臓器移植法案から日本の政治を見る

2009-06-23 12:00:50 | Weblog

 日本の政治が試されている

 臓器移植法(「臓器の移植に関する法律」)の改正案採決が6月18日衆議院本会議で行われ、年齢制限を撤廃した上で本人の意思がなくても家族の承諾を条件に臓器提供を認めるとする「A案」が賛成多数で可決、参議院に送られた。

 6月18日付の「NHKニュース」が詳しく報じていた。インターネット記事――《臓器移植法改正案 A案可決》を参考にすると――

 臓器移植法をめぐっては、4つの改正案が提出され、今の法律では認められていない15歳未満の脳死段階での移植を認めるかどうかが焦点となっていたという。

 ▽「A案」は、年齢制限をなくしたうえで、本人の意思がわからなくても家族が承諾すれば、臓
  器提供を認める。
 ▽「B案」は、臓器提供ができる年齢を12歳以上に引き下げるとしている。
 ▽「C案」は、年齢制限は変えず、脳死の定義をより厳格にする。
 ▽「D案」は、年齢制限はなくすものの、15歳未満からの臓器提供は、家族の承諾に加え、第3
  者機関が適切かどうか判断する。

 議員個人の死生観にかかわる問題だとして、特定の投票行動を求める「党議拘束」を共産党を除いて各党共に外した採決がA・B・C・D案の順に開始され、「A案」が、263票の賛成を得て、投票総数の過半数を得て可決。

 共産党は「審議がまだ不十分」といった理由でいずれの案の採決も棄権する方針で臨んだ。最初に採決が行われた「A案」が投票総数の過半数を得て可決されたことから、残りの3改正案は採決が行われず、「A案」が参議院に送らた。

 記事は「A案」の成立を求めてきた移植を必要とする患者や家族で作る団体の代表で、自らも腎臓の移植を受けた経験のある大久保通方氏の声と日本移植学会の高原史郎副理事長の学会としての声明を伝えている。

 大久保通方「可決されたのはうれしいが、ここまで来るのに12年もかかったことが悔しい。移植を望んでもほとんど受けられない臓器移植の現状を変えるには、A案しかないと思っている。海外に行くことすらできずに亡くなる患者がいることを考えて、参議院では時間をかけずに結論を出してほしい」

 高原史郎副理事長「絶望的な闘いを強いられた多くの患者や家族にとって、今の法律を改正することは生きるための唯一の望みであり悲願だった。A案が可決されたことは、一筋の光明であるのは確かだが、参議院では日本人を国内で救うため、速やかにA案を採決するよう強く要望する」

 両者の言っていることからも分かるように、「A案」は臓器移植を国内で行うことを必要とする者の利害をより多く代弁している。

 記事は逆の利害に立つ2氏の声も伝えている。一人は臓器移植法改正に反対する市民団体の川見公子事務局長。もう一人はノンフィクション作家で、脳死や臓器移植の問題に詳しい中島みち女史(と年齢的に言っていいかどうかは分からない。)。

 川見公子事務局長「難しい問題で、国会議員のなかでも十分理解されたとは言い難いのに、わずかな時間の審議で採決されたことに怒りを覚える。参議院では、脳死がほんとうに人の死なのかといったことを含め、慎重に審議して、弱い立場の人の命を奪うことにならないようにしてほしい」

 「脳死を人の死」と認めることができない立場からの声だが、「A案」が採決されて「やったー」と喜んでいる者がいる一方で、利害を相反させて「怒りを覚える」者が存在する現実まで直視しなければならない。

 中島みち女史「今の法律を根底から覆す法案で、本来ならば、新しい法律として慎重に議論すべきものだ。脳死からの臓器移植は、提供者の家族が一生、あれでよかったのかと重荷を背負うような過酷な医療であり、家族は同意するかどうかをわずかな時間で十分なサポートもないまま決めなくてはいけないのが現状だ。今回の法律ができてしまうと、医療の現場にも、治療を早く打ち切ろうという雰囲気ができてしまうのではないか」

 脳死者本人の脳死段階での臓器提供の生前意思表示がない場合に於ける残された家族の死者本人の意思を確認できないままに決定することの心理的負担を言っている。果して本人は望んでいたのだろうか。望んでいないにも関わらず、残された家族が自分の判断で決めてしまうことになったなら、本人の意思に反した家族の独断ということになって、何よりも本人の意思に添う死を叶えさせなければならない残された者の務めを残された者自身が裏切ることになる。

 どのチャンネルだったか、テレビでも、若い娘を脳死段階で本人の生前意思のないまま臓器提供に応じた4~50代の父親が、「『私は望まなかったのに、お父さん、なぜ移植したの?』と娘に言われているようで、この重荷は一生背負い続けていくことになるだろう」といったことを口にして、自らの判断に確信を持てない迷いを見せていた。

 この父親は人間はこの世で死んでも、別の世で生きているとする思いを基本的な死生観としているから、生きていたときのままの状態にしておくべきではなかったのではないかという迷いを生じせしめることになったのではないだろうか。

 私などはこの世の存在がすべてだと思っていて、死んだら痛覚を初め、一切の感覚・意識を失い、修理の効かない状態で壊れたパソコン同様、一切が停止して無に帰すとする即物的俗物に出来上がっているから、死者の生前に於ける私自身の判断の是非を問うことはあっても、それは現実にはあるはずもない死者からの問いかけや、あるいは生前にはなかった死者との対話によってではなく、あくまでも一切無に帰した死者には通じない私自身からの問いかけから生じた迷いに過ぎないとことと幸いにも片付けている。

 そもそもが今回国会が臓器移植法の改正に動いたのは日本の臓器移植が海外移植に頼っていて、その現状に対する国際的批判が高まっていたことと、世界保健機関(WHO)が海外移植を原則禁止することの検討に動いたことに止むを得ず後押しされた新たな展開であろう。

 4月4日の「asahi.com」記事――《心臓移植実現は必要患者の3割、半数以上は海外》が海外移植(渡航移植)の現状を詳しく伝えている。箇条書きにしてみる。

 1.日本循環器学会心臓移植委員会が97年4月~08年10月、心臓移植を希望する524人を対象に
   移植が可能(適応)かどうかを検討し、08年11月現在の患者の状況を調査、503人について
   分析した。

 2.適応と判断した432人のうち、実際に移植を受けることができたのは3割の136人しかいなか
   った。

 3.136人のうち、国内で移植を受けたのは43%(58人)にすぎず、半数以上は海外だった。ア
   メリカが50%(69人)、ドイツ、カナダと続いた。

 4.15歳未満だと、今年3月10日までに移植が適応と判断された73人のうち、国内で移植できた
   のは1割に満たない3人のみ。臓器移植法では、臓器提供者は15歳以上に限定されており
   、38人は海外で受けていた。

 5.移植の適応とされながら、実現していない患者の半数を超える164人が死亡。129人が移植を
   受けずに生活していたが、8割は階段を上るといった日常生活も難しい状況。

 6.移植を受けた患者の10年生存率は約9割。そのうち約7割は、職場や学校に復帰できるまで
   回復していた。
 * * * * * * * *  * * * * * * * *  * * * * * * * * 
 6.の状況は移植適応者の移植生存への願望を強める要因となっているに違いない。だが、移植適応者432人のうち国内で移植を受けることができたのは58人、アメリカで69人、ドイツ、カナダと合わせて136人のみで、残りの移植適応者296人のうち半数以上の164人が死亡、移植を受けることができないまま困難な生活を強いられている者が129人という、移植生存への願望を満足に満たさない状況にある。

 15歳未満で言うと、臓器提供者は15歳以上とする臓器移植法の規定に影響されて移植適応者73人のうち国内移植は3人、海外移植が12倍強の38人、残りの32人は移植を受けることができないまま、移植生存への願望を少なくとも現状は断たれているか、あるいは既に断たれてしまった状況にある。

 政治は国民のそれぞれの立場に応じて異なる利害の調整を重要な任務としている。調整なくして、社会はよりよく機能しない。臓器移植に於いても同じであろう。脳死を人間の死と認める立場と認めない立場とのそれぞれに異なる利害、他者の臓器を自己の生存条件として求める者と生前の身体のまま死を迎えたい・迎えさせたいとする死生観の持主との間に横たわる利害の相違、あるいは臓器提供の年齢で限を撤廃することによって生じる利害の食い違い等々を調整して、双方の生と死の利害をより公平化するすることも政治の役目なのだが、1999年12月に改正された現行法の見直しが3年後と決めていたにも関わらず10年近くも放置されてきたのは、臓器提供する者と提供を受ける者にとっては解決すべき切実な利害であっても、人口全体に占める移植希望者の数の少なさが政治家の利害を切実にすることから遠ざけていたことによる政治の怠慢・不作為が生み出した海外移植への過度な依存、臓器提供の少なさであろう。

 このことは「脳死になったら臓器提供する」とサインした臓器提供意思表示カードを所持した者が約4%だった(08年の内閣府調査)ことと、その結果の脳死での臓器提供が年に10件前後だったことに見ることができる情報普及の不徹底に現れている。

 いわば臓器移植に関わる国民の利害調整に日本の政治が試されていたにも関わらず、政治は応えることができずにいたと言える。

 A案はカードがなくても近親者の承諾によって臓器提供が可能となるが、「脳死は人の死ではない」とする立場からすると、近親者の承諾にまで至らないケースが多々生じることになるのではないだろうか。

 政治の怠慢・不作為は麻生のぶら下がり記者会見での発言(《世襲候補の立候補「いいとも悪いともなかなか…」4月15日午後6時25分~》毎日jp/2009年4月15日)に如実に現れている。

 記事題名は議員の世襲問題となっているが、臓器移植に関わる応答のみを引用してみる。

 Q:次です。臓器移植法の改正案についてですが、総理の見解をお願いします。

 A:臓器移植はこれは、議員立法じゃなかった? 従って、内閣としてというのはなじまないと思いますけどね。議論として。

 Q:総裁として、議員立法出されて、党の総裁としてはいかがですか?

 A:あの、今の段階でこの法案がいいとか悪いとか、あれ、確か三つか四つか案が出てたと思いますけども。あのー、その中についてどれがいいというようなことを今の段階でコメントすることはありません。・・・・

 例え少数であっても、同じ日本国民が政治的に早期に決着し、命の取扱いの社会的なルールとして欲しいと願い、その実現によって国内での臓器生存への道を広げることになる臓器移植に関わる切実な問題を「議員立法」だから「内閣としてというのはなじまない」と言う。あるいは「今の段階でコメントすることはありません」と言う。

 例え少数派を形成しているに過ぎなくても、すべての国民のありとあらゆる利害を少なくとも脳裏に刻み込んでいなければ、総理大臣という一国のリーダーの立場から果たすべき国民の利害調整という政治上の重要な任務を放棄することになる。ましてやそれが議員立法であったとしても、国会で審議される段階に達したなら、議員立法であることを超えて、例え賛成の立場らであっても、反対の立場からであっても、それぞれの案が表現することになる利害に深く関わるべきであろう。関わって、国民がどれに一番満足するか、あるいはもっと満足する案はないか、政治的想像性(創造性)を働かすべきだろう。

 少なくともこういったことを言うべきだったのではないのか。

 「臓器移植の海外依存からの脱却は勿論、脳死を人間の死と把えるか否かの問題等のすべては国民の生命・財産に関わる基本的な認識に直接影響する問題なのだから、より多くの国民がそれぞれにより公平に自らの利害を満たすことができる調整・問題解決を望むし、私も総理大臣の立場から、利害調整に尽力したい」と。

 世界保健機関(WHO)はジュネーブで5月18日から開催の総会で予定していた海外に渡り臓器移植を受けることを規制する決議の採択を来年の総会以降に先送り決定したという。理由は新型の豚インフルエンザ感染対策に時間を割く必要からとのことらしい。

 海外移植、特に15歳未満の海外移植禁止の猶予期間が1年延びたと受け止める政治家がいるとしたら、政治の怠慢・不作為をさらに重ねることになるだろう。

 麻生首相は年齢制限をなくしたうえで、本人の意思が分からなくても家族が承諾すれば、臓器提供を認める「A案」に反対を投じ、「A案」が賛成過半数を得て結果的に採決が行われなかったうちの、年齢制限はなくすものの、15歳未満からの臓器提供は家族の承諾に加え、第3者機関が適切かどうか判断する「D案」に投票するつもりでいたという。《臓器移植法改正と解散日の関係「ない」18日の首相》(asahi.com/2009年6月18日16時7分)から見てみる。

 ――よろしくお願いします。

 「はい」

 ――先ほど衆院本会議で臓器移植法の改正案が採決され、脳死を一律人の死とするA案が可決しました。総理の受け止めをお願いします。

 「総理として聞かれてるんでしたら、お答えはできません」

 ――政治家麻生太郎個人としてうかがいます。

 「一議員としてということで、今回は党議拘束ないということで、それぞれ投票して、されたんだと思います。今回は、臓器移植によって人の命を救うって話と、人の死をどう考えるかっていうことの選択を迫られた話だと思っていまして、色々、悩んだ方も多かったと思いますけれども、少なくとも、臓器移植を望んでいる方々にとって、立法府としての結論を出したというのは良かったんではないかと思ってます」

 ――総理はA案には反対を投じていましたが、その理由と、もしA案が過半数に届かなかった場合には、他のB、C、D案のどれに賛成を投じる……。

 「私はD案に入れるつもりにしていました」

 ――その理由というのは。

 「今お答えしたように、人の命を救う臓器移植っていう話と、人の死をどう考えるかというんで、これは正直、あー、んん、まあ私だけでは(なく)多く悩まれた方が多いと思いますが、臓器移植という、いうのを道を開く傍ら、脳死については、これは色々、まだ、よろななかか(世の中?)の意見というものがきっちりまだ固まっていないのではないかなぁと、私自身はそう思っていましたんで、私はD案、いうのを考えていました」 ・・・・

「臓器移植によって人の命を救うって話と、人の死をどう考えるかっていうことの選択を迫られ」る臓器提供を行う側と受ける側にとっては切実で重要な利害に「総理として聞かれてるんでしたら、お答えはできません」と総理の立場からは関わろうとしない。国民のためにとその利害調整に自らリーダーシップを発揮しようとする意欲すら見せない。臓器移植に関わる国民の利害から距離を置いているからできる非自発性、高みの見物なのであろう。

 「脳死については、これは色々、まだ、よろななかか(世の中?)の意見というものがきっちりまだ固まっていない」と言うなら、「きっちり」と「固」めるべきリーダーシップを発揮するのが総理大臣の役目と言うものだが、麻生は例外らしい。まさしく「我が辞書にはリーダーシップなる文字は存在しない」である。

 総理大臣の立場にありながら、それを裏切る麻生の臓器移植に関するこのような言葉はこれまでの政治の怠慢・不作為を最も色濃く代弁している。

 「D案」の「年齢制限はなくすものの、15歳未満からの臓器提供は、家族の承諾に加え、第3者機関が適切かどうか判断する」は第三者機関の承認を葵の御紋とすることで家族の心理的負担の軽減を図ろうとするものであろう。

 これも一つの利害調整の方法であるが、物事を自らが決定する責任意識から自己を遠ざけて他力本願を姿勢とすることにならないだろうか。ただでさえ外国人から、日本人は上から言われたことはそつなくこなすが、自分から考えて行動することは苦手だと言われている。自分自身の考えに従えば、心理的負担を抱え込むだけではなく、責任も重くなるが、上の指示に従うとことによって、自分からの行動ではないから、その責任を軽くすることができる。集団主義・権主義の行動様式が阻害原因の責任回避意識なのは言うまでもないが、医者の立場の側からの脳死かどうかの厳密な判定と家族の承諾のみを条件とすることによって、生と死の利害に自発的に立ち向かうべきではないだろうか。

 勿論、医者の誤判定と言うこともあるが、これは脳死判定だけに限った問題ではない。

 尤もこういったことは言葉では簡単に言える。確実に言えることは臓器移植の利害に関係なく生涯を過ごすことができたとしても、その生涯に亘って自らの健康と生活の維持・保全に現代医学が確立した技術・情報・知識から日々多大な恩恵を受けているということである。

 そしてそれらは外科手術を含む臨床医学や実験医学、解剖医学、その他の経験から得た必要は残し、不必要は排した取捨選択による歴史的集積の総体としてある技術・情報・知識であろう。

 どの病気はどのような外科手術によって全治するという現代医学が確立した技術・情報・知識からも安心して生活できる恩恵を受けているはずであるし、臓器移植からも何らかの形で我々は恩恵を受けているはずである。

 臓器移植をも含めて、医学全般から我々は恩恵を受け、医学あっての我々(我々の生)であり、我々あっての医学である相互性を確立している。医学を全く欠いたなら、水や食料を欠くのと同様に、生を成り立たせることは不可能だろう。例え医者にかかることはなくても、医学の知識や情報を生活の糧、健康維持の糧としていない者はいないはずである。

 そのような相互性を「脳死は人の死ではない」からと言って、一律に遠ざけてもいいだろうか。あくまでも個人の価値観、個人の判断に任せて、死者の生前の意思表明がなかった場合の臓器移植に応じるかどうかは自らの決定事項とすべきではないだろうか。

 安倍晋三は「A案」に棄権し、麻生と同じく「D案」支持で、その理由は「子どもに臓器移植を可能にすることには賛成だが、脳死を一般的な『人の死』とすることには問題があると思った」(YOMIURI ONLINE)としているが、個人の価値観としてはそれは許されるが、政治家の立場として、より多くの国民の利害調整となり得るかどうかも考えるべきだろう。

 参議院の民主・社民両党の有志議員11人が「脳死は人の死」を前提とした臓器移植法改正の「A案」が衆院で可決されたことを受けて週明けに「子ども脳死臨調」の設置を求める独自案を提出する方針を固めたと「asahi.com」記事――《移植法独自案参院へ 民主議員ら「子ども脳死臨調」盛る》(asahi.com・2009年6月20日3時1分)が紹介している。

 〈A案では、「脳死は人の死」とみなすことで提供者の生前同意を必須条件から外し、家族の同意があれば0歳から臓器提供できる。しかし、子どもの脳は回復力が強く、小児の脳死判定基準は専門家の間でもなお議論がある。親の虐待で脳死状態になる子どももおり、A案は移植を望む患者団体が支持しているが、大幅な要件の緩和には批判もある。

 こうした声を踏まえ、独自案では、衆参両院の同意を得て、首相が任命した15人以内の有識者で構成する脳死臨調を設置することを盛り込む。

 (1)子どもの脳死判定基準
 (2)子どもの自己決定や親の関与が認められる範囲
 (3)虐待を受けた子どもからの臓器摘出を防ぐ仕組みなどを検討する。

  世界保健機関(WHO)が来年の総会で渡航移植の規制を目指した指針改定をする見通しで、子どもの渡航移植は難しくなっており、施行後、1年以内の答申を求める。

 提出者の森ゆうこ議員(民主)らは当初、脳死判定基準を厳格化するC案を基に独自案の提出を検討していた。しかし、C案は「要件が厳しすぎる」と移植学会などの批判があり、子どもの脳死など異論が強い問題は、最新の科学的な知見を基にした脳死臨調の検討に委ねることにした。

 参院には、脳死を人の死とは認めない宗教団体などと関係が深く、移植を推進するA案に抵抗感のある議員も多いとされる。(南彰、北林晃治) 〉(以上参考引用)――

 「首相が任命した15人以内の有識者で構成する脳死臨調を設置すること」を求めている。一国の総理大臣でありながら、麻生が言うように「内閣としてというのはなじまないと思います」といったことでは決してない。政治が試されているという認識を持つべきであろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする