拒否しないからと言って、愛国心は測れない
「東京都日野市立小学校の入学式で『君が代』のピアノ伴奏をしなかったとして戒告処分を受けた女性音楽教諭が、都教育委員会を相手に処分取り消しの求めた訴訟の上告審判決が27日、あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は『伴奏を命じた校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障する憲法19条に反しない』との初判断を示し、教諭の上告を棄却した。」(07.02.28/『朝日』朝刊)
インターネットで検索したのだが、産経新聞『論説』(2007/02/28 05:55)の「【主張】君が代伴奏拒否 最高裁判決は当たり前だ」とした記事がそのイキサツを詳しく説明している。
「女性教諭は平成11年4月、東京都日野市の小学校入学式で校長から、君が代斉唱のピアノ伴奏を指示された。しかし、『校長の職務命令は、思想・良心の自由を侵害する』と憲法違反を主張して伴奏を拒否、結局、君が代斉唱の伴奏は録音テープで行われた。
このため都教委は、地方公務員法違反(職務命令違反、信用失墜行為)で教諭を戒告処分にした。教諭はこれを不服として、懲戒処分取り消しを求める行政訴訟を東京地裁に起こしたのが発端である。」
産経の『論説』は「当たり前」の根拠を次のように述べている。「たしかに、思想・良心の自由は憲法で保障されている。教諭といえども、どのような思想を持つかは自由である。
しかし、女性教諭は市立小学校の音楽教諭というれっきとした地方公務員であることを、全く自覚していない。入学式という学校の決められた行事で君が代を斉唱するさい、ピアノ伴奏をすることは音楽教諭に委ねられた重要な職務行為ではないか。
校長がピアノ伴奏を命じたのは、職務上当たり前の行為である。これが『憲法違反だ』というのは、あまりにも突飛(とっぴ)で自分勝手な論理である。これでは到底国民の支持も得られまい。」――
「最高裁判決は当たり前だ」とした産経新聞『論説』に対して、朝日新聞の2月28日『社説』は『国歌伴奏判決 強制の追認にならないか』 と「思想・良心の自由」の侵害への危惧を示している。
「入学式の君が代斉唱で、ピアノの伴奏を校長から命じられた小学校の音楽教師が、『君が代は過去の侵略と結びついているので弾けない』と断った。教師はのちに職務命令違反で東京都教育委員会から戒告処分を受けた。
教師は「処分は、憲法で保障された思想、良心の自由を侵害するもので違法だ」として、取り消しを求めた。
最高裁はこの訴えを認めず、処分は妥当だとの判断を示した。『公務員は全体の奉仕者。学習指導要領で入学式などでの国歌斉唱を定め、ピアノ伴奏はこの趣旨にかなうから、職務命令は合憲だ』
君が代のピアノ伴奏は、音楽教師に通常想定されている。ピアノ伴奏を命じることは、特定の思想を持つことを強制したり、禁止したりするものではない。そんなことも最高裁は指摘した。
たしかに、入学式に出席する子どもや保護者には、君が代を歌いたいという人もいるだろう。音楽教師が自らの信念だといってピアノを弾くのを拒むことには、批判があるかもしれない。
しかし、だからといって、懲戒処分までする必要があるのだろうか。音楽教師の言い分をあらかじめ聞かされていた校長は伴奏のテープを用意し、式は混乱なく進んだのだから、なおさらだ。
5人の裁判官のうち、1人は反対に回り、「公的儀式で君が代斉唱への協力を強制することは、当人の信念・信条に対する直接的抑圧となる」と述べた。この意見に賛同する人も少なくあるまい。
今回の判決で心配なのは、文部科学省や教委が日の丸や君が代の強制にお墨付きを得たと思ってしまうことだ。
しかし、判決はピアノ伴奏に限ってのものだ。強制的に教師や子どもを日の丸に向かって立たせ、君が代を歌わせることの是非まで判断したのではない。
89年、卒業式や入学式で日の丸を掲げ、君が代を斉唱することが学習指導要領に明記された。99年には国旗・国歌法が施行された。
君が代斉唱のときに起立しなかったなどの理由で、多くの教師が処分されている。特に東京都教委の姿勢が際立つ。日の丸を掲げる場所からピアノ伴奏をすることまで細かに指示した。従わなければ責任を問うと通達した03年以後、処分された教職員は延べ300人を超える。
生徒が歌った君が代の声の大きさを調査する教委まで出てきた。
これに対し、処分の取り消しなどを求める訴訟が各地で起きている。
私たちは社説で、処分を振りかざして国旗や国歌を強制するのは行き過ぎだ、と繰り返し主張してきた。
昨年12月、教育基本法が改正された。法律や学習指導要領で定めれば、行政がなんでもできると読み取られかねない条文が加えられた。
行政の行き過ぎに歯止めをかけるという司法の役割がますます重要になる。そのことを最高裁は改めて思い起こしてもらいたい。」――
最高裁の判決要旨はインターネットの毎日新聞が記載している。
『君が代伴奏拒否訴訟:最高裁判決(要旨)』(毎日新聞 07年2月28日 東京朝刊)
「君が代伴奏拒否訴訟で、最高裁が27日に言い渡した判決の要旨は次の通り。
■多数意見
『君が代』が過去の日本のアジア侵略と結びつき、公然と歌ったり伴奏したりはできないという考えは教諭の歴史観や世界観に由来する社会生活上の信念ということができる。しかし、学校行事で国歌斉唱の際のピアノ伴奏拒否は、教諭にとっては歴史観や世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものとはいえず、ピアノ伴奏を求める職務命令が直ちに教諭の歴史観や世界観を否定すると認めることはできない。
他方、公立小学校の入学式や卒業式でのピアノ伴奏は、音楽専科の教諭にとって通常想定され期待されるもので、特に職務命令に従って行われる場合、伴奏を行う教諭が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難である。
本件職務命令は、教諭に特定の思想を持つことを強制したり、禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものでもない。児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない。
憲法15条2項は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めており、地方公務員も住民全体の奉仕者としての地位を有する。地方公務員法32条は、地方公務員が職務を遂行するにあたって、法令等に従い、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定している。
教諭は、法令や職務上の命令に従わなければならない立場にあり、校長から学校行事である入学式に関して職務命令を受けた。同校では従前から入学式等において音楽教諭によるピアノ伴奏で『君が代』の斉唱が行われてきたことに照らしても、職務命令は、その目的及び内容において不合理とはいえない。
職務命令は、教諭の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に反するとはいえない。
■那須弘平裁判官の補足意見
入学式等の学校行事については、学校単位での統一的な意思決定とこれに準拠した整然たる活動が必要とされる面があり、校長の教職員に対する職務命令を含む監督権もこの目的に資するところが大きい。
行事の目的を達成するために必要な範囲内では、学校単位での統一性を重視し、校長の裁量による統一的な意思決定に服させることも「思想及び良心の自由」との関係で許される。
学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めたからには、これを効果的に実施するために音楽教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択である。指示を受けた教諭が任意に伴奏を行わない場合に職務命令によって行わせることも、必要な措置として憲法上許される。
『君が代』斉唱に対する教諭の消極的な意見は、これが内面の信念にとどまる限り、思想・良心の自由の観点から十分に保障されるべきものではあるが、この意見を他に押し付けたり、学校が組織として決定した斉唱を困難にさせたり、入学式の円滑な実施に支障を生じさせたりすることまで認められるものではない。
同校において、入学式における国歌斉唱を行うことが組織として決定された後は、教諭もこれに協力する義務を負うに至ったというべきであり、職務命令はこの義務を更に明確に表明した措置であって、これを違憲、違法とする理由は見いだし難い。
■藤田宙靖裁判官の反対意見
本件における真の問題は、入学式でのピアノ伴奏は、自らの信条に照らし教諭にとって極めて苦痛なことであり、それにもかかわらずこれを強制することが許されるかどうかという点にある。
こういった信念・信条が、国民一般に到底受け入れられないようなものであるのではなく、自由主義・個人主義の見地から、それなりに評価し得るものであることも、にわかに否定することはできない。ピアノ伴奏を命じる職務命令と教諭の思想・良心の自由との関係については、こういった見地から更に慎重な検討が加えられるべきだ。
本件の場合(1)入学式進行における秩序・規律(2)校長の指揮権の確保――という具体的な目的との関係において考量される必要がある。(1)については、教諭は当日になって突如ピアノ伴奏を拒否したわけではなく、基本的には問題なく式は進行している。(2)については、校長の職務命令が、公務員の基本的人権を制限するような内容のものであるとき、人権の重みよりもなお校長の指揮権行使の方が重要なのかが問われなければならない。
教諭の『思想及び良心』の自由と、その制約要因としての公共の福祉、公共の利益との間での考量については、事案の内容に即した詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行い、その結果を踏まえて教諭に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく、原判決を破棄し、本件を原審に差し戻す必要がある。」――
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『学習指導要領』は小学校では「我が国の国旗と国歌の意義を理解させ、これを尊重する態度を育てるとともに、諸外国の国旗と国歌も同様に尊重する態度を育てるよう配慮すること」、中・高校では「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている。
「我が国の国旗と国歌の意義」とはどのような「意義」なのだろうか。2002年の「新指導要領解説」には、「『君が代』について『日本国憲法において天皇を日本国並びに日本国民統合の象徴とするわが国がいつまでも繁栄するようにとの願いをこめた歌である』ことを指導するよう」明記している。日の丸は日本の国旗と言うことだろう。
日本国憲法は「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定しているが、改めて断るまでもなく、天皇は「国民の総意」のもとに存在する。あくまでも「国民主権」だと言うことである。
「君が代」を「わが国がいつまでも繁栄するようにとの願いをこめた歌である」から、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」との規定は憲法が規定しているわけではなく、現在の政府の〝思想〟であって、国民を厳密に律するものではない。断るまでもなく基本的人権に関わる国民の姿・有り様を厳密に律する最高の法規範は日本国憲法である。
当然のこととして、憲法が保障している「思想・良心の自由」等の基本的人権に関わる規定を教育基本法や学校教育法、あるいは『学習指導要領』や地方公務員法、その他で律する、あるいは制約すること自体無理が生じることになる。憲法こそが国民の存在的権利を基本のところで定めている。憲法が入れ子構造となっている各社会を覆って、その全体を規定しているのである。当然その規定が各社会に及ばなければならない。及ばなければ、何のための憲法か、その意味を失う。
例え「公務員は全体の奉仕者」であっても、それ以前に個人として自らが信念(「思想・良心の自由」)に対する「奉仕者」でなければならないはずである。
国旗・国歌法が制定されたとき、政府は君が代・日の丸に関する学習指導要領の記述について「児童・生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」という統一見解を纏めているが、これは教員に対しても当てはまるものでなければ、政府自身が教員に対して「思想・良心の自由」を侵害することになる。
判決は「学校行事で国歌斉唱の際のピアノ伴奏拒否は、教諭にとっては歴史観や世界観に基づく一つの選択ではあろうが、一般的には、これと不可分に結び付くものとはいえず、ピアノ伴奏を求める職務命令が直ちに教諭の歴史観や世界観を否定すると認めることはできない。
他方、公立小学校の入学式や卒業式でのピアノ伴奏は、音楽専科の教諭にとって通常想定され期待されるもので、特に職務命令に従って行われる場合、伴奏を行う教諭が特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価することは困難である」としているが、ここには君が代を職務行為としてピアノ伴奏するだけで把える考えしかない。
教諭は国歌(君が代)そのもの、国旗(日の丸)そのものを自らの思想・信条に基づいて拒否・否定しているのであって、そのような拒否・否定対象の一つである国歌(君が代)の「ピアノ伴奏」は自らの「思想・良心の自由」を侵害するとしているのであり、当然「教諭にとっては歴史観や世界観」と「不可分に結び付く」行為であって、単に「音楽専科の教諭にとって通常想定され期待される」職務行為とするわけにはいかないはずである。
大体が「思想・良心の自由」に関わる(=心の問題に関わる)「歴史観や世界観を否定する」か否かを決定するのは教諭自身であって、裁判所ではないはずである。
例え百歩譲って「公立小学校の入学式や卒業式でのピアノ伴奏は、音楽専科の教諭にとって通常想定され期待されるもので」あることを認めたとしても、あるいは自らの「思想・良心の自由」に反しても「地方公務員法32条」が「地方公務員が職務を遂行するにあたって、法令等に従い、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない旨規定している」ことに従わなければならないとしても、ドイツが良心的兵役拒否者に対する徴兵を社会福祉活動を課すことで代えることによって兵役拒否者の「思想・良心の自由」を保護しているように、「ピアノ伴奏」を「録音テープ」で代えたように、それでは味気ないというなら、ピンチヒッターで代えることによって、教諭自身の「思想・良心の自由」を守ることができるのではないだろうか。そのくらいの寛容の精神を持ち合わせていないとしたら、日本国憲法が保障している日本人の「思想・良心の自由」、その他の基本的人権はかなり危ういものと見なさなければならない。いや、憲法自身が怪しいものとなる。
常々言っていることだが、国旗を掲揚し、国歌を斉唱したからといって、その人間が溢れんばかりの愛国心を体現しているとは限らない。そのことは戦前の多くの日本帝国軍人が証明している。いわば『学習指導要領』が指導するところの「日本国憲法において天皇を日本国並びに日本国民統合の象徴とするわが国がいつまでも繁栄するようにとの願いをこめた歌である」との指導を受けて、指導どおりに心を込めて歌ったからと言って、その人間が愛国心溢れる人間であると判定できるかどうか甚だ疑わしい。
『学習指導要領』の規定を受けて、その規定どおりに学校が入学式・卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱を行う。それが決まりになっているからそうする機械的従属からの表面的な同調行為という教師も生徒もいるわけだし、そういう人間ほど見破られないために、一生懸命を装うものだが、日本の教育(=暗記教育)自体が機械的従属を基本構造としていて、そのような日常普段からの従属行為に慣らされていることから推測すると、相当数存在するのではないだろうか。
その証拠として、製造現場労働者もホワイトカラーも同じ日本人でありながら、製造現場労働者の生産性は国際水準にさ程見劣りしないが、ホワイトカラーは見劣りするという状況を挙げることができる。条件が同じであるにも関わらず生産性に格差が生じると言うことは、一方が誰からの指示がなくても自らの考えと判断で主体的に動くことができ、他方がその逆の自分からは動かない、指示に従うだけといった機械的従属性を行動性としているからと考えることは不可能で、双方とも機械的従属性を行動性としているいるが、他の要因が格差を生じせしめていると考えなければならないだろう。
双方の労働現場を見ると、製造現場では上司が目を光らせて働け、働けと尻を叩く直接的な監視状況があり、そのような監視が少なくとも表面的には従順な機械的従属を強制する力学となって働き、そのことが要因となっている国際水準に見劣りしない生産性を可能とし、ホワイトカラーは一般的にはそのような直接的な監視はない状況下で働いていて、製造現場労働者よりも緩慢な機械的従属性に身を任せていることによる生産性の低さということだろう。そしてこのような製造現場労働者・ホワイトカラーの機械的従属性は社会に出て突然変異的に体現することになったものであるはずはないから、学校教育で育まれることとなった機械的従属の延長にある行動性であろう。つまり双方の機械的従属性は同質の絵柄としてあると言える。このことを言い換えるなら、学校での入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱は多分に機械的従属性の働いた場面としてあるということである。
逆説するなら、入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱が愛国心教育だけでなく、他の教育要素に関しても教師・生徒の主体性を育む機会とはならず、暗記教育授業での機械的従属性を一層補強する機会としての役目しか果たさない危惧を抱えていると言える。
機械的従属性を行動性とするのではなく、どう生きるかの自らの思想・信条を持つこと、持ったら、それに従って生きること。それが総合学習で言うところの「自ら考え、自ら判断して、自ら決定する」という主体性を言うのは当然のことで、そのような生き方の育みを学校教育の目的とすべきで、その方向を目指すとしたら、機械的従属性で片付けることができる、できるから逆に機械的従属性を育むことになる国旗掲揚・国歌斉唱などやめるべきであろう。国家は国民それぞれが自らの思想・信条に従って生きることのできる、あるいは生きやすい社会を用意する、学校教育もそれを助ける、それが真の民主主義社会であり、真の〝自由〟社会ということではないだろうか。例えそれが安倍首相や自民党の国家主義に反する生き方であっても。