安倍国家主義思想に反するゼネコン起訴

2007-03-21 10:12:02 | Weblog

 今朝の朝日朝刊。『ゼネコン5社を起訴』(07.3.21)

 「名古屋市の地下鉄工事をめぐる談合事件で、名古屋地検特捜部は20日、公正取引委員会から告発を受けた大手ゼネコン大林組など法人としてのゼネコン5社と、独占禁止法違反(不当な取引制限)容疑で逮捕した大林組名古屋支店元顧問の柴田政宏容疑者(70)ら各社業務担当者5人を同罪で起訴した」

 名誉のために大林組以下の他の4社を名前を銘記すると、「大手ゼネコン『鹿島』『清水建設』。、準大手ゼネコン『前田建設工業』『奥村組』」(同記事)となっている。

 かつてゼネコン幹部が「談合は江戸以来の日本の美風」と喝破したが、人間の現実の姿から鑑みたなら、「江戸以来」どころが、「談合」なる生業(なりわい)は人間が集団生活を営み、そこに売買取引が組み込まれるようになって以来行われていたことだろうから、皇紀2667年の日本の歴史・伝統・文化そのものとして受け継いできた日本の偉大な勲章行為の一つに相当するはずである。

 安倍国家主義者は国家主義者である立場上、日本の歴史・伝統・文化を絶対善と価値づけ、そこに揺るぎのない不動の絶対性を付与しているはずである。国家主義者でありながら、日本の歴史・伝統・文化を否定したなら、自己否定を同時に犯すことになる。

 だからこそ、A級戦犯を「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」という無罪放免の論理展開となるのだろう。日本の歴史・伝統・文化を絶対善と位置づける以上、「日本の国内法で裁」いてはいけない。裁くことは日本の歴史・伝統・文化を破綻させかねない危険行為となる。そこに戦前の戦争の総括を棚上げしてきた理由が存在する。

 安倍のA級戦犯論理からすると、福岡一家4人殺害事件の中国人留学生のうち、中国に逃げ帰って中国で代理処罰によって起訴され死刑となった楊寧と無期懲役判決の王亮は「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」、微妙な宙ぶらりんのどっちつかずの存在とならないだろうか。

 浜松市で女子高生を自動車事故で死なせてブラジルに逃げ帰った日系ブラジル人と同じ浜松でレストラン経営者殺害して強盗を働き、同じくブラジルに逃げ帰った日系ブラジル人は日本政府の要請を受けて代理処罰で起訴されたが、例え有罪となったとしても、「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」ことにならないだろうか。

 中国人にしても日系ブラジル人にしても、犯罪人であるかどうか決定づけることができないという点でA級戦犯と同列に置く名誉を獲得することになる。できることなら死刑となった楊寧を靖国神社に祀ってもらいたいと思う。

 安倍国家主義者が自著『美しい国』で「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる。それが自然であり、もっとも大切なことではないか」と言っているそうだが、そのことも日本の歴史・伝統・文化を絶対善と価値づけている自らの思想・哲学からの主張であろう。

 「その時代に生きた国民の視点」は戦前に於いては〝天皇陛下バンザイ・大日本帝国バンザイ〟、〝天皇のため・、お国のために命を捧げる〟に一致協力・国民総動員で向けられていたのであり、それを日本の「歴史」としてきたのだから、「国民」は間違っていたとも言えないし、そのような「視点」を受けた国家も間違ってはいない、正しい「歴史」だったのだとする絶対善への価値づけであろう。

 安倍国家主義に於ける日本の歴史・伝統・文化が絶対善の構図を取り、談合が美しい日本の歴史・伝統・文化の一つとして連綿として引き継がれてきた入れ子関係にある以上、起訴は安倍国家主義思想への反旗、日本の歴史・伝統・文化の真っ向否定となる。逆に「談合」を日本の歴史・伝統・文化の勲章とすることによって、安倍国家主義との論理的整合性を獲得することができるというものではないだろうか。

コメント (1)
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