京都市内の居酒屋で行われた体育学系学生の90人規模の「追い出しコンパ」で容疑者の男子学生らが「有志がコップを持って起立して、ヨーイドンの合図で、コップ1杯飲みきる速さを競い、最下位者はもう1杯飲むルールのダービーゲーム」(TBSニュース)という酒の一気飲み競争で酔いつぶれた女子学生を1階上の別室に連れ込み、大学側の調査で部屋の外に見張りを置いて4人が性的行為をし、残り2人がわいせつ行為に及んだ。
被害者の女子学生が心の整理に6日間必要としたのか、事件から6日後の3月3日、大学に相談。大学側は(多分、飛んでもないことをしてくれたと慌てふためいて)調査委員会を設置、3週間後の3月24日に女子学生の保護者に調査結果を報告。
「公共の場所で性的なことをした公然わいせつは6人とも認めたが、同意があったのか、無理矢理だったのか、細かいところは判断できない。・・・・警察に告訴するかどうかを考えてください」(msn産経/2009.6.1 22:28 )
その理由を京都教育大学寺田学長は6月1日の記者会見で次のように述べている。
「大学は捜査機関ではないので、細かい事実を追及するのには限界があった。(大学として)警察に早期に相談しなかったのは、内密に事実確認を行うことを優先したため」(同msn産経)
被害者家族への報告1週間後の3月31日に6人を無期限停学処分とする。
但し、記者会見で当初は6人の処分を「教育的な指導を成功させるために発表しない」と隠していたが(新聞は「拒否していた」〈日刊スポーツ/2009年6月2日7時1分〉となっているが)、4時間に及ぶ記者会見の中で後になって無期限停学処分であったことを公表。
また同じ記者会見で大学側が女子学生から相談を受けたのち、自らは警察に届け出なかった理由を――
「われわれが家族に報告したことで、家族による通報につながった」(「NHK」)
「被害者の立場を考慮した」(「毎日jp」
「対応が遅くなったのは被害者の女子学生の学内や社会に知られたくないという心情を配慮したため」(「日刊スポーツ」/2009年6月2日7時1分)
大学の対応が生ぬるい、埒が明かないと見たのか、3月27日になって女子学生の家族が3月27日に府警に通報。4月4日に女子学生自身が警察に告訴(上出日刊スポーツ)。
警察の取調べに対して、1人は容疑を認め、5人は「合意の上」を主張、容疑を否認しているという。
大学は警察の逮捕、そして記者会見を経てから6月3日に学生への説明会を開催。事件の経緯の説明と再発防止を訴えている。
寺田学長「人権の知識があり、テストで正解できるかもしれないが、果たして行動ができているのかあらためて考えてほしい」〈「NHK」〉
寺田学長「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為。人権に対する意識を高め、行動に反映してほしい」(時事ドットコム)
以上見てくると、マスコミも指摘していることだが、矛盾点がいくつか浮かんでくる。
居酒屋の使われていない部屋を「公共の場所」と言い、そこで行われたから、例え複数の男性による一人の女性に対する性行為であったとしても、「公然わいせつ」としている。
公然猥褻は不特定、または多数の人間を何らかの形で介在させた空間での性的行為を通して自身の性欲をより強い刺激で以って充足させようとする行為であるか、あるいは金銭的利益を得る等の目的で不特定、または多数の人間の前で何らかの性的行為に及び、彼らに金銭支払いに対する代償として性的刺激を与える商行為等を言うのであって、学生たちが各々の性行為に相互に刺激を受けたとしても、不特定、または多数の人間の介在を性的な刺激充足の条件としていたわけではなく、自分たちの性欲充足のみを目的に力を頼み、数を頼んで行う性的行為は当てはまるはずはない。
また「大学は捜査機関ではない。細かい事実を追及するのには限界があ」り、「同意があったのか、無理矢理だったのか、細かいところは判断できない」と言いながら、「公然わいせつ」と認定して、大学としての処分を行う矛盾を犯している。
女子学生が警察に告訴した以上、「同意していない」という証言が大学側にあったはずである。その時点で6人共が「合意の上」と主張していたとしても、「細かいところは判断できない」としながら「公然わいせつ」としたのは男子学生側の言い分のみを受け入れたからだろう。
「細かい事実を追及するのには限界がある」も「細かいところは判断できない」も口実に過ぎず、大学は女子学生の言い分を無視したということだろう。これはある意味、無実の罪、冤罪をかぶせたことにならないだろうか。細かいところまで判断して、女子学生の言い分はウソの主張だと認定した上での「公然わいせつ」と言うことなら、理解できないでもない。
「合意の上ではない」、「合意の上だ」と双方の主張が平行線を辿ったなら、「捜査機関」ではないと言うなら、警察に通報すべきを自分たちの処分を優先させた。しかも「教育的な指導を成功させるために」すべてを公表せずに伏せておいた。
それまでの大学の6人の学生に対する「教育的な指導」の結果が既に無効果だったと出ているにも関わらず、その原因をつくり出した「教育的な指導」の不備・矛盾に視線を向け、検証することもせず、それが「公然わいせつ」を事実としていたとしても、犯罪行為であることに変わりはないはずだが、「教育的な指導を成功させるために」を口実に犯罪事実の公表を差し控えた。
大学の体面保守と大学側の責任回避と批判されたとしても仕方がないだろう。
大体が被害女子学生が4月4日に警察に告訴しているのだから、その時点で女子学生が「学内や社会に知られたくないという心情」にはなかった(大学に相談した3月3日の時点で既にそのような「心情」にはなかったのかもしれない。)――いわば学生たちの行為を罪として糾弾しようとしていたことが明らかに分かっていなければならないにも関わらず、6月の1日の記者会見で、対応遅れの口実に「女子学生の学内や社会に知られたくないという心情を配慮したため」を使っている。教育者として、卑怯極まりない行為ではないか。
警察の取調べに対して全員が「合意の上」を主張しているなら、裁判の決着を待つしかないが、一人が認めている以上、強姦行為があった疑いは濃い。勿論今後の取調べや、あるいは裁判になってから容疑の否認に転ずる場合もあるが、現在のところ、そういった兆候は見せていない。
警察が逮捕事実とした「集団準強姦容疑」を前提とすると、強姦行為はセクハラ同様、権力行為であり、その最たる権力性である独裁性を担わせた行為であるのは断るまでもなく、その方面からの考察が必要なのだが、大学はそのようには行っていない。
集団強姦は表面的には集団による相手の意志を無視し、行動の自由を奪って身体的に強制的・一方的な性行為の形を取るものの、内実は行動の自由を奪うことによって一人の女性の精神の自由まで奪い、踏みにじってそれを支配する加害側の意志を唯一絶対とした、絶対とすることによって成立可能となる暴力的な独裁的権力性が集団で演じられたのである。
寺田学長が説明会で、「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為。人権に対する意識を高め、行動に反映してほしい」と言ってはいるが、「人権を踏みにじる」ことを可能とする最たる力は独裁権力であろう。独裁権力こそが、最大限に精神の自由・行動の自由を奪うことができる。
子どもを恣意的に虐待する親を見れば理解できる。親は子どもに対して自己を独裁的な絶対君主に位置づけているからこそ、虐待を通して子どもの自由を奪い、精神の自由を奪って、それを支配し、子どもの「人権を踏みにじる」ことができるのである。
当然、子どもはただ暴力的な虐待を受けているだけではない。行動の自由も精神の自由も親の支配を受けて奪われているのである。金正日独裁権力によって北朝鮮国民の多くが行動の自由も精神の自由も奪われて、支配を受けているように。
女性にとって強姦被害はまさに行動の自由を奪い、精神の自由を奪う最たる独裁権力が衝撃的な形で理不尽にも行使され、その力に支配されたに等しい出来事であろう。
だが、大学は自らの調査の間、被害女子学生の「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為」とは認識していなかった。認識していたなら、女子学生に対する不利を無視して、男子学生にのみ有利となるより罪の軽い、当然退学ではなく、無期限停学というより軽い処分につながった「公然わいせつ」と看做さなかったろう。
「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為」は自分たちの公表を控えた判断、警察に自らは通報しなかった判断、さらに無機停学という処分に対する責任回避のための世間に対する後付の取り繕いに過ぎなかったと見て、間違いない。
取調べで「当時4年生だった学生が主導的な役割を果たしていたことも判明。3年生のうち2人は従属的な立場だった」(msn産経/2009.6.2 14:42 )と伝えていることも、そこに特に体育系部活に今以って色濃く残っている昔ながらの上は下を従わせ、下は上に従う先輩・後輩の権威主義的上下関係が集団行動力学として働いていて、その権威主義性が行動の自由と精神の自由を究極的に奪う独裁性を伴って一人の女子学生を支配・攻撃する集団強姦に反映されたと見るべきだろう。
勿論、一部の不心得な学生のみの問題だとする意見もあるだろうが、一部の体育会系部活のみが権威主義的行動性を受け継いでいるのではなく、一般の学生のみならず、日本人も全体的に基本のところで受け継いでいる権威主義性とみなければならない。
このことは11年度に小中学校共に全教科で「言語力」育成を求める新学習指導要領が全面施行されることに現れている。
「言語力」の育成とは、実行可能であるかどうかは別問題として、これまでの暗記教育からの軌道修正を図るものであろう。暗記教育とは教科書に書いてある知識を教師がほぼそのままなぞって一方的に解説・伝授し、それをそのとおりに生徒が受け継ぎ、記憶する、他者の知識・情報をそのまま自己の知識・情報とする教育形式を言う。
このことは上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な知識及び情報の授受の力学を受けて、上位他者の知識・情報の支配・束縛を許すことを意味する。上位他者の知識・情報を以ってして自己の知識・情報と看做し、それを言葉でよりよく発信する能力を「言語力」とは言うまい。
「言語力」とはあくまでも他人の知識・情報ではなく、その支配から自由な場所に立ち、自分独自の言葉を持ち、それをよりよく発信する能力を言うはずである。
他人の知識・情報の支配から自由な場所に立つには断るまでもなく、精神の自由を基本条件とする。無条件・無考えに他に従う、あるいは他の支配を受ける権威主義性に染まった精神であっては、精神の自由は遠い存在となって、自己に独特な「言語力」は獲得無縁となる。
このことは「自律」という言葉に言い換えることもできる。自律は精神の自由によって保障され、当然の結果として知識の面でも情報の面でも、あるいは行動や意志の点でも自律している程、いわば他から自由である程、「言語力」はあるべき独自性(=自由な姿)を備えることができることになる。
「新学期になって顧問から、コンパでは飲酒を控えろと言われた」(上出msn産経)と同大学の体育会クラブ所属4年の男子学生(21)の言葉を伝えているが、「顧問」のこの言葉は本質的な問題を問わずに表面的な態度を取り繕わせて無難を願う言葉に過ぎず、男子学生にしても何ら思考の咀嚼も経ずに丸のまま受取って口にした言葉であって、両者とも独自であるべき「言語力」に見るべき独自性がないことを曝している。「言語能力」も自律精神もゼロと言うべきであろう。
この学生が将来学校教師を目指しているかどうかは不明だが、顧問は学校教師を目指している学生をも指導しているはずだから、この程度の「言語力」、自律精神で教師育成に参加しているとしたら、空恐ろしいことではないか。
「言語力」及び自律心が精神の自由を基本条件として獲得可能とするなら、それを否定し、上位他者の知識・情報の支配・束縛を受ける日本の教育形式としている暗記教育からの解き放ちが必要となる。
勿論、日本人が行動様式としている権威主義性を基本として暗記教育を成り立たせているのだから、暗記教育は幼児期の家庭教育から始まって、幼稚園・保育園と続き、小中高大学と段階を経て広範囲化し、且つ強化されていく。
6月2日の「asahi.com」が《保育所2割広くすべき?専門家は提言、待機児解消には壁》という記事を伝えていた。
認可保育所の子ども1人当たりの現行面積の最低基準は0~1歳で3.3平方メートル以上(ほふく室)、2歳以上で1.98平方メートル以上と定めているが、厚生労働省の委託を受けた保育や建築の専門家らが、1948年の制定後、改正されていない国の最低基準引き上げて2割広げるべきだと提言する報告書をまとめたという内容の記事である。
〈他国の3歳以上の子ども1人当たりの面積基準は、スウェーデン・ストックホルム7.5平方メートル、フランス・パリ5.5平方メートルなど、日本を大幅に上回る。 〉という。
要するに日本の国が経済的に豊かになった分、〈落ち着いて食事や昼寝をすることが子どもの心身の発達に重要で〉、そのことに役立てるために、〈食事の場と昼寝の場を分ける〉等の設備の充実が必要ということらしい。
だが待機児童解消策として自治体が最低基準を緩和して保育所の設置に動いている関係から、逆に最低基準を上げると、保育所の新たな設置を特に必要とする都市部程、設置が困難になるという逆説状態が起きるという。
確かに身体的に伸び伸びと育つには広い生活空間を必要とするが、身体的には伸び伸びと育っても、日本の教育形式である暗記教育の伝統・文化を受けて他者の知識・情報の支配・束縛を許し、その代償に他者の知識・情報の支配を受けずに自己に独自な知識・情報を獲得する精神の自由を失ったのでは、心身の発達という点で偏りが生じ、さらに「言語力」の育成も自律心の育みも覚束なくなる。
物理的な空間の広さよりも、他の意志の支配を受けない精神的な空間の広さ(=精神の自由)に重点を置いた教育が望まれるのではないだろうか。
以下参考引用。
《保育所2割広くすべき?専門家は提言、待機児解消には壁》
(asahi.com/2009年6月2日15時1分)
認可保育所の子ども1人当たりの面積は、現行基準より少なくとも2割広くすべきだ――。厚生労働省の委託を受けた保育や建築の専門家らが、1948年の制定後、改正されていない国の最低基準引き上げを提言する報告書をまとめた。ただ、基準引き上げは保育所整備を滞らせ、待機児童の解消がさらに難しくなる可能性がある。
最低基準は、保育室の1人当たりの広さを0~1歳で3.3平方メートル以上(ほふく室)、2歳以上で1.98平方メートル以上と定めている。
基準が制定された48年当時は貧困家庭の子どもへの対応などを目的としていたが、いまは共働きの家庭などの増加に伴い、保育所の利用児童数は増え続けている(昨年4月現在202万人)。
報告書は保育所の利用時間が長くなっていることをふまえ、落ち着いて食事や昼寝をすることが子どもの心身の発達には重要だとして、食事の場と昼寝の場を分ける必要があると指摘した。
そのためには、0~1歳は4.11平方メートル以上、2歳以上は2.43平方メートル以上を確保するよう提言。「現在の最低基準は保育をすることが不可能ではないが、現行基準以上のものとなる方向で検討することが重要」と指摘した。
他国の3歳以上の子ども1人当たりの面積基準は、スウェーデン・ストックホルム7.5平方メートル、フランス・パリ5.5平方メートルなど、日本を大幅に上回る。
国内の認可保育所などへのアンケート(回答1738カ所)によると、実際の1人当たりの面積は、0歳児は5~5.5平方メートル、1歳児3.3~3.4平方メートル、2歳児2.7~2.8平方メートル、3~5歳児は2平方メートル程度が最も多かった。ただ、廊下や可動式ロッカーが置いてある部分などを除くと、実質的な保育室の広さが最低基準を下回っている施設もあった。
都市部を中心に現行の最低基準を満たす施設を整備することが難しいのが現状だ。東京都が独自に設置する「認証保育所」の一部では最低基準を緩和している。政府の地方分権改革推進委員会が昨年5月、自治体が独自に基準を決められるように緩和すべきだとの第1次勧告をまとめたのも、こうした背景がある。
一方、不況の影響で待機児童はさらに増える傾向にあり、昨年10月現在で約4万人にのぼる。厚労省幹部は「保育面積は保育の質の維持・向上にかかわる課題だが、基準を引き上げれば今後の保育所整備が難しくなる。待機児童対策との兼ね合いも考えないといけない」と語る。(高橋福子)
6月1日(09年)、京都教育大学生6人が集団準強姦容疑で京都府警に逮捕された。犯行日時は今年の2月25日だそうで、犯行と逮捕に至るまでの経緯、逮捕後の大学側の対応をマスコミ報道から拾ってみた。