国人向けに唐辛子は控えめなのだそうだ。これならこれから先の旅は食事に期待が持てそうだ。

チョンソ君にゴがどういう具合になっているのか、着方をみせてもらった。恥ずかしがるのを強引に、オバサン・パワーで。ゴは和服のようにストレートではなく、両サイドにたっぷりのマチが入っている。前でエリを合わせ、帯をし、後ろにきれいにひだをとる。このひだの取り方が難しいのだとチョンソ君がいう。だからいつもニマに手伝ってもらっているのだそうだ。甚兵衛さんのように横についている紐を結ぶ。最後にカフスみたいに袖を折り返す。これは男性は白と決まっている。その白の長さは身分でまた違うのだそうだ。

エリから下襟を出して出来上がり。一様に黒や紺のハイソックスをはいている。ゴの模様はみなそれぞれ。茶やベージュの縞や格子が多いが、中には目立つ縦じまや無地もある。

部屋に戻って洗濯をする。オイルヒーターがあったので、洗濯物はすぐ乾く。ヒーターは一晩中つけっぱなしでいる。

10月18日(金)

6時起床。外は雨。
窓からのぞいていると、ホテルの道向こうはサッカー場だ。雨の中をフードつきの上着を着た人たちがサッカーの練習を始めた。ひとしきり、練習して引上げて行った。雨だから練習なしでは、雨期には困るだろうから、雨でも練習するのかな、と野次馬は思う。(註:サッカーは冬のスポーツ。雨でも雪でも天候に関係なくするのだそうだ。)

ゴやキラを着た人たちがかさをさしながら、歩いている。上から歩いてくる子どもたちを狙ってシャッターを切っている。たぶんこの暗さではだめだろうな。

ここでブータンについて少し。
ブータンの正式名はDRUK YUL、雷龍の国。
国旗には龍が描かれている。
政治体制は君主制。
面積は46,000㎡(九州の約1.3倍)、うち森林72.5%、
耕地7.7%、放牧地3.9%、
生産物はトウモロコシがトップ。
米、雑穀(アワ、ヒエ)、ソバ、小麦、大麦、ジャガイモの順。

人口は60万人とも70万人とも。
首都はティンプー。

公用語はゾンカ語。しかし英語教育がされているので英語は通じる。
cypress
国の木CYPRESS

DRUK AIRの冊子で得た知識だと、
国の木はCYPRESS(でも西洋の糸杉とはちょっと違う)
国の鳥はRAVEN(RAVENにはお目にかからなかった。
RAVENを私がカラスだというと、チョンソ君がカラスではないと言う。日本ではワタリガラス、大ガラスだ。A・アラン・ポーの詩にRAVENというのがあると説明する)、
国の花はブルーポピー。(7月には山へ行くと見られると言う。日本の花博で見たことがある)

BHUTANは日本語ではブータンと表記するが、現地ではブターンとタにアクセントをつけて発音する。英語でもTAにアクセントがある。そこで私たちも現地に倣ってブターンと発音することにした。ただし書くときはブータンとする。

7時半、朝食。
9時の集合まで雨も上がったので、ひとりで街中を歩いて写真を撮る。ティンプーの商店街を写真に撮って歩く。
野犬なのか、飼い犬なのかわからないが、犬がいっぱいいる。ほんとうに犬が多い。いたるところ犬が寝そべっている。ティンプーだけでも5000匹はいるそうだ。夜はにぎやかにほえていた。この犬たち、この国は仏教国なので、殺さず、捕まえて他の地に移住させていると聞いた。去勢もしているそうだ。でも、子犬は生まれている。
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時計台のある広場に出た。舞台をつくっている。そこで何をするのか聞いてみた。夜、ダンスがあるのだという。入場は無料。横でなにやら売っている。トトカルチョだ。これは寺院のドネイションのためだと言う。
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時計台

「乙女の祈り」のメロディが聞える。時間を知らせるチャイムだろうか。時計を見ると、まだ9時前だ。また聞える。人々がダンボール箱や、袋にはいい多ゴミを持って出て来る。ゴミ収集車のチャイムだったのだ。なんで乙女の祈りなの?

9時出発。
おっ、ガイドの二人のゴは昨日とは違う。ちょっとモデルになって、と二人を写真に撮る。先ずはメモリアル・チョルテン見学。仏塔のような白い大きな建物。寺院では靴を脱ぐ。足が冷たい。仏教といってもブータンの仏教はチベット仏教の流れをくむ密教。日本の仏教とは趣を異にする。仏教史をまとめたとき、密教には興味がなかったのですっとばしてしまったが、もう一度密教のところを読み返しておいたほうがよさそうだ。
ブータン仏教にはカギュ派とニンマ派があり、今の国王はカギュ派で一応国教はカギュ派仏教だと説明された。どっちにしろ私にはよくわからない。
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お参りをする人々

モティタンの丘に登り、ビューポイントからティンプーの町を臨む。盆地にはまだ十分土地があり、首都といっても地方都市よりはゆったりとしてのどかである。緑の季節ではないが、自然環境は恵まれている。あれはポプラだろうか、黄葉が目立つ。
tasichozon
タシチョ・ゾン

あちこちに建設中の建物が見える。チョンソ君の説明によると、現在ティンプーは住宅建設に追われているとか。
「現在のティンプーの人口は?」
「6万ぐらいです」
「ガイドブックには4万5千ってあったから急増しているんだね。人口が都市に集中するのは問題が起こるんだけど、仕事はあるの?」
「あります」
「どんな仕事があるの?」
「インドからの品物を扱う仕事です」
「中間交易ね。しかし農業国が地方から人口流出で人手がたりなくなりはしないかしらね。人手が足りなくなると生産高が減るし、それをカバーするために機械化することになる。そうなると機械化が進み、農家は借金経営を余儀なくされるんだよ。それが出来ないと輸入に頼ることになる。国の方針はどうなんだろうね」
「よくわかりません」
「若者にはわかんないだろうね。次にくるときには、この町もずいぶんと変わっているだろうな。私たちはいいときにきたのかもよ」

ターキンだけが飼われている動物園をのぞく。顔はヤギ、角は・・と言ったヒマラヤにだけ生息する珍獣だと、ちょうどNHKで放映されたとかで、みんなは興味を持っていた。偶蹄目ウシ科だから、よくよく見なければ、さほどおもしろい動物ではないが、水牛ぐらいの大きさ。草を出すと寄って来て食べる。ターキンは絶滅に瀕しているが、日本の動物園にもゴールデンターキンは飼育されている。

GOVERNMENTがやっているハンディクラフトの店へ行った。お目当ては織物。ガイドブックで見る限り、ブータンには色鮮やかな織物がある。色鮮やかだが、染めには今なお天然染料が使われていると説明があった。しかも絹織物が目を引く。そこで絹織物を買いたいと思っていたのだが、織だけのものは少ない。細かい模様のものは、絹地に細かい刺繍が施してある。刺繍のキラはきれいだが、和服同様実に高価だ。お土産にはちょっと手が出ない。そこでテーブルクロス程度の刺繍品を買った。新聞紙に包んでくれた。次に来るとこれがポリ袋にかわっているんだろうか。ここはカードが使えた。

ついで郵便局で切手と絵葉書を買う。ブータンは切手で有名とかで、いろんな種類のきれいな切手が発行されている。この印刷はどこでするのだろうか。デザイナーがいるのだろうか。小国が切手発行で外貨を稼いでいる例は知っているが、この国の切手も外貨獲得に役立っているのだろうか。とにかくきれいな切手、しかも種類が多い。日本までの航空便の料金は20ヌルタム。切手の購入にはドルも使える。雪豹や野鳥、ランやブルーポピーのデザインの切手をシートでドルで買った。絵葉書はいいのはなかったが、日本へ切手を貼って送りたかったので、数枚買った。

図書館へ行く。二階三階はお経の収集。もちろん何のことだかもわからないが膨大な資料である。

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食事の支度
ドゥプトプ尼僧院へ行った。中はお祈り中だとかで、周りだけ回ってみた。ここからもティンプーの町が良く見える。パロからの途中で見た、17世紀にくさり橋をかけた人がつくった僧院だと言う。人の手に乗るくらいの三角形のお団子のようなものがある。ブータンでは死者の灰を固めて、僧院へ備えるのだと言う。だから、墓はないそうだ。チベットでは鳥葬だが、ここでは同じチベット仏教でも火葬にするようだ。尼僧が食事の支度をしていた。烏瓜みたいな形の野菜を、器用に種をはずして縦に切っていた。オラ・チョット、カラスの嘴と言う名前だそうだが、烏瓜とは違うみたいだ。

街中のレストランへ食事に行く。昼食は美味しかった。ビュッフェスタイルで好きなものを取る。なんでもすこしずつとって見る。やわらかい焼きそばが美味しい。さっきのオラ・チョットも入っている。癖のない、さっぱりした野菜だ。「ナムサミ シンベ」(とっても美味しい)」を連発している。

午後、Yさんを迎えに行って、いっしょに民族博物館、古い民家が保存されているのを見る。3階にはドネイションの箱がある。今回はMさんにチップなどの支払い係を頼んだので、彼女が代表して入れた。民家の維持管理も大変だろう。ほそい木の階段を上ると、最上階は吹き抜けの納屋になっていて、藁や唐辛子 などが干してある。

となりの美術学校へ行く。石彫、仏画、刺繍、うるし塗りなどの伝統工芸が教えられている。段階があり、やさしいものから習っている。ここを卒業して、伝統工芸の店につとめるのだという。外では建築技術の実習。建材の木のくみ方、壁の竹組み、壁塗り。
student
ゴを来た生徒

そこでも工芸品の土産を見、続いて、製紙工場へ行く。製紙の原料はこうぞを使っているのだそうだ。和紙に似た素朴な味わいがある。よく見ると、石州和紙との交流があるようだ。なるほど、納得。

3時半から民族舞踊を見る。芝生の片隅に椅子が並べられ、観客はここから見る。私たちとヨーロッパ人が数人。観客は12,3人といったところ。この舞踊団はプロの王立舞踊団なのだが、そんなにプロらしいとは思えない踊り方だ。うん、男性たちの仮面の踊りは迫力はあったけど。伝統楽器の方が面白い。この楽器の写真を撮ろうと思っていたら、終わる前にさっさと片付けて帰ってしまった。愛想のないことだ。最後は客も参加して踊るのだが、もちろんすぐさま日本人一行は加わって一緒に踊り始めた。Yさんも踊りに参加している。ヨーロッパ人は出てこない。寒かったのだが、おかげですっかり体が温まった。
dance

Yさんの勤務しているテレコムを訪問。仕事の内容を見学。日本人一行は日本でも電話局などのぞいた事がないと言う。そうかもしれない。案外生活に近いところで、知らないことはたくさんある。

総裁まで挨拶してくれた。数日前東京から帰ってきたばかりだと言う。東京はvery busyだそうだ。Yさんの人柄だろうが、スタッフに好意をもたれていることが初めて会った私にも十分わかる。

夜、Yさんの泊まっているホテルで夕食。アラ(地酒)をご馳走になった。アラは蒸留酒だと聞いていたが、どぶろくのような味、ほんのり甘さを感じる。飲みやすい。Yさんとミスターと私と3人で、ほとんど1本飲んでしまった。

アルコールが入ったので、たのしく、おしゃべりをして、4階のYさんの部屋を見せてもらった。二部屋続きの素敵な部屋。ドアを入ると自炊用の机。奥がリビング。隣が洗面所と寝室。でもひとりじゃさびしいだろうな。おしゃべりが途切れることはないのだが、二人の若者が待っているので、彼らを気遣って、10時にはおみこしを上げる。ほんとはYさんのためにはもうすこしおしゃべりをしていたかったな

10月19日(土)

9時出発。
バザールを見た。トマト、キュウリ、にんじん、じゃがいも、グリンピース、おなじみの野菜が並んでいる。ナスはナスの色はしているが、実に細長い。それにゴーヤ(苦瓜)、隼人瓜(巾着瓜)もある。珍しい野菜は、これは何だと聞く。ここの呼び名だから、結局はわからない。果物もオレンジ、りんご、柿もある。

干し魚を山積みして売っている。インドから来るのだという。
ヨーグルト、葉に包んだバター、チーズ、飲み物の乳清。チーズもいろんな種類がある。柔らかなもの、乾燥したもの、スモークしたもの。名前を聞くと○○ダツィとみんな違う。農業国といってもかつての日本と違うのはこの乳製品の摂取だろうか。しかもチーズを使った料理がふしぎと日本人の口に合うのである。

ドマを売っている。ドマとはビンロウジュの実。この皮をむいて石灰といっしょに口に入れ噛む。南の国々のタバコのようなもんだ。歯が真っ赤に染まる。この噛んだ赤い汁を道路に吐き出す。刺激的な味わいがあり、習慣性があるみたいだ。健康にも悪いと聞いているが、どこでも売っている。

生活用品は何でもある。バザールは土曜日に開かれるのだそうだ。ああだこうだと売り手に聞いたので悪くなって花山椒を買った。花山椒もいろんな種類がある。ポリ袋に入れて、コートのポケットへ入れておいたのだが、車中が山椒の香りにつつまれた。

パロへ一昨日通った道を戻る、と言ってもティンプーに着いたのは夕方だったから、よく覚えていない。
ティンプー川沿いにプールのような、ため池のようなものがある。
「あれは農業用水?」と聞くと
「下水処理場です」という。
「沈殿式みたいだね」と言いながら見ている。
ほんとは近くに行ってみたかったが、それはならず。
それにしても下水にまで配慮しているところはいい。
王政という言葉は私にはなじまないが、国王はたしかイギリスに留学したようだし、ここでは王政が機能しているのかもしれない。

テインプー川(チュー)とパロ・チューの合流点に3つの形式の違う仏塔がある。二つの川は合流してワン川となる。パロへとは違う方向から、トラックがつながってやってくる。あれはインドからのトラックだと言う。ここは国境もかねているとか。

途中。直売所で柿やチーズを買う。ヤクのチーズを高野豆腐のようにきり、藁でつるして乾燥させたもの。ちょっと目には白いローセキのように見える。しかし、これを食べるには歯のいい人でも2,3時間かかると聞いたので敬遠する。

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パロのビューポイント。下に空港が見える。空港は川沿いに直線コースが作られている。その向こうにパロ・ゾン。

見渡す限りの田んぼでは今、収穫の真っ最中だ。刈り取った稲はそのまま田んぼに寝かせ、乾燥させている。稲は一定の方向に並んでいるのだが、田んぼによってむきが違う。そこに日光が当たり、美しい模様をかもしだす。旅人にはきれいな風景だ。
autumn

乾燥度を見て、手でにぎれるほどに束ね、平たい石に打ち付けて脱穀している。他の農家では石に溝をつけてしごいていた。これは大変だ。これなら昔の日本の技術がつかえるのではないかと思った。その昔、稲を脱穀するのに、のこぎりのような金属の型に引っ掛けていた。その後は木材で円筒形をつくり、横にして、太い針金みたいなものを打ち込んだものを
足踏みで回転させ、脱穀していた。これなら電気も燃料も要らないから、どこでも使えるだろう。

昔の日本の技術を伝える人はいないのだろうか。民族博物館になど行くとよく見られるんだが、もみすりだっていいのがあったはず。現在の 農業指導員はこんな昔のものをしらないのかなとも思った。Yさんに話してみよう。彼ならJICAに伝えてくれるかもしれない。

パロの農業を指導したのは西岡さんという人で、28年間ブータンにとどまり1992年現地でなくなり、国王からダショー(貴族)の称号を与えられた人だときいた。稲藁は日本のように重ねてある。家畜の用に足すのだろう。「インドが近いから化学肥料を買っているの?」とチョンソ君に聞くと、「ブータンは有機肥料を使っています。田舎へ行くと人糞でブタを飼っています。だから私は田舎のブタは食べません」という。「いいじゃないの。リサイクルだよ。人間が健康ならブタも健康に育つ。その逆も言えるね。有機物で育てているから、ブータンの食べものは美味しんだよ」インドでは化学肥料を使いすぎ、地力が衰えてしまい困っていると教える。パロの農業は一昔前のようであり、しかし病んだ地球を考えると、ある意味では先進的でさえある。ゴやキラを着ることを義務づけているのも、国内産業の保護のためかもしれない。しかしジーンズ党の私にはちょっと抵抗があるけども。

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パロ市街で昼食。散歩。日差しは暑い。ここでインターネットカフェを見つけたが、チョンソ君によると立ち上がりが遅いから使わないほうがいいという。

パロ博物館に行く、が停電のため入館できず。パロゾンを見学。ゾンは僧院だから外から見ることは出来るが中には入れない。キバシカラスを見る。ここもやっぱり大陸の一部だ。パロゾンから歩いて下り、木造の橋を渡る。この景色がいい。
parozon

明日ウマで歩くタクツアンへの道を見る。戻って一番古いゾンを見学。大きな国の木のCYPRESSがある。

通りすがりから見るどの家も屋根の半分ぐらいに唐辛子が広げられて干してある。その色鮮やかな赤は美しい。乾燥にしたがって、鮮やかさが落ち着いてきているようだが、それとも品種がちがうのかな。
chili
とうがらし

街道からすこし降りたところにあるホームステイ先の農家に行く。大きな3階建ての家だ。すぐ裏にはりんごの畑。家の横にはびっしり成ったナシの木もある。門を入ると、家まわりに水のいっぱい入った桶などがあり、階段を上ると、ベランダにつく。外にもトイレはあるが、ドアを入ると、トイレや仕事部屋、納屋などがあり、更にもう一段上ると、居間や家族の部屋などがある。床張りのどっしりしたつくり。この階段もホームステイの客のために、新しくつくったもののようだが、歩幅が狭いので、横向きに上ったり、下りたりしなければならない。

トイレは広い。6畳ぐらいの広さだ。一隅に大きなドラムカンに水がいっぱい汲んである。その前の高くなった(階段で2段くらい)ところに白い陶器の便器がある。手桶に水を汲んで、またいで用を足し、手桶の水で流す。しかし、このドラムカンいっぱいの水は家人が客人のために汲み上げてくれたものだろう。

居間には椅子が並べられ、温かいじゅうたんが敷かれている。壁にはいままでホームステイに訪れた人々が持ってきた扇子とか人形とか、折鶴とかいろんな日本のお土産が飾られている。大きなテレビ、ビデオ、電話もある。

ホームステイで茂ちゃんという大阪の若い女性といっしょになった。彼女も風の旅行社に依頼して、ガイドのオサムちゃん(名前を忘れた)と運転手のナド君を連れての旅。彼女はブナカまで行って来て、あとは私たちと同じコースをたどる。

ブータンの観光はGOVERNMENTによって一日200ドルと決められている。うち90ドルはGOVERNMENTの収入となる。去年までは外貨獲得は電力(水力発電)だったが、今年からは観光収入が1位になって、観光客も日本人がトップになったという。たしかに私たちにとっては古き良き日本を思い出させてくれるところだが、この先、この国の観光はどう変化していくのだろうか。観光地で物乞いやしつこい物売りのいないところなんて、ここ以外お目にかからなかった。よほど心しないと、どこでも同じサービスを求める観光客に、俗化してしまうことにもなりかねない。

私たちの部屋は居間の左となり。窓か

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チベット・ネパール

2005-05-13 11:33:42 | 旅行記 アジア

 2000年10月1日(日)
 
昨夜荷造りをし、計ってみるとザックが7キロ、カメラが3キロ。いつもカメラ以外は持たないので、これでもちょっと重い。ザックのように背負えるが、車と手がついているので、その分だけ重くなっている。着替えは毎度のことながら一組と寝間着。スウェターが一枚。洗面道具。重量の大部分はふたつの鉛のケースに入った50本のフィルムだ。夫が「僕の時(中国旅行)より軽いよ」という。珍しく早起きしてしまったので、メールをのぞいている。

 小田原から7時6分の「ひかり」で出発。この電車は岡山行きなので、遠くに行くときはよく利用する。小田原・名古屋・京都・新大阪。「はるか」に乗り換え、順調に関空につく。
 チェックインに行くと、飛行機が遅れているとの張り紙。「えっえー、どの位遅れるの?」と聞くが、「よくわからないから、12時半にまたここに来て下さい」との返事。「出鼻をくじかれちゃうなぁ。ロイヤルネパールだから仕方がないか」と言いながら、それでもチェックインをすませ、いつもなら機内持ち込みのザックも預け、手荷物はカメラバッグだけにして、搭乗時間を見ると、16時30分になっている。「こんなに遅れるの?」ときくと、「早まる可能性もあります」と1000円の昼食券をくれた。
 12時半、仲間の一人が聞きに行くと、今度は3時に来てくれと、500円のお茶券をくれた。窓口に行った仲間が、「ほか人の話では飛行機はまだカトマンドゥを発っていないみたい」「なにそれ」「遅れの理由をきちんと説明しないのはけしからん」と口々に文句を言っている。 夫に電話すると「どうしてまだいるの?」と驚いている。「早起きして損しちゃったよ。もっと寝ていたかったのに」とこぼす。
 
 仲間の一人が「西ネパールへ帰る看護婦さんが重量オーバーだから、荷物を持ってもらえないかと言っているけど」と言いに来た。「いいんじゃない。私たちの荷物は少ないから。でもチェックインしてしまったから、機内持ち込みだねぇ。もう少し早ければよかったのにね」
 そんなことを言っていると、ネパール人の看護婦さん二人と日本人スタッフが二人来た。「チェックインをすませてしまったので、機内持ち込みになりますが、いいですよ。6人いますから、持ち込んであげますよ」というと、「荷物を小さく作ってきます」と言って出ていった。西ネパールの寒村で医療活動をしているNGOのようだ。新聞で協力を呼びかけたら、たくさんの荷物が届いたが、
全部のせるには何万円もの超過金がとられるので、困っていたのだという。荷物運びは馴れているからおてのもの。ところがこの人たちは、飛行機をキャンセルしたのか、私たちの心配をよそに、とうとう現れなかった。機内で探したが姿は見えなかった。
 
 今回のメンバーは女性6人。60代が2人。今日63歳になったばかりの私が最年長。50代が二人、もう半月で50代になる40代が一人、と20代の大学生が一人という顔ぶれ。2年前和美さんに連れられて、いっしょにネパールに行ったことがある。そのときから、チベットに行きたいからmamasanアレンジして、と言われていて、ようやく実現したのである。

 ここにいてもしようがないからと、食事をすませ、関空の展望台に行く。こんなことでもなければ、見学に行くことなんて、私たちにはまずないことだから。バスで片道190円。晴れて日差しも暑い展望台からは対岸の様子がよく見える。
 
 まだ関空が建設中の時だったが、ここ、関空のある町(町名は忘れた)に下水道の視察に来たことがある。役場の部屋から建設中の管制塔がよく見えた。町長との質疑のとき、「住民の反対があったでしょう。どうなさったのですか」ときくと、「私もはじめは住民の先頭に立って反対しました。そこで、実際に大型機を飛ばしてもらい、住民に判断してもらったんです。そうしたら、この程度なら問題はないと、住民が納得したので、180度転換して、促進にまわったのです」
 「見返りになにかいいことがありました?」と聞くと、町長さん「いっぱいありましたよ。そのお金で全戸にケーブル・テレビをつけました。補助金は6年の限度はありますが,下水道が完備できます」「限られた時間で、町単独で下水道完備するのは大変でしょう」と言うと「お金は十分ありますから、府から下水道の専門職員を引き抜いて来たんですよ」と町長さんは鼻高々。「金が余っているこんな町に視察に来たってなんの役にも立ちはしない」と私はぶうぶう文句を言った。そして陰で、「一機の飛行機での判断なんて、甘いなぁ。今に苦情がでるぞ」と悪口を言ったが、さて、いまはどうなんだろう。 帰り大阪の水族館海遊館を見た。当時は目新しかったようだが、その後、あまりたくさんの水族館をみたので、こんがらがってしまってどれがどれだかわからない。かなり大きな甚平鮫がいたのがそこかなぁ。

その日の宿が、なんとパチンコ屋の上のビジネス・ホテル。初めてパチンコ屋に入った。玉の買い方も、やり方もしらない。店員さんが玉を入れ、ここを目指して打つといいですよ、と教えてくれた。教えられた通りにやったのがよかったのか、ビギナーズ・ラックというものか、やたらと玉が出る。時折店員さんが来て、たまった玉を下のケースに入れてくれた。まもなく、手が疲れて飽きてしまった。隣の女性にたまった玉を全部あげて外に出た。パチンコをしたのは後にも先にも、これだけ。
 
 話がそれてしまったが、待たされたおかげで、予定にないオリンピックのマラソンを見たり、閉会式を見たりして、8時半、やっと飛行機に乗り込むことができた。もう真っ暗。楽しみにしていた下界の風景は定かではない。飛行機は瀬戸内を飛んでいく。光はきれいだ。

 上海に着いたが、降りる人以外は機内から出ることもなく眠っている。いつもは外に出されて、給油と掃除を待つのだが、今回はないし短い。
 再び目を覚ますと、下に灯りが点々と見えた。もう直きだ。
ロイヤルネパールは、モニターでいまどこを飛んでいるとか、現地時間は何時とかいうサービスはない。ローカル線みたいだ。だから実際いま現地時間で何時だかわからない。
 
 でも、ともかくカトマンドゥには着いた。ビザの申請用紙は関空でもらって書き込んであるので、入国カードを書き、並んでダブル・ビザ(55ドル)をもらう。初めてネパール入りする日本人たちに余計なお節介をして、ビザの書き方を教えている。

 ようやく全員がビザをもらい、荷物を受け取って外に出ると、迎えが待っていた。空港からホテルまで15分ほど。見覚えのある道だ。ホテルについて時計を見ると3時10分前。時差は2時間。HOTEL・MOUNTAIN。仲間の希望で、ダウンタウンに近い3星ホテルをとった。ともかくシャワーを浴びて寝ることにする。私はいつもの習慣でまずは洗濯。チベット行きに1日余裕をとっておいてよかった。

2日目。
 8時に電話で起こされた。寝ぼけた声で出ると、相手は旅行社のラナさん。「疲れているから」と言うと、「10時半にアマルさんと伺います」と言う。メールではやりとりしていたが、ネパール人の英語は慣れないと聞き取りにくい。「待ってます」と言って電話を切ったが、目が覚めてしまった。フロントが私がどの部屋だか分からなかったので、電話を各部屋にまわしたので、みんなこの電話で起こされてしまったようだ。朝食に行くと、レストランは別棟にある。
朝食は料金に含まれているので、どれをとってもOK。ただしラッシー(ヨーグルト飲料)は別料金で30ルピー(60円)。みんながかたことのネパール語をやたらと使うので、ボーイたちが喜んでいる。

 ラナさんから、明日のラサ行きの航空券とビザとバウチャーを受け取り、打ち合わせをすます。
おみやげに持っていったカステラを渡す。そこへアマルさんが義弟のジャヤさんとその息子を連れて来た。今日の予定はこれからスダさんの家に行って昼食をし、スダさんのやっている学校を見学するという。
 スダさんの学校はぜひ見に行きたいと来る前にメールすると、お祭り(ダサインというネパール最大のお祭り)なので学校は休みだと、ラナさんから聞いてあきらめていたのだ。もしかしたら、
私たちのために特別に生徒を集めてくれたのだろうか。

 ここで少し、アマルさんやスダさんの説明をしよう。
和美さん(註・青年海外協力隊員としてスリランカに赴任。現在JOCSのボランティア・カメラウーマン)たちがインド・ネパールを訪問して、「ナマステの会」をつくり活動し始め、その様子が新聞で紹介されると、「サマルさんというネパール人が自宅に留学しています。ネパール語を教わりませんか」というような手紙が和美さん宛てに届いた。たまたま差出人は私の知っている人だった。そんなことから和美さん達とサマルさんとのつきあいが始まり、そこへお姉さんのマンデラさんが日本人と結婚して来日、彼女の出産の手伝いをしたりして、和美さんたちはすっかりこの家族とは身内のようなつき合いになってしまった。上からマンデラさん、アマルさん、スダさん、サマルさんの4人兄弟姉妹なのである。
 
 おかげで、チベット旅行の手配もサマルさんに頼んで、アマルさんの関係する旅行社を紹介して貰ったし、木村先生(註・ネパールで10年間医療活動をしていた医師)のネパールでの医療報告会で私もマンデラさんに会っている。
 この人たちはネワール。法律では禁止されているが、カースト(48ぐらいある)は残存しているようだ。ネワールはミドルカーストだというが、ハイに近いミドルだろう。カーストについては和美さんに任せよう。
 
 今回、和美さんは来ないから、まさか2年前のような歓待を受けるとは予想もしていなかった。一応、2年前お世話になったから、お土産とスダさんの学校の生徒に、ドラムを買うカンパは用意して来たが。

 スダさんの家は市街からちょっと遠い。でも、きれいな家だ。2年前よりスダさんもジャヤさんも日本語が上手になっている。ダルバードをご馳走してくれた。ダルバードとは、言ってみれば日本の懐石料理みたいなものだ。いくつもの料理を次から次へと小さな器に入れて持ってきてくれる。
ダル(豆)スープ、チキン、マトン、ククンバ(きゅうり)の胡麻和え、青菜、ロプシーなどなど。
デザートは甘いヨーグルト。そして最後はネパリ・ティ、マサラ・ティのことだ。
スダさんの料理は美味しい。ひとしきりワイワイやって、学校へ行く。
 三階建ての学校だ。入り口に赤、黄、緑、青の旗が立っている。沖縄からのプレゼントだそうだ。ついでだから、沖縄のフクギ(黄)の話をしてやった。

 この学校St.Edmond‘s Schoolは初め、スダさんたちの住居として建て始めたのだそうだ。その建築材料を運び込むと、近所の子ども達がやって来て、板や煉瓦を持っていってしまうので困って、子ども達に読み書きを教え始めたところ、子ども達も親たちもとてもよろこんだので、自分の住居を学校にして初めは塾のような形で、そして認可も取り、本格的に教育に取り組んだのだそうだ。
 先生は9人。生徒数は62人。3歳から14歳までがいる。小さな子は保育園代わりで、大きな子どもたちが面倒を見ていた。学費の払えない子が12人いるので、先生方が紅茶や香辛料を袋に詰めて、その売り上げで面倒を見ている。制服もあるが、そういう子達の制服はスダさんが手作りしている。
pupil

 校舎の前で、子ども達が花を手に私たちを待っていてくれた。
「ナマステ」(こんにちは)と花をもらい、「ダンネバード」(ありがとう)
各教室をのぞいた。数学の教室、英語の教室、ネパール語の教室。どの教室の子も英語の質問に英語で答えてくれる。歌を歌って歓迎してくれる教室もあった。どこも、とてもお行儀がいいし、向学心旺盛。学級崩壊なんてまるっきりなさそう。
 私はカメラマンに変身して子ども達の写真を撮りまくる。送ってあげるからね、と言いながら。

 帰り、窓から子ども達が私たちの姿を認め、手をふりはじめた。どの部屋からも、小さな手が、
笑顔が私たちを送っている。「ナマステ」と私たちも手を振り返す。心温まる風景だった。
 ジャヤさんと歩きながら、「スダさんは偉いですね」言うと、「自分もそう思う。仕事が終わってから学校に寄ると、彼女はまだ仕事をしている。頑張りやです」とジャヤさんが答えた。
ヒンズー教の社会で、自分の妻の社会的な仕事を評価するのは大変なものだろう。ジャヤさんの理解があってこそだ。良い夫婦だ。
 
 みなと別れて、私ひとり、バドガオンという古都(前に行ったことはある)に行く予定だったが、アマルさんが交渉すると、タクシーがふっかけているので、やめてみんなと一緒に、タメル(外国人がよく行く商店街)に行く。仲間がパシュミナ(カシミヤ)が欲しいというので、アマルさんの友達の店に連れていって貰う。
 一応裏つきのコートは着てきたが、チベットが寒いといけないと、私も幅広の軽いカシミヤのショールを買った。9000円だった。これを日本で買ったら、2万円以上はする。皆がほしがるわけだ。アマルさんもオバサン達の買い物のつき合いをさせられて、さぞや疲れたことだろう。それにしても女性たちは買い物が好きだ。

 私と同室のTさんはのんびりしたが、後の4人はまた町に出かけた。二人で食事に行き、私はジンフィズを2杯飲んで、寝てしまった。
 夜更けて、鳥の声に目を覚ました。なんと窓から道ひとつ隔てた塀にそって大きな木が何本も植えられていて、そこがサギたちのねぐらだったのだ。
 
 明日は6時15分に迎えが来る。

3日目。
 
目覚ましを持ってきた人が5時半に起こしてくれることになっていたが、起こされるまでもなく、みんな起きて支度をしてしまった。カトマンドゥは暑いが、ラサを頭に入れて、ブラウスの下に半袖のシャツを着込み、スウェターを着た。6時にはロビーで迎えを待っている。

 空港に着くと、荷物チェックに長い列。窓口にはまだ人気がない。前に列んでいる人に「ラサはここか?」ときくと「そうだ」という。ここが列だと後ろをさす。そこでその後に並んで待っていたのだが、時間が進むと乗客がわんさとやってきた。そしてあろうことか、列など無視して並び始めた。ツアコンは束になったパスポートを握って前列に立っている。殆どが白人。「Stand in line」と叫んでも知らん顔。ならば歯には歯をだ。列をぬけてカウンターの前に陣取る。ところが私はチビだから、背の高い連中にもみけされそう。「Mちゃん、強引にやって」「Nさん、サポートして」と選手交代。Mちゃんは要領よく、団体の前に6人分のパスポートを滑り込ませた。

 チベット旅行は団体(5人以上)でないとビザが出ない。前もってビザを申請して、グループ毎のビザを取る。名前とパスポートナンバーと生年月日まで書き込まれた一覧表を見ながら、係員はそれをパスポートと航空券とを確認してから搭乗券をくれるので時間がかかる。Nさんの役割は、表の名前とパスポートを合わせてやること。これをやってやるとかなり速度が上がる。ただ空港使用券を買い忘れて、もう一度バンクに走る。空港使用料は17ドル。
 もみくしゃになりながらも、搭乗券、荷物預けはすんだ。私の荷物は全部機内持ち込みだ。

 出国表を書き、イミグレイションで出国のシールを貼ってサインして貰う。それから待合室に入り、更にもう一度手荷物検査を受ける。入り口が男性と女性に別れていて、女性には女性の係員がボディチェックをする。チェックがすむと搭乗券の裏に係りがサインをして出口で他の係員がスタンプを押す。そしてやっと搭乗口のある待合室に入ることになる。

 待合室のドアが開いた。搭乗券の半券を切って貰い、飛行機まで歩いていく。
タラップを上がろうとすると、係員がラッゲージはないのかときく。手荷物だけだと答え、そのままタラップをのぼり、席に着く。荷物を預けた仲間はなかなか来ない。
「どうしたの?」と入ってきた一人にきくと、下で預けた荷物を各自確認してから、飛行機に積み込んでいるのだという。来ない二人は荷物がまだ来ていないから、待っているのだという。
「ほらね、荷物は手荷物に限るでしょう。もっと、コンパクトにしなさい」「ハーイ」

 カトマンドゥからラサまで1時間。9時50分発だが時差があるから向こうには11時50分になる。
 翼はヒマラヤのたおやかな白き峰々を横に見ながら飛ぶ。歓声があがる。チョモランマ(エヴェレスト)だ。となりにローツエ。いずれも8千m級の山だ。私の席は窓側だが、残念ながらチョモランマ側ではないので、姿は見えるが写真を撮ることは出来ない。反対側にすわっているMちゃんにカメラを渡し、シャッターを切って貰う。

 クンガ空港が近づくにつれて、乾いた山々の間に青々とした湖がいくつも見えてきた。とてもきれいだ。空港の近くに町はない。

 飛行機をおり、空港事務所まで歩く。辺りの山々は草木もない荒涼としたむき出しの禿げ山。空は青く、日差しは暑い。「なにこれ」「太陽に近いんだから熱いんだよ」入国票を書き、ビザ表(往復2枚)を渡し、グループ毎にチェックをし、帰りのビザ表を受け取り、外に出る。パスポートに入国の印は押さない。
 外に出ると、迎えが待っていた。名前をきくと発音はちょっと難しいがソンゾと聞こえるので
ソンゾさんと呼ぶことにした。ソンゾさんがひとりづつの首に白い薄いウェルカム・スカーフをかけてくれた。このスカーフ(名前が思い出せない)は寺院や仏様に巻き付けられている。
 車の中でさっそくソンゾさんをつかまえてチベット語のレッスンを受ける。クンガ空港からラサまで1時間半。車はヤルツァンポ川の支流をあがっていく。

 ヤルツァンポ川は遠くカイラス(信仰の山)の山から流れ出し、ヒマラヤ山脈の東を下って、インドでプラファトラ川となり、ガンジスに合流してバングラデシュに下る大河だ。
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ヤルツァンポ川

 チベット独特の民家があり、屋根にさされた竹が風で舞っている。遠くにヤクや羊の姿も見える。そのうちにみんなうつらうつらしてしまった。これがくせ者だったとは、だれも気がつかなかった。
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 ラサに入ると、広くて舗装され、両側に歩道がある道がまっすぐに続いている。
「滑走路になるんだよ」「嘘でしょう?」「いや、ここがどうかは知らないけど、旧ソ連ではいざというときに滑走路に使えるように、まっすぐな道をつくったんだよ」

 ラサ飯店はホリディ・インとの合弁で出来たホテルだときいていたが、真四角な趣もまるでない建物。入り口は色とりどりの造花と中国的なあの赤い垂れ幕がはでやかに出迎える。面白いから写真に撮る。クンガ空港を出たのが12時半、2時の到着だ。

 さすが5星。ホテル内はきれいだし、部屋もひろい。ほほう、カトマンドゥとは格段の差だね、とよろこんでいる。窓からは広い敷地を囲むように植えられたリンデン(菩提樹)が黄色く色づいてとてもきれいだ。
 昼食を取らなかったので、早めの夕食にしようとロビーに下りてくると、Hさんが頭が痛いといいだした。この人はオランダ・ベルギー旅行から帰って間もない。疲れが残っているのだろうか。

 ロビーにいた日本人団体がガイドから酸素枕を受け取り、使い方を教わっている。
「それどこにあるんですか」ときくと、日本語が達者な中国人ガイドが「これはお客様のために私どもが用意している酸素枕です。このホテルにもあるはずですよ。具合がわるいのですか?」
「いえ、私は何でもないのですが、あの人が頭がいたいと言うんですよ。」
「空港に着いたときに、薬を飲んだ方がよかったですねぇ。気がつかないうちに眠くなったでしょう。酸素の影響ですよ。私どもは空港でこの薬をみなさんに差し上げているんです」といって、天・・という中国製の薬を見せた。「これどこで売っているんですか?」「このホテルの売店にもあります」「いつ飲んでもいいんですか?」「はい大丈夫です。酸素がすくないことが原因ですから、なるたけ水やお茶をお飲み下さい。水やお茶には酸素が含まれていますから、自然に酸素補給になるのです。そしてアルコールは飲まないで、肉も止めて野菜をお取り下さい」と。

 売店で天・・を買ってきた。1箱30元。能書きを見ると高山病も書いてある。開けると、小さなビンに入った液体とストローがついている。「まずい」「いやだ」と言いながら、飲んでみる。ついでに酸素ボンベ(20元)も買った。すごく軽い。

 夕食時も何でもなかったのだが、一眠りして頭が痛くて目がさめた。鼻もぐじゅぐじゅする。喉も痛い。風邪の症状だ。治りきっていないまま出発したから、ここで出たのだろうと思っていたが、これが高山病の始まりだったのだ。

4日目。 

 薬を飲むにしても、空腹時に飲むと胃をやられる。朝まで待って、朝食の時、風邪がぶり返したと話すと、全員が頭が痛かったという。一番若いMちゃんもそうだったという。そこで、持ってきたナロンエース(頭痛薬)をみんなして飲む。頭の痛いのはすぐとれた。
日頃はまったくと言っていいほど薬を飲まない私が、この日から薬漬けとなる。

 ラサホテルの建物の回りを歩くと、コスモスが今を盛りと咲いている。バラも咲いている。

 9時15分、ソンゾさんが「ショボデレ(おはよう)」と言いながら迎えに来た。
今日は午前中デブン寺を見学、昼にホテルに帰って、午後はノルブリンカ見学の予定。
日差しは暑いが物陰は涼しいので、スウェターを着、サングラスをかけ、コートを座席に投げ込んで出かける。

 短いレンズのついたカメラを右肩に、左肩にはフィルム10本とロングレンズのついたカメラとウェット・ティッシュとミネラルウォターを入れた小さなバッグ。このミネラル・ウォターの小さなビンは入れ替えが出来るように関空から買ってきたのものだ。水を飲む習慣がないのだが、どの本も、高山病に備えて水を飲むことを推奨している。

 デプン寺はラサ市街からちょっと離れた山の谷間にある。市街を出ると、舗装がなくなり、乾期に入った道は車が走るたびに埃を舞いあげる。
道路わきの野原にはヤクがのんびりと草をはんでいる。「あのヤクの写真が撮りたい」とNさんが叫ぶ。
「帰りに止めて貰うから、覚えておいて」
 しばらくすると、今度は生肉がつるしてあるのに目が行った。
「ドライ・ミートをつくっているんだよ」

 チベットはもっと乾燥したところだと思っていたら、乾期だというのに、かなりの湿地だ。湿地だからか柳が目立つ。やたらと木の名前を聞いて、その時は覚えたが、もうみんな忘れてしまった。
ともかく、街路樹が黄色く色づいて、土埃の道と調和している。いい雰囲気だ。

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デプン寺

デプン寺、寺というより僧院、600人ほどの修行僧がいる。舗装された入り口には土産物屋がならび、坂道には両側に物乞いが並ぶ。ソンゾさんが英語でデプン寺の説明をする。だれがいつ何のためにと故事来歴をしてくれるのだが、左から右へと抜けてしまう。
「あとでガイドブック読んでおいてね」。名刹は各部屋に中国語(漢字)、チベット語、英語の説明が付いているから、のんびり読めばガイドはいらない。

 なにやらにぎやかな歌が聞こえた。その声をたよりに行くと、屋根の上で女の子達が棒を持って屋根を叩いている。「何しているんだろう」物見高いNさんが屋根に上ってみる。続いてEさんも、Mちゃんも上る。あの棒で屋根を平らに葺いているんだという。
下りてくると、売店でまたひっかかった。やたらとお守りを買っている。どうでもいいけど、つられて私もウシの絵のお守りを買った。10元。この僧院は被写体がいっぱいある。
 fire
灯明

 薄暗い部屋には灯明がいっぱいともされている。ろうそくではない。きくと、ヤクのバターだという。ヤクのバターは甘い香りがする。お参りする人たちがポリ袋に入ったヤクのバターを杓子ですくって灯明の中に入れていく。皿のバターはあふれんばかり。それを係りが取り除いて燃えやすくしている。ここデプン寺も何代かのダライ・ラマの居寺であったので、その座像が仏像といっしょに並んでいる。金ぴかで色鮮やかな仏像たちだ。壁画も実に細かく、物語が描かれているのだが、これは夫がいないと私にはわからない。

 ソンゾさんはかって修道僧だった。そして大学で英語学を専攻してガイドになったのだそうだ。
「私はダライ・ラマ14世の本を何冊も持っているよ」というと「あなたが」という。そうなんだ。夫でなく、私自身が買った本なのだが、どれもよみかけの中途半端。
「でも難しいから、途中でなげだしちゃった」というと笑っていたが、うれしそうだった。
チベットは中国にはなったが、どっこい、ラダイ・ラマは彼らの心に生きているようだ。
bones

 僧坊を撮して、本堂の方に向かった途端、躓いてころんでしまった。とっさにカメラをかばったので、右手を切ってしまった。血が流れる。
「カメラは大丈夫?」「mamasan、さっきお守りを買ったからその程度ですんだのよ」と皆がからかう。バンドエイドを貼って貰い、顔をしかめながら「そうだね」とうなずく。

 本堂の前の広場では修道僧達がヤクを連れて来て、観光客をそれに乗せて稼いでいる。ミーハーオバサン達はよろこんでのっている。しょうがない、写真を撮らされた。
私も1枚いくらで売りつけようか。
 slope

 台所に入ると、バター茶をつくっていた。ここは木を燃やしている。外には燃し木が山のように積まれている。修道僧がバター茶をポットに入れ、配っている。

 ある僧坊の庭先で太陽光調理器を見た。太陽光線を焦点に集めて、煮炊きする調理器だ。アフリカなどではNGOが使っている。日本でも、エネルギー節減に日中はこれで調理している人たちもいる。うーん、日差しは十分あるのだし、ここでこれを使うのはいいことだ。
光を集めた上には大きな薬缶が湯気をたてていた。

 あれ、ふたりいない。待っていると、トイレに行ってきたのだという。「トイレあるの?」と聞くと、「奥にある」という。そこで3人連れだって、トイレに行く。さっき見た台所をまわって、橋でつながった別棟というんだろうか、そこにトイレがある。高いから景色がいい。絶景かな、これはいい、としゃれこんだのはいいが、落とし紙が舞って落ちて行くには驚いた。物を落としたら大変だ。次の人に「荷物みんな持っていてあげる。帽子も預かってあげる」カメラを預けてきてしまったが、このトイレは撮しておくべきだった。
wall

 デプン寺をちょっと下りると、絨毯工場がある。作業風景をのぞいたが、糸をかける手先のすばやいこと。ここからはデプン寺の全貌がよく見える。ここの庭にも、薬缶をのせたたくさんの太陽光調理器が並んでいる。そのひとつには鍋ものっている。これはいい、と言いながら、写真に撮る。子ども達が出てきたので「デヒデレ(こんにちは)」と言ったが、「ニーハオ」と中国語が返ってきた。

 帰りヤクの写真を撮ろうと思ったら、ヤクは野原のはるか向こうに移動してしまっていて、とても近づけない。「チャンスの神様は前髪しかないんだ」とくやしがる。
 昼食にホテルに帰った。
エレベーターで日本人団体客といっしょになった。彼らは成都から来たのだという。
「頭、痛くなりませんでした?」ときくと
「痛いなんてもんじゃありませんでしたよ」という返事。
「もう大丈夫なんですか」
「やっとラクになりました。身体が馴れたんでしょうね」
「どのくらいかかりました?」
「三日目です」
「それでは、私たちは昨日ついたばかりですから、あと二日ぐらいかかりますね」

 昼食の時、この話をすると、もう少しの辛抱だとみんな納得。ともかく薬は飲み続ける。
息も切れるので、ゆっくりゆっくり行動することにする。でも、習慣とはおそろしいものでつい走ってしまう。そしてフーフーと深呼吸するはめになる。

 空は青いし、空気もさわやか。どこにも酸素が薄いような感じはしないのだが、目には見えないが
確実に空気の薄さが私たちに影響を与えている。

 ホテルをちょっと出てみると、街路樹のある広い歩道に露店が並び、いろいろなものを売っている。「安いよ」「ちょっと見てください」といった日本語が売り手の口からきかれる。

 3時、ソンゾさんが迎えに来た。ノルブリンカはホテルの続きだ。と言っても1㎞くらい離れている。車に乗り、入り口で下りる。ノルブリンカの前がチベット博物館。ちょっと目にはお城のような立派な建物だ。ノルブリンカは離宮として建てられ、インドに亡命しているダライ・ラマ14世が居住していたものだ。広い敷地はノルブリンカ公園になっている。
 14世が会見していた部屋、寝室、居間等々眺めながら、「ダライ・ラマがはやく帰って来れますように」と声を出して手を合わせる。政治的配慮か、英語が通じないのか、居合わせた人々はだれも無言。
norburinka
ノルブリンカ宮殿

 公園内でチベット・ダンスをしている人々を見る。歩いているだけでも息切れするのに、この人達は楽器を演奏しながら、かなり激しく踊っている。軽妙なリズムなので、つい引き込まれそうだ。
daidogei
大道芸
 
 公園の入り口には土産物屋が並ぶ。オバサン達またひっかかった。数珠のような腕輪をいくつも買ってはめている。
「一日に2ヶ所はキツイなぁ」と私は売店で葉書を買って部屋に戻る。夕食後、はがきを書き始めたのだが、あとの人たちは外に出て行った。たいしたものだ。

 薬を飲んでいるにもかかわらず、一眠りすると頭が痛くて目が覚めてしまう。Tさんも頭が痛いと薬を飲みだした。私は胃を心配してお茶は飲んだが、今回も朝まで薬を飲むのを我慢。

5日目

 9時半出発。今日はガンデン寺までのロングウエイだ。ガンデン寺はラサから70㎞離れた山の上にある。ラサ大橋を渡ってキチュ川(ラサ川、川幅も広く、水量もある)を遡る。道は舗装されている。川のまわりに平地を残して、両側にゆったりと山々がそびえる。川沿いのこの風景は実にいい。のぞき込むと川底が手に取るように見える。
 ところどころに集落があり、まわりを塀でかこんだ煉瓦造りの平屋、倉庫などが見える。畑では馬やヤクが働いている。耕しているのは来年への麦のうえつけだろうか。羊、ロバ、ウシ、山羊、にわとり、豚の姿も見える。こういう風景は私は大好きだ。

 運転手さんが口笛を吹く。おや、「トロイカ」だ。いっしょになって歌っている。歌を歌っている分には息切れがしないのは不思議だ。

 山道にさしかかった。一車線ほどの細い山道をじぐざぐに車は一気に登っていく。140mの高さを登るのだという。下をのぞくとちょっとこわいくらいだ。山の上のガンデン寺が斜めに見える。 途中、ガンデン寺の全景を取るために車を止めて貰う。向こうから来るのは子牛かなと思ったら、大きな犬。
 
 山の斜面が黄色くなっている。花かなと思ってよくよく見ると、花ではなく、水芭蕉のような大きな葉がタバコのように色づいていたのだ。それが斜面を覆っているので山全体が黄色く見えたのだ。ランかな、水芭蕉かな、と言っていたのだが、枯れた花を見ると違うようだ。
 
 ガンデン寺の入り口には寺の由来を書いた英語の案内が出ている。それによるとツォンカパによって、1409年に建立されたと書いてある。この寺は1950年代の中国人民解放軍の侵入や60年代の文革で、徹底的に破壊され、廃墟となり、ここで修行していた僧達はインドへ亡命してしまった。

 1990年から修復が始まったというが、まだまだ毀れたままの建物も多い。あの文革の狂気の嵐を思い出しながら、かくありなんと思った。しかし、この山上に、壮大な僧院をよくも建てたものだ。信仰の力とはすごいものだと感心する。観光客だけでなく、こんな辺鄙な所なのにお参りに訪れる人たちも多い。だからこそ、寺の復興が出来るのだろう。
 
 門を入ると、女性達がなにやら売りに来た。乾燥した苔のような、草のような、なんだか分からない。「何」ときいても答えが分からない。臭いを嗅いでみると香りはいい。売り手は無理にはすすめない。勝手にローズマリーだとか言っているが、こんな高地でローズマリーが出来るとは思わない。寺の中を歩いて、それが何であるかようやくわかった。抹香だったのだ。

 ふっと空を見るとイーグルがいる。それも何羽も飛んでいる。そうだ、ここは鳥葬の国だったのだ。望遠を構えてシャッターを切り続ける。ときおりカラスが邪魔に入る。近くにはスズメもいるがイーグルの姿に驚くことはない。エサがちがうのかな。

 一気に登った坂道を今度は一気に下りる。途中、真っ青な空の色のような小さな花を見た。
リンドウの仲間のようだ。車を止めて貰おうかと思ったが、後から他の車も来る。下にもあるだろうと思っていたら、高度が必要らしく下では見られなかった。ホテルに帰って、チベットの花の本を立ち読みすると、果たしてリンドウの仲間であることがわかった。あの黄色い葉はと探したが見つからなかった。
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 途中の村で、お弁当が配られた。鶏ももの照り焼き、ソーセージ、ゆで卵、フライドポテト、ピーナッツ、ザーサイの炒め物、りんご、バナナ、パン、カステラ、などなどいろんなものが入っている。それにミネラルウォーター。オバサン達は殆ど食べられない。そこで食べかけのパンやカステラを持って、近くの民家で遊んでいる鶏に「コーコーコー」と呼びかける。私の呼びかけに鶏たちはちゃんと寄って来てパンを貰う。「ほら、コーコーコーは世界共通語だよ」と言って笑う。
 そばの水場では洗濯をしている若い女性がいる。よく見ると12~13の女の子だ。

 いそいで引き返し、カメラと手をつけていない物を二つの箱に詰め

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ウズベキスタン①

2005-05-11 21:24:45 | 旅行記 アジア

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タイル

プロローグ

ウズベキスタンの旗は緑、白、空色、そして白のふちに赤い線が入っている。空色の部分に月と12の星がついている。
緑はウズベキスタンの自然、白はウズベキスタン人の心、空色はウズベキスタンの青い空だ。赤い縁取りはウズベキスタン人の血を、月はカラカルパック自治共和国、12の星は12の州を表しているのだそうだ。紋章に描かれている鳥の絵は仮空上の鳥、フモ、ハッピーバードだ。ウズベキスタンには120もの民族が混在している。

ウズベク語で、ウズとは自己、ベクは見る、すなわち「自分を見つめる」の意味だそうだ。ほほう、ソクラテスの「汝自身を知れ」だ。広大な国土、多くは荒野だ。西は山はあっても低い。タシケントの方には4000mを越す山もあるが、大体において平野だ。耕作地は広く、かってはソホーズやコルホーズであったろうが、いまは共同農場はあるにしても個人が人を雇ったりしても、耕作しているところが多いそうだ。農地は国有地である。土地は国有地、だから土地の売買などはない。土地は国から借りるのである。

貧富の差は大きいようだが、公務員の平均月収は約50ドル、しかし副業をして、だいたいが倍ぐらいの収入を得ているようだ。50ドルというと貧しいようにきこえるが、物価は安いし、家賃も安い、しかも勉強する意思さえあれば、教育は無料、社会的資本はまだまだのところはあるが、暮らしにくくはなさそうだ。

埋蔵資源は100種を越え、実際に60種以上が使われている。金の埋蔵量は世界4位、銅は10位、ウランは7位である。天然ガスと石油の埋蔵量は豊富で、中央アジア全域からロシアヘパイプラインで供給している。砂漠を行くと、砂漠の中に不自然な草の垣根の道が出来ている。これはパイプラインの存在を示している。綿花の生産も世界4位だという。子どもは大勢いるし、これからの国だという感じがする。

ウズベキ語は覚えて行かなかったが、ロシア語でことたりたのはラッキーだった。帝政ロシア、ソ連と続くロシアの影響が強かったので、ロシア語はいきわたっている。一部ローマ字表記も見られるが、まだキリル文字がふんだんに使われている。私のロシア語はまったくの片言だが、耳で覚えた言葉は(だから文字で書けない。アルファベットはたどたどしく読める)けっこう通じるみたいだ。12日間で少しだが復活する。しかしまたすぐ元に戻って忘れてしまうだろう。

旅をしていて、一番楽だったのは治安がよかったことだ。人々はなつっこく、親切だった。もちろん、スリや泥棒がいないわけではないだろうが、いやな目にはあわなかった。観光地は物乞いがついてきたが。どこの国でも、連泊しても、出かけるときは荷物を整理し、バッグに鍵をかけていくのだが、今回の旅でホテルの荷物に鍵をかけたのは着いた時だけだった。
パソコンはテーブルに出しっぱなしで置いたまま。ヌクスへ飛んでからは鍵は財布にしまわれたまま、帰りの荷造りでやっと思い出してもらえたような存在だった。

パスポートは腹巻に入れて移動するのだが、これも不必要で腹巻はザックにいれられたまま。パスポートはウェストポーチにいれっぱなし。バザールにはいつも警官が巡回しているし、交通の取り締まりもきびしい。
私たちの車もスピード違反の取り締まりをやっているところに差しかかると、車が警告を発しておかしかった。検問にはずいぶん遭った。そのたびにオバサンはポリスマンに手を振ったり、敬礼したり。すると、かならず答えてくれた。人はいいのだろう。

特記すべきは肉、野菜、果物をはじめ食べ物、料理の美味しかったこと。ワインも美味しかった。これは旅行者にはなによりのことだ。こんな荒野の遊牧なのに、ヒツジは臭くは無く、肉に味がある。もちろん牛肉も美味しい。肉のヨーロッパやオーストラリアと比べたら、数段の美味しさだ。どうしてだろう。肉としては鶏肉が高い。もうひとつ、ここはお茶の文化圏である。日ごろ水を飲む習慣がない、ましてやジュースや清涼飲料を飲まない私には、このお茶はなによりもありがたかった。

どこでも私のカメラを見ると、大人も子供も写真を撮ってくれという。気安く応じてシャッターを切ると、「ありがとう」と喜んでいる。別に写真を送ってくれというわけではない。自分が写真に撮られたことがうれしいみたいだ。こちらとしてはなんとも幸運。フィルムは50本以上持って行ったが、今日現像に出すと、使ったのは35本。どんなふうに撮れているか出来上がってくるのが楽しみである。

バザールで写真を撮ってあげたら、花屋のお兄ちゃんがすばらしい真紅のバラを1本くれた。でも持って歩くわけに行かないから、「ニナーダ スパシーバ(ありがとう、でも要らない)」と断ったが、どうしても受け取ってくれという。ドライバーさんにあげることにして受け取ると、それを見た他の花屋のおばさんたちも「マダム、マダム」とそれぞれにバラをくれた。真紅とローズの香りのいいバラの花束ができた。

いつもしていることでしなかったのは絵葉書を出すこと!
絵葉書をそのまま送れない。絵葉書を封筒に入れて送るのだ。興がそがれて、止めてしまった。送ったのはヌクスからだけ。はて、無事に着くだろうか。

さて、旅日記をはじめよう。

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サマルカンドで

旅の始まり

2003年5月14日(水)
12時12分発アクティで小田原へ。小田原駅が新しくなって初めて下りた。荷物を持って新幹線までいくのもラクになった。
荷物はふたつ。衣類と洗面用具(多く持ったのはウェットティッシュ)とフィルムが半分は占めているザックとカメラバッグだけである。カメラバッグにはレンズをつけた2台のカメラ、ストロボ、PCが入っている。ザックの重量は10kg。カメラgバッグは7kg。

他の人の荷物は重い。1人は布のスーツケースが20kgあるという。「なんでこんなに持ってくるの?重量制限にひっかかるよ。」というと、「きっとmamasanが少ないから、大丈夫」とすましている。

12時51分「こだま」、静岡で「ひかり」に乗り換え新大阪、「はるか」で関空へ。今回のメンバーはブータンへ一緒に行ったNさん、Hさん、Eさん、私の4人。60代3人、50代1人のオバサン・パーティである。関空はがらがら。時間が遅いせいだろうか、それともSARSのせいだろうか。

関空19時発ソウル行き。アシアナ航空。おや、機内のモニターは日本海が「JAPAN SEA 」ではなく「EAST SEA」になっている。韓国がそう主張しているのは知っていたが、へぇ~。機内放送は英語、韓国語、日本語。韓国語は復習してこなかったなぁ。機内食は海苔巻きのすし。不味い。キムチが出ると思ったのに、とがっかりしている。

ソウル・インチョン空港。ひとけはほとんどない。電気も暗い。transfer deskに行くと、スタッフがこれは明日の便だとわけのわからないことを言う。ようやくもうひとつのtransfer desk T4だとわかり、えんえん歩いていく。係りの女性が待っていてくれた。トランスファーは私たち4人だけ。もしかしたら乗客予定が4人だけだったので、直行便の関空乗り入れが中止になったのかも。係りの女性が案内してくれ、32番ゲートまで行く。途中インターネットがあったが、わき目もせず後についていく。

22時近く、機内乗入れをはじめた。クルーたちは全員手術用の大きな白いマスクをしている。それを見て、思わず笑ってしまった。しかし、乗務員たちは無愛想。旧ソ連のお役人って感じ。関空でも、インチョン空港でも、こんなマスクはしていなかった。

ほぼ一杯になったが、空席もたくさんある。通路をはさんで右3席、左3席の小さな飛行機。体格がいいひとたちの国だからか、前の席との間に余裕がある。これはラクだ。

ところがちっとも飛ばない。予定は23:30分と書いてあるから、それまで機内で待てということか。「離陸許可が下りないから、出発できない」とアナウンスが入る。アナウンスはロシア語、英語、韓国語。直行便だったら日本語が加わったかも。

12時過ぎ、食事が出た。「食べられないよ」と言いながらも結構食べてしまった。白いご飯にハヤシライスのような煮込みがかかっている。ピリッとして美味しい。これはこれからの食事に期待ができそうだ。しかし、マスク姿でのサービスは気持ち良いものではない。じゃぁ、こちらも負けじとマスクを掛けるとするか。ポケットから用意のマスクを出してかけた。

毛布とクッションが別々に出され、それを借りてから3席を独占して横になって寝てしまう。

5月15日(木)

ウズベキスタンの首都、タシケントにつく。午前2時だ。眠い、眠い。タラップを下り、バスに乗り、空港事務所につく。
ガラス戸を1枚だけ開けた入り口の向こうに机が置かれ、ひとりずつ中に入れ、パスポートを見て名前を手書きで大きな紙に書き込んでいる。それがすんでからやっと入国審査。私の並んだところは特に時間がかかっている。どうやらそれも通過。荷物が出てくるまでも時間がかかる。ようやく受け取って、また手荷物のX線検査を受け外へ。

風の旅行社の黄色い旗を持った、ぽちゃっとした若くて可愛い女性が待っていてくれた。ガイドのスウェタさんだ。
「ドーブラ ウートラ」(おはよう)と声をかけると、近くにいたお兄さんが「ドーブラ ウートラではない」と言う。
「じゃぁ、ズドラーストヴィッチエ?」と言うとうなづいている。そこで改めて、大きな声で「ズドラーストヴィッチエ」

空港から10分ばかりで、ポイヤット・ホテルに到着。ポイヤットとは「首都」という意味だそうだ。このホテルは去年出来たばかり。パスポートを渡し、宿泊名簿を書き、鍵を貰う。私とHさんが同室。3階、323号が私たちの部屋。きれいな部屋だ。まず変圧器のプラグを入れ、PCのコードにつなぐ。うん、出来た、出来た。片付けは後回しにして、きれいなので風呂に入る。洗濯をして干し、ベッドに入ると、空が白々と明るんできた。

目を覚ますと外は明るい。まだこの国の時間に時計を合わせてないので、何時だかわからない。もう一度寝る。もう一度目を覚ますと、外はさらに明るい。Hさんも目を覚まして、テレビをつけて、時刻を探す。私はフロントに聞こうと思って、受話器を上げるが、どこともつながらない。

チャンネルをくるくる回して、やっと見つけた。7時だ。そこで時計を現地時間に合わす。今日の観光にどの程度の服装で出かけたらいいか。外は暖かそうだ。綿シャツ1枚にする。窓から見下ろすと中庭は緑の芝生と花壇がある。

来たとき上がってきたエレベーターまで行くのは面倒と近くのエレベーターで1階に下りたはいいが、レストランの位置がわからなくなった。幸い人が来たので聞くと、中庭を通って、外から入る入り口を教えてくれた。

Nさんたちがフロントで待っているはずなので探しに行く。朝食はビュッフェスタイル。種類は豊富。私はクレープとサラミとチーズ、野菜を少しと、ミルク、紅茶。デザートに果物のコンポートを少し取った。ものめずらしいので、他の人がいろんなものをとってくる。それをつまんで味見している。美味しい、美味しい。これはいける、と朝からちょっと食べ過ぎの感じだ。

11時に迎えが来るので、腹ごなしにHさんと散歩に出た。通りは広く、古い形の車が行き来している。市電が走っている。ベラルーシやウクライナに感じが似ている。すぐ傍に大きな木々が茂る公園がある。真ん中には騎馬に乗ったチムールの像。そのまわりにはいろとりどりのバラが花をつけている。「はじめましてチムールさん」とまずは挨拶。
見上げる空は青くて高い。プラタナスの緑がまぶしい。花の盛りを過ぎたマロニエからは綿毛が散っている。
アムゼル(ブラックバード)の歌がうつくしく響く。カササギもいる。ムクドリもハトもいる。上空にはアマツバメが飛んでいる。もちろんツバメも。都心にこういう緑のスポットがあるのはいい。キエフにもこういうスポットがたくさんあった。

ホテルのならびに日本料理と韓国料理の店がある。つばさの広い帽子を被った軍人の姿もある。

ホテルに戻って両替をした。50ドル替えたら50,000スム、(1ドル=1000スム)、5cm位厚さの札束ができた。500スム紙幣と200スム紙幣だけ。200スムは帯びつき、たぶん100枚の束なのだろう。どれもピン札。財布に入らないので、ファスナーつきのポリ袋に入れて持つ。おかげで財布はどかされた。空港の両替所ではポンド、ドル、円、ユーロの立て看板が出ていたが、ホテルでは円の両替はだめだという。500スム紙幣にはさっきのチムールの騎馬像が刷ってある。そこでチムールの騎馬像は呼び名を「500スムのおじさん」にする。

11時、車に乗って、先ずはチェルシ バザールへいく。
ガイドのスウェタは韓国系ウズベキスタン人。大学で日本語を専攻し、大学院生のとき日本へ研修に来ている。今は大学で日本語を教えているウチチューニッツア(女教師)だ。副業でこの旅行社の日本語ガイドをしているとか。漢字も読める。大学は国費なので無料だが、そのかわり難しい試験に合格しなければならないので勉強はよくしたそうだ。

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バザールで

バザールは,大きなドームが5つあり、さらに外でも店が軒をならべている。ここには民族衣装があふれている。派手な柄のワンピース姿が多い。顔立ちもずいぶん違う。初めは見慣れない姿にどうしても目が行ってしまう。いずれはそういう中に浸るのに。

香辛料、米、ドライフルーツ、チーズ、ハムやソーセージ、パン、はちみつ、サラダの類はそこで調理している。なんでもかんでも売っている、といった表現がいいくらい、同じ店がごまんと並んでいる。外のバザールは野菜や果物。イチゴと杏と桑の実(青白い)とナシをフルーツ好きのHさんが買った。桑の実の色は日本では見慣れない色だが、実は甘い。ナッツやドライフルーツの店で、私はピスタッチオを買った。
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サクランボとイチゴ

急に雨が降り始めた。しかも大粒の雨だ。バザールを駈けるようにして通り抜け、急いで車に戻る。車の前にはメドレッセがある。このドレッセはいまも神学校として使われている。雨なので、車内で説明を聞く。メドレッセというのはイスラムの神学校で、イスラムを普及するために各地にたくさんつくられた。形式はどこも似たり寄ったり。二階は教室。一階は寮。しかし、ソ連のイスラム弾圧で、ほとんどのメドレッセが廃止され、いまは形骸をとどめているに過ぎない。

そのまま昼食に行く。雷が鳴り、風が屋根にうちつけ、雨が屋根を叩く。嵐みたいだ。赤ワインを取ると、名前はモナリザ。ドライといったのだが、甘いワインだ。何種類かのサラダ。どれも野菜を細かく切って、ドレッシングであえてある。大抵細かく刻んだ香菜が入っている。ドレッシングも種類が豊富。スープはヒツジの肉と野菜を煮たもの。でもスープがすこぶる美味しい。臭みもない。メインは牛肉の串焼きだ。

私たちのために注文は半量にしてもらってあるという。これも美味しい。外で焼き鳥のように焼いている。デザートは果物のもりあわせ。お茶はポットで出る。茶碗になみなみと注がないで、6分目に注ぐのが礼儀。真ん中に泡ができたら、すかさず、泡を指でさわって頭につけるとお金持ちになるのだそうだ。みんなよろこんでやっている。

食事をしている間に、雨は上がり、強い日差しが照りつけている。国会議事堂のすぐ傍にあるメドレッセを訪ねる。いま、ここは木工訓練所になっていて、直売もしている。そこでクルミの木でつくった本台(コーランをおく)をpapasanのために買う。

いったんホテルに帰り、4時、スムしか使えないツム デパートへ行く。買い物好きの3人はやたらと買っている。その後すぐ近くにあるナボイ劇場でオペラを見る予定だ。劇場の名のナボイというのは15世紀の詩人で、この劇場建設にはタシケントに抑留されていた日本兵捕虜が携わったそうだ。加藤登紀子のコンサートが18日にあると書いてあるので、それを入れてコンサートホールの写真を撮っていると、中学生ぐらいの男の子たちがやってきて写真を撮ってくれという。カメラを向けるとうれしそうにポーズをとっている。アドレスを書けば送ってやるよ、というと、さぁ大変。嵐のようなさわぎになった。結局、引率の先生もふくめて総勢17名。噴水をバックに撮ってくれと言ったが、逆光なので、劇場をバックに記念写真を撮り、学校宛に送ることを約束する。子どもたちは本当にうれしそうだ。「ありがとう」を繰り返している。
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子どもたちに「日本を知っているか」と聞いてみた。一様に「知っている」と答える。
「では、何を知っているか」聞くと
「日本は工業がすすんだ国だ」という答が返って来た。
子どもたちは手をふりながら別れて行った。学校は5月25日から9月2日まで夏休みに入る。9月1日が独立記念日なので2日から始まる。大学は6月まで授業はあるそうだ。

噴水横のテラスでアイスクリームを食べ、そろそろ会場時間だと行くと、入り口に立て看板。読んでもらうと、主演の歌手が病気のため、今日は休演、チケットは他の日に使えます、と書いてあるという。「しかたがないさ。でも会場はみたかったなぁ」というと、スウェタが「では会場だけでもみせてもらいましょう」と交渉に行く。「日本からわざわざ見に来たのです。チケットも用意してある。」と云った様な事を言っているらしい。だが、それからが大変だった。入ってもいいという係、ダメだという係。結局、外にいた所長にねじ込んで許可を貰い、舞台裏から、日ごろ公開されていない部屋までみんな見せてもらった。ちゃんと案内がついて説明してくれた。
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ロビーの内装が実に美しい。説明によると、それぞれのロビーの内装は、タシケント、サマルカンド、ブハラ、テルミズ、フェルガナの6都市を表しているのだという。彫刻はホラズム様式とか。ストロボをつけて、劇場の天井から、ロビー、胸像、かたっぱしから撮っている。本来はカメラ撮影は禁止なのだそうだが、今日は特別にOK。いやはやスウェタの一歩も引き下がらない、粘っこい交渉ぶりには感心した。25歳だというが、実にしっかりしている。日本人は諦めが早すぎるかも。でも後で、スウェタも「ウズベキスタン人だったら、交渉は無理だったかも」ともらしていた。さもあらん。

いったんホテルに帰り7時に集合して夕食に行くという、30分しかないが、ホテル内のビジネスセンターにPCがあるとエレヴェーターのところに表示が出ていたので行ってみる。バーの奥にそれはあった。「インターネットをしたい」というと、係りの女性が「このPCを使いなさい」と選んでくれた。ところがロシア語なので、@がどこにあるのかわからない。勘でおしているのだが、@を見つけられないので家にメールが送れない。そこでYAHOOを呼び出してもらったが、JAPANではない。たしか下の方に国別があったはずと探すと果たしてJAPANがあった。どうやら書き込めそう。初めての経験である。書き出すとアポストロフィの場所もわからない。すこし書いたら7時になってしまった。料金は1000スム。

車でレストランへ。赤ワインはモナリザしかないので、またこれを取る。ワインは私の担当、モナリザは5ドル。サラダと、ペリメニのスープ、これだけで十分。

部屋に帰り、もう一度インタ^ネットに行きたかったが疲れて、そのままダウン。

目が覚めたら4時だった。ほんとよく寝た。

5月16日(金)

5時に起きて、昨日の日記を打ち込んでいる。天気はいい。今日の予定は8時半出発。

7時に食事に行く。8時半、車に乗って飛行場へ。国内空港は車を降りて中までちょっと荷物をひきずって歩く。受付をし、荷物を預け、入るときトイレがあったのを見たので、入り口で断って外のトイレに行く。有料。100スム。トイレットペーパーを切ってくれた。中はきれい。

日本人はトイレに関して脅迫観念があるという。小さいときから躾けられているので、早め早めに排尿する癖がついているからだ。実際には膀胱は余裕があるのだが、8分目で脳がトイレ信号を出してしまうのだそうだ。

10時フライト。席は空いている。それぞれ窓側をとって座ったので私の隣の座席には人はいない。飛行機から見る下界は緑にあふれている。たぶん、麦だろう。山には赤やピンクの絨毯が見える、チューリップの群生だろうか。あとになってこれがケシの群落であることがわかった。何も植えてない畠は綿花畑かもしれない。さらに緑の平原が続き、アムダリア(ダリア=川)の流れが美しく、ペルシアンブルーに輝いている。そこを過ぎると、地上はがらりとかわって砂漠だ。ざらざらとした不毛の大地には、それでも植物が見える。雲がぽつんぽつんと影をおとして、砂漠におもしろい模様を描いている。やがて、草の姿も見えないまったくの土色の砂漠、その中をまっすぐに直線道路が地平線まで走っている。そして周辺には噴出した塩の白い大地。
saltland
飛行機から見る塩の大地は積雪の跡のように白い。

12時半過ぎ、やっとカラカルパクスタンの首都、ヌクスに到着。ヌクス(9人の美女の意)とはロシア語。カラカルパク語ではノキス。飛行機を降りて歩くとそのまま外に出られる。ただし私たち外国人は、もういちどロビーに行き、パスポートのチェックを受ける。

タシケントに到着したとき迎えに来てくれた運転手のラーヒムさんが迎えに来てくれた。なんと彼は一日前にタシケントを出発して、ヌクスまで1400キロを走って迎えてくれたのだった。ひぇ~。申し訳ない!ただし、今日の運転はヌクスの地理に詳しい彼の友人がする。よかった。

車に乗り、ホテルに向かう。ヌクスはカラカルパック自治共和国の首都だが、田舎町といった印象だ。ほとんどの住宅が平屋。道行く女性たちはロングスカートをはいている。カラカルパクの民族衣装だという。なかなか感じがいい。みなきれいなスカーフで髪を包んでいる。遠くから見ると帽子を被っているようだ。男性はダークスーツ姿が多い。こんなに暑いのに、よく平気で着ていられる。
「ねぇ、ちょっと。あのオジサン、三つ揃いだよ」
「ヌクスは夏53℃にもなるのです。だからこの程度は暑くないのでしょう」とスウェタ。

ホテル・デルベントに着く。建物は明るい黄土とこげ茶のツートンカラー。三日月型の変わった2階建。なかは大理石の階段などでできているのだが、部屋は狭いし水の出も悪い。2階18号室。口をゆすぐと鉄分の味がする。ラーヒムさんがミネラルウォーターを各自1本ずつくれたので、うがいや歯磨きはミネラルウォーターですることにする。部屋には大きな冷蔵庫がでんとある。冷蔵庫に水や果物を入れた。シャワーしかないが、湯の出はわるそう。でも使ってみると、シャワーの方が湯の出はよかった。洗濯はシャワーでする。日光がさんさんと射し込むので、窓を開け放す。洗濯物の乾きは早い。

ウズベキスタンにいる間、水洗でも、トイレの紙はくずかごに捨てた。これは他の国でもしているのでなれてはいる。トイレットペーパーはこれが紙かというくらい固い。ひっぱると、ばさっと切れる。これを流したら、まず詰まってしまうだろう。

カメラだけ持って外に出る。まずはレストランで昼食。入り口でオーナーのおじさんが、右手を胸にあて「アッサラーム・アライクム」と挨拶。私も真似して手を胸に当て「アライクム・アッサラーム」
レストランは個室でカーテンがかかるようになっている。家族連れや、若い女性達がやってきている。目があうとにこっとする。

サラダが5種類。スープは鶏(七面鳥だと言った)とジャガイモ。メインはマンティ。大きな皮に牛肉のミンチを挟んで蒸したもの。大きな蒸し餃子みたい。それにサワークリームをかけて食べる。これがまた美味しい。ワインはモナリザしかない。甘いワインが好きなんだろうか。それにいつもたっぷりのチャイ。ウーロン茶系統だ。この国に来て何が良かったというと、食べ物がおいしいことだ!

新しくできたヌクス博物館へ行く。立派な建物。まわりは公園になっている。イリーナさんという学芸員が説明についてくれた。彼女はロシア人だという。博物館で写真を1枚撮ると150スムかかる。でも撮りたいものがあるかどうかわからないので、後で撮った枚数を払う約束をする。結局、1枚も撮らなかった。

3階から見はじめる。3階はこのMUSEUMをつくったロシア人画家の作品が多く集められている。その他もほとんどロシア人の絵だ。「ロシアでは有名な画家です」という説明があったが、あんまりいただけない。カラカルパクの美術は遅れていたので、ロシア人の指導を受けて発展してきたのだと学芸員が説明する。美術についてはロシアは大したことはない。有名な人たちはみんなパリで活躍していたし、そういうロシア人の指導ではう~んいまいちだなぁ、なんて悪口を言っている。しかし、説明によると、スターリンの規制が厳しかったというから、気の毒に思うように絵も描けなかったのだろう。べリアになって少しは緩和されたというが、そのベリアもたしか粛清されている。今後に期待しよう。

2階は工芸品。木彫にはおもしろいものがある。やっぱり伝統なのだろう。木の根っこを利用して人の顔や姿を彫ってあるものがたくさんある。カラカルパクの伝統的な織物、刺繍、結婚式の衣装などが飾ってある。ここはたのしい。丹念に刺繍された結婚衣装は自分で作るのが慣わし。以前は、13歳くらいで結婚したから、その準備のため6歳ぐらいから刺繍などの練習を始めたそうだ。その他にも銀や宝石を使った装飾品をたくさんつける。さらに頭からは上着のように袖の着いたものを被る。黄色や白は老人の着る色。若い人は赤を着る。

カラカルパクの遺跡群の調査はまだまだ。しかし発掘されたものが飾ってある。カラというのは城。城壁は二重構造になっている。その外に堀をつくったので、城は水に浮いているように見えたとも言う。しかし材質は日干し煉瓦である。明日はその現場を見に行くことになっている。アスワリという死者のための納棺も陳列してある。当時はゾロアスター教が信仰されていたので、死体は放置して腐るにまかせ、骨だけをこのアスワリに入れて埋葬したのだそうだ。アスワリにはいろんな形がある。大きいな靴型の棺が発掘されて、そこには女の子の骨が入れられていた。いっしょにいろんな副葬品もみつかった。
染料について質問したが、まだはっきりとはわからないということだった。

ゾロアスターの遺跡は円形で、天文学観察所もかねていたようだ。考古学会なども開かれているそうだが、まだまだ過去のことはよく解明されていないという。興味をそそられることだ。

2階に来場者の記念簿が置いてあり、私たちにも書いていってくれという。前のページを見ると加藤登紀子の署名が1ページ使ってある。フェルトペンで書き込んであるので裏にひびいている。たしか明日か明後日、タシケントでコンサートがあるはずだ。その前にここに来たのだろう。新しいページに書いていいかと聞くと、加藤登紀子の裏に書いてくれというので、しかたなく白い部分を探して、4人分の署名をする。

受付で民族衣装の絵葉書を数枚買った。郵便はここから日本へは1ケ月位かかるそうだが送ってみたい。ホテルにかえって葉書を書いた。明日投函しよう。

MUSEUMから外を見ると結婚式だ。花嫁は白のウェディングドレス。花婿は黒のタキシード。伝統的なものではない。ここも西洋スタイルになってしまっているようだ。私は飛び出していく。間に合った。写真を撮らせてもらう。

隣は遊園地。観覧車に4人は乗るが私は下で待っている。日差しは暑い。
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公園で

ホテルに戻りもう一度洗濯をする。7時、まだ日は高い。夕食に行く。アルメリア料理の店だ。ニンジンのサラダ、牛のスープ、ジャガイモ入り。大きな肉団子をピリカラのトマト風味のソースで煮込んである。ナンも美味しい。

帰りがけ挨拶に出てきた女主人の写真を撮った、クラッシーワと言いながら。撮り終わるとスウェタが聞いた。
「どうしてあの人の写真を撮ったのですか」
「うん?ドレスがきれいだったからだよ」
「どうりで。Mamasanのカメラの位置が下のほうにあるなと思っていたのですよ」
「そうだよ。ドレスの模様が全部入るように腰をかがめて撮ったんだよ」
「あーあ、クラッシーワはドレスだったのですか。あの人は自分がきれいだといわれたと思いましたよ」
「本人がどうとろうとかまわないよ。私はドレスがきれいと言ったんだから」とすましている。

ウズベキスタンには120を越える民族がいるという。もともと国境はなかったのだし、シルクロードの昔から、民族の往来はあった。オアシスがあり、これだけ資源や農作物に恵まれていれば、いろんな人たちが気に入って住み着いたのだろうとは伺える。

カラカルパクスタンの資料を見ると、カラカルパクの構成は、カラカルパク人32.1%、ウズベク人32,3%,カザフ人26.3%、トルクメン人5%、ロシア人1.6%、朝鮮人0.8%。総人口の48.5%が都市居住者である、とある。

朝鮮人は数こそ少ないが、人口比に入るくらいだから、定住していることになる。どうしてここに、という疑問がわく。タシケントでは韓国人の姿はかなり見た。私たちも先ずはコリア?と聞かれた。ソウルからタシケントに直行便も飛んでいることだし、往来はあるとは思っていた。韓国とウズベキスタンの車の合弁会社もある。走っている車はほとんどそうだ。電気器具も韓国製品が目についた。カラカルパクでも道すがら、ハングルが目について読んでみると「カラオケ」と書いてあった。
しかし人口比は?とそのわけを聞くと、スターリン時代、ソ連国境近くにいた朝鮮族を強制的にウズベキスタンやカラカルパクへ移住させたのだそうだ。チェチェンも強制的に民族移動させられている。朝鮮族がロシア内にいることは知っていたが、こちらにも移住させられていたとは知らなかった。

スウェタもその子孫、4代目になるという。韓国系と言っても彼女はハングルを知らない。

カラは黒、カルパックは彼らがかぶる帽子。カラカルパクは黒い帽子に由来する。カラカルパク自治共和国には外交権はないが、自治権はある。

部屋に戻るや、バタンキューと寝てしまった。

5月17日(土)

早起きして日記を書いている。どうもこのパターンが定着してしまったようだ。日本との時差は4時間だから、いつも私が起きている時間なのだ。

8時朝食。お茶とパンとサワークリームと目玉焼きにソーセージ。円形のナンをちぎり、サワークリームをつけただけで十分美味しい。

9時、車に乗る。今日はロングウェイだ。旅のしおりには走行距離は420kmとなっている。日本から持って来た小さなミネラルウォーターの容器に水を半分ぐらいにして、水でも溶ける粉末の緑茶を入れた。これなら飲める。

スタッフはドライバ-のラーヒムさん、ローカルドライバーのムラードさん、ローカルガイドのラシッド君。彼はヌクス大学で経済学を勉強している学生だ。そしてガイドのスウェタさん。途中から昨日の学芸員のインナさんが加わる。スタッフの方が多い。

「ウズベキスタン経済の将来は?」とラシッド君にきくと
「いまはまだまだですが、将来、発展すると信じています」と答えた。
「君らが頑張ることだ。国をよくしようと思う人々が多ければ、国は発展するよ。
この国はそれが出来そうだよ。視野を広く、勉強してね」

昨日書いた絵葉書を出すために郵便局へ行く。長い列ができている。いやな感じがした。ベラルーシの郵便局を思い出したからだ。案の定、絵葉書をそのまま送ることはできなくて、封筒にいれなければならない。封筒は買うのである。しかも先ず係りが封筒代を受け取って、後にある事務所まで買いに行く。封筒は1枚90スム。封筒に、もう一度宛名を書き、封をした。封筒に糊はついているが、スティック糊はいつも持っている。こんなときは役に立つ。係に渡すとひとつずつ切手を貼っている。手は遅い。日本までの郵便料金は200スム。着くか着かないかわからないが、まぁいいや。全部で10枚ぐらいの葉書を出すのに、30分もかかってしまった。この封書が無事日本に着いたら教えてくれとスウェタがいう。

小高い丘の上にあるなんとかシャーン(忘れた)に向かう。この説明はインナさんだ。3つの丘からなる墓地だ。向こうの丘にはゾロアスター教の遺跡がある。ゾロアスター教は拝火教ともよばれ、ペルシャ帝国では受け入れられていたようだ。
善と悪の二元論からなる。いまもイランで数はすくないが信じられている。向こうの丘は、昨日博物館で見た女の子のアスワリが見つかったところだ。

こちらはイスラムの墓。いまでも使われている。イスラムの墓は決まったところがあるわけではないから、空いているところに埋葬するのだそうだ。墓参りも聖地という考えでくるのだとか。霊廟のある周りに人は埋葬されることを願う。ここはその徳高きなんとかシャーンの廟がある。その徳を慕って墓地が出来ているのだ。

墓地のひとつ、地下霊廟を見る。伝えによると、これは支配者の娘の墓で、もともと彼女はここに住んでいた。15世紀、蒙古の軍勢が押し寄せたとき、娘は蒙古の指揮官と恋に落ちた。怒った父によって娘は殺害され、ここに埋葬されたのだという。しかしその話が本当であるかどうかはわからない。

次はイマームの霊廟。前面にはチベットのような布が巻きつけられている。「あれはなに?」と聞くと、ムスリム達がお参りに来て、自分の身につけているものを巻きつけていくのだそうだ。人間のすることは、どこもさほどかわらないもんだなぁ。
ここにもいろんな伝えがあるようだ。(略)

周りには日干し煉瓦や石を積み重ねたケルンのようなものがいっぱい立っている。賽の河原みたいだね、ひとつ積んでは母のため、二つ積んでは父のため・・なんて言っている。イスラムでは7が縁起のいい数字なので、7個積み重ねると、幸せになるという。積み重ねられた石は1ケづつ天に昇っていくので、毎日、積み重ねる必要があるのだそうだ。オバサンたちもあやかろうと石を積んでいる。

霊廟で祈りをささげていたイマームに「ラーイラッハ イル アッラー ムハンムド ラスール アッラー」と言うと、あちらも後半のムハンムドのところから私と唱和した。そして霊廟に入っていいと言ってくれた。中を見る。現在は修復中とのこと。

墓地を出て、一路モイヤックへ向かう。鉄道が見える。複線だ。この鉄道はカザフスタンを通ってモスクワまで続いているそうだ。途中でインナさんを降ろす。

まっすぐな1本道。飛行機から見たとき、砂漠の中をまっすぐな道路が走っているのを何本も見た。そういう類なのだろう。道路は見かけほど悪くはない。スピードをみると、100キロは出ているが、揺れは少ない。道筋にはところどころに屋根つきのバス停がある。モイナックからヌクスまで一日往復2本のバスが出ている。所要時間は片道4時間だそうだ。

緑は麦、空いているのはやっぱり綿花畑。もう種はまかれているのだが、まだ発芽していないのだとラシッド君の説明があった。いつもなら5cmぐらいになっているのだが、と。
「たしかカラカルパクスタンには英雄伝説があったはずだけど」とラシッド君に話しかけた。
「二つあります」
「エディゲといったと思う」
「はい」
「エディゲってどんな英雄?」
「18世紀に民衆を指導した人です」
「えっ、実在した人なの?伝説上の人だと思っていたよ。18世紀じゃ民衆蜂起かなんかの指導者なの?」と歴史を頭の中で探している。
「いえ、間違えました。15世紀の人です」
「うん?15世紀じゃ、チムール以後だね。この辺りの歴史は詳しくないんだけど、そんな事件あったかな」
どうも納得できないので、根掘り葉掘り聞いている。ちょっと若者にはむずかしい質問だったみたいだ。帰って来てから英雄伝説、いわゆる口承伝説を調べてみた。やはり古くからある語り部の英雄伝説で、モデルはあったにしても、尾ひれはひれがついて、大概は戦の時の武勇伝、英雄のおかげで国に平安をもたらされたことで終っている。

アムダリア(AM DARIA 2336m)を越える。アムダリアはまたの名をジャイフンという。ジャイフンは暴れ者の意味である。アムダリアの流れがずいぶん移動したことから、こう呼ばれているようだ。川幅は広い。土手を指差し、昔はここまで水があったが、いまは水量が少なくなってしまったとムラードさんが言う。どうして少なくなったのかときくと、山に降る雨がすくなくなった上に、上流にダムが多く作られたせいだという。上流っていうと、ブハラやサマルカンドになる。もっと遡るとタジキスタンに入る。

ラシッド君が地図を出して説明をはじめる。地図はロシア語表記だ。かつてアムダリアはアラル海に注いでいたが、今は小さな湖に注

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エチオピア黙示録

2005-05-10 18:21:24 | アート・文化
野町和嘉写真展

2005年4月29日(金)~5月20日(金)
コニカミノルタプラザギャラリーB&C(新宿タカノビル4F) 
10:30~19:00 無料

photo




写真展のパンフと説明文

野町和嘉氏は、これまで一貫して「過酷な風土のもとで力強く生きる人々」を追い続け、ドキュメンタリー写真家として世界的に高い評価を得ています。
本展は、東アフリカの一角に位置し、灼熱の砂漠に取り囲まれた高原にあって、独自のキリスト教文化を育んだエチオピアをモチーフとしています。

1980年代、エチオピアは、たび重なる旱魃と、終わりのない内戦により困難な時代に直面していました。野町氏は、情にあふれる高原のユニークな暮らしや、生活のなかに深く根付いた独自の信仰を精緻に写し撮ると同時に、未曾有の飢餓に見舞われたエチオピアの、困難と苦悩を映像化しています。

今回の写真展は、極限状況下での人々の強靭な生きざまと、3000年の歴史が培った中世さながらの宗教文化という、エチオピアの実情に触れていただくと共に、“困難に立ち向かう魂”“人間の豊かさとは何か”といった、人間本来のあり方を感じていただける機会をご提供できるものと確信しております。

野町氏渾身のリポートを是非ご高覧ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

精神的な力強さを秘めたモノクロの作品である。
一部は高原で暮らす人々の写真。
二部は旱魃と内紛による飢餓。1984年には100万を越える人びとが犠牲になった。特に多いのは子どもたちであった。
三部はエチオピア正教で祈る人々の姿。
いい写真だ。第二部の飢餓で死んでいく子どもたちの写真は声もでない。 ぜひ見てもらいたい。

エチオピアには行ったことはない。アベベやロバのふるさととして時折紹介されるのを見るだけだが、高原である。
野町さんによれば、独自の文化を作り上げてきた人びとであったという。その人びとに与えられた試練、旱魃と内紛。生きることへの模索。100万もの人びと、特に子どもたちが死んでいった。なんで死ななければならないのか。この子達にも人びとにも罪はないのに、不条理である。「天道、是か非か」(史記)を再び思い起こしてしまった。この言葉は残念ながら、まだ世界の多くの場にあてはまる。

「天道人を殺さず」 天は慈悲深くて人を見捨てることはない。天の慈悲の広大なことをいう。にもかかわらず、「天道是か非か」個人に非があるのでもなく、残酷な運命にもてあそばれ、見捨てられる人々もいる。果たして天道は本当に正邪を区別しているのだろうか。

しかし、そういう過酷な運命にも立ち向かって生きようとする人々の姿、それは感動である。

私はJVC(日本國際ボランティアセンター)のカレンダーで野町さんとはおなじみである。野町さんの写真が好きである。「祈りの大地」は平塚美術館と、都写真美術館でみた。自然とその中で生きる人間の生き方がじつに時間をともなって撮られている。「祈りの大地」はカラーだったが、これはモノクロである。今は写真の技術が進歩して、印画紙もいいのができたので、カラー写真をモノクロに変えることができるのだと言う。しかし元の写真が光を意識していないと、モノクロにしても美しくはないだろう。大分見た写真があったが、モノクロにしたことによって、印象がずいぶんと変わったし、力強さも増したように思う。もちろん写真は技術的なものばかりではない。写真は、写し手の思想信条、何を訴えたいかに他ならない。
そして作品を通して、見る側もそれを受け取っていく。

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チェルノブイリ2(ベラルーシ)

2005-05-08 23:55:44 | チェルノブイリ

ベラルーシ

フォトアルバムにべラルーシ94,95を載せたので、文章も。

parlament
大統領府 翻る国旗も紋章も、95年に廃止され、現在は使われていない。

                                                                       

                                       

ミンスクへは’94、’95,’96年と3年連続で行った。はじめは連れられてキエフから、2度目は夫と二人だけで、前もってインビテイションを取っておいてもらって、ミンスクだけでなく、ホイニキやベリキボールの子ども達の家をまわった。3度目はこれまた二人で、しかもビザもとらず、インビテイションもなく行った。アンドレイさんには到着を知らせておいたので、迎えに来ていてくれたので事なきを得たが、入国にはとても時間がかかった。

この時はホテル・プラネットに泊まった。
ホテルにカジノがあり、びっくりしたが、どこのホテルもカジノがあるようだ。
church
カトリック教会

                                       

デニスが甲状腺の手術をしたので、様子を見に行ったのである。被爆した子供たちは甲状腺異常になる子が多い。デニスは元気でほっとした。95年は私と背丈が同じだったのに、96年は170cmの夫の背を抜いていた。このときはホテルに泊まり、二人だけでミンスクを歩き、タクシーで空港へ行き、ウィーンに戻った。空港の待合室にはアルバニアに帰る人々の集団が大騒ぎをしていた。

                                               

ミンスクには通訳として子ども達と一緒に我が家に滞在したアンドレイさん一家(アンドレイさん、イリーナさん、インナ)とデニス一家(ウラジミールさん、エレーナさん、デニス)が住んでいる。現在デニス一家はウラジミールさんの仕事の関係でモスクワに住んでいる。

apart
デニスの住むアパート群

                                       

さて、話を1995年に戻そう。95年はアンドレイさんにインビテイションをとっておいてもらって、夫と二人だけで行った。空港にはアンドレイさんが迎えに来ていてくれた。このときも5月、アンドレイさんはベラルーシの大統領選挙の仕事で忙しく、私たちの案内ができないからと、その日はアンドレイさんのお宅に泊めてもらい、翌日からデニスの家に滞在した。デニスのママのエレーナさんは美人でその上料理が上手だった。私たちを心から迎えてくれた。

                                                   

アンドレイさんのアパートは都心に近く、外観はレンガ張りだが、デニスのアパートは、バスで30分ほどかかる郊外のコンクリート建ての一大団地内にある。チェルノブイリ事故で避難してきた人たちが多く住むときいた。家族数に応じて割り当てられるのか、中のつくりはどちらもほぼ同じ。広いリビング、子ども部屋、食事のできるキッチン。入り口のフロアがかなりある。集中暖房なので、暖房器具はいらない。湯もいつも使えるようになっている。私たちのためにバスタブに湯をはってくれた。

                                              

社会主義の名残か、市民の生活の基本の公共料金や食料品は安く抑えられている。そかわり必需品以外のものは高い。

フラットは余計な家具がないからか、すっきりと片づいている。壁にはスラブの伝統なのか、大きな絨毯が貼られている。今にも止まりそうな、がたがたいうエレベーター。電気を極力抑えているので、廊下の灯りは必要最低限しかなかった。ゴミ収集車を見ていたが、そんなにゴミは出ていない。市内も市外もゴミであふれている様はなかった。

                                                  

ミンスクはベラルーシの首都である。したがって文化にふれることがあった。デニス一家が誘ってくれたバレエ「胡桃割り人形」。オーケストラの編成がちょっと違っているがいい音を出していた。もともとクラッシクバレエはロシア生まれ、ソ連邦のひとつとしてかっては親しまれていたのだろう。外に出ると、デニスが金平糖の踊りを口ずさみながら、まねして踊っている。親しんでいなかったら、こんなことはできない。次の出し物を見ると「カルメン」だった。いまでこそソ連崩壊とチェルノブイリ被災で経済的に苦しい国づくりをしているが、かつては生活の文化程度は高かったのだろうと思う。国立の美術館にも行ったが、古いものも、新しいものも収蔵品はあまりなく、これといったものはなかった。

                                                   

ミンスクには古くから子どもだけで運営する子ども鉄道がある。遊園地の電車程度のものだが、運転手も車掌もみな子どもである。車掌さんの写真をポラロイドで撮ってあげる。アンドレイさんが子どもの頃、父親に乗りたいというと「パトム(後で)」といわれ、乗るのは今日が初めてだと言った。男の子がずっと私たちについてくる。なんと彼もポラロイドで写真を撮ってもらいたかったのだ。お安いご用。写真を渡すと、男の子はうれしそうに「サンキュー」と言って帰っていった。

                                                

車をチャーターして60キロ離れたハティンへ行った。1943年3月22日、ドイツ軍はこの村を包囲し、老人、婦女、子ども149人を銃殺し、家に火を放った。ただ二人生き残った少女がこの惨状を伝えたことから、皆殺しの実体が浮き彫りにされた。ハティンは子どもを抱えた男の大きな立像があり、皆殺しにあった村の各家々に鐘楼がつけられ、かつての住民と虐殺当時は何歳だったか、一戸一戸書いてある。そして同じように抹殺された180近い村々のその村の土を入れた記念碑もある。石で囲まれた小さな池、というより水漕に、紙幣がたくさん浮いていた。ベラルーシにはコインがないので紙幣を投げ込むようだ。それにしてもコインにせよ、紙幣にせよ、お賽銭をあげる風習は洋の東西を問わず存在するようだ。

katin
ハティンの像

                                      

                                       

                                      かえりは森の中でたき火を焚いて、ピクニックをした。慣れているらしく、準備は手早い。デニスも大人達と小枝を集めに行く。アンドレイさんが我が家にいたとき、桜の枝を集め、たき火をしようと言った。日本では消防署の許可がないと、たき火ができないのだというと、腑に落ちない様子だったが、彼らにしてみれば森でのたき火は日常的なことだったのだろう。デニスが森の奥から薄い紫のオキナソウに似た花を摘んできてくれた。やさしい色だ。
片づけも早い。大体ゴミが出ない。残り物や空き瓶やコップは持って帰る。火の始末をし、パンを一切れ枝にさして野鳥達へのプレゼント。

                                               

5月9日は戦勝記念日、ナチスからの独立を記念して祝う。ベラルーシのテレビは各地で行われるパレードをこれでもか、これでもかと流す。ベラルーシは徴兵制があり、軍隊がある。目抜き通りではミサイルや戦車のパレードが続き、ヘリコプターや飛行機によるデモンストレイションも行われる。人々は花を片手にパレードを声援する。夜には花火があがり、あちこちのアパートから「ウラー。ウラー」といった歓声があがる。5月の夜は身をさすように寒い。

                                               

ベラルーシは内陸で、日本の半分の国土に東京都の人口が住む。見渡す限り平野で視界を遮るものは松の森。北に行くに従って白樺が増える。モスクワへの中継点であったため、歴史的にも幾度となく戦火に踏みにじられた。
street
わずかに残っているふるい町並み

                                        

首都ミンスクも戦火に焼かれ、古い建造物はあまりない。古い住宅街を残す一角があるだけ。ここのレストランで94年食事をしたので、それを覚えていて、96年11月、夫婦だけでこのレストランに入った。ロシア語のメニューが読めなかったのでワイン、スープ、肉、魚とだけ注文すると、キノコのスープとソテーした肉と魚が出てきた。モルドバ産のワインを飲んだ。例年になく暖かいということだったが、11月のミンスクは私には寒すぎた。食事が体を温めるのにはなによりだった。この一角はレストランやバーや喫茶店などの店が増えている。

                                                 

マーケットにも行った。大きな体育館のような建物の中に市場がある。品物は十分ある。この市場の敷地内に青空市場があり活気を呈している。さらに外には手に手に売りたい品物を抱えた人たちが立っている。ほんの一つか二つしか持っていない人もいる。現金に換えたいからだろう。子猫や子犬を売りに来ている人々もいる。辻音楽士もいる。果物をずいぶん買い込んだ。

seller
市場の外で物を売る人々

                                           

                                              

団地内にあるデニスの学校にも行った。観葉植物がいっぱい飾られたきれいな学校だ。カーテンもフリルのついたレース。壁にはきれいな風景画が描かれている。日本の学校よりムードがある。

classroom
デニスの教室

                                       

                                               

ロシア語の授業に参加したがロシア語が出来ないので、こどもたちに日本のことを伝えられなくて残念だった。

class
ロシア語の授業で

                                        

                                                

大統領選挙の投票もエレーナさんについていった。投票用紙をもらって、試着室のようなカーテンで区切られた中に入って、投票用紙を書いているようだ。ものめずらしがって写真を撮って、腕章をした女性に注意を受けた。でもこんな体験は貴重。

                                               

エレーナさんは元教師で、当時は新聞社でロシア語をベラルーシ語に直す仕事をしていた。その仕事を休んでホイニキやベリキボールへ一緒に行ってくれることになった。デニスは汚染地域の近くに行かせるのは心配だというので、留守番をすることになる。ただし、エレーナさんは英語も日本語もできないから、これからの旅は片言しか通じない。

                                                

今日はベリキボールへ行く日。エレーナさんがなにやら人待ち顔だ。9時、エレーナのパパがはるばるベリキボールから私たちを迎えに来てくれた。朝4時発ちしてきたという。そしてとってかえしてベリキボールに向かうのだから運転手も大変だ。

                                                 

ベリキボールはミンスクから400キロ近くある。一日の行程だ。ベリキボールはソフォーズである。エレーナの父セルゲイさんはソフォーズの役員である。
朝私たちのために搾ってきた牛乳をもらった。
エレーナさんの両親はホイニキに住んでいる。
私たちがベリキボールにいる間、休暇をとって両親と過ごす予定のようだ。デニスは禁止区域に近づくことを気にした親に留守番をさせられ、むくれている。

                                               

エレーナさんは言葉がとぎれることがないくらい、運転手やエレーナのパパと盛んに話している。
いくつかの町や村を過ぎていく。途中、トイレ休憩がある。トイレといっても、草むらにしゃがんで勝手にする。

                                                   

お昼は森でのピクニック。パンやソーセージ、ニシンの薫製、トマトの塩漬け、生のラディッシュなどが並ぶ。お華に使うアスパラガスの葉みたいな香草も必ずと言っていいくらいにつく。ポットには暖かい紅茶が入っている。そうそう、ここで忘れてはいけないのがウォッカ。まずはウォッカで乾杯だ。ベラルーシ滞在中、食事の度に「ザバーシュ ズダロービェ」と言って乾杯するので、すっかりお馴染みになってしまった言葉だ。酒は強い方だが生のウォッカは好きじゃない。私は飲めないことにする。「少し」というのは「チューチュー」。食事のたびにチューチューを繰り返す。このアウトドアの食事はたのしく、気に入った。

                                                   

まずホイニキに行き、エレーナさんを両親の家に送った。両親は娘のためにご馳走を作って待っていた。挨拶に寄ると、それを私たちにも食べろと言う。ベリキボールでみんなが待っているからと、抱き合って頬ずりして出る。

                                              

ベリキボールはソフォーズだ。覚えのある白樺林が出迎えてくれる。エレーナの家に着くと、エレーナはドイツへ保養に行ってしまっていて留守だった。エレーナの母オリガさん、兄さんのサーシャ、弟のセルゲイと再会を喜ぶ。滞在中はエレーナの部屋を借りた。

                                                    

何人かの女性が集まって夕食の支度をしているところだったので、台所をのぞいた。定番料理の他に粉を練って薄くのばし、中に挽肉をのせ、上からもう一枚シートをかぶせ、形押しで圧すと、簡単にワンタンのようなものができる。これを茹で、サワークリームをかける。ミートソースか、醤油の方が私たちには口に合う。アーラやアーラのママのナージャさん、エレーナさん、親戚の人など大勢が来て、いっしょにご馳走をたのしんだ。アコーディオンのようなバイヤンを弾いてくれる人も来て宴はもりあがった。カチューシャ、カリンカ、トロイカ、モスクワ郊外の夜は更けて、ともしび、といったロシア民謡を、私たちは日本語で、あちらはロシア語で歌いまくる。

「ダシビダーニア」と言って、客が帰る。それを受けて私が「ダパパチェンニア」と挨拶すると、帰りかけていた人たちが「mamasan!」と言って戻ってきて抱きついた。「ダパパチェンニア」とはベラルーシ語で「さよなら」のことだ。ベラルーシ語を使ったことがよほどうれしかったのだろう。

                                                    

夫は部屋でダウン。客も帰り静かになった居間で、エレーナのママとエレーナさんが深刻な顔をして話し込んでいる。言葉がわからないから加われないが、どうも子ども達のことを話し合っているみたいだ。親としてみれば一番気になるのは子ども達の将来、特に子どもたちの健康だろう。

                                                     

「mamasan、チェルノブイリ近くに行ってみたいか」
とセルゲイさんが言う。
「行きたい」
というと、車を出してくれた。
どこでも私は「mamasan」と呼ばれている。
従って夫は「papasan」。

                                                  

45キロゲートの近くは去年は見渡す限りのタンポポの野原だったが、今年は一面ジャガイモ畑になっている。セルゲイさんとオリガさん、運転手は旧禁止地域の住民。ラドニッツァなので手帳を見せ、禁止区域への立ち入りの許可をもらう。

                                               

見覚えのあるバクシンを過ぎ、ひたすら車は走る。森をすぎると野原、野原の次は集落、また野原、森、集落の繰り返しが続く。今野原になっているところは、かつての耕地だ。狐がいる。コウノトリの姿も見える。黒鴻が土の道で餌をついばんでいる。動物たちにとっては人住まぬ地は楽園かもしれないが、放射能はどう影響しているのだろうか。

                                              

人住まぬ集落は電線はたれ落ち、朽ちるに任せている。朽ちゆく集落に対して、自然の生命力はすばらしく、木々は新しく芽吹き、特に白樺の若木があちこちに自生し新たなる森を作ろうとしている。廃屋の周りにはサクラやリンゴは今を盛りと花をつけ、足下にはタンポポの黄色がまぶしい。

                                                   

30キロ地点にも検問所があった。そこで働いているのはセルゲイさんの知り合い。ポラロイドで写真を撮って渡す。女の人もいる。ここをすぎると人の姿は見なかった。ラドニッツァの墓参りがすんだのだなと感じるものは、集落近くの墓に飾られたきれいな布。

                                                  

ラージンについた。ラージンはチェルノブイリ原発から10㌔地点にある。そこで車を降り、廃墟となった村を探索する。役場、学校、人の姿はないといえ、明るい日差しとやさしいみどりに包まれているので、雰囲気はさびしくはない。内部はどうしてこんなに荒れ果てているのだと思うくらいに、ものが散乱している。急いで必要なものをまとめて避難したからだろうか。それとも、ものとりの仕業だろうか。教室の床に子ども達の使っていたものが落ちているのは痛々しかった。窓辺に残された観葉植物の枯れた鉢、デニスの学校の観葉植物の鉢のおいてある窓辺を思い出した。

                                                    

プリピャチ川のそばで昼食にした。プリピャチ川はたっぷりと水量をたたえ流れている。向こう岸はウクライナ。ソ連邦の時はたぶん出入りは自由だったのだろうが、今は国境。川沿いに柵が張ってあるのが見える。でもところどころ破れている。この川の先にプリピャチ市があり、チェルノブイリがある。プリピャチ川はドニエプル川と合流し、黒海へそそぐ。

                                                

かえり、アーラの住んでいた家に寄った。写真「主なくとも春は巡る」はかつてのアーラの家である。運河があり、これを利用して物を運んでいたという。運河のそばの白樺の芽吹きは実に美しかった。

                                                      

汚染地域は豊かな耕作地である。ベラルーシとしてはこんな南の耕作地を予期せぬ事故で放射能汚染され、失ったことは大いなる打撃だろう。

                                                   

去年は測定器もあり、放射能を気にしたが、今回、放射能は目に見えないから気にしようにもわからない。シャワーも浴びずにいる。

allanaja
アーラとナージャ

                                      

アーラは母親のナージャと二人暮らしである。二人は一戸建ての家に住んでいる。彼女はソフォーズで働いている。庭先でジャガイモをつくり、裏庭で鶏を数羽飼っている。この卵が現金収入になるようだ。アーラもよく手伝う。夕
食に鶏肉と野菜を煮込んだ料理をご馳走になった。私たちのために飼っていた大事な鶏をつぶしてくれたのだった。庭先の人目につかないところにむしった羽が落ちていた。

                                                  

ナージャと散歩すると、人々が私たちを見て、「イポーニア(日本人)」と言っている。学校のそばを通ると、窓から子ども達がのぞき、飛び出してきた。ここでも片言では、残念ながら日本を説明することが出来なかった。

                                                     

アーラやエレーナが通った学校にも行った。校長先生が案内してくれ、わざわざ校庭に植えてあったチューリップを切ってくれた。みんな外からの客に気を使ってくれて、温かい。

                                                     

ホイニキのルスランの家にも行った。ここは5人家族。昨年、レストランで出た料理を、美味しいと言ったので覚えてくれていて、夕食につくってくれた。カルドニというハンバーグにジャガイモをまいて焼いたもの。

                                                   

夕食後散歩した。年寄り達は夕方のひととき野外で過ごす習慣なのか、どこの家の前にもお年寄りが座っている。そのひとり、ルスランのおばあちゃんにも出会った。そこでおばあちゃんの写真をポラロイドで撮って渡すと、はじめは真っ黒な紙を何だろうといった面もちで眺めていたが、そのうち自分の映像が現れると不思議そう。それを見て、近くにいた人たちが寄ってきて写真をのぞいた。おばあちゃんは「この人が撮ってくれたんだ」と私を指さしている。みんなが撮ってくれと言ったらフィルムがないので困る、とそっとその場を立ち去った。100mばかり行って振り返るとまだ人だかりはできていた。

                                                

ベリキボールに戻り、日本に来た他の子ども達の家族とオージェロ川へピクニックに行った。たき火をし、大鍋に鶏、ジャガイモ、タマネギ、人参etc.といった野菜をいれ煮込む。ソーセージ、ハム、ニシンの薫製、パン、ビーツの漬け物、洋なしやリンゴのコンポート、生野菜などいろんなものが並ぶ。
子ども達は河原でたのしそうに遊んでいる。オージェロ川も大きな川。「オージェロ モーリエ(オージェロ海)」だと言う。当然この海の水は塩辛くない。

picnik

                                             

子ども達が真鶴に来たとき毎日のように海で遊ばせた。そのとき、塩水に驚いたようだった。ここの人はあまり塩分をとらない。リンゴを剥いて塩水につけて出したら、子ども達は食べなかった。アンドレイさんが「なぜ塩水につけるのか」ときいたので、「酸化すると赤っぽくなるから」というと、見た目だけなら不必要だと言った。

                                                 

日の傾くまで野外をたのしみ、みんなで大きな声で歌を歌いながら帰った。楽しい、楽しい思い出となった。

                                                    

別れの日、地境まで送るのが慣わしだといって、みんな揃って送ってくれた。振り返ると、白樺林の間にみんなの姿が小さくなっていった。

                                                       

追記:
この文章を読み返して見ると、当時が思い起こされてなつかしい。
エレーナは去年の夏結婚した。そしてエレーナの両親は病気になってしまった。どこの親たちも子どもの健康ばかり心配していたが、親も被爆しているのである。体力がおとろえると、発病するのだろう。近くにいてもアーラ親子の様子は書いてない。ホイニキの ルスランは兵役についている。ルスランノ母親も数年前に発病している。デニスはモスクワ勤務の両親とともにモスクワにいあたが、戻ってきて以来連絡がない。アンドレイさんに聞いても住所は分からない。甲状腺の手術後はいいようだ。身近な例を見ても、チェルノブイリ原発事故はまだまだ終わってはいない。ここの子たちが結婚して、次の世代は?考えたくない。 もういちど、私たちが元気なうちにベラルーシに行こうとは思っているのだが。

                                                

ブッシュが独裁国家として、イラン、リビア、北朝鮮、ベラルーシをあげていてびっくりした。現大統領はロシアよりでかなり中央集権型の独裁者のようではある。私が行った95年は大統領選挙の年であった。そして96年には国旗と紋章を国民投票と言う形を取ったにせよ、変えてしまった。大統領の任期も替えてしまった。地下鉄でいっしょになった男性が英語で、「ベラルーシ国民は長いこと中央集権にならされてしまって、なかなか民主主義を理解しない」と嘆いていた。ベラルーシのアンドレイさんにきくと、私たちがベラルーシを訪れたときより、ずっと経済もよくなっている。外国にも学生たちですら出かけられるようになった、ブッシュの言うような国ではないと返事が来た。私もそう思う。3年間続けて行ったけど、当時ですら町を歩く人々の顔は暗くはなかった。ブッシュの勝手な思い込みで独裁国家にされ、攻撃の目標にされてはかなわない。

                                                     

ネロが市民の支持を得るために200日近い闘技大会を開催をした。市民の目を政治からそらそうとしたのだ。ブッシュもいいがかりをつけて戦争をすることが、国民の目をそらすことだ、国民の支持を得ることだと思っているようだ。

                                                              

本:
「不思議の国ベラルーシ」 服部倫卓著 岩波書店

                                               

チェルノブイリ1 キエフ

                                                 

チェルノブイリ原発の事故が起来たのは1986年4月26日。事故が起きた日、テレビで旧ソ連邦で大事故が起きたようだ、原発事故らしいと報じていた。そして時間が経つに従って原発事故であるともわかった。チェルノブイリ原発はウクライナにあり、ベラルーシは隣接した国である。しかしまだベラルーシという国名ではなく、白ロシアといったネイミングで報道していた。もちろん見ている私だって、そこらへんの地理に詳しいわけではなかったから、旧式の白ロシアの方が分かりやすかった。死の灰が広がってウクライナからベラルーシ、ロシアにまで達しているらしい。そういった情報を知るにつけ、被爆したであろう人びとの将来を慮った。とはいえ、直接、私自身と係わり合いができようとは思ってはいなかった。

                                              

1993年、 「チェルノブイリ子ども基金」がベラルーシの被爆した子どもたちを10人、日本に招いて空気のいいところで1ケ月滞在させ、免疫力を回復させようという計画をした。その話に乗って、4月2日、わが家で4人の子どもと通訳さんの計5人を預かった。それがベラルーシとの係わり合いの始まりだった。

                                               

翌1994年5月、「チェルノブイリ子ども基金」のメンバーといっしょに私はウィーンからウクライナの首都キエフに入った。チェルノブイリ原発はベラルーシ国境に近いウクライナにある。キエフにはプリピャチで被爆した人たちの団体がある。プリピャチ市は人口5万人のチェルノブイリ原発で働く原発労働者の町であったが、事故後住民は退去させられ、今は人住まぬ町になってしまっている。ベラルーシとはプリピャチ川で分かれている。プリピャチ川は途中で合流し、大河ドニエプル川となってキエフを流れ、黒海にそそぐ。

                                              

その大河、ドニエプル川はキエフの町を割って、ゆったりと流れていく。広い通りのところどころに公園があって、緑のスポットになっている。感じがいい。
キエフでは支援団体の事務所を訪ね、彼女たちの案内で、クリニク1と子ども病院を訪ねた。代表者の女性も旧プリピャチ住民で被爆者である。クリニク1の方は個室で、重症の子ども達がベッドに横たわり点滴を受けていた。私の仲間達がいっしょに作ってくれた段ボールにいっぱいのミルクキャラメルとディズニーのハンカチをわけて配った。未来のある子供たちが、原発事故の放射能をあびて、十分な医療も受けられず死んでいく姿、この子達にカメラを向けるのが、どんなに心が痛んだことか。

                                                  

アメリカ帰りだという医師は英語で、「アメリカからもヨーロッパからも視察はたくさん来た。しかし何にもしてくれなかった」と声をあらげて惨状を訴えた。この薬がほしいと言われても、薬のことはわからないので、必要なものを書いてもらい日本へ持ち帰った。さっそく、子ども基金がその薬を送った。

                                                

子ども病院はきれいな病院だ。日本の小児病院を知らないが、各部屋のドアの上に飾り皿が飾られ、あちこちに観葉植物の緑がやさしく、レースのカーテンもフリルつきで、実によく気配りされている。まるで幼稚園か学校のようだ。日本の学校はももう少しこんなゆとりがほしいと思った。
それにしても入院している子どもたちは多い。入院できない子どもたちはもっといるだろう。ウクライナの将来を考えずにはいられない。
わざわざ日本から持って行った車椅子を届けに、男の子のアパートへ行った。母親が私たちのために、コンデンスミルクをキャラメルにしたクリームを入れたお菓子を作って待っていてくれた。

                                                

ついでリエシャのアパートを訪れた。リエシャの父親は被爆がもとで亡くなっていた。兄は兵役で、今は母親とふたり暮らし

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